21.胸の底に押し込んだ感情
クリスが過労で倒れたあの日以来、彼は少しずつ事務仕事を任せてくれるようになった。
そのおかげで、彼は以前より随分と健康的な生活を送れているようだ。領地内のトラブルも解決したようで、ここ最近は研究に多くの時間を割けるようになり、どこか生き生きとしているように思う。
一方のミラはというと、研究の進捗が芳しくなく、思い悩む日々が続いていた。
魔法は、人間が発する特殊な脳波に魔素――魔法を具現化する素粒子が反応することによって生じる。
平民でも魔法が使えるようにするためには、魔素が反応するレベルまで脳波を増幅させなければならない。
クリスの助言を元に、脳波計の仕組みを応用して魔道具の骨格自体は作れたのだが、いかんせん肝心の脳波を増幅する素材が一向に見つからない。大学の図書室に通ってはめぼしい素材がないか調べて試しているのだが、これといった収穫を得られていないのが現状だ。
クリスからは「たった数ヶ月でここまでの進捗があるなら上々だ」と言われているが、いつ自分の結婚話が再燃するかわからない以上、あまり悠長に進めている場合でもない。
今日も今日とて、ミラは昼食の後、しばらく図書室で調べ物をし、数冊の本を借りてから研究棟に戻った。一旦自分のデスクに本を置こうと居室に向かったが、その扉に手をかけたところでミラは固まった。
部屋の中から、よく知る女の声が聞こえてきたからだ。
「クリス先生って、本当に偉大な研究者ですのね」
(キャシー……!?)
鼻にかかった媚びるような声から察するに、キャシーは本当にクリスに狙いを定めたらしい。またまた彼の予言通りになってしまった。
ミラはなぜか居室に入るのがためらわれ、扉の前で立ち止まったまま、じっと中の会話に耳をそばだてる。
「わたくし、あのパーティーが終わってすぐ、クリス先生のこと調べたんです。それで、先生の研究に感銘を受けまして。先生の論文を読んで感動いたしましたわ」
嘘だ。
キャシーの学力は、お世辞にも高いとは言えない。それは、貴族学校時代の成績を見ても明らかだ。彼女にクリスの論文を読んで理解する頭脳があるとは、到底思えない。
「それで、先生に強い憧れを抱きましたの。急に押しかけてしまったことは謝罪いたしますわ。ですが、どうしても諦めきれなくて……。あの、秘書で構いません。わたくしをここで雇っていただけませんか?」
キャシーの言葉に、ミラの心臓がドクンと跳ねた。
クリスはなんと答えるのだろうか。もし了承したら? もし、彼がなにかの拍子で、キャシーに心を奪われてしまったら?
頭脳はさておき、キャシーの容姿は抜群に良い。はっきりした目鼻立ちに、小柄でいて豊満な胸。男なら誰しもが守ってあげたくなるような、そんな風貌。
そんな彼女に、魅了されてしまったら?
そう考えた途端、ミラの心の内にモヤモヤとした感情が溢れ出し、瞬く間に広がった。
(あれ……? モヤッ……?)
思わず自分の胸に手を当て、戸惑う。今までこんな気持ちを抱いたことは一度もなかったというのに。
しかし、この感情の正体は流石にわかる。嫉妬だ。ミラは、キャシーに対して嫉妬していることに驚いた。
(……この気持ちは閉じ込めておきましょう。研究に支障が出そうだわ)
頭を軽く振って余計な感情を追い払った時、クリスの鋭い声が部屋から聞こえてきた。
「断る」
短く力強い返事に、心から安堵している自分がいた。胸に渦巻いていたモヤモヤも、一瞬で吹き飛ぶ。そのことが余計にクリスへの想いを自覚させ、ミラは再び頭を振った。
(私はあくまで先生の教え子であって、それ以上でもそれ以下でもない。ちゃんと、自分の立場をわきまえないと)
自分の邪念のせいで、ここにいられなくなるのは絶対に嫌だ。ミラは自覚した想いを懸命に胸の奥底に押し込んだ。
「ああ、雑用はミラにやらせているからですか? そういうの得意ですものね、あの子」
今度はキャシーの嘲りの言葉が聞こえてきた。うふふと馬鹿にしたような笑い声を収めてから、彼女は続ける。
「でも、ミラもいずれは結婚してここを辞めていくわけですし……秘書の一人くらいいたっていいと思うんです。わたくしもいずれはどなたかと結婚しますが、秘書業務は続けられると思いますの」
クリスからの返事はない。聞こえてくるのは、キャシーの猫なで声だけだ。それから彼女は、自分がいかに有能な人間かをペラペラと語っていた。
しかし、キャシーがいくら話しても、クリスの返事は一向に聞こえてこない。まるでキャシーが壁に向かって一人で話しているかのようだ。
すると、これ以上自慢することがなくなったのか、キャシーは自分語りを終え、不安げな声を上げた。
「あの、聞いていらっしゃいます……?」
「ん? ああ、悪い。あまりにもくだらん話だったから、途中から論文を読み込んでいて何も聞いていなかった」
居室内の光景が手に取るようにわかり、ミラは思わずブフッと吹き出しそうになった。
盗み聞きしていることがバレると気まずいので、慌てて自分の口を両手で塞ぐ。しかし、込み上げてくる笑いはなかなか収まってくれなかった。
ミラが口と腹を抑えながら懸命に笑わないよう耐えていると、キャシーの引きつった笑い声が聞こえてくる。
「あはっ、あははっ、これは失礼いたしました」
「事務仕事はミラが請け負ってくれているから秘書は不要だ。今後も雇うつもりはない。無論、ミラがもしこの研究室を去ったとしてもだ」
クリスのその言葉が嬉しくもあり、そして悲しくもあった。
自分を信頼してくれていること。それはとても嬉しい。だが自分が去れば、彼はまたこの研究室で一人ぼっちになってしまう。他人を容易に信じられない彼の心を思うと、何とも悲しくなった。
「……ミラのこと、大層気に入っていらっしゃるのですね」
「ああ。信用に値する人物だと思っている。それに、あれほど面白い女性も他にいない」
キャシーの言葉に、クリスは即答していた。彼女の声のトーンが下がっているところから察するに、クリスがミラのことを買っているのが気に入らないのだろう。




