26.先生の秘密の場所
その後、列車を下車してから馬車をいくつか乗り継ぎ、ミラは今、森の中で馬車に揺られていた。乗り継ぎはこれで最後らしい。
森の中は木々が日差しを遮ってくれているおかげか、随分と涼しく感じた。窓から入ってくる風が何とも心地良い。草木の香りが鼻腔をくすぐる。
外の風景は、緑一色。
本当にこんな場所に「秘密の場所」あるのだろうかとも思ったが、クリス曰く、辺鄙な場所なので人が滅多に来ないそうだ。彼がその場所を気に入っている理由のひとつらしい。
程なくして、馬車が止まった。
出発してから約二時間。それほど長距離移動というわけでもなかったが、何度も何度も乗り物を乗り継いだせいで、ミラにはここがどこだかさっぱりわからなくなっていた。
「ここから降りて、少し歩く。道が悪いから、手を」
先に馬車を降りたクリスが、そう言って手を差し伸べてきた。ミラは彼に触れることに少しのためらいを覚えたが、ここで断るのも変だと思い、ゆっくりと彼の手を取る。
こうしてクリスに触れるのは、キャシーが研究室にやってきたあの日以来だ。ミラはまた彼への想いが湧いて出てこないよう、なるべく余計なことを考えないようにした。
その後、五分ほど森の中を歩いた頃、クリスの手が離れた。
「着いた」
「うわあ……!」
圧巻の光景に、ミラは思わず感嘆の声を漏らした。
ミラの目に飛び込んできたのは、広大な湖と花々が生い茂る草原。
美しい青緑色の湖は、驚くほど透明度が高く、泳いでいる魚がよく見える。湖を取り囲むように咲く色とりどりの花々は、童心に返ってしまうほど見事なものだった。
そして、花の蜜に吸い寄せられるように、たくさんの蝶が飛んでいる。まるでダンスを踊っているかのようだ。
「気に入ったか?」
「はい! こんな素敵な場所、初めてです!」
ミラが興奮気味に目を輝かせてそう言うと、クリスは満足そうに頷いた。
「研究室に閉じこもっていると、どうしても視野が狭くなる。そんな時に自然の中に身を置くと、パッと視界が開けることもある」
天才、クリス・ロイドの秘密の場所。彼の偉大な研究の数々が、この場所での時間を経て誕生したのかと思うと、何とも感慨深い。
「先生は、ここでいつもどうやって過ごされているんですか?」
「何も。ただぼんやりと自然を見て、思考を放棄する。お前は好きなように過ごせ。お前が飽きたら帰る」
「好きなように……か……」
研究の手を止め、せっかく遠方まで来たのだから、これは楽しまないと損だ。
(よし……!)
ミラは心のままに靴を脱ぎ捨て、湖に向かって走り出した。足の裏に感じる草の感触がくすぐったい。
(動きやすい服装で来て大正解だわ!)
心が踊る。自然の中を駆け回るなんて、いつ以来だろうか。
ミラは湖の畔に立つと、足先をゆっくり湖の中に浸した。ひんやりとした水が、こもった熱を冷やしてくれる。水の感触が気持ちよくなったミラは、足で思いっきり湖面を蹴り上げた。舞い上がった水滴が、太陽に照らせされてキラキラと輝く。
「先生! 来てください! 冷たくて気持ちいいですよ!」
「フッ。お前はたまに、本当に貴族の令嬢なのかと思う事をするよな」
クリスはわずかに笑みを浮かべながら、こちらに歩み寄って来ていた。
彼の言葉に、ミラはハッとして自らの行動を振り返る。確かに、貴族令嬢にあるまじきお転婆な行動。途端に羞恥心が湧いてきて、ミラは顔を伏せながら恐る恐る尋ねた。
「……はしたないって呆れましたか?」
「いいや、そっちの方が俺は好みだ」
クリスはさらりとそう答えると、靴を脱ぎ、湖の畔に座った。そして、足でパシャパシャと湖面の水を弄んでいる。
(好みって……いま、好みって……!)
水で冷えた体が、一気に熱を取り戻す。その言葉に他意がないのはわかりきっているのに、心臓がドキドキとうるさい。
胸の奥底にしまったはずの感情が、彼といるとすぐに顔を出してしまう。
ミラは赤く火照った顔を隠すように、帽子を深く被り直した。
「せ、先生も、お好きに過ごしてくださいね。連れてきてくださって、本当に、ありがとう、ございます」
動揺しすぎたせいで、言葉がぎこちなくなってしまった。そのせいで余計に焦りが募る。彼に自分の想いを悟らせるわけにはいかないのに。
クリスも流石に不思議に思ったようで、訝しげに尋ねてきた。
「なぜそんなにカタコトなんだ?」
「なんでも! なんでもないですから!」
ミラは顔の前でブンブンと手を振り、全力で誤魔化した。彼と視線を合わせないよう、顔を湖の方に向け、彼の隣にストンと座る。
勝手に気まずさを感じてしまい、ミラは黙り込んでしまった。何か話題はないかと探すも、思考がうまく回らず、すぐには思いつかない。
「ミラ。そう焦るな」
「へ!?」
今のこの状況を指摘されているのかと思い、思わず声を上げてしまった。が、どうやら彼の意図は違うところにあったようだ。
「努力の結果は自ずとついてくる。だから、そう焦るな」
「先生……」
クリスに視線を向けると、彼もまたこちらをじっと見据えていた。力強く美しい碧眼に吸い込まれそうになる。優しく吹き抜けた風が、彼の黒髪を揺らした。
「俺は、お前なら今の研究を成功させられると信じている」
「…………」
慰めなのか本心なのかはわからない。だが、自分が心から尊敬してやまない人にそんなことを言われたら、その期待に全力で応えたいと思ってしまうではないか。
ミラの胸には、言いようもない嬉しさと、みなぎるやる気が込み上げていた。
「はい……! 絶対に……絶対に成し遂げてみせます!」
久しぶりに、心から笑えた気がした。




