1.私、つまらない女だそうです
「ねえ、ミラ。僕たち、婚約を解消しようか」
「……は?」
ハインズ伯爵家の長女ミラは、婚約者であるジュダス・クウォーク伯爵令息からの提案に、頭が真っ白になった。
今日は彼との定例のお茶会の日で、ここはクウォーク伯爵家の庭園である。
今の今まで彼と楽しく会話していたのに、どうして急にそんな話に?
「ジュダス、冗談よね……?」
「ううん、本気だよ。ずっと前から考えていたことなんだ」
いつもは優しげに見えるその顔が、今はなんとも不気味に思えた。彼が何を考えているのか、さっぱりわからない。
「私が大学を卒業したら、結婚するって話だったじゃない。卒業はもうすぐなのよ? それなのに、どうして今さら……?」
二人は五年前、互いに十五歳の時に婚約を結んだ。両家の利害の一致による、いわゆる政略結婚のための婚約だ。
同じ貴族学校に通った二人は、その卒業と同時に籍を入れる予定だった。しかしジュダスから、「君の才能をここで潰すのはもったいない。結婚は大学に行ってからでも遅くはない」という提案を受け、ミラは大学進学を決めたのだ。
優れた頭脳を持つミラは、幼い頃から魔法に興味を示し、その研究に没頭した。
ミラが貴族学校でずば抜けた成績を収めたことはもちろん、ミラが本当は研究者としての道を歩みたいと思っていることも、ジュダスは知っていたようだ。
結婚すれば、嫁ぎ先のクウォーク家を支えるべく忙しい日々が始まる。研究する暇なんてもちろんない。だから、彼から大学進学の提案を受けた時は「なんて理解のある人なんだろう」と強く感動したものだ。
ミラは大学で目一杯研究をやり尽くして、それで最後にするつもりだった。大学卒業後は家庭に入り、ジュダスを支えるつもりだった。
(それなのに、卒業を目前にして、婚約の解消を求められるなんて……)
呆然とするミラに、ジュダスは茶色の瞳を細めて微笑み、何の悪びれもなく言った。
「ようやく気づいたんだ。ミラって、つまらない女性なんだなって」
その一言に、脳を直接殴られたような錯覚を覚える。
ミラの知るジュダスは、温和でいつも笑顔を絶やさない、とても優しい人だった。
政略結婚なので、お互いに恋愛感情を抱いていたかと問われると怪しいが、少なくとも強い信頼関係は築けていると思っていた。それに何より、この人となら素敵な家庭を築いていけると思っていたのだ。
(これは、誰……? 私が見ていたジュダスは、全て幻だったの……?)
目の前に映る男が全く知らない人に思えて、ミラは思わず自分で自分を抱きしめた。
恐怖。いま彼に抱く感情はそれだけだ。
ミラが顔面蒼白になっていることにも気づかず、ジュダスは続ける。
「頭が良すぎるのも考えものだよね。君と話していても、何も楽しくないんだもん。やっぱり女性は、少し頭が悪いくらいが可愛いよね」
(そんなこと、思っていたの……?)
彼のこれまでの優しさも気遣いも、全て嘘偽りだったと嫌でも理解させられる。
今までの五年間はなんだったのだろう。
いつから愛想を尽かされていたのだろう。
いつもどんな気持ちで会っていたのだろう。
そんな疑問が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。
しかし、ミラにその答えを聞く勇気はなく、ジュダスを問い詰めることはできなかった。
「君と僕は合わないと思うんだ。だから婚約解消の話、飲んでくれるよね?」
微笑みながらそう問いかけてくるジュダス。
彼を引き止めても無駄だということは、彼の表情を見れば明らかだった。たとえ泣いて縋ったとしても、惨めな思いをするだけだ。
ミラはジュダスから視線を逸らし、声を絞り出す。
「……わかったわ」
「よかった。揉めたくなかったから助かったよ」
彼の声と表情からは、安堵と喜びがありありと感じ取れる。それがまたミラの心を締め付けた。
するとその時、この気まずい空間になんとも不釣り合いな、可愛らしく媚びるような女性の声が庭園に響いた。
「ジュダス〜!」
「キャシー!」
名を呼ばれたジュダスは目を輝かせて立ち上がると、声の方をめがけて走っていく。
(この声……それにキャシーって……)
ミラが恐る恐る振り返ると、予想通りの人物がジュダスと抱き合っている光景が目に飛び込んできた。
彼女はミラの幼馴染の、キャシー・ウォルシュ伯爵令嬢だ。
「ジュダス、話は終わった?」
「うん。無事に婚約解消できたよ」
「やったあ! これで一緒になれるわね!」
きゃあきゃあと喜び抱き合う二人を見て、ミラは頭から血の気が引いていった。心臓がドクドクと脈打ち、耳鳴りがする。
(私は、何を見せられているの……?)
すっかり冷たくなった手を握りしめ、ミラは何とか立ち上がる。そして二人のもとに歩み寄り、震える声で尋ねた。
「キャシー……? どうしてここに……?」
すると二人は抱き合うのをやめ、こちらに向き直った。キャシーはにこりと微笑んでいるが、どこか勝ち誇った笑顔に感じるのは気のせいだろうか。
「ミラ、久しぶりね。貴族学校の卒業パーティー以来かしら」
「え、ええ……そうね。そんなことより、どうしてあなたがここにいるの?」
もう一度問いただすと、ジュダスがキャシーの肩を抱き寄せ、満面の笑みであり得ない言葉を浴びせてきた。
「実は僕、キャシーと結婚するんだ。あ、良かったら僕達の結婚式に来てよ。招待状、送るね」
「…………は?」
彼の言葉がすぐには理解できず、ミラはしばらく固まった。
(結婚……? 結婚するって言った……? ついさっき婚約を解消したばかりなのに……?)
脳内で情報を少しずつ整理していった結果、導き出される結論はひとつ。
ジュダスはミラと婚約を結んでいたにもかかわらず、キャシーと浮気していたということだ。
「もう、ジュダスったら。ミラへの招待状は、サプライズで送ろうって言ってたじゃない」
キャシーがその豊満な胸をジュダスの胸に押し付けながら唇を尖らせた。しかし彼女の視線はチラチラとミラに向けられていて、まるでこちらの反応を楽しんでいるかのように、ニヤリとほくそ笑んでいる。
一方のジュダスはというと、鼻の下を伸ばしながらデレデレと頭を掻いていた。
「ああ、そうだったね。ごめん、ごめん。君と結婚できるのが嬉しくて、つい」
(……私、どうしてこんな人と添い遂げようとしていたのかしら)
ミラの中で、何かがプツリと切れた。
なんて気持ちが悪い人なんだろう。
優しい人だと思っていたのに。
誠実な人だと思っていたのに。
信頼できる人だと思っていたのに。
(ああ、私って、男を見る目がなかったのね)
心が急激に冷めていく。もはや全てがどうでも良くなった。
浮気して婚約解消を告げた挙げ句、その相手に自分の結婚式の招待状を送ろうとする気の狂ったこの男も。
幼馴染の婚約者を奪っておいて、謝罪の一言もなく勝ち誇った笑みを浮かべているこの女も。
(……全部どうでもいいわ)
ミラはひとつ深呼吸をすると、にこりと笑みを作りながら口を開いた。
「招待状は結構です。私の両親には、ジュダス様に浮気された挙げ句、婚約を破棄されたと伝えますね」
その言葉に、ジュダスが急に慌て始める。
「う、浮気って……別に肉体関係を持ったわけじゃないんだし、大げさだよ。それに、婚約破棄じゃなくて、解消だよ? だって、お互いの同意の元なんだから」
(同意の元、ですって?)
ジュダスはミラに婚約を解消せざるを得ない状況を作った。こんなの、一方的な婚約破棄と何も変わらない。
必死に取り繕おうとするジュダスを完全に無視して、ミラは続ける。
「後日、我が家からクウォーク伯爵家へ正式に抗議文を送らせていただきますので、そのおつもりで」
「ちょ、ちょっと待ってよミラ。怒り過ぎだって。お互い気が合わなかったから別れただけなのに、どうしてそんなに怒ってるの?」
「それではお二人共、どうぞお幸せに。さようなら」
軽く一礼して立ち去ろうとすると、ジュダスが慌てて追いかけてきた。
「だから、ちょっと待ってって!」
ジュダスがミラを引き留めようと腕を掴んできた。
――が、ミラはすぐにそれを振り払い、振り返りざまに思いっきり罵声を浴びせてやった。
「二度と私の前に姿を見せないで! この最低男!!」