32.お前の先生だからな
「ええ!? もうちょっと起きてましょうよ。私の研究発表が上手くいったお祝いをしませんか? 懇親会も早く抜けてきてしまったし……」
今までで一番の研究成果を、ようやく世に発表することができたのだ。このまま眠ってしまうのは少しもったいない気分だった。
ミラが不満げな顔を向けるも、クリスもクリスで渋面だ。だが、その渋面に怒りの感情は含まれていなかった。どちらかと言えば呆れだろうか。
「酔っ払いの相手をするほど面倒見は良くないぞ」
「まあまあ、そう言わずに」
ミラはソファに座ったままクリスの腕をグイグイと引っ張り、無理やり隣に座らせた。逃がすまいと腕を掴み続けていると、彼は降参だと言わんばかりに大きな溜息をつき、「少しだけな」と言ってこの場に留まってくれた。
そのことに満足したミラは、ニコニコと満面の笑みを浮かべる。頭がふわふわしているのは、まだアルコールが抜けていないからだろう。
「私、先生みたいな研究者になりたかったんです。世界の真理を明らかにして、たくさんの人を幸せにするような、そんな研究者に」
唐突に語りだしたミラに、クリスは怪訝そうな表情を向けた。何か言いたげに口を開いたが、何を思ったのか、彼の口はすぐに閉じられる。
クリスはまっすぐにミラの事を見据えながら、黙って次の言葉を待っていた。
ミラもクリスのことを見つめ返し、ゆっくりと今日の出来事を語りだす。
「懇親会で、色んな人に言われました。君の研究成果の全ては先生のおかげであって、君の実力ではないって。自分に才能があると勘違いしないようにって」
クリスはその言葉を聞いた途端、瞬時に目を見開いたが、徐々に顔を歪め、最後には苛ついた様子で眉根を寄せた。そして、唸るように声を漏らす。
「……そんな戯言、誰に言われた? あの老害どもか?」
ミラはその問いには答えず、軽やかに笑ってみせた。別に、クリスに彼らのことを告げ口したい訳では無いのだ。
「ふふっ。皆の言う通りだと思います。先生がいなかったら、私はこの研究を成功させることが出来ませんでした」
「研究が成功したのはお前自身の実力だ。周囲のそんな言葉、聞くに値しない」
クリスの表情には、怒りの中に、ミラを諭すような懸命さと優しさが含まれていた。そんな彼に、ミラの心はゆらゆらと揺れる。奥底に隠した感情が、ふと顔を覗かせる。
胸の奥がジンと熱くなって、表し難い感情に支配されていく。
彼は研究者として、教育者として、そして、一人の男性として、本当に素敵だ。
(すき……好き。先生が、好き)
とうとう心のなかで言葉にしてしまった。一度出てきてしまった言葉は、もう取り消せない。
ミラはゆっくりと息を吐き出し、泣きそうになりながら笑った。
「いいんです。別に気にしていません。先生が代わりに怒ってくれましたし。それに、私の思いや熱意は、きちんと次の世代に受け継がれているようでしたから」
「ミラ……」
「研究職を離れるまでに私は、一人でも多くの女性に希望を与える存在になりたいと思っています。だから、最後までよろしくお願いしますね」
彼のそばにいられるのも、あとほんの数ヶ月。彼への想いは、絶対に隠し通さなければならない。そうしなければ彼に迷惑がかかるし、何より自分がつらくなる。
ミラがわずかに目を伏せると、クリスの長い指がスッと伸びてきた。そして、いつの間にかこぼれ落ちた涙を拭ってくれる。
「ミラ」
とても優しい声で呼ばれた。今まで聞いたことがないほどの、優しく慈愛に満ちた声。
ミラが驚いて顔を上げると、月の光に照らされたクリスは、何とも複雑な表情をしていた。優しさと、苦しさと、懸命さと、葛藤と。色んなものが綯い交ぜになった、そんな表情だ。
クリスは不意にミラの頬を両手で覆い、額同士をコツンと合わせた。
どちらかが間違って動けば唇が触れてしまいそうな、そんな距離だった。
急な展開に脳が追いつかず、ミラはただポツリとつぶやくことしか出来ない。
「先生……?」
「お前は必ず偉大な研究者になる。俺が保証する。だから、そんな奴らの言葉で耳を汚すな。心を曇らせるな」
ささやくような小さく低い声が、ミラの耳に響いた。
彼の言葉が嬉しくもあり、苦しくもある。どうあがいたって、自分は彼のような研究者にはなれない。何しろもう、時間がないのだ。
「残りの時間、自分にできることを精一杯頑張ります。だから、ちゃんと見ていてくださいね」
「ああ、当然だ。ずって見ている。俺はお前の…………」
クリスはそこで言葉を止めた。彼からは珍しく迷いが伝わってくる。
その時間はほんの一瞬だったが、次の言葉が出てくるまでの間、ミラにとってはとても長く感じられた。
「お前の、先生、だからな」
クリスはそう言うとミラからサッと離れ立ち上がった。
「もう寝ろ。明日、朝一で大学に帰るんだからな」
出ていこうとする彼を、今度は呼び止めることが出来なかった。
彼は自分の「先生」であって、それ以上でもそれ以下でもない。
今の言葉でその現実を突きつけられたような気がして、ミラは彼の背中を見送ることしか出来なかった。




