16.誤解されると困ります
思った以上に、クリスはジュダスに対して怒りを抱いていたらしい。
ジュダスへの数々の嘲りの言葉は、絡まれていたミラを助けるためだけでなく、ジュダスに対して己の怒りをぶつけるためでもあったようだ。
(ええと……つまり……)
彼の機嫌がずっと悪かったのは、ジュダスやキャシーに対して怒っていたから。その理由は、ミラが二人に傷つけられたから。
(先生はずっと、私のために怒ってくれていたのね……)
クリスは寡黙で多くを語らない。だからこそ彼の真意を推し量るのが常々難しいのだが、今回はわかってしまった。彼の優しさと、思いやりが。
胸の中に嬉しさと言いようもない恥ずかしさが込み上げてきて、ミラの顔が自然と熱くなる。クリスの横顔を見ていられなくなり思わず視線を外すと、すぐに静かな声が聞こえてきた。
「だが結局は自己満足だ。勝手にお前に触れて、不快にさせたなら元も子もない。悪かった。少し……冷静ではなかった」
いつも自信たっぷりで堂々としていて、何事にも動じないクリスが、今はこんなにも覇気のない声を出している。そうさせているのは自分だと理解したミラは、慌てて彼の言葉を否定した。
「そ、そんなことは……! 全く嫌ではなかったので!! むしろ私のために動いてくださって、ありがとうございます!」
(嫌ではなかったってなに!? それじゃあもっと触れて欲しかったように聞こえるじゃない!!)
慌てて答えたせいで変なことを口走ってしまった。ミラはアワアワと狼狽してそれ以上何も言えなくなり、とうとう俯いて黙り込む。
ぎゅっと握った自分の手をひたすら見ることしかできず、ミラはただただクリスの言葉を待った。
「そうか」
たった一言。短く発せられたその声には、深い安堵が込められていた。彼から聞く、初めての声音だった。
反射的に顔を上げると、彼はちょうど立ち上がるところだった。
「ミラ、お前は会場に戻りたくなるまでここにいろ。俺はもう帰る」
「お帰りになるのですか?」
てっきり会場に戻るのかと思ったので、ミラは意表を突かれた。目を丸くしていると、クリスは少し疲れたように言う。
「ああ、挨拶回りは済ませたからな。もういいだろう」
「そうでしたか。実は私ももう帰ろうと思っていたんです。あまり会場に戻る気になれなくて」
会場に戻っても、今日は好奇の目にさらされて終わりだろう。本当はもう少し楽しみたかったが、話してみたかった研究者や魔法使いとは話せたので、成果としては十分だ。
「わかった。なら寮まで送ろう。馬車を待たせてある」
クリスはそう言うと、座っているミラに手を差し伸べてきた。以前の彼なら絶対にそんなことしなかったので、ミラは驚いて目を見開き固まる。今日はやけに紳士的だ。
(なんだか……この手は取ってはいけない気がするわ……)
彼はただミラを立ち上がらせようとしているだけで、他意はない。寮まで送る提案をしてくれたのも、自分が帰るついでだからだ。
(そうはわかっているものの……)
一向に手を取らないミラを不思議に思ったのか、彼は首を傾げている。
「どうした?」
「お心遣いは大変ありがたいのですが……さっきの騒動もありましたし、本当に勘違いされてしまいますよ?」
「勘違い?」
クリスの表情は訝しげだ。説明を求められ、ミラはためらいがちに答える。
「私と先生がその……恋人同士だって。私は婚約者もいないので別に構いませんが、先生はこれから奥方様を見つけていかなければならないのですし……」
ロイド侯爵家当主であるクリスは、いずれ妻を娶り、跡継ぎを授かる必要がある。それなのに婚約破棄されたばかりの伯爵令嬢と、しかも自分の教え子と噂になるなんて、彼にとって利になることは一つもないはずだ。
しかしクリスは「なんだそんなことか」と言わんばかりにあっけらかんと言った。
「勝手に誤解させておけばいい。俺もその方が色々と都合がいいんだ。変な女が寄ってこなくて済むしな」
「それは、そうかもしれませんが……」
(ご令嬢たちからの視線が怖いのよ……!)
ロイド侯爵家夫人の座を狙う令嬢は多い。クリスとの仲を誤解されれば、そんな彼女たちからやっかみを受けることは目に見えていた。
なんとかしてクリスの考えを改めさせようと口を開いた時、彼は思いがけないことを言ってきた。
「だからお前も、もし元婚約者にやり直そうと言われたら、俺をいいように使え。新しい婚約者ができたから断ると」
「え?」
ジュダスはキャシーと結婚する。それなのにやり直そうなんて言われるはずないではないか。
そう反論しようとしたが、「早く帰るぞ」とクリスに優しく手を引かれ、結局そのまま彼と共に馬車で帰ることになったのだった。




