31.隣にいろと言った
女学生二人と別れた後、ミラはとある若手研究者と会場の隅の方で研究談義に花を咲かせていた。
お互い初対面だったが、彼がミラの発表に感銘を受けたらしく、話しかけてきてくれたのだ。
メガネをかけた塩顔の彼は、名をランデルといい、男爵家の次男らしい。常日頃から目鼻立ちがしっかりしたクリスを見慣れているせいか、彼の顔はとてもさっぱりと感じる。
「僕はロイド教授の研究に感銘を受けて、この道に進もうと決めたんです」
「私もなんです! 私も、先生に憧れてこの道に」
「そういった研究者は多いですよね。まさか魔法の発動原理が解明されるだなんて、あの頃誰が想像したでしょうか」
「本当に。そんな研究をたった十八歳で成し遂げてしまうなんて、先生は本当にすごいお人です」
「同感です。おや、グラスが空いてますね。次をどうぞ」
ランデルの専門分野がミラと非常に近かったこともあり、かれこれ三十分は話が盛り上がっていた。こうしてグラスを手渡されるのは何度目だろうか。
アルコールには比較的強いので問題はないが、手にグラスを持っているとどうしても口に運んでしまう。対するランデルはと言うと、飲んではいるものの、手にしているのはノンアルコールのジュースのようだ。お酒に弱いのかもしれない。
「ミラさんの発表は本当に素晴らしかった。あれは全てあなたが一人で?」
「立案は。ですが、研究を進めるにあたっては先生のお力をたくさんお借りしました」
「そうでしたか。いやはや、あんな研究を思いつくなんて、あなたは素晴らしい才能をお持ちだ」
「いえ、全て先生のおかげです」
その後もそんな話をしばらく続けていると、彼が不意にミラの腕を掴んできた。
「足元がふらついてますね。少し休みに行きましょう」
急に触られたことに不快感を覚え、ミラは思わず顔をしかめた。研究話で打ち解けたとはいえ、初対面の女性に許可なく触れるのは流石に無礼だ。
ミラはとっさに語気を強めて言い返す。
「いえ、ふらついてなどおりませんが?」
「本当に? 顔が真っ赤ですよ? 急に気分が悪くなるかもしれません。少し人気のないところで休みましょう。さあ」
「だから、大丈夫だと言っているではありませんか」
そう言いながら腕を振り払おうとしたその時、彼は顔を青白くしながらパッと手を離した。視線はミラの後ろに向けられている。化け物でも見たかのように、彼はわなわなと口元を震わせながら一歩、また一歩と後ずさった。
ミラが振り返ると、そこには鬼のような顔をしたクリスが立っていた。確かにランデルが化け物を見たかのような反応をしたのも頷ける。これは、今までで一番怖いかもしれない。
「随分と楽しそうだな」
声も一段と低く、凍えるような冷たさだ。アルコールで上気していた頬が一気に冷えた。
ランデルはというと、まだ後ろに下がり続けている。確かにクリスの顔は大変怖いが、先ほどクリスに憧れていると言っていなかっただろうか。
「い、いえ、その、あの……」
せっかく憧れのクリス・ロイドと話せる機会だと言うのに、ランデルはしどろもどろになっている。感極まっているようにも見えない。明らかにクリスを恐れている反応だ。
様子のおかしい彼に首を傾げていると、クリスがミラの手首を掴んできた。
「帰るぞ」
「え、もう帰るんですか!?」
懇親会はまだ半分も過ぎていない。重鎮の教授に連れて行かれた先で、何か嫌な思いでもしてきたのだろうか。
クリスはミラの問いかけには答えず、最後にランデルにひと睨み利かせてから、ミラの手を引き会場を抜け出した。黙ったままずんずん進む彼の背中には、「怒」という文字が書かれているように見える。
一体彼をこんな不機嫌にさせたのはどこのどいつだと、胸の中で恨み言をつぶやく。彼の機嫌を直すのは割と苦労するのだ。機嫌が直るまでそっとしておくのが鉄則だが、今はそうもいかない。何しろ、手首を掴まれているのだから。
ミラは大学の門を出た辺りで、恐る恐る問いかけた。
「先生、どうしてそんなに怒ってるんですか?」
「…………」
沈黙しか返ってこない。彼は歩みを止めることなく、ミラの手を引き、ホテルに向かっている。ここは大人しく引っ張られていようと、諦めて黙り込んでいると、程なくして彼のボソリとした声が聞こえてきた。
「……隣にいろと言った」
(……不機嫌にさせたの、私かあ……)
ミラは心のなかで頭を抱えた。しかし、隣を離れたのはクリスの方だ。怒られる謂れはない。
「先生が先にどこかに行ったんでしょう?」
「無理やり連れて行かれたんだ……!」
彼の声が不機嫌さを増した。どうやら重鎮たちに連れて行かれたのも相当嫌だったらしい。ミラは彼の不機嫌の原因を作った彼らを恨んだ。なんだか、色々ととばっちりだ。
「あいつら……ミラの才能を理解できない阿呆どもめ。俺がいくら説明しても聞きやしない。女のミラより自分が優れていないのが受け入れられないんだろう。あんな老害ども、さっさと引退してしまえばいい……!」
予想外の話に、ミラは目を丸くした。彼がここまで不機嫌だったのは、重鎮たちに連れて行かれただけではなく、彼らに自らの教え子を侮られたからのようだ。
しばらく重鎮たちへの文句を言いながら怒りを発散させるクリスの背中を見て、ミラはクスリと笑った。自分のために怒ってくれているなら、悪い気はしない。それに、彼らへ文句を言ってくれて、ミラとしてもかなりスッキリした気分になった。
クリスに手を引かれながら晴れやかな気持ちで歩いていると、彼は突然立ち止まり、くるりと振り向いた。その顔は、依然として渋面だ。
「あと、お前はもう少し自分が男からどういう目で見られているのか自覚しろ。お前が楽しそうに話していたあの男は、明らかに下心があっただろう」
急に怒りの矛先が自分に向いた。やっぱりとばっちりかもしれない。
クリスに早口で捲し立てられ、ミラはムスッと唇を尖らせた。下心だなんて、流石にランデルに失礼だ。
「下心って……研究の話をしていただけですが」
「研究の話をするだけなら、お前に大量の酒を飲ませたりしない。どれだけ飲まされたんだ?」
これまた予想外の問いかけに、ミラはきょとんとした。
今の発言からすると、クリスが腹を立てているのはミラに対してではなくランデルに対してで、酒を飲まされたことを心配してくれている、ということになる。
(飲まされた……? あれって飲まされていたの……? ああ、だめ。頭が働かなくなってきたわ)
しばらく歩いていたせいで、酔いが回ってきたらしい。気持ちが悪くなるほどではないが、なんだか陽気な気分になってきた。
ミラは笑い上戸なのである。
「ふふっ、なんだ。先生は心配してくれてただけなんですね。やっぱり優しい。ふふっ」
ミラはクリスの手をすり抜け、笑いながらホテルに向かって歩き出す。羽が生えたように体がふわふわしていて心地が良い。
「真っ直ぐ歩け、酔っ払い」
後ろから声が聞こえてきたかと思うと、クリスがすぐに隣にやってきて背中を支えてくれた。彼を見上げると渋面ながらも不機嫌さは鳴りを潜めている。どうやら少しは機嫌が直ったようだ。
直る要因がどこにあったのか皆目見当もつかないが、怒りを鎮めてくれたなら何でも良い。ミラは思わず笑顔になった。
「私、ザルだから大丈夫ですよ。ふふっ」
「はぁ……お前、今後誰かに酒を勧められても絶対に飲むなよ」
「えー、先生からもですか?」
「俺はお前にそんな大量の酒を飲ませるようなことはしない」
「確かにそうですね。ふふっ」
クリスを見上げながら上機嫌に笑っていると、彼は疲れたように溜息をついていた。彼越しに見事な星空が目に入り、今度はミラが彼の腕を引っ張る。
「あ! 先生! 先生、星が綺麗ですよ、星が!!」
「うるさい、近所迷惑だ」
クリスは眉間に深いシワを寄せていたが、ミラは気にせず空を見上げながら続けた。
「このあたりの地域は空気が澄んでいるからですかね。星がとても綺麗です」
「空気が乾燥しているからだ。水蒸気が多いと大気の透過率が低下するから、乾燥している冬のほうが星がよく見える」
「流石は先生! 博識! かっこいい!」
「……お前が酔うとここまで面倒だとは思わなかった」
そんな会話を繰り広げながらホテルに到着すると、クリスは半ばミラを引きずりながら廊下を進み、部屋へと押し込んだ。
今日は月が明るく、その光だけで十分に視界が保たれている。クリスはミラをソファに座らせると、脱力するように大きく息を吐いた。
「はぁ……疲れた。お前もさっさと寝ろよ」
そう言って出ていこうとするクリスを、ミラは慌てて呼び止めた。




