3.私の先生は天才です
翌日、ミラはいつも通り大学へと向かった。
まだ卒業論文を提出できていないので、婚約破棄されたからと言って休むわけにはいかない。卒業を目前にして留年するのはゴメンだ。
ルミナシア魔法大学は、ハインズ伯爵邸から馬車で一時間ほどの場所にある。大学には寮もあるが、「寮に入ればますます研究漬けになるから家から通いなさい」と母に言われたため、毎日馬車で通学しているのだ。
馬車を降りて門をくぐると、大学のシンボルでもある樫の木が出迎えてくれる。樹齢五百年を超える立派な木だ。
大学の敷地内には、樫の木の奥に教育棟があり、それをぐるりと囲うように研究棟が建っている。教育棟には学生が授業を受ける教室や食堂、図書室があり、生徒だけでなく研究員や教授たちも利用する場所だ。
ミラが向かうのは、自分が所属する研究室。既に卒業に必要な単位は揃っているので、授業に出る必要はない。今の時期は、卒業論文の提出に向けて、自分の研究室で実験をしている学生がほとんどだ。
樫の木の右手沿いの道をしばらく進み、レンガ造りの研究棟に入って二階に上がる。
研究室に行く前に、まずは更衣室で白衣に着替えだ。大学支給のこの白衣は、左胸に樫の木の刺繍が施されている。作られた年代によって刺繍の色が違い、今ミラが着ているのは緑色の刺繍だ。
そして、ゆるくウェーブがかった薄紅色の髪をひとつに結ぶ。身支度を整えてから更衣室を出て、廊下突き当りの部屋に入った。
いつも通り誰もいない、がらんとした居室。無駄に広いこの部屋には、ソファとテーブルが中央に、そしてデスクが窓際にひとつだけぽつんと置かれている。
ここが、ミラが所属する「ロイド研究室」だ。
この研究室には、教授とミラ以外、誰も所属していない。研究員も、他の学生も、秘書でさえもだ。
ミラは居室右手にある開け放たれた扉をコンコンと叩き、続き部屋になっている隣の部屋を伺った。
「おはようございます、先生」
ここは教授室だ。重厚感のあるデスクも、壁一面に備え付けられた本棚も、部屋の主の性格を表すかのようにきっちりと整理整頓されている。
そして、黒い革張りの椅子に座り書類に目を落としていた部屋の主――クリス・ロイド教授が、わずかに顔を上げた。
「ああ、おはよう」
低音で聞き心地の良い声。クリスはこちらを一瞥して、すぐにまた書類に視線を戻す。愛想のないこの人こそ、ミラが尊敬してやまない先生だ。
クリス・ロイド。二十四歳。独身。
彼は、これまで何千年と未解明だった魔法の発動原理を、たった十八歳という若さで明らかにした天才だ。彼の研究は世界を震撼させ、これまでの魔法研究を根底から覆し、理論魔法学という新たな分野を切り拓いた。
その功績が称えられ、彼はその翌年、最年少でルミナシア魔法大学の教授となっている。
そして彼は、大学教授でもあり、ロイド侯爵家の当主でもある。
貴族家の当主と研究員の二足のわらじを履くような変わり者は彼くらいだろう。名家の長男は、たとえ誉れある「魔法師団所属の魔法使い」や「ルミナシア魔法大学の研究員」になれたとしても、大抵が家を継ぐ時に辞めていく。
しかしクリスは、研究活動の傍らで領地経営も完璧にこなしているらしく、一体どういう体力と頭脳を持ち合わせているのだろうと、ミラはいつも不思議に思っている。
他にこの人について特筆すべき点があるとすれば、皆が揃って振り返るほどの美丈夫であり、皆が耳を塞ぎたくなるほどの毒舌家である、ということだろうか。
黒髪に海底のような深い碧眼を持つクリスは、顔立ちが大変整っているため、異性からの人気がとても高い。
しかし、その切れ長の瞳は常に鋭く、第一印象はお世辞にも良いとは言えない。加えて口も悪いので、彼に言い寄る女性たちは、顔と金と名誉しか見ていないのだろうなと常々思う。
ミラは二年もの間、彼の元で研究してきたので、クリスの毒舌にはすっかり慣れっこだ。彼は基本的に誰に対しても毒舌だが、実は根は優しい人だということも、一緒にいてわかっている。
「ミラ。デスクに卒論の素案の直しを置いておいたから、時間がある時に見ておいてくれ」
「わかりました。先週仕込んだ実験の結果を見てから確認します」
クリスはミラの事を名前で呼ぶ。「ミラ女史」や「ミラさん」は長いからだそうだ。彼は無駄を嫌う、実に合理的な人間なのである。
ミラは居室に戻って窓際のデスクに荷物を置くと、一旦廊下に出て向かいの実験室に入る。この部屋も居室同様、無駄に広く、いつも通り誰もいない。
十四歳の頃、クリスの研究に感銘を受けたミラは、それ以来ずっと彼に憧れを抱き、彼のような研究者になりたいと努力を重ねてきた。十五歳で婚約が決まってからも、せめて結婚するまではと研究にのめり込んできた。
そのため、大学に行けるとなったときには、内心大喜びしたものだ。
大学入試時に書かされた研究室の希望調査票には、もちろんクリスの研究室を第一希望に書いた。
希望の研究室に入れるかは、入試の成績と面接で決まる。天才クリス・ロイドの研究室には、当然多数の学生が希望を出すだろうと思い、激戦を予想したのだが、蓋を開けてみれば自分一人しか配属されていなかった。
そして、研究員も一人もいない。
超絶人気の研究室だと思っていただけに、正直拍子抜けだった。
この研究室に人気がないのは、絶対にクリスの口の悪さのせいだと、ミラは密かにそんな失礼なことを考えている。
ミラは実験台でしばらく作業を続けていたが、一人になると、どうしても昨日の記憶が蘇ってきてしまう。
『ようやく気づいたんだ。ミラって、つまらない女性なんだなって』
『頭が良すぎるのも考えものだよね。君と話していても、何も楽しくないんだもん』
(私の五年間、何だったんだろう……)
あんな最低な男に貴重な五年間を捧げたかと思うと、どうしても悔しさが込み上げてくる。
この際、行き遅れたのは仕方がない。呑気に大学に行って研究に明け暮れていたのだから、半ば自業自得だろう。
(でも、浮気はないでしょう、浮気は……)
浮気に全く気づかないミラのことを、ジュダスとキャシーは影で笑っていたのだろうか。
そう考えると自分がなんとも惨めに思えてきて、目の前が涙で滲んだ。
「ミラ。ちょっと今いいか? この実験結果についてなんだが……」
間の悪いことに、クリスが実験室に来てしまった。涙目で実験をしているミラを見て、クリスはぎょっとした顔をする。
「……どうした?」
「な、何でもありません」
慌てて涙を拭ってそう答えたが、声がくぐもってしまった。この状況で泣いていたことを誤魔化すのは流石に難しく、ミラは気まずくなって思わず俯く。
「何でもってことはないだろう」
「本当に、何でもないので」
目を合わせようとしないミラに、クリスはやれやれと盛大な溜息をついた。
「ミラ。話を聞くから教授室に来い。そんな状態で実験をしていたら事故につながる」
「……わかりました」
「落ち着いてからでいい。部屋で待ってる」
クリスはそう告げると、さっさと実験室を出ていった。
これは完全に己の失態だ。まさか泣いているところを人に見られてしまうなんて。よりによって、憧れの先生に。
(はあ……情けない)
ミラは涙が引くのを待ってから教授室に向かい、昨日起きた事を洗いざらい吐き出すのだった。