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二度目

第五章

 

「マツウラさん、わかりますか。病院ですよ。」

医師が言った。世田谷の病院で僕は目を覚ました。ドラマで見たように、医師がベッドのそばで看護師とともに立っていた。僕の体には点滴がいくつも入り、鼻の穴からは、胃洗浄用のホースが突っ込まれていた。

救急車で運ばれたらしい。通報してくれた人には、会えなかった。母親が菓子折りを持って行ったとのことだ。

不思議なことに、オーバードーズのきっかけについては、詳しく聞かれなかった。やんわりと、「どこかの病院の精神科に通いなさい」と言っていたような気はするけど記憶が定かではない。一日に一回、胃洗浄のホースを抜き差しされる。とても痛い。鼻に入れるときは潤滑油みたいなローションをつけて入れるのだが喉元に到達すると気持ち悪くて吐く。医師は慣れていて、湾曲したステンレスのお皿みたいなもので吐瀉物を受ける。胃まで達すると終わりで、また翌日、ズボッと一気に抜かれ、これもまた痛く、その後また入れられる繰り返しだ。

主治医は、僕が一升瓶でオーバードーズした事実しか知らないから、「アル中」(今の呼称は『アルコール依存症』)の自殺未遂と診断したようだ。アル中の直し方は、「断酒」しかない。それは一人ではなかなか難しく、家族が例え同居していたとしても、家族可愛さ、若しくはせめて気を楽にできるならと、医師の断酒指示を若干緩めてアルコールを患者に提供してしまう場合がある。そのような状態になった家族や近親者は「イネーブラー」と呼ばれる。

母親は、父親から、虐待を受けていたから、キッチンドリンカーになっていた。主に飲むのは、まだまだアルコール度数の低い、ビールのみだったが、僕の、心が揺さぶられてしまった時に、アルコールを飲むことで落ち着く、という感覚は理解していたらしく(健康的には悪いことも当然理解している)、「風呂上がりの一本だったら」というアルコールとの付き合いだった。

ちなみに団塊世代のビールの選び方は、自身が務めている企業と関連している銘柄しか飲まないという暗黙のルールがあった。M社財閥系ならこっちのビール、S社財閥系系ならあっちのビールという形だ。母親も律儀に守っていた。

父親は、国立大学の経済学部で、フィールドホッケーをやっていたそうだ。就職活動の時期、フィールドホッケー部の先輩に、「三文判持って集合」と言われ、たった数日で、先輩が勤めている銀行に内定を得たと聞いた。リクルーター制度は当時からあったのだ。父親自身は機械メーカーで、ものづくりをすることを夢見ていたそうだ。特に憧れた企業があったと、後年聞いた。ただ、色弱で、メーカーへの就職は諦めざるを得なかったとのことだ。

母親は、僕の生まれた東京の三鷹市出身だが、都立高校の受験日に体調を壊してしまい、止む無く商業系の私立女子高校に通って、高卒とともに銀行に就職した。そうして、結ばれた二人の子供が僕と妹の幸子だ。

母親と妹が毎日面会に来る病院で、医者が僕に伝えたことは、神奈川県の久里浜に、アル中(アルコール依存症)の専門入院病院があるから、そこに通え、だった。

鼻にホースを突っ込んだのは、もしかしたらこの痛みを忘れずに、もう二度と自殺未遂をしないようにという、医師側からの罰なのではないかと思った。頭痛薬のオーバードーズに対して、六日間も胃洗浄をする意味はあったのだろうか。よく、医学と法学については、素人は迂闊に付け焼き刃の知識で語らないほうがいいと言うが、未だに僕には不明だ。

久里浜の病院について、母親が電話で相談したが、基本的に最初は入院で、アルコールが全く手に入らない環境で長く過ごさねばならないという説明をされ、とても入院費が高いため、そこに通うのは諦めた。殆ど会話をしなかったが、僕はアパートを引き払い、実家に戻って、宛もない生活が始まることとなる。

しばらく僕は引きこもりになった。生まれて始めて髭を剃らずにボウボウと伸ばし、夕方に一日一食、扉の前に置かれた夕飯をただ咀嚼し、ビールを一本だけもらって、浅い睡眠を取り、外の景色をずっと眺めていた。

その頃は、携帯電話でメールを送ることができる時代になっていて、何人かの人たちから連絡はあったが、全て無視して返信を返さなかった。僕の大学時代は、一年目にポケベル、二年目にピッチ(PHS)、三年目にドコモの携帯と、目まぐるしく通信環境が変わった。携帯電話に公衆電話から連絡すると、少しの通話時間で、五〇度数のテレフォンカードが一枚なくなるくらい通話料が高かった。その後、iモードが開発され、携帯電話にインターネットが搭載されるようになった。

コンピューターの世界では(まだコンピュー『ター』と長音で伸ばす文化だった)、Windows95が行列の下発売されて四年ほど経過したが、一部のマニアを除いてはまだまだパソコンは普及しておらず、詳しい人が楽しんでいる、程度のようだった。

大学で就職活動をする人たちは、大学内にあるコンピュータールームに競って入って、「eメール」と呼んでいた、現在では当たり前のメールを使って、企業説明会への参加、面接の調整などを行っていた。自分の家やアパートに、パソコンがあって、電話回線と繋がっているという人は、いくらおぼっちゃんの多い僕の大学でも、稀であった。就活での企業からの連絡は、基本的に自宅の電話で受けねばならないという不文律があって、みんな、飲み会などからも早々に帰宅するような時代だった。家の留守電を外から聞けるサービスも流行し、一つも連絡を逃さない体制を皆、敷いていた。

年月が経って、副業で高校生の家庭教師をいくつかしたが、彼ら彼女らが合格して進学が決まると、大学生協から指定スペックのパソコン購入案内が届き、全員購入する。シラバスを決めるのも単位を調整するのもパソコンがインターフェースになる。確かに、今はパソコンも探せば安いものもあるが、大学生協からのお勧めは、二十万程度する、パナソニックのフラッグシップ、「Let‘s note」だ。

五万円程度のパソコンなんて用意させないぞと、大学に合格したての祝賀ムードに漬け込み、ここぞとばかりに利益を上げに来る生協もなかなか強者だ。ちなみに、Apple製品は、Windows用に開発されたソフトとの互換性の関係で、よっぽど好きな人でない限り、Windowsを準備した。

つい最近の、新型ウイルスの流行時には、こんな格差が生まれた。「無制限Wi−Fiが自宅に開通してあるかどうか」だ。大学の授業がリモートになり、全ての授業がインターネット配信される世の中になった。自宅に無制限のWi−Fiが開通している家庭は、リモートで授業を受けることに、ネットワークの遅延などの問題はないのだが、ポケットWi−Fiやスマートフォンのテザリング機能でパソコンをネットに接続している学生は、ストレスも、追加費用もかかる。大学に合格してからも、格差社会に悩まされることになる。


退院から二ヶ月が経ったあたりで、しばらくは僕を腫れ物に触るように接していた父親が、父親自身の高校時代の友人に、僕をバイトとして雇って欲しいと相談し、僕は横浜にある小さな事務所に働きにいくこととなった。

雇い主は、国家資格の独占業務を持っている「先生」で、僕を丁稚として色々教えてくれた。その国家試験を僕が受けられるかというと、大学を卒業していないため受けられなかった。仕事上、自動車が必須なのだが、父親もそこまで予期してなかった。

しかし、自分から「先生」に頼みこんだものだから、無い袖を振るって(つまり更に借金して)、僕に免許を取らせ、トヨタのカローラを買った。

「先生」からしてみれば、子どもにカローラを与えてやることは、普通の親であれば当然と、なんら疑問を挟まずに友人として要求したものだが、父親の性格は別に変わったわけではないので、僕は毎日のように嫌味を言われ、仕事以外でドライブに出かけることはできず、月曜から土曜までフルタイムでバイトをし、日曜日は洗車をして父親に返した。

バイトでは、神奈川県の西側、静岡よりの地区をよく運転した。日本の道路は本当に狭い。幹線道路以外は、幅が二メートル程度の道路も多く、調査している時にカローラをずいぶん傷つけた。バイト代は月に八万円だったが―今思うと毎日九時間、週六日働いて八万円、有給/失業保険なしというのはどうかと思うが―父親はいちいち板金の修理代を僕に請求した。

僕はお金関係のことに疎く、敢えて無視するようにしていたのだが、こういう場合は社用車というものを充てがわれることが世間では普通らしい。少なくとも、実家に一〇〇万円のカローラを買わせる会社はあまりないとのことだ。ガソリン代は性善説で、走った距離×二〇円を、使っただけバイト先に請求した。

事務所には先生と先生の奥さんとが主として仕事をし、僕と同じ大学の娘さんが時折バイトしていた。

娘さんは一日数時間、ちょっとしたファイル整理などをバイトとして働いて、一日三万円お小遣いをもらっていた。脱サラして順調に生きている父親がいる、裕福で円満な家庭と、銀行マンだったのに借金まみれで日々暴力を振るう悲しい家庭の違いをまざまざと痛感した。

結局、「先生」の事務所は、父親が、「お前が日々乗っているせいで摩耗した」との理由で、タイヤ一式の交換費用を六万円請求してきたことをきっかけに、辞めた。雇用保険がなかったので、次の仕事を探すまでには、失業保険はなく、また力仕事のバイトを始めた。当時は軽作業を派遣で募集している企業がいくつもあり、引っ越しのバイトなどをして日々を過ごした。

「先生」のところでバイトをして、いいこともあった。事務所で書類作成をしていたので、タッチタイピングが得意になった。それを武器に、なんとか一般企業に、「高卒」扱いで入社することができた。


第六章


初めての一般企業。整然と並んだデスクからなる「島」。その「島」内で交わされる雑談。四月十日「週」という「週」単位でのタスク管理。「co.jp」となるメールアドレス(前の事務所はメールを使わなかった)。残業。飲み会。全てが新しく、ようやく、大学をきちんと卒業した同期の友人たちと似たような、人並みの社会人生活が送れるようになった。

仕事は「ソリューション営業」。当時、どこもかしこも「ソリューション」という言葉が流行しており、ただ請負開発を行なっているだけのITソフトウェアベンダーも「ITソリューション」と名前を刷新してもがいていた。

僕は誰よりも早く出社し、主語も目的語も述語もわからない、初めてのIT業界の用語を勉強し、みんなに食らいついていった。

「そこはストアド走らせて、アドミニ権限を移して、帳票をフレキシブルに変えられるようにすればいいんじゃない?」

何を言っているのかさっぱりわからない。それがITの用語なのか、一般的な社会人が使う用語なのか、会社特有のものなのかがわからないのだ。

それでも、電話だけは率先して、まるでテレクラのように早く取り、会社の人たちの顔と名前を覚えていった。

当時、国家資格として、「初級アドミニストレーター」というものがあり、僕が勤めた会社では、取得すると、月の給料が五千円上がる仕組みになっていた。就職氷河期を生き抜くためにはなんでもしなくてはならない。強制的に受けさせられた資格になんとか合格し、僕の「高卒」給料は少しだけアップした。

ちょうどその頃、僕の会社は、将来の上場を目指して採用を拡大していた時期だった。もちろん、僕もそういう目論見の中で雇ってもらえたのだろう。「電話取りだけは早いマツウラ君」は、日々メンバーの雑用をこなし、そして、増えていくメンバーのPC(パソコンを日がな一日セットアップした。レジストリなんてものを初めていじくりながら、PCに強くなるため、色々なプロたちの手を煩わせながら、少しずつ慣れていった。


一人暮らしは住宅手当が二万七千円出ると聞いて、会社から三十分ほどの駅で一人暮らしを再開することにした。

母親と妹の幸子はとても心配した。以前のように、追い詰められると、僕が何をするかわからないからだ。しかし僕は、父親と同じ空気を吸うことに、恐怖を感じる毎日に飽き飽きしていた。

強行採決に持ち込み、家を出た。父親は、もともとが熊本出身で、学生時代には神戸に住んで、就職とともに東京に来たものだから、「男は大人になれば、自立するのは当然」と、特に反対はしなかった。尤も、「先生」のところでバイトさせて、車の免許教習場費用やカローラの出費もあった苦い思い出があるせいもあって、煩わしかったのは僕と同じだろう。

一人暮らしをして、四ヶ月目に、泥棒が入った。

ある月曜日の夜、残業して家に帰ってみると、玄関の鍵が開いている。不思議に思って家の中に入ったが、特に荒らされた様子もなく、「ただの掛け忘れか」と思った瞬間、広くもない部屋の片隅から、僕が苦労して買ったPCがなくなっていることに気づいた。

生まれて初めて一一〇番をした。しかし、テレビで見るのとは違い、かなり時間が経って、しかも警官は一人でやってきた。警官は二人組と聞いていたのに。

「実は同時多発的に窃盗事件が起きておりまして」

警官は申し訳なさそうに言って、部屋の検分を始めた。特に聞かれたのが、「包丁の類は盗まれてないですか?」だった。

僕は学生時代に、ファミリーレストランのキッチンでバイトしていたので、その時の影響で包丁を三本持っていたが、一本も盗まれてはいなかった。その代わり、押し入れに入れておいたナップサックから、MDウォークマンが、PCとともに盗まれていた。このウォークマンを探すには、相当長い時間、泥棒が部屋にいたことになる。寒気を覚えた。

警官は部屋の色々なところから指紋や足跡を採取し、指紋や足跡を貼った書類ごとに僕は署名させられた。現場検証(?)が終わったのは火曜日の朝方、四時ごろであった。もともとの不眠なのに、泥棒という恐怖と、現場検証の疲れもあって、一睡もしないまま会社に行った。まだ火曜。週は始まったばかりだ。

翌日の夜、さっそく大家が僕の部屋を訪問し、お見舞いと、鍵の交換と、賃貸契約を交わした時に締結した火災保険には、「盗難保険」なるものが付随している旨を話し、帰っていった。

そんな顛末を僕が所属している、「ソリューション営業第1部」のメンバーに話すと、翌週の営業会議には、部長自らの入力で、「マツウラ、PC自社購入。売上二〇万円」と計上されていた。どうやら、保険が降りたら、自社で扱っているPCを、その保険金で買えということらしい。営業マンは厳しい世界なのだ。

部長は、親会社から来ている非常に厳しい人であった。僕が研修を受けて、配属された当初は、僕の「高卒」という学歴に、シンパシーを持ってくれていた様子だったが、あまりにも僕が何も知らない、会話が通じない、それなのに毎日元気に過ごしていることが癪に触ったらしく、徐々に厳しくなっていった。ちょっとした冗談も言えない間柄になってしまい、日々、残業中に呼び出され、注意、というか薫陶を受けた。次第に、部長の前ではうまい受け答えができなくなってしまい、言葉が閊えるようになった。

毎週月曜日の朝は、「ソリューション営業第1部」の部会だったが、僕の報告は毎週部長をイライラさせたようで、周囲の仲間からも、「マツウラの後に報告すると、部長がイライラしててやりづらい」と指摘されるようになってしまった。

他人がやりづらい・・・。これは僕にとって、結構な負担になった。思い起こせば学生のときも、教授が注意すること自体を恐怖の対象として、学校にいかなくなってしまった。僕のせいで他のメンバーが報告しにくくなっている。いっそ僕がいなくなってしまえば・・・。そんな思いをし始めたら、見かけだけは元気よく過ごしていても、内心はどんどん傷ついていった。


サラリーマン、特に営業マンとゴルフは、切っては切れないものだ。僕は課長の勧めもあり、ゴルフ道具を中古で一式揃え、課長に基礎を教えてもらったが、課長も匙を投げるほど下手くそだった。でもまあいい。営業マンにとっては、「ゴルフを嗜む」という事実が重要なのであって、僕のような若者には、ゴルフコンペのセットアップこそが重要な「仕事」なのだ。

僕の会社では「社長杯」なるゴルフコンペが半年にいっぺん開催され、若手の僕は毎回幹事補佐を拝命した。

社長杯は約五十人で実施される。

幹事は、前回のコンペのブービー賞の社員が担当し、お客様や社内の参加希望者などへのご案内をする。

幹事補佐の仕事は、ゲストである取引先の方々の交通手段の調達・確認(時にはバスをチャーターする)。会社のメンバーたちより集めた参加費用から捻出したお金で、優勝、準優勝、ドラコン賞、ニアピン賞・・・ブービー賞などのささやかな賞品を用意。各方面への連絡も行う。平社員の僕が、唯一、取締役クラスに直接メールができる機会となる。

社長杯前日ともなると、実業務は何もせず、会社の許可をもらって、大っぴらに賞品の買い物に出掛け、一日中帰社しない。なんと言っても「社長杯」なのだから、その無事敢行以上に重要な業務は存在しない。ゴルフをやらない社員からは、「マツウラはいいよな。仕事しないで買い物三昧で」と羨望の眼差しを向ける者もいたが、憐憫の目を向ける者はもっと多かった。

ゴルフは一組最大四名である。アウトコースとインコースという、スタートを二分割したとしても、片側は六組となる。ゴルフ場は、一組六分おき、でスタートを計算するので、最初の組と最後の組は、単純計算で約四〇分離れることになる。もちろん社長杯の参加者はプロではないので、もっと時間がかかり、結果、一時間近く離れてしまう。

最初の組のメンバーは、ゆっくりとゴルフ場備え付けの温泉に入っても、最後の組が温泉から上がってくるまでビールを飲めないマナーである。しかしながら最初の組というのは、当然始球式を行う社長や副社長を含む超重要顧客の組なので、待たせるわけにはいかず、「0次回を始めちゃいましょう」、などと仕切らねばならず、色々と腐心する点がある。幹事補佐もなかなか辛い。

僕のいた会社は中堅規模のITソリューションベンダーだったが、取引先は、誰もが名前を聞いたら知っている企業ばかりであった。ある回の社長杯の前日、外資系大手IT総合ベンダーのゲストの方から電話が僕に入り、

「マツウラさん。ノベルティの件なんですが、ウェッジセット一式でいいですかね?」

と尋ねられた。

ゴルフをしない人に説明すると、ウェッジセットというのは、ゴルフクラブの中で、一ホールの中盤から後半に使用する短めのクラブである。バンカーに入ったときの「サンドウェッジ」と言えば聞いたことがあるだろうかそしてノベルティというのは、参加がてら協賛するために、我が社に進呈するもの、という意味である。その額は軽く十万円を超える。僕は度肝を抜かれた。

「いえいえいえいえ!弊社の社長杯は、社長杯と申しましても優勝者の商品がゴルフボール半ダースというものでして・・・そんな滅相も無い!」

なるほど外資系企業というのは、こういう所でも経費を惜しみなく使うものなのだと、半ば驚いた。そう言えば、この企業に就職したダンスサークルの後輩は、初任給が日本のそれと比較して全然違うというようなことを言っていた。しかしながら、「外資」の文化というのは国内企業と比しても随分と違うものだなと感じたものだ。

こんなやりとりをして、買い物をし終わり、梱包して「優勝」などのシール(悲しいが半ダースのボールが優勝賞品だ)を貼り、ほぼ徹夜で、社長を車で迎えにいく。社長の家は、逗子にあったのだが、万が一にも、僕が死んでも社長に何かあっては困るので、迎えにいく時は超高速、同車中は超慎重、と使い分けた。本番当日は、一三〇というような、ゴルフとは呼べないとんでもないスコアを叩き出して、また社長を送り届ける。サラリーマンとはこういうものだ。

僕は持っているゴルフセットを、毎週日曜日、サザエさんが終わると持ち出し、人の殆どいない夜遅くに練習場に行く。翌朝には、部長に営業報告でこっぴどく叱られることがわかりきっているからだ。唯一、会社のお偉方に存在を認めてもらえるゴルフコンペの幹事補佐のことなどを考えながら、ひたすらドライバーを打ち込む。多い時は三〇〇球以上も打って、打って打って嫌なことを忘れる。でも月曜日の朝はやってくる。先週の引合は・・・ゼロだ。打つべし!打つべし・・。今年度の予算・・・。打つべし!打つべし・・・。鬱べし?


団塊ジュニア・就職氷河期世代が、少しばかり会社に慣れたこの頃、インターネットの世界の流行と言えば、「2ちゃんねる」「2ショットチャット」「テキスト系サイト」であろうか。

「2ちゃんねる」は、色々変遷もあり、現在は「5ちゃんねる」と称しているが、インターネット最大の掲示板だ。「『ハッキング』から『今晩のおかず』まで」と、トップページにある、なんでも掲示板である。

中でも「VIP」と呼ばれる掲示板には、コアなネットユーザーが集まり、本人たち的には楽しい掲示板を作り上げていった。話題のアニメの視聴後の感想や考察、学歴に関する煽り合い、地震の速報、芸能人の結婚・離婚ニュース等々。

僕のとても好きなエピソードがある。

二〇〇一年、2ちゃんねるは、生まれては消えていく掲示板(「スレッド」という)の転送量がピークに達し、広告掲載料程度では、運営をまかないきれなくなっていた。元来、運営しているサイドも、ここまで自身が運営している掲示板が巨大になるとは考えもつかず、ある日突然「みんなはさーん」宣言をすることになった。

「『ハッキング』から『今晩のおかず』まで」が標語になっている通り、コンピュータ(この頃から、「コンピューター」は『コンピュータ』、「データー」は『データ』と、末尾の長音を省いて呼ばれるようになった)に詳しいネットユーザーもいる。その人たちの住処は、「UNIX板」。

UNIX板の有志が、

「とりあえずコード読んでみます」

と、2ちゃんねるの転送プログラムを読み解き始めた。今晩中に改修しないと、2ちゃんねるを構成していた膨大な数の掲示板は、消えてなくなる。いや、すでに消滅し始めていた。

有志のプログラマーたちは、自分たちの持っているスキルを、「無償」で、自分たちを楽しませてくれていた掲示板の存続につぎ込んだ。普段は、音も立てず、誰からも注目されることのない、UNIXに関しての話題を細々と展開している板の住人である。

そして彼らの叡智を集めた結果、そしてプログラマーではない人達の冷やかし半分の煽り(「荒らし」という)は、2ちゃんねる運営陣が総力を挙げて追い出し、応援も、データ量を圧迫するため減らし、皆は見守った。

結果として掲示板の転送に関して、圧縮サイズが当初の十六分の一になり、対処療法どころか、圧倒的な機能向上を遂げ、2ちゃんねるは存続した、というものだ。

真実はどうなのか、リアルタイムで見ていたわけではない僕にはわからない。ただ、普段、技術者たちを相手に、営業の仕事をしている身からすると、決して恵まれた環境とは言えない技術者―報酬は高くないのに、無茶だけは押し付けられる―たちが、無償の精神で一つのコンテンツ・・・文化といっても過言ではないものを守り、そしてそれを進化させたという話が好きで、僕はこのITという業界に携わっていると言っても過言ではない。

2ちゃんねるには、たくさんの警察がいる。「役不足警察」「姑息警察」「確信犯警察」・・・人々はそれを読んで、誤用を正し、適切な日本語を認識する。

物事には、それに精通している人が必ずいて、そういう人たちが、自分の「住処」を2ちゃんねる内で得て、そこで適切なコメントを書き込む。例えば僕が全く分からない分野、自衛隊の軍備などのニュースが掲示板として立つと、重火器に詳しい人がわらわらと集まって解説してくれる。

かつて、塾の講師のバイトをしていたときに、僕は授業中に雑学を披露し、授業への興味を高めようとしていた。

例えば、国語の授業で、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥を覚えさせた際には、

「ところでみなさん、北東の方角を『鬼門』と言いますが、鬼は『うしとら』の方角にいます。だから、鬼は、牛の角を生やし、虎皮のパンツを履いているんですね」

インターネットが浸透する前の世界では、こういう雑学が本で出版され、限られた人の知識だったが、2ちゃんねるを見ていると、自分の中途半端な知識が恥ずかしくなるくらいで、僕は雑学披露をすることは止めた。

日本で進化したネット上の文化にアスキーアートと呼ばれるものがある。日本語は他国に比べ、使用する文字の種類が、ひらがな・カタカナ、漢字、アルファベット、記号と多い。その文字群を使用して何かしらのイラストを表現することを、アスキーアートと呼び、AAと省略される。2ちゃんねるなどでは、かわいいネコのAAが多方面で使用される。

AAをもっと短くした、ネットスラングというものがある。例えば、当時の英語圏では、ネット上で笑うことを「エルオーエル」と、アルファベット小文字で記載した。「laughing out loud」の先頭の文字をつなげたものだ。

日本では、古くから雑誌の対談などに、「なごやかに話が進んでいますよ」という意味で、「(笑)」をつけることが文化としてあった。それが2ちゃんねるなどのネット黎明期には、わざと「(藁)」となり、そのうち括弧もなくなり「藁」、更に、ローマ字入力で最も速く入力ができるように、「w」と変化していった。

大変な失笑(失笑という言葉も、本来の日本語では違う意味なのだが)をする際には、「w」を連続して打ち込む。それが庭に生えている芝のように見えることから、「w」はまた転身して「草」になった。ニコニコ動画では、良いリアクションをした実況主に対しての賛辞の一つとなり、後にたくさん生まれる動画配信サイトでも「草」は一つの表現として、「草草草草」と、笑いを称するのに使用された。「草々」という日本古来の手紙の結語と似て非なるものである。

「2ショットチャット」は、それまでのパソコン通信が発展して、出会い系につながったようなもので、まだまだ画像などは送受信できないが、テキストのみで、出会い系を楽しむものである。現代では、「LINE」や「ディスコード」などのアプリケーションでお馴染みだが、この時代は、テキストのみで、恋人もどきを探すチャットサイトが、雨後の筍のようにたくさんあり、僕も毎日夜中に、待機所と呼ばれるサイトで誰かが入室してくれるのを待っていた。

アクセスしてくれる人の多くは「ネカマ」と呼ばれる、男性が女性のフリをして、チャット先の僕をからかう人で、だんだんセクシーな話になっていって有頂天になっている所に、「じゃーん!実は僕は男でーす」というような人ばかりだった。

また、実際に男性か女性かわからないが、詐欺のようなものもあり、僕は一度、詐欺にひっかかり、二〇万円ほどを支払わなくてはならなかったこともある。

「テキストサイト」は、極々単純なテキスト(文字)のみで、内容一本でコンテンツを作り上げる。

ある日会社のメールに、URLだけ貼り付けた本文が届き、開いてみると中国のロボットを面白おかしく紹介したテキストサイトだった。業務中に開いてはいけないくらい、笑いを誘った。テキストサイトを初めて認識した瞬間だ。

そこから数珠つなぎに、リンクを辿り、次々と新しいお気に入りを見つけては、その人たちの才能に惚れていった。

僕も、こんなことをしたい。

凝ったサイトは作れないが、その頃、一般人にとってのインターネットの黎明期には、簡単にホームページを作れるツールがたくさんあった。通常は、自分でレンタル契約を結ばねばならないウェブサーバーも、Yahoo!が無料で提供していた。僕は、最初は日記を書き込むような作り方で投稿を始め、学生時代の男友達に対して公開していった。就職氷河期の世代でも、IT企業に勤めている友人は多く、ホームページの作り方について、イチから教えてくれる人もいた。

サイト、所謂ホームページというものは、HTMLという言語で書かれたものを、サーバーが読み取って、文章や表、絵などを表記する。

僕は全く知らなかったが、 WindowsPCに備え付けの「メモ帳」にテキストを書き込み、例えば改行したかったら、行の末尾に『〈br〉』と記載する。言ってみれば、プログラムの簡易版とでも呼ぼうか。色んな表現を、HTMLですることが出来た。

現代の企業のホームページのように、キレイでキャッチーな動きのあるページなどを作る必要はなく、文字だけだ。僕のサイトも、ほとんどテキスト(文字のことをITの世界ではテキストと呼ぶ)を弄るだけのものだった。

適宜改行を入れ、改行後は文字の大きさ(フォントサイズ)を大きくして強調したり、わざと文字に取り消し線を入れて、本来はその言葉を書きたかったけど、色々事情があるので消しています、的な本意を伝えたりする。

僕は、自分が経験したバカ話を、テキストを弄くりながら投稿していった。一部の友人にしか公開していなかったが、ホームページというものは、建前上は全世界に公開されているものだ。本当に少しずつではあるものの、読者も増えて行き、見知らぬ出版社の編集の担当者から、「書籍化しませんか?」と申し出を受けたりもした。尤も、これにはオチがあって「自費出版して売れたら版権は譲ってもらいます」というとんでもない詐欺まがいの商法だった。

テキストサイトばかりノミネートしているランキングサイトでも、一〇〇位以内に入るようになった。エンターテイメント業界に就職した先輩から、トップページ用のとても綺麗なイラストももらった。仕事で描いてもらったら、数百万の代物だ。

時代はISDN―ダイヤルアップ接続―の時代だった。それを打破するかのように、Yahoo!が「パラソル部隊」という、ADSLモデムを配り始めたのもこの時代だった。ADSLは、やがて光回線に取って代わられるのであるが、約二〇年間、市井の人間に愛され、インターネットの「常時接続」という文化を支えた。

今でこそ、例えばスマートフォンでテザリングできるなど、インターネット環境は潤沢に提供されている。世の営業マンは、ポケットWi−Fiを常に持ち歩いているし、電車や地下鉄、コーヒースタンド、ビジネスホテルなどでは、無料Wi−Fiが至るところにあり、PCやスマートフォンで動画を見ることができるなど、安心感にことかかない。

僕がテキストサイトを書いていた頃は、家はISDNで、通話料が随分かかってしまったし、ISDNに繋いでいる間は電話が使えないなどの弊害もあった。

その頃から存在するネットゲームなどは、毎晩二十三時から始まる「かけホーダイ」タイム―いくら通話(ネットワークに接続)しても定額で使えるという、当時としては画期的だったサービスタイム―に集中していた。引っ越しとともに、ADSLをアパートに引き、快適な生活が送れるようになった。とはいえネットワークは、画像などを簡単に処理できるような性能がまだ追いついておらず、僕のいた会社も、IT関連企業なのにも関わらず、毎日昼の十二時になると、Yahoo!Japanのサイトが重くて繋がらないという事態になっていた。

テキストサイトの作成は、仕事でも思わぬところで役に立った。営業マンは、相手が解決したい(ソリューションしたい)イメージを、紙芝居でプレゼンするのであるが、そのためにはHTMLの知識が必須だったのだ。

僕は先輩たちのプレゼンに合わせて、紙芝居を作り、一方では電話架け(「架電」と呼んでいた)をして、企業の情報システム担当者にアポイントを取っては、会社説明に行き、「引合」と呼ばれる顧客予備軍を発掘していた。

毎週日曜の夜に、やけっぱちな気分で、ゴルフ練習場で打ち込みを行っていることから分かる通り、新規営業はとても難しく、しかしながら年間で十億円の受注を受けなければ、査定に響く。ようやく一本、受注できたが、半ば偶然だった。電話に早く出た僕が担当になっただけであった。

その、最初に受注したプロジェクトの予算は、一億円だった。ITプロジェクトは、受注が決まるまで、プレゼンを繰り返す。テレビドラマのように、一回のプレゼンで受注が決まるなんてことは滅多にない。プレゼンの度に、顧客の要望という「宿題」を持ち帰り、技術者たちが揃う「開発」部門に原価見積を作ってもらい、そこに営業利益として二五%を乗せて、つまり原価見積を0.75で割り戻して顧客に提出する。

会計に疎い営業マンが電卓を叩くと、原価見積を1.25倍したりする間違いを犯す。小中学校で何を学んできたのだという人は、世の中で存外多いものだ。もちろん、僕もその一人であった。

顧客側の情報システム部門は、要望の度に増加していく予算をいかに抑えるかが業務の一つとなっており、提供するITベンダーとのせめぎあいでは、怒号が飛び交う場面も見受けられる。

ITプロジェクトは、大きく分けて、「要件定義」「基本設計」「詳細設計」「プログラミング」「単体テスト」「結合テスト」「総合テスト」「ユーザー受け入れテスト」という段階を踏む。滝のように上から下まで流れるので、「ウォーターフォールモデル」という開発手段だ。

要件定義では、顧客側が要望をまとめ、ITベンダーがそれを実現可能な技術を以って解決方法をまとめる。この段階で出ていない要望を追加する場合は、「要件変更」とされ、ボタンひとつ追加することも、別途見積となる。

しかし、顧客側が求めることを、細大漏らさずリスト化できることは稀である。また、顧客たちにとっては暗黙の了解とされている当然の業務部分(それはITベンダー側からすると、聞いたこともない仕組みだったりする)もあり、齟齬が発生する。要件定義が終わると「仕様凍結」とされ、その後のシステム変更は、運用でまかなってもらうのが普通である。それを「運用回避」と呼ぶ。実際にシステムを使う現場で、例えばシステムが計算した結果(ここまでが要件の範囲)を、Excelにデータをエクスポート(出力)して、更にピボットテーブルを走らせて帳票を作るというように、本来は機械が全て計算してくれれば楽なのだが、そこまでの予算がないという都合によって、オペレーションで対応してもらうのだ。

どうしてもシステム要件を変更したければ、別途予算を組まなくてはならない。そのため、「ステップ開発」と呼ばれるような、第一段階では顧客が要望する基本的な機能を実装し、第二段階で不足機能を補うという開発手法が採用される。

ITベンダーは各ベンダーによって、得意分野が異なっており、僕が受注した案件は、顧客が扱う製品のウェブでの受発注システムの他、会計システムも導入したいという、大きく二つのシステムを開発するものであった。

受発注システムに関しては、僕がいた会社は得意であったが、会計システムは、それほど得意ではなかった。よって、親会社が同一の、会計システムの得意なITベンダーとアライアンス(協業)を組んで、マルチベンダー(複数のITベンダー)で、同時並行で開発を行うソリューションを提案した。

会計システムは、パッケージとして、根幹のシステムが既存のものとしてあり、そのソフトに対して、顧客の業務に必要な機能を、追加でカスタマイズするという手法を取る。

日本では、業務ソフトは、スクラッチ開発という、一から作る手法が一般的だ。財務会計の分野は、ルールが決まっているので、それほどカスタマイズ費用はかからないが、管理会計の分野は、企業によって制定される帳票も異なるので、専用の開発を行わないと、用をなさない。会計システムベンダーは、パッケージの費用とカスタマイズの費用を見積もって、顧客に提出する。

一九九〇年代の後半に、ドイツから、ERPと呼ばれる、黒船がやってきた。企業の資源統合管理ソフトをERPと呼ぶのだが、画期的だったのは、「業務に合わせてシステムを構築するのではなく、システムに合わせて業務を再構築する」という点だ。

日本の企業は、企業ごとにシステムが異なる。特に何も考えず、スクラッチで開発することが前提となっていた。しかし、ドイツからやってきた黒船は、既に海外の大手各社の業務を網羅したパッケージを持っていて、その中からモジュール群という、部品をつなぎ合わせて、システムを構築する。システムの動きに合わせて、人は動くべし、とばかりに、それまで各社固有だったシステムを、根本的に変革しようとした。

日本は空前のERPブームになり、それは従業員一人ずつのライセンスを持つ契約となり、一ライセンスが一〇〇万円するものも出てきた。

日本人は、とても細かい「仕事」が重宝される文化だったので、システムに合わせて業務を寄せていくことに、抵抗がある企業も多かった。しかし、それ以上にERPのブームに乗り遅れてはならないと、企業もベンダー側もこぞって色々なERPの代理店になった。


ITベンダーの見積方法はこうだ。画面やソースコード(プログラムの素)、テストをするのに、経験法に基づいて「何人月」かかるかを見積もる。

例えば、そのプロジェクトに取り組む開発要員が、月に一〇人、開発期間が一〇ヶ月としよう。そうすると、単純工数で一〇人×一〇ヶ月=一〇〇人月となる。

人件費の基準をおよそ一〇〇万円/人月と置く。人ひとりが一ヶ月、約一四〇時間から一六〇時間働くのに、その程度かかるという見積だ。

もちろん、管理職などはもっと単価が高く、テスト要員のような単純作業者は単価が安い。まあ均せば一〇〇万円と言ったところだ。一〇〇万円×一〇〇人月。これで簡単に一億に到達してしまう。

そこに、途中で急激な変更や技術的な問題が発生した場合の、コンティンジェンシープラン(不確実性や不慮の事故への対応)の費用を、全体の数%から数十%、計上しておく。そうして出来た「開発見積」に、先述した通り営業コストを二五%プラスして、最終見積になる。機械ハードウェア見積は、五%の利益を取る。

ITベンダーの開発側は、顧客側が出せる予算が一億円ならば、原価としては七千万程度に抑えないと、赤字となる。

一方で営業は案件を獲得してくることが仕事であるため、最初から顧客の予算を知っていて、それ以内に抑えろという「無茶振り」をしてくる。開発と営業は常に戦いだ。

マルチベンダーともなれば、各ITベンダーの思惑が入り乱れ、管理コストも跳ね上がる。一億という金額は、とても多いように見えるが、世の中には東京スカイツリーが何本も建つような、莫大な予算を投入するプロジェクトも多く存在し、大規模プロジェクトともなると同時に何百人も、そして何年間も稼働して実装を図るものもある。

開発側が見通せるのは、大きくはプログラム開発の工数―つまりソフトウェア見積―である。そのシステムが世に出た際に、一体どの程度のアクセスがあるのか、一度にログインされる人数は何人くらいなのか、その顧客の持っている在庫の分量の引当はどうするべきか、などは、営業が提案する段階ではわからない。そこで、たいていのITベンダーは、要件定義の後、設計に入る前に最終見積を提出するのだが、その最終見積に「ハードウェアは別途見積」と記載する。ハードウェア―つまり機械―まで開発見積に入れてしまっては、性能が上がる度に見積をし直しになってしまう。顧客が予算は一億と言ったら、普通一億しか出してもらえない。顧客だってシステム投資額をぼんやり決めているわけではない。

僕の初めての顧客は、工業機械を販売しているオーナー企業で、発注の渉外にも、オーナーの息子である「経営企画室長」が若き決裁権者として参加していた。

彼は、プロジェクトが始まり、毎週の報告を聞いて、当初の想定より開発費が上がりそうなことに激怒し、毎日のように部下を使って、僕に電話をさせ、無理を通そうとした。そんなさなか、大方の要件が決まって、ハードウェアのサイジング(どの程度のスペックが必要なのか、そしてそのスペックを満たすハードウェアはいくらくらいなのか)を、営業の慣例に従って、松・竹・梅プランとして三通り提示した。

松プランは、顧客の売上動向から見た同時ログインの最大値を鑑みた最大のスペックで、三千万程度。竹プランが、一番営業としては勧めたいプランで、千五〇〇万程度。梅プランが、どうにか普段の受発注システムは動くが、年度末の会計システムを動かすには少々難がある七〇〇万程度。

三種の見積を見た経営企画室長は、「ハードウェアは別と見積書に書いてありましたが、差が開きすぎですよね」とだけ言葉を発し、部屋を出ていってしまった。

このあたりが、ITシステムを扱う側と作る側の、最も齟齬が出る部分だ。一般の経営者にとって、一億という数字はとても大きい。しかしながらシステムを作る側からすると、先述した通り、一〇人という小さなチームで一〇ヶ月かけてソフトウェアを開発したら、それだけで原価一億なのだ。いくら予算が一億と言えど、ハードウェア、つまりサーバーと呼ばれる性能の高いコンピュータやら通信機器やら運用保守費やらを含んでいたら、ホームページ程度の果実しか作れない。

きっと経営企画室長は、とても苦労して役員会議を通過させたのであろう一億を投資するのだから、外から見ても中から見てもピカピカのシステムが、綺麗なコンピュータ群とともに並んで出てくるものと思っていたのだろう。近々の開発報告(進捗会議―多くのプロジェクトでは週に一回行われる―)では、要件を凍結したにもかかわらず、追加のシステム装備の要望があまりにも多いので、予算が増加できないのであれば、要件定義をやり直し、工数削減のために機能を削ることを訴えているITベンダーにイライラしていた様子だった。そこに、営業が現れて、(顧客にとっては)とても高価なハードウェアの見積を提示したので、もはや言葉すら出なかったのであろう。

プロジェクトは、中断するわけにはいかない。契約を交わしてしまったからには、本年度の会計をまとめる年度末までに、カットオーバー(システムのサービスイン)をしなくてはならない。しかし、決裁権者である経営企画室長が怒ってしまったため、判断を頂きたいこともスタックしてしまった。

自社だけで開発しているのであれば、まだ救いはある。しかし、今回のプロジェクトはマルチベンダーだ。いくら親会社が同じグループ企業とは言え、会計システムを開発する側としては、プロジェクトの決裁権者とのコミュニケーションにスタックが起きるという、ある種のコンフリクトが発生したことに困窮し、

「マツウラさん、うちだって赤字覚悟で人員投入しまくってるんですよ。どうしてくれるんですか」

と、責めの電話を毎日のように入れてきた。

部長は、僕がプロジェクトを仕切れるほど、狡猾ではないことは承知していて、毎週の営業会議では、

「マツウラのやっていることは開発の尻拭いばかりではないか。お前最近営業行為しているか」

と詰めてきて、もともと報告しにくい雰囲気を作ってしまっていたのに、更に最悪な空気が流れる展開にしてしまった。

少しだけ自己弁護すると、「ソリューション営業第1部」で受注案件を持っているのは、電話を受けたのが偶然僕だったというラッキーはさておき、僕だけだった。そして、一番怒られるのも、僕だけだった。

入社時からとてもよく面倒を見てくれていた課長は、新規営業というものが、いかに難易度が高いかについて、独自のコミュニケーションルートで、社長や副社長と「握って」いた。

最初の一年に関しては、新規営業が受注できなくても、ある程度許容するという経営判断を裏側で持っていた。課長は、そのことが背景にあったからか、別業界からいきなりIT業界に入り、ラッキーとは言え受注した僕をかばってくれたが、ここに来て僕の悪い癖が出てしまう。

そう、僕は、人に「怒られる」ことから逃げ出す癖がある、未熟な人間なのだ。社会人としては致命的だ。

ある金曜の夕方、僕は部長の怒号、顧客のシステム担当者からのネチネチした電話、グループ企業の営業からの催促など、頭を悩ますことの分量が頂点に達し、会社が入っているビルの地下一階で、地べたに座っていた。

この一週間、殆ど夜は眠れていない。タバコを吸い、酒を飲みながらチャットをし、ネカマの相手をしながら夜を過ごした。自身がアップロードしているテキストサイトへのアクセスも全くしなくなり、当時のテキストサイトにはよく実装されていた「来訪者カウンター」だけが虚しく回転し、次の投稿を待つ人が、更新していないことを確認するだけでブラウザバックする、開店休業状態だった。2ちゃんねるを携帯で見ては、現実逃避をして朝を迎えると、義務感だけで会社に行っていた。

最初に異変に気づいたのは課長で、ソリューション営業第1部の若手や同期が、僕を探し始めた。地下は、念の為の仮眠室が一つ、その中にベッドが一台置いてあるのだが、総務部に鍵を借りないと入れないため、殆ど誰も来ない。その他にあるのは、配電盤などの設置された部屋だけだ。外出でもなし、会議でもなし、一体マツウラはどこに行ったのだと、一部で騒ぎになった。

ゴルフコンペの幹事補佐をやっていた影響で、僕のことを好意的にとらえてくれている人たちにも、マツウラの失踪情報が共有され、最後、定年間近のネットワーク部の部長さんが、「もしかして」ということで地下に降りて、僕を見つけた。

課長と、ネットワーク部の部長さんは、極めて丁寧に、腫れ物に触るように、僕を密閉した会議室に連れていき、話をするように導いてくれた。課長はある程度、状況を把握しているため、課長が先に話し、僕が口を開くのを二人はじっくり待ってくれた。

課長は、

「担当、代わるか」

と話してくれて、その顧客の営業担当を外そうと言ってくれた。

入社当初、元気に電話を取る僕は、周囲にも「活きがいいヤツ」と映っていたのに、今は言葉も閊えるようになり、見ていられないと。昔のマツウラに戻って欲しいと、慰めてくれた。そして、僕の荷物を持ってきて、

「今日はノーリターンだったことにしとけ」

と、夕方なのに家に帰してくれた。

もしかしたらこういうことは、社会人にはよく、誰にでもあるのかもしれない。そして、社会人は、そういう困難な時期でも、何らかの方法でその状態を脱出し、克服しているのかもしれない。

しかし、僕にはできなかった。ノーリターンということにしてもらって帰宅しても、相談することのできる相手も、愚痴をこぼすという行為もできない。それは弱い人間のすることだ。僕自身の悩みなんて、普通の社会人だったらたいしたことなく乗り越えている。僕は弱い人間じゃない。僕は・・・強い・・・。

そうして迎えた月曜日の朝、僕は会社に連絡も入れず、無断欠勤をした。


課長の動きは早かった。僕はやるせなく、朝から家を出てフラフラしていた。すぐに実家に連絡が行き、母親と妹が僕の一人暮らしのアパートに着いていた。大家に鍵を開けさせ、パスワードをかけていなかった僕のPCを開け、ITソリューション会社の課長らしく、クッキーに保存された僕の履歴から、2ちゃんねるやらツーショットチャットやらメールやらを引っ掻き回し、僕の行き先を探した。「仕事に穴を空けた」。そのたった一つの出来事が、人生全てを崩壊させるかのようだった。

仕事を休む。これは僕の人生にはなかった。高校も大学もたくさん休んだ。いや、むしろ、行ってない日数の方が多かった。部活もサークルもたくさん休んだ。サッカー部やダンスサークルのみんなに、迷惑をかけまくった。

しかし、バイトと呼ばれるものは休まなかった。学生時代の最後のバイトは、塾の講師だったが、もし自分が行かないと、生徒は自習となってしまう。それは、結構高い塾費を払っている親側としたら、許せないことだろう。だから二日酔いでも、絶対に行った。

そんな僕が、部長が怒られるから、という理由で、無断欠勤をした。社会人としてはあるまじき行為だ。思いつく限りの最低の選択である。

思い起こせば数年前、オーバードーズした際も、選択肢としては間違っていた。しかし、結果的には、死を意識したという事実に対して、周囲は責めの手を緩めた。もしかしたら、その時の記憶が、消えてしまえばなんとかなるというような、甘えを生んだのだろうか。また許して欲しいという、最後の意思の顕れが、無断欠勤からの失踪なのだろうか。

僕が街をふらついて、夕方家に帰ると、母親と妹が待っていた。どちらからも口を開けない空気が部屋中を支配していた。


第七章


それからは同じことの繰り返しだ。初めて、精神科に通い出した。睡眠導入薬も、軽いものから始めた。ベンゾジアゼピン系の古くから使われている薬は、即効性という意味では大変良く効いて、数週間休むと精神状態が回復する。なんとか復帰して、働いてみてはするものの、精神的な限界を迎えると、また連絡が途絶え、失踪する。

転職を重ね、世間的には、いいと呼ばれる企業に属してみるも、そこに勤められた有り難みなんてものを捨て、将来へのライフプランも考えず、最悪の展開を迎えてしまう。

親というものは、子供が小さい頃に無二の愛情を注ぎ込むが、それはやがて、報われなくてはならない。僕は、苦労を重ねた母親に、万分の一でも報いるように、お金を貯めたかった。女性の方が平均寿命は長いのだから、父が死んだ後には、せめて安息の日常を送れるようにしたかった。

しかし現実は、母親に迷惑をかけっぱなしだ。退職の手続きに母親が出向かなくてはならないほど、病んでしまうことが何回もあった。

そして呆れることに、逃げるというその行為によって救われるのも、また事実なのであった。

しばらく業務から離れて、睡眠のサイクルが安定すれば、脳もやる気を出す。復帰した際には、迷惑をかけた各方面にお詫びをする。その度に僕は、相手が頭の中で何を考えているのかを察しようと頭をフル回転して、それがまた不安定な状態にさせてしまう。世の中に「うつ」という言葉が出始めた頃だ。

二〇〇〇年代の初頭であったか、政府を挙げて「うつ」という病に対し、周囲の人間が気をつけること、などを中心に広がりを見せ、ようやくその言葉が「生まれた」と言ってもいい。

高校時代までの僕は、周囲からは「なにかへんなやつ」としか映らず、学校を休みがちなのも、よく保健室に行くのも、全て「自律神経失調」で片付けられていた。サッカー部の顧問は、保健体育の教師であったので、少しは人間の精神状態について知識があったのか、朝、高校の最寄りの駅から学校までの間、僕を見つけると、部活中は竹刀を持って厳しい指導をするにも関わらず、

「どうだ?最近の精神状態は」

と聞いてくれた。

顧問とそういうコミュニケーションを取っていたことは、サッカー部の人間には驚天動地だったようで、あの鬼顧問と休みがちなマツウラが雑談をしている、と不思議そうな目で見ていた。

父親は、典型的な昭和人間で、うつ病なんていう概念は頭になかったので、

「自律神経失調なんてのはなぁ!心の弱い人間がなるものなんだよ!」

と僕に怒鳴り散らし、僕もそう思い込んでいた。父親の部下だった人はかわいそうだ。

自分の状態に病名がつくとは思わなかった。緊張すると、胃や心臓が痛くなるので、多くの外科的検査を受けた。もっと早く、市井に「こころのクリニック」なるものがあって、自分の状態を伝えることができていれば、また変わった人生になったかも知れない。

その頃の僕は、睡眠が取れないことを解消するには、酒しかないと思っていた。実際、日本人の多くは、睡眠導入薬よりも寝酒を選ぶというデータが現代でも存在する。元来真面目な人種としては、精神科にかかるということに抵抗があるのだろう。

後に、十年の時間をかけて、自分に合う睡眠導入薬の処方に辿り着いたが、もうその頃には、立派なアルコール依存症となっていて、社会的に完全に復帰することは出来なかった。「睡眠」が人生で一番大切なものとなり、ふと訪れる睡魔を逃すと、次にいつ襲われるかわからないため、会社に行くことよりも優先して眠った。「徹夜状態」がもっとも忌避するものとなった。もはや、社会人として歩んで行けない思考を持つことになってしまった。

正社員の道を諦め、派遣社員として働くことにした。結果は最初から見えていた気がするが、止むを得なかった。


日本の派遣制度は、結構酷い。元来、通訳などの専門職を派遣する、というような名目で始まった一般派遣制度は、二〇〇〇年代になって、正規社員との差を生むことになる。

まず交通費。自腹の派遣が多い。よって、できるだけ自宅から遠く離れない場所で働きたい。しかしながら、登録している派遣会社によって、強い取引先があり、○○グループ系に強い、などと謳っている派遣元は、より強固な繋がり、つまり売上をくれる派遣の頭数を増やすために、本人たちが支払う交通費など殆ど気にせず、山手線圏内であればどこでも押し込んだ。

派遣先は、本来、面接などをしてはいけないのだが、やはりそこはリスクとなるので、人柄を知るために、「現場見学会」という名目で、事前に面接めいたものをする。一般派遣と請負の違いは、派遣先に指揮命令系統が存在するか否かだ。

難しい業務か簡単な業務かはあまり問われない。派遣社員を扱うということは、固定費を流動費に変えることであり、人員の調整も行いやすい。そもそも派遣は、「切りやすい」ことが、企業の経営陣からすれば魅力的なので、本来三年継続して勤務したら、正社員雇用を図らねばならないという法律上の決まりがあるにも関わらず、それを歓迎する向きは殆どない。

派遣先企業は、大体時給三〇〇〇円程度を、派遣元企業に払う。派遣元企業は、時給一二〇〇円〜一五〇〇円などという、中間マージン、いわば暴利を取って、非正規雇用者を雇う。街のあちこちに、コーヒーの安い喫茶店があるが、そこで携帯片手に仕事をしている営業マンの多くは、こういう「人材派遣企業」の営業だ。

派遣社員というのは、有給を取得する権利について、正規社員と同等に保証されているものだが、着任して、数日で休んでしまう人も多い。正規社員であれば、休んでも「有給」という形で、雇用は守られるし、僕のように自ら会社から失踪してしまう人を除けば、簡単に馘首することはできない。しかし、派遣社員に関しては、数ヶ月おきの「契約更新」と呼ばれる時期以外でも、派遣先の思惑によって簡単に交代させられてしまう。

残念なのは派遣社員の中でもカースト制度が存在し、先に同等の業務をこなして、覚えてしまっている人は、後から入ってくる新規の派遣社員に対し、しばしば高圧的な態度を取る。

どんなコミュニティでも、そのような事象は存在するが、新卒を迎える正規社員の企業人とは少し異なり、非正規雇用の派遣社員同士は「戦い」をしているような感じだ。まるで自分の仕事をこの子に教えてしまったら、私が交代させられる、とばかりに、簡単な業務でも、複雑そうに教えて、翌日になれば、「昨日教えたでしょう?」という態度を取る派遣社員も多い。

それにメンタルをやられてしまう新人は、初日でギブアップして、翌日以降出社せず、辞めていく。「体調不良」という魔法の言葉は、派遣先にはどうしようもなく、また、派遣元の営業マンも慣れたもので、どこかの担当企業にフォローの電話を入れている光景が、特に午前中のコーヒーショップではよく見られる。

ごく稀に、個人の事情で、派遣社員の道を選んだという、仕事のできる人は存在するが、たいていは、仕事に対する意識はそれほどでもない。大手派遣元企業では、一応のOfficeソフトのスキルは教えている様子だが、どの候補者の経歴書にも、「Excelはvlookup関数までできます」と記載されている。

そんな関数を実際に使う業務は少ないし、いざ本当に関数をたくさん使わなくてはならない仕事になった際には、忘れているのか当初からできていなかったのか、お手上げというのが現状だ。ちなみに、Excelの機能も日々進化しており、vlookup関数は、現在、xlookupk関数へと変わっている。

一般派遣とは別に、「特定派遣」と呼ばれる形態もかつては存在した。こちらの方が、問題は根深い。僕から見れば、酷いものだ。

特定派遣は、特定業務に限って、自社の社員を別の企業に派遣できる制度で、許認可制ではなく、届出制だった。今は、形式上は一般派遣に統一されたが、名残は残っている。特に僕の関わったIT業界には多大な影響を与えた。

雇用している側は、「パートナー企業から有能な人材を送ってもらっている」という軽い感覚である。IT企業は、普段の業務に関しては正社員の範囲でまかなうが、ひとたびプロジェクトが始まると、通常業務とプロジェクトの二足のわらじを履かなくてはならない。それでも、大規模プロジェクトとなると、集中した期間にたくさんの要員を注ぎ込まなくてはならないため、外部の、「パートナー企業」と便利に呼ばれる、形を変えた派遣社員を呼んで、体制を構える。

特定派遣の社員は、「登録」している派遣元ではなく、「雇用」されている派遣元から、時給ではなく、月額の給料を受け取り、交通費も出されることもある。社会保険に入っていることを謳っている企業も多いが、残業代などは出ないことが多い。

SESという業態が古くから確立しており、「システムエンジニアサービス」の略称である。プログラマーやテスター(テストをする人)と呼ばれる技術者を、大手企業の情報システム部に配属させるサービスでは、一般派遣以上に深刻な「中抜き」が行われている。

システムプロジェクトが始まると、そのプロジェクトで必要な人数が「山積み」という形で見積もられる。初期は少人数で企画を立案し、基本設計から詳細設計あたりで、大量の人数を投入し、テストフェーズには、単純作業ながら非常に多岐に渡るテストがあるのでまた要員が必要になり、最後のカットオーバー時には必要な要員が減っていくことから、グラフが「山」の形を描く。その山積みに基づいて、自社ではまかないきれない「手」の数と、「ノウハウ」の部分を外部から募集する。

企業の情報システム部は、人ひとりの単価を一〇〇万円/月と、おおよその予算取りでは算出するが、それが丸々、外部パートナー企業に渡るわけではない。求められる手の数や、問われるノウハウは随分高めなのに、予算取りした一〇〇万全てではなく、七〇万くらいにして、付き合いのあるパートナー企業Aに募集をかける。パートナー企業Aでは、自社内に、(かつての)特定派遣がこなせる人材がいないとみるや、パートナー企業Bに五〇万円で募集をかける。

企業のパワーバランスによって、このように中抜きが行われ、かつて建設業界でゼネコンの中抜きが横行した、四、五次請けのような酷い状態も、ITシステムの現場では常態化し、中間会社がその差分を利益とする。パートナー企業B(Cかもしれないし、Dかもしれない。どんどん深くなっていく)は、ようやく自社に技術者がいると、経歴書に「お化粧」という、企業Aに響くような、ちょっと盛った、捏造した経歴を記載し、企業Aに対して猛烈に営業をかける。企業Aは、その派遣社員を裏で面接して、もともと要員を募集していた、プロジェクトを行う企業に提出し、こちらも営業を激しくかける。そんなことを繰り返し、企業Bの社員である派遣社員には、三十万程度が手渡されるだけだ。

本来一〇〇万円かかる手数とスキルが求められているのに、末端の派遣は、三十万円で仕事をしている。しかも、派遣の契約時に、「月額固定」で契約してしまったら、派遣社員がどれだけ残業しても、残業代は出ない。技術者は、よく、不夜城で働いているものだが、元々の契約に「固定」と記載されていれば、パートナー企業Bが、いくら正社員として雇用しているとしても、残業代を支払ったら、逆ザヤ(本来の意味とは若干異なるのであるが)というが、働いている人材が、企業Bが受け取る対価より多く給与を受け取ってしまうからだ。

よって、そういうSESを展開している企業は、「残業時間想定四十五時間を含む月額固定給与」という、企業側が利するばかりの規定を設けて、被雇用者から間接的な搾取を行う。

技術者のことに関しては、「上」の人間ほど理解度が低い。言ってしまえば「使い捨て」となり、上層部、決裁権者は技術者がどのように日々苦労して過ごしているかなど気にしない。

僕は中途半端な派遣社員として、約三ヶ月で一企業というように、色んな企業を渡り歩いたが、現場で見る技術者は本当に大変そうだった。

技術者だって人間だ。時には倒れるものもあり、救急車が呼ばれることも、ITのシステムプロジェクトの現場ではよくあった。彼らは、昼休みには机に突っ伏して僅かな睡眠時間を、昼食を犠牲にしてまでも取る。

僕が最初に正社員として勤務したITソリューション企業で獲得した、一億円の案件も、カットオーバーの三月三十一日初日から、デバッグ(バグを修正すること)に取り掛かる徹夜明けの技術者たちに大変世話になった。頭が上がらないとはまさにこのことだ。尤も僕は、既に倒れていて、後任の先輩が語ったことではあるけれども。


僕の派遣人生は、大方が、「業務的には特に問題はないのだけれども勤怠が悪い」で契約打ち切りとなった。「派遣のレベル」としては、大丈夫らしい。暇な時間もある業務も多かったが、同等に残業が多い企業も多かった。ちょっと派遣先の正社員の人に注意されるだけで翌日休むという酷い勤怠は、即契約解除に繋がる。日本では、休むことは悪なのだ。

本当に軽い事務作業だけであれば、派遣社員を雇う企業は、定時内に終わる作業のみを与える。残業代など請求されても予算取りに面倒なだけだ。

しかし、当時で言う特定派遣のように、結構な対価を支払う場合は、いかにボロボロになるまで使い倒すのか、派遣先側は考える。初日から、終電で帰ることを余儀なくされるような派遣先も当然の如くあり、労働する人間が、如何に派遣元と四十五時間の残業協定を結んでいても、定時で帰れる雰囲気はない現場だらけだ。ひどい場合は、派遣で来た新人の歓迎会を二時間で終わらせて、そのまま会社に全員で戻り、歓迎された派遣社員を含めて業務を続ける派遣先もある。

もはや僕には何番目の配属先かわからないある派遣先がまさにそういう風土で、しょっちゅう派遣社員が入れ替わるものだから、歓迎会が万度あり、それは十九時から二十一時まで開催され、部長や課長レベルはそのまま二次会に行くのだが、残った若手社員は全員、酔っ払ったまま会社に戻っていた。大手企業は、労働組合の力も強く、働き方改革の流れが始まる遥か前から、自社のプロパー(正社員)の残業時間削減がテーマとなっていた。それは、社員を守ろうというよりは、管理職がその力量を試されるものであった。

残業時間削減のために、月に一人当たり八〇万円ほど出して、派遣社員を雇用するという、何かがおかしい世の中になっていた。配属された派遣社員はボロ雑巾のようになるまで使い倒された。

僕の一日の残業時間は、終電で帰っているため、平均して六時間であり、僕は所属する派遣元に対し、月間一二〇時間想定の残業は過労死レベルを遥かに超えていると強く訴えたが、いいように勤怠システムをいじられ、四十五時間くらいしか残業していないように扱われた。後から、そういうことはメモしていれば労基署に提示することに使えたのにと詳しい人に指摘され、後悔したものだった。

朝の八時半から働いて、終電までというのは、まるで一日で二日分働いているような感覚を覚えた。僕が一番弱い朝、二日分働くことを覚悟して出社するのはとてもキツかった。それなりの報酬があればまた異なる思いを抱いたものかもしれないが、僕への還元はなかったため、毎日定時で帰れる他のメンバーに嫉妬したものだった。

しかし、その頃は、妹が結婚を迎えようとしている時期であり、無職でお婿さんを迎えるわけにもいかなかった。マツウラ家として、そんなおかしな家族がいるというのは、マイナスではないかと考えたからだ。とは言え、所詮派遣社員。生涯かけても、年収は五〇〇万円を超えることはないだろう。

所謂「二極化」は、ずっと叫ばれていた。同じような労働時間であっても、例えば外資系の金融や証券などは、雇用者への還元が充実していて、そういう企業に勤めた大学の同期たちは、就職氷河期であろうとも、一年目で既に副業としてコンビニのFCを経営したり、賃貸マンション経営をしたりしていた。投資、僕には縁のない言葉だ。

一方で、氷河期に本当に氷河に巻き込まれてしまった人は、内定した企業が倒産したり、内定取り消しになったり、処遇が酷かったので自主的に辞めたりと、散々な人生を迎えることとなった。

そして二〇〇八年には、リーマンショックが発生し、僕の大学同期もふたりほど、いきなり解雇された。二〇一一年には、東日本大震災が発生し、二〇二〇年代初頭には世界的に感染症が流行した。かつて強かった円は信じられないような円安を迎え、輸出業は好調だったが、一般の人への恩恵は少なかった。将来の日本の人口は三割程度減少する見込みになった。

僕は高校時代に、保健室にちょくちょく出入りしては、親の世代の介護などの問題を思うと、将来が案じられて眠れないと、保健の先生に愚痴をたれたものだ。超高齢化社会を迎え、スーパーマーケットのセルフレジが使えない、コンビニのレジでもたつく、本当にそんな世界になってしまった。

勝ち組と負け組ははっきり二極化し、才能のある者、努力を厭わない者は富み、精神の弱い者、努力をしない者は貧した。そしてその差は、どんどん開いていった。

僕は長いこと、地デジ対応のテレビと、HDDレコーダーを買うことすらできなかった。通販を使って分割で買おうにも、そもそも審査に通らなかった。いつまでもVHSビデオテープで番組を録画していたが、土日に消化するのも面倒になってきて、テレビをあまり見なくなった。

酒を飲みに行くことももったいなくなり、缶のアルコールを買って家で飲むようにした。

PCは、現代では必須と言えるが、かつて泥棒に入られたときに、火災保険から支払われた保険金で購入したスペックの低いPCをいつまでも使っていた。Windowsは98セカンドエディションだった。ITソリューションの営業畑で、本来は世の中のITガジェットの流行り廃りは知っておく必要があるのに、その方面は滅法弱く、顧客にも指摘された。時代はWindowsXPから7、そして10へと進化していた。

かつて、デザイン企業やクリエイターなどが好んで購入していると聞いていたアップルコンピュータは、iPhoneが3Gという機種から日本でじわじわ流行し始め、やがて発売日には長蛇の列ができるハードとして日本ではよく売れた。スティーブ・ジョブズが亡くなった時にはニュースになった。世界では、安いアンドロイドが主流のようだったが、日本ではiOSも善戦していた。特に子どもたちには、iPhoneが圧倒的に人気だったようだ。

「みんなが持っているから」は、いつの世も、子供からのおねだりとしての殺し文句であるが、僕が当時の社会を生きていたら、間違いなく高校生になるまではスマートフォンを買ってもらえなかっただろうし、買ってもらえたとしてもアンドロイドの安いやつだろう。サッカーボールが欲しいとねだったときも、一九七八年のワールドカップで使用されたモルテンタンゴというボールを、周囲の子どもたちがみんな買ってもらっていたのに対して、僕の父親は、小学生では使わない五号球の、しかもゴムで被われた廉価版を買ってきた。サッカー少年団で五号球は使われない。小学生は四号球なのだ。練習にボールを提供することすらできない僕は、なんとなく他の少年たちから疎外されていたように感じていた。

僕は、親になったならば、子供が欲しがるものに関しては、適切なものを買ってあげたいな、と思っていた。しかし、派遣の給与では、おもちゃを買ってあげるどころか、そもそも結婚もできない。少なくとも僕はそう思い込んだ。

外部から「パートナー」として派遣される人員は、時として配属されている企業の「正規社員」と、周囲から勘違いされることもある。実際は、ボーナスもないし、昇給も、現場に出ている限り見込めない、ただの派遣だ。派遣先のお偉方は、「一人一ヶ月一〇〇万円も出しているのだから」と、最大限利用しようとするが、手取りは・・・。

僕は、悔しくなるので、金に関わる知識を得ることからずっと逃げていた。年金、保険、貯金、住宅ローン、自動車ローン、税金。人生にはそういう複雑なことがつきものだし、自然と身についていくものかも知れない。しかし僕は違った。刹那的というか、人生を正しく送るということにあまり興味がなく、まさに、その日暮らしの典型であった。

いざと言うとき・・・という概念が人とずれていた。端的に言うと、いざとなったら、「自殺すればいい」と考えていた。だから保険などに出すお金も端から無いし、精神科に通っているから入れる保険もない。投資もしない。ギャンブルなんてもってのほかだ。貯金もせず、毎月使い切りであった。

母親はずっと警鐘を鳴らしていた。

「ひと月一万円でもいいから、貯金しなさい」

と。しかし、借金まみれの父親を見て育った僕は、貯金の重要性を全く身に着けず、母親の言うことに耳を貸さなかった。

住宅ローンは、巷で聞いたところによると、年収の五倍〜七倍くらいまでは、優良な借り手だと組めるらしいが、僕のような雇用形態の人間は相手にもされないらしい。もし、購入できたとしても、年収の五倍程度で住める場所は、勤務先が東京だと、通勤に相当かかる駅になる。そこで三十五年、ローンを払い続けるのは、計画すら立たなかった。

大阪出身の人と会話をしていたら、関西は通勤に一時間以上かける人は稀だという。商圏もそれほど広くないが、企業が多数ある地域も限定されているため、ベッドタウンもそれほど離れていないということだ。東京は、とにかく高い。山手線沿線に所在する企業に、三〇分で到着するような場所は、高すぎて僕には手が出ない。

IT関連で派遣される部署は、その企業の花形ではなく、どちらかというと日陰者だ。情報システム部門は、本社とは地理的に別の場所に置かれることが多い。それはBCP(予期せぬ事故が起きたときの事業継続計画)と呼ばれるものの一貫だ。

例えば本社が、お洒落なイメージのあるベイエリアにあるとしても、情報システム部門は、そこから数キロ、もしくは数十キロ離れた場所にある。万が一、大震災が起きても、津波などの影響が出ない場所であり、岩盤が強固な場所だ。本社機能が潰れてしまったときでも、システムそのものは動き続けることが必須とされる世の中なので、重要な機械やコンピュータ群は、大手であれば日本の東西に分けて置いている。それをデータセンターと呼ぶが、そのデータセンター内で情報システム部門が仕事をしている場合もある。

情報システム部門に訪問する来客も少なく、駅前にある必要もない。テレビで取材を受けるためだけに作られた、イメージアップに繋がるようなピカピカな施設は必要ない。つまり、情報システム部門だけは、ド田舎でもいいのだ。社員食堂もなく、そこで就業する正社員及び派遣は、コンビニ弁当ばかりで、健康的にも偏りが出る。

せっかく都心に住んでいても、かなり遠回りして、駅からバスに乗って情報システム部門に通うこともある。交通費も結構かかる。派遣社員には厳しい。

そんな暮らしをしているうちに、二十代という、ローンを組むのに適切な年代を通り過ぎてしまい、周囲の人間が、都心に高級なタワーマンションを購入し、「一軒目のローンは払い終わった」と雑談で話し、外車やレクサスを買っている中で、僕は細々と、ネットくらいしか楽しみのない人生を送っていた。

時折、精神を病んで長期休暇をひと月から二月ほど取る。精神科の医師から診断書を取れれば、過去三ヶ月の平均給与の六割が、傷病手当として保険組合から出る。企業に所属している者は、その六割の中から、社会保険―年金と健康保険料―の自己負担分を払わなくてはならない。負の連鎖で、毎月何としても払わなくてはならない家賃を除くと、残るのは数万円だ。

コンビニやスーパーに行くと、頑張って働いている人が羨ましく、また敬意を払うべき存在だと気付く。例えバイトでも、パートでも、決められた時間に来て、しっかりと仕事をこなし、日々を暮らしている。僕は、保険組合の傷病手当で暮らしている。社会にとってなんら必要のない存在に落ちていると、やるせなくなり、酒量が増えるばかりだ。

生活必需品が、携帯と酒と睡眠導入薬のみとなった。食事はできる限り減らす。医者は、適度な運動をしなさいと言うが、運動したらお腹が空く。できるだけ食費を減らすためには、じっとベッドにいることが一番いい。どれだけ使っても定額の光回線でネット上の人間となり、時間を潰した。雇用している派遣元の企業も、長期休暇が二回目、三回目となると、匙を投げ、僕はそれを汲み取って、辞める。


僕にとって長く勤められる企業に共通していることは、大きな声で威嚇するような管理者がいないということだ。きちんと最初から丁寧に扱ってくれれば、派遣としては及第点というレベルのことは仕事として返せる。そういう企業ならば、二十二時から会議が始まろうと、その会議が終わっても議事録係としては当日中に議事録を完成させなければいけなかろうと、僕は無理もできる。

反対に、怒号が飛び交う派遣先もある。社員が派遣に対し、必要なデータすら提示しないにも関わらず、明日までに分析して資料化しろと求めるような、話にならない企業も未だ存在する。そういうムードに満ちあふれている環境は、僕にとって恐怖でしかなく、いつの間にか失踪の準備が出来ている。

結婚なんてできるものではない。振り返れば、何人かの女性と、そんな気運はあったような気もする。僕を評価し、一緒に人生を歩んでもいいという態度を見せてくれた人もいた。

しかしながら、実質非正規雇用で、金もなく、精神的に病んでいる人間は、家庭など抱えてはいけない。父親を見ろ。学歴もあって、稼げる場所もあったのに、持って生まれた暴力的な性格が、様々に邪魔をして、家族を不幸のどん底に陥れたではないか。それでも、父親は生きていくということには、別に疑問を持っていなかった。方や僕は、生きていくということになんの執着もなく、その日暮らしをしている。そして年齢を重ね、もはや引き返せない所まで来てしまっている。責任は、僕が取るべきだ。他人を巻き込んではいけない。

やはり、非正規社員―派遣―の道は失敗だった。だが、そこからの復活などできないのが、現代の日本の縮図だ。

僕は日中働いたり、休んだりしながら、夜は殆ど、ネットで生活する。


第八章


ニコニコ動画は、始まりは、YouTubeの動画に、コメントを被せる所から始まった。右から左に流れていくコメントは、大きさを変えられたり、色を着けて目立ったりすることができた。多くの「コメント職人」と呼ばれるネットユーザーが、違法アップロードされた動画に、面白くなるようなコメントを書いては上書きされ、一つのヲタク文化を作り上げていった。

全盛時は月間五〇〇円の「有料プレミアム」への入会者が怒涛のようにおり、「ゲーム実況」という、その後の「Vtuber」へと繋がるアイドルもどきたちが生まれていった。

ゲーム実況のジャンルが生まれたのは、二〇〇七年くらいだったと思う。当初は、本来購入しなければ見ることができないゲーム画面を勝手にアップロードして、実況主の声を合わせ、リアクションを取りながら進めていく行為自体が、世間から「グレー」と捉えられ、そのことを指摘するコメントも多かった。

そのうち、「昔流行ったゲームならば」という、なし崩し的な雰囲気が定着し、少なくとも発売から五年以上経過したソフトなら「ゲームメーカーも宣伝になるのではないか」「プレイステーションや任天堂の機種でも、過去作品をネット経由で売り出しているし、販促になるのではないか」というような、勝手な根拠付けがされて、徐々に広がっていった。

コンテンツに関しては、こんな定説がある。

• 初期 :面白い人が面白いことを書く

• 中期 :面白くない人が面白いものを見に来る

• 終末期:面白くない人が面白くないものを書き始める

2ちゃんねるも、ニコニコ動画も、同じ展開だ。

初期は男性しかいなかったゲーム実況の世界にも、女性がポツポツと現れて、頭一つ抜け出す女性も増えてきた。そして、ゲーム実況のジャンルでデイリーランキング一位という女性も誕生した。

なるほど、どうせ仕事で疲れて帰ってくるのであれば、いくら面白いとは言えども、男性の声で癒やされるということはない。女性の声の方が楽しい。男性実況主には、女性のファンが多いように、女性実況主には、男性のファンが多い。

有名な実況主がたくさん出揃った時期が二〇〇八年頃だ。

世の流行りモノは、2ちゃんねるにて掲示板化される。僕は「動画板」にある「ニコニコ動画のゲーム女性実況主」スレッドを毎日、いや数時間おきにチェックし、新着の通知(「住人」と呼ばれる常駐している人たちが書き込んでくれる)を待ったものだ。

現在のように、タブレットで簡単に動画編集なんてできない時代だから、実況主は色々腐心していた。コンピュータ内にゲームを取り込む「キャプチャ」ソフトを買い、音楽と自分の声を合わせるために「ステレオミキサー」を準備し、そして記録された「ゲーム画像」と「実況の声」を合わせるため、Windowsに標準で付属していた動画編集ソフトを使った。

現代では、大手電気量販店に行けば、ゲーム実況のための一式を店員が選んで奨めてくれるくらい、その文化は定着しているが、当時は、電気製品に詳しい店員ですら、ゲーム実況の環境を作るのは難しかった。

ネット上では、ゲーム実況を始めるための情報が錯綜し、安かろう悪かろうの機器を掴まされる被害者も出たが、高画質高音質に向けて、皆手探りながら、努力を惜しまなかった。

種々の接続に関わる配線は、一般の人間は忌避するものだ。テレビとHDDレコーダーを繋ぐことすらできない人も多い。実況主の中で僕が大いに笑った人は、デジカメで直接テレビ画面を撮影するという猛者で、その人は、ゲーム画面の暗転中(ロード中)に、テレビ画面に自分自身が映り込んでしまうため、頭にパンダの被り物をして、マスクをすることで「身バレ」回避を図っていた。斬新すぎる発想に、視聴者―リスナーと呼ばれる―は湧いた。

実況の世界は、投稿スピードの勝負になって行った。前回投稿してからいかに早く、次回動画をアップロードできるかが、人気を保つための条件であった。

しかし、動画というものは、結構なデータ容量を持つ。二〇〇〇年代の後半でも、PCのHDD容量は、動画を数十本も保存しておくには少なすぎて、いや、動画が占有するデータ量が多すぎて、実況主は、編集した元データを即刻削除してHDD容量を空けておいた。人間、ヒューマンエラーはするもので、編集前のデータを間違って削除してしまうこともあり、その場合は、お絵かきソフトで一部を説明したりして、それがメタ的に笑いを誘ったりと、工夫して緊急事態に対処していた。

ゲームの選択はファイナルファンタジーやドラゴンクエストといった、「著名なRPG」、零やバイオハザードといった、「著名なホラーゲーム」あたりが、実況主も楽しくリアクションが取れるため、採用されやすかった。もちろん、有名人気実況主が片方にいるならば、後追いのフォロワーである、「底辺」実況主もどんどん増えていく。十年経過して、その後の「Vtuber」のゲーム実況主の殆どは、実はこのころ、ニコニコで覇権を握っていた一部の有名実況主が、そのまま「転生」したものである。

僕は一人の女性実況者―投稿当時十九歳―のファンになり、その子の百科事典を作りたいばかりに、百科事典の編集権限が与えられる、「プレミアム会員」に登録し、月額五百円の「課金」を始めた。

月額課金―サブスクリプション―はこの時代から市井に浸透していく。一つのサイトにお金を払って見続けるというのは、当時はなかなか浸透しないビジネスモデルだった。テレビのビジネス番組に、ニコニコ動画を運営する会社の社長が出たときは、ホスト役の小説家が、「私も月額課金は挑んでみたんですよ」と、でも失敗したことを含めて、話していた。

たしかに一時期、ニコニコ動画は、その月額課金の高いハードルを超え、社会にいくつもの影響を与えた。「課金」は月額に留まらず、ネット上のゲームにおいて、「ガチャ」と呼ばれるくじを引くために、大金をつぎ込むユーザーも多く出現した。金を積めば、早くゲーム内で強くなれる。「基本無料」の設定で遊んでいると、友達に置いていかれる。僕が子どもの頃のビックリマンシールみたいだ。子どもたちが、勝手にガチャで課金し、親のクレジットカードを使ってしまう社会問題が発生した。

僕の家は母親の教育方針で、流行りモノを一切買ってくれなかったので、この課金の文化も、僕はさらりと流すことができた。パソコンと無料ソフトの群があれば、たいていのエンターテイメントは楽しむことができる。カツカツの生活を送っている身としては、最新のゲーム機なんて買っていられない。そのためにも「ニコニコ動画の女性ゲーム実況」は、ゲーム画面を見ることができて、なおかつ自分でクリアする苦労がないので、大変役に立った。

僕が追いかけていた女性実況者―仮にハンドルネームを「シカ」としよう―は、RPGの王道、ファイナルファンタジー10を実況していた。稀代の作曲家、植松伸夫氏による、「ザナルカンドにて」は、オーケストラとしても全世界で演奏されるほど有名だ。泣けるゲームとして、実況界でも評価が高い。顛末も結末も知っているのに、実況に固定ファンが付くことで有名なゲームでもある。

「シカ』は絶妙な巧妙さでゲームを進めていった。舌っ足らずな声で、ツッコミどころ満載なボケをかまし、リアクションを取り、泣ける場面では思い切り泣いた。

シカを中心とするコミュニティが出来た。

オフ会という、オンラインの仲間が実際に会うことは、シカに関しては地理的関係から開催されなかった。しかし時代は進んでおり、プレイステーションの中で、コミュニティメンバーが電子的に、オンラインでマンションの一室に集まれる空間を作ることが出来て、シカのファンである管理人さんが月額いくらかを課金し、毎日仕事や学校から帰ると、みんなでそこに集まった。僕は無理してプレイステーション3を購入し、参加した。メンバーは下は高校生から、上は僕のようなサラリーマンまでいる。

その小さなコミュニティの中で僕は、シカの百科事典を編纂したということで、「百科事典氏」と呼ばれた。後に「ペディア」、縮められて「ペディ」と呼ばれるようになった。ゲームに関してはとても疎く、年下のコミュメンバーたちに色々教わりながら、当時流行していた、「デモンズソウル」や「モンスターハンター」を一から訓練した。

思い起こせば、ファミコンに代表される、ゲーム機を買ってくれない親の影響で、僕は学生時代に父親に追い出され、一人暮らしをするまで、ゲームに縁がなかった。学生時代の友人は、初代プレイステーションを僕が一人暮らしをしているアパートまで毎晩のように運び、「ウイニングイレブン」というサッカーゲームを楽しんだ。当時、日本では、一九九八年に日本代表が初出場した、FIFAワールドカップの影響で、サッカーの人気が高まり、ウイニングイレブンというソフトは破竹の勢いで売れていた。僕はどうしても、サッカーを実体験で十年やっていたおかげで、ゲーム内でシュートするときに、どうしても四角ボタンを強く長く押してしまい、ゲームの中でもクロスバーの上にボールを飛ばしてしまうということを繰り返して、友人にはえらいこと迷惑をかけて笑い合っていた。

その頃、初代プレイステーションは品切れになるほど売れていた。要因は「ファイナルファンタジー7」。わずか一つのゲームソフトが、社会現象となるようになって久しい(小学校の頃のドラゴンクエスト3発売騒動など)が、当時はその画期的なグラフィックに、それがただのポリゴンで、今から見れば古臭いものだとしても、当時の子どもから大人までがそれに熱狂したものである。

時代に中途半端にしかついていけない僕は、友人が大学四年生となり、就職活動をしている―僕は留年中―あいだ、その初代プレイステーションを借りて、ファイナルファンタジー7をプレイしたが、既にブームは過ぎており、色んな人から、ゲームの革新的な部分を「ネタバレ」された。他の友人からスーパーファミコンを無期限で借り受け、他のソフトもいくつか体験した。

「デモンズソウル」は、静かに売れていった名作ゲームである。昔爆発的に売れた「スーパーマリオブラザーズ」を3D化したものと言えるだろうか。所謂「死にゲー」と呼ばれ、不意打ち(「初見殺し」と呼ぶ)あり、落とし穴あり、しかしながら、一つひとつ丁寧にこなしていくと、何度も挑戦した上で、圧倒的な達成感を味わえる。

ゲーム下手な僕は、最初の面で、体感して(3Dのマップ上で)三〇〇メートルくらいを進むことに挫折して(これを「詰む」という)、シカのコミュニティのメンバーに何度も何度も攻略法を教わった。

「ペディさん、ターゲットロックオンしてます?」

「ターゲットロックオンてなんだ?」

「R3ボタンで、敵一体に狙いをつける方法です」

「よし、最初の曲がり角の階段登った」

「いや、これから先のことを考えると、ペディさんは「生まれ」を『神殿騎士』にすると楽かも」

「いやもうわかんない!みんなでいっぺんに喋らないで!」

という具合である。

この死にゲーは、経験値やお金にあたる、「ソウル」と呼ばれる、敵を倒す度にいくばくか増える通貨のようなものが、死んでしまうと、一回までは取り戻せるのだが、二回連続で死んでしまうともう拾えない。後に「ソウルライク」ゲームというジャンルが確立されていくが、今までの僕は、ファイナルファンタジーシリーズしか遊んだことがなく、時間をかけてレベルを上げて物理で相手を殴っていたので、なかなかレベル上げも出来ず、本当に苦労した。しかし、楽しいこともたくさんあったゲームだ。この頃には、複数人のシカコミュニティメンバーで、デモンズソウル内に集まり、対人戦という、一対一の戦いなどで遊んだ。

「モンスターハンター」は、子どもたちの間で社会現象になった。大きな恐竜のような生き物を、最大四人で討伐する「クエスト」をこなしていくゲームなのだが、モンスターを倒すごとに採取獲得できる「素材」で、より強い武器防具が作れる。また、その武器防具には、敵モンスターが得意とする特定の「属性」攻撃に強いもの、弱いものが存在し、次に狩りにいくモンスターに対して、強くなるために、別のモンスターを繰り返し倒して、素材を獲得する必要がある。その繰り返しによってゲームはどんどん盛り上がっていく。

僕が最初にシカのコミュニティメンバーと一緒に狩りに出かけたときには、コミュメンバーから一斉にツッコミが入った。

「ペディさんの装備・・・紙だよねw」

そう。僕は初期装備の、寒さにだけは強いマフモフシリーズという防具で臨んでいたのであった。「w」とチャット上で書くのは、敵意はないんだけどさ、的なショックアブソーバーである。皆で笑っていた。

しばらくの間は、モンスターハンターの上手い人三人に混ぜてもらって、素材を集めるということを繰り返した。ネットの世界ではその行為を「寄生ハンター」と呼ぶ。

寄生ハンターの中には、開始地点から全く動かず、仲間三人がモンスターを倒してもらうのを待って、素材の剥ぎ取りだけを行うものもいたそうだ。僕はシカのコミュニティの中では年長者に当たったので、さすがにそれはよくないと、できるだけ倒されないように(モンスターハンターの世界では、「乙る」と表現される)モンスターの周囲を慎重にグルグル回る寄生ハンターだった。


その頃、世の中にはツイッターが定着しつつあった。あくまでも噂レベルであるが、ツイッターの仕組みを作った人は、ブログのシステムを作った人と同じという話だ。

僕は、かつてのmixiや、ニコニコ動画でのコミュニティ活動などを振り返り、多くの人間とのコミュニケーション自体があまり得意ではなかったので、あまりフォローする人数を増やさず、一〇〇人のフォロー、フォロワーを迎えた時点で、もうそれ以上の拡張はせず、ちょこまか好き勝手に書き込んでいた。YouTubeに違法アップロードされていた洋楽のMVへのリンクを貼り付けては、「今、僕はこんな気分」と、誰に訴えるでもなくつぶやいた。

興味深かったのは、ニコニコ動画の女性実況主が、ツイッターに登録しにくかったという潮流だ。ツイッターは、元来一四〇文字で、現在の状況を「つぶやく」ツールであるが、使い方は様々で、様々な告知、今考えていること、ブログの更新お知らせ、動画投稿のお知らせなどを展開するものとして、一人の人間の日常生活のコアとなるようなツールになっていった。ニコニコ動画でゲーム実況主が跋扈していた頃、まことしやかな噂で、「実況主界が男女の出会いサイト化している」と、リスナーは半ば羨み、半ば諦めながら話していた。その反動か、男性実況主は気軽にツイッターを活用していたが、ひとたび女性実況者がツイッターアカウントを取得したことが公然と宣言されると、「つながってる」「やはり出会い目的」などと、リスナーが揶揄し、それは2ちゃんねるに書き込まれた。当時の僕はそんな潮流に笑っていた。ツイッター開設を公然と宣言していない女性実況者も、「裏アカ」と呼ばれる公表しないアカウントで、書き込むことを知っていたからだ。この「裏アカ」は、その当時の、現実界でのアイドルなども多用し、それがバレると芸能ニュースになるような、そんな扱いであったt.

ネット上で新しいツールが流行すると、大体そういう展開になる。

ニコニコ動画も、リスナーの多い有力者は、自身のコミュニティを広げ、新規で参加したい人たちを選別し、その仲間でオフ会を開催し、中には結婚まで発展する人もいる。

そして、初期にリスナーを多く獲得した一握りの人たちが、文化を定義し、発展させ、新しい波が入って来た頃にはそこを去り、新しいツールへと移行して、またそこで活躍するものであった。


Facebookは、それまで匿名が前提となっていたネット文化に、「本名登録」という新しい流れを定着させた。

年配の、軽くネットを嗜む程度のユーザーにとっては、画期的な同窓会ツールとなり、自分の通っていた学校やコミュニティなどをせっせと探して、友達を増やしていくことを競っていた。後の世の中で、明るく、人なつっこく、コミュニケーションを取ることが得意な人たちを「パリピ」と呼んだ(元は、パーティーピープルの略だ)ものだが、やはりネットのツールは、こういうパリピの人たちに支えられ、その反対の概念である「陰キャ」には隔靴掻痒な、SNS文化が広がった。ツイッター、Facebook、インスタグラム。僕も一時期は全てのサービスに登録し、一〇〇名ほどの友人を探したが、パリピたちの、パーティー報告(飲み会など)を毎日のように見るにつけ、真に人生を楽しんでいる人との乖離がだんだん息苦しくなり、書き込まなくなった。

それに加えて、僕は睡眠導入薬を飲んでいる。これがまた、生命には関係ない所で危険だ。睡眠導入薬、特にベンゾジアゼピン系の中には、「健忘」と呼ばれる、薬を飲んでから寝るまでの間、記憶をなくすことに作用がある。精神的に追い詰められると、更にまずい。例えば、朝、目が覚めると、枕元にファーストフードのチキンの残骸である骨が大量に散らばっていたりする。察するに、夜、薬を飲んだ後、きちんと着替え、駅前のファーストフード店に行き、チキンを4つ買って来て、平らげ、パジャマに着替えたのだろう。そういうことが頻発する。

そういう僕にとって、携帯は結構危険な機械となる。LINEなどで、記憶がないままに人と勝手に連絡している。LINEは電話番号で勝手に「友達」になってしまうので、相手にとっては、迷惑でしかない。数年ぶりとか十数年ぶりに連絡が来たかと思ったら、相手(僕)は「ねえ・・・いま、幸せ?」とか聞いてきたりするのだ。なんと返信していいかもわからないだろう。

医師からは、寝る直前に、床に就いてから薬を飲みなさいと指示されているが、床に就いてからも、携帯をいじり、眠気が来るのを待っている僕は、Facebookで、過去に関係のあった女性たちの本名を検索したりしている。多くの女性は、結婚し、子供の写真などを掲載しているが、「メッセンジャー」という機能で、個別に連絡が取れたりもする。危ない危ない。「構ってちゃん」モードで、もはや記憶にもない男から、いきなり連絡が来たら、処理に困ってしまうだろう。実際、幾度もそういうことをして、「危ない人」という烙印を押されつつある。昔好きだった人を検索して何になるのだ。

Facebookは止めよう。そう思ってアカウントを削除した。この時代のサービスは、簡単には抜けられないというのが定番となっていて、完全にアカウントを消すまでには苦労したが、なんとか、Facebook依存症から脱することができた。

最後に書いた文章は、年末だったので、それに因んだパスティーシュだった。

「今年は一体何をしていたの?」

まるで新聞のインクを煮つめたような味のコーヒーに、大雪山の雪のようなコーヒーミルクを落とし、古代エジプトの神官たちの儀式のようにとても丁寧にかき混ぜながら、彼女は僕に聞いた。

「特に何もしてないよ。とあるシステムプロジェクトのお手伝いさ。社会的には何の意味もない。僕がいなくても何も問題ないけど、誰かがやらなければならない仕事をしていただけだよ」

僕は壁にでも話しかけるように彼女に答えた。彼女の決して華やかとは言えない胸元が、呼吸によって大きく隆起するのが見えた。

「雪かき。社会的な雪かきね」

彼女はそう言うと、今度はコーヒーシュガーをスプーンに擦切り一杯正確に掬い取り、ビジネスクラスのスチュワーデスがするお辞儀のように、一定のテンポでスプーンを傾けながら、コーヒーに入れていった。

「雪かき。そうかも知れない。しかし残念なことに、その雪かきをしている人は五万人くらいいるんだよ」

「ねえあなた、そのしゃべり方って何かを意識しているの?」

「意識?そんなこと考えたこともない。僕はただ、自分のしゃべりたいようにしゃべっているだけだよ」

「そのしゃべり方嫌いじゃないわよ。ライ麦畑の主人公みたいで」

街角の喫茶店のスピーカーからは―それは恐らく戦時中から使っているかのような佇まいだった―古いオールディーズに変わって、サイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』がかかっていた。曲の切り替わり方が不自然すぎて、ふと、空から天女が降りてきて、地上を通り越して海に潜り、海人となって魚を採るためのモリを突き出したかのようだった。急に心が締め付けられる気分になった僕は、努めて冷静を装って彼女の方を向いた。

「色々あったかも知れないし、何もない一年だったかも知れない。どうぞ良いお年をお迎え下さい」

「あら、ここでやめちゃうわけ?せっかく春樹風に一年を振り返ろうとしたんじゃないの?」

彼女の咎め方は遠い日の夕方を思い出させるかのようにまた厳しかった。随分遠くに来てしまった、そう思いながら何も言えずにいる僕に、彼女はとびきりの笑顔を見せて、こう言った。

「あなたと、年越しそばを食べてみたいわ」

そうして僕らは西友に向かった。


今でこそ、ネットで、主にYouTubeにおいてサラリーマン以上の稼ぎを叩き出している人たちがいることが普通になったが、一般人にとってのインターネット黎明期には、ネットで稼ぐということは、視聴者の心理的にも、また、ネット側の仕組み的にも、難しいものだった。

テキストサイトが流行した頃の稼ぐ手段は、主に、そのサイト内に、通販サイトなどへのリンクを貼り付け、視聴者がリンク経由で買い物をした場合には、その通販サイトなどから、手数料が入るという「アフィリエイト」だ。

たくさんの視聴者が来訪してくれれば、関連するアイテムのリンクを踏んでくれる可能性は高まる。よって、視聴者数の多いサイトを作るか、複数のサイトを作ってちょこまか稼ぐか、という形だった。現代においても、同内容のブログなどが複数検索ヒットするのは、この影響だ。

僕もかつて作っていたテキスト系サイトで、足しげくアフィリエイト商品を変えながら、「お金でも入ったらいいなあ」程度の気持ちで作っていた。結果として、数百円は売り上げたかもしれないが、大手通販サイトの、ひと月における最低支払金額は五千円で、累計五千円を超過した月に初めて振り込まれるという仕組みだったため、一度も振り込まれたことがない。

小さい頃、こんなことを考えなかっただろうか。

「日本には、一億二千万人の人口がある。この人達全員から一円ずつ寄付を受けたら、一億円稼げることになるではないか」

この考え方は、インターネット黎明期に「投げ銭」という形で具現化した。しかしながら、日本人というのは、こういう、最近ぽっと出てきた(ように見える)インターネットで、お金を稼ぐような輩は「悪」だと言わんばかりに、その投げ銭リンクを付けているサイトを叩いた。

当時のウェブサイトには、コンテンツと並行して、感想や応援などを書き込める、BBSと呼ばれる掲示板を持つことが普通だった。そこがネチネチと攻撃されるのである。

その後、ネットの世界では、「情報商材」という波が訪れ、例えば「楽なダイエットの方法」のような、価値があったりなかったりする電子商材が、飛ぶように売れ、一部の成功者が富を獲得した。特徴は、「セールスメール」と呼ばれる長いホームページだ。成功した人は、通帳の画像などを掲載し、私の書いた情報商材を読めば、簡単に稼げて、所得が増えますよ、と宣伝する。そしてその商材を扱うサイトも雨後の竹の子のように増えていった。

新しもの好きの僕も、少しばかり稼がせてもらったが、身近には、数千万というレベルで稼いでいる人もいた。どうも僕は、なにかで成功することに縁がないようだ。

ニコニコ動画のゲーム実況主は、ニコニコ動画内には稼ぐ手段がなかった(後年は出来た)ため、個人個人がホームページを持ち、アフィリエイトでちょこまか稼いだ。とある人気女性実況主がそれを始めたときには、女性ということで、相当の荒らし行為があったのか、「アフィリエイトで稼いだお金はゲーム実況用の機材を買う費用のみに充てます」と書いてあった。ちなみにその女性は、大手通販サイトの「欲しい物リスト」に随分高価なものを登録し公開していたので、真意の程は定かではないが、他にも、銭ゲバと揶揄する向きは特に女性実況主を中心に多方面に及んでいた。

しかし、多くの集客がある人は、下地を作ったら、次は、稼ぐ行為に向くだろう。むしろ、稼いで当然だ、と僕は思っている。

社会人として、どこかの研修で学んだことだが、コトラーの競争地位戦略によれば、リーダー・チャレンジャー・フォロワー・ニッチャーという四分類があるが、あるコンテンツで、リーダーとなっている、開拓者に当たる人は、相応に報奨があって然るべきである。

それをただ追いかけて、美味しい部分だけを頂こうとするフォロワーは、やはり稼げない。現在のYouTubeライブなどでもそうだが、一生懸命市場を開拓してきたリーダーたちが、同時接続者が数万人を誇る中で、それなりに苦労はしているのかも知れないが。後追いのフォロワーたちは、大成功でも同時接続者数が数十人から数百人、ひどいと、一桁の人数しか閲覧していないという状況だ。当然、人数が集まらなくては、広告効果も低いので、YouTube側はお金を支払わない(これを「収益化」と呼ぶ)。

ゲーム実況という行為は、金のかかるものである。そもそもとして、ゲーム及びゲーム機を持っていなければ、実況なんて出来ないし、PCや、オーディオインターフェース、マイクや変換器など、必要な機材は多い。ニコニコ動画自体は、それほど高画質を求められるものではなかったが、時代が進めば当然高画質が求められるようになるし、並行して、ゲーム自体のfps(一秒あたりに動く画面のコマの数)も上がっていくので、PC側の処理負荷も厳しくなってくる。まさにいたちごっこだ。

そういうコンテンツに挑戦し、多数のリスナーを得たのであれば、報奨があっていい。そこをニコニコ動画は見誤った感が僕の個人的見解ではある。YouTubeが投げ銭と、広告掲載料を支払っていることもあり、また、高画質配信が可能であったことも相まって、ゲーム実況主たちはプラットフォームをニコニコ動画からYouTubeに変えていった。

一時期、ネットでは、違法ダウンロードにより、多数のソフトを本来買わなくてはできないゲーム実況を、金をかけずに行う者もいた。ゲームソフトそのものが、1と0からなるプログラムでてきている以上、ソフトの中身をISO化して、ネットにアップロードする人が出てきても仕方がない。

正直に暴露すると、僕も、ファミコンのエミュレーターをPCにインストールし、自分で買ったことのないゲームソフトを、某国のサーバーからダウンロードしたこともある。夢は一流実況主だ。しかし、ステレオミキサーという機材がないと、自分の声も調節できないことを知り、金がかかる趣味だなぁと、たった一日でやめた。

この世の中、違法ソフトや、違法な改造ツールなどを使うと、リスナーの中の誰かが必ず気付く。そういう行為が発見される度に、実行した人が有名であればあるほど、叩かれ方も酷い。まるで違法薬物使用が発覚したかのように、2ちゃんねるにスレッドが立つくらいに叩かれる。


YouTuberと呼ばれる職業が、世の中で生まれた。最初は、人の興味を惹きそうな、かつ過激な企画がもてはやされた。例えば、すごい高温まで焼き付けた鉄球を、チョコレートの山の上に置くと、どのように溶けていくか、なんていう感じの企画だ。

旅行系や鉄道知識系は一定の需要があり、チェンネルがいくつもある。北海道から鹿児島まで普通列車のみで行ったら、など、テレビでもなかなかできない企画を立てて、再生数を集める。料理もすごい数のチャンネルがある。ひと度アニメに出てきた料理をアップすれば、数十万再生という人もいる。

赤ちゃんとネコは、数字を持っている。

生まれたての赤ちゃんが、成長していく様子を、今はスマートフォンのカメラも、画質がいいので可愛く撮影できる。赤ちゃんとか誘拐されないのかなとはちらっと思うが、追いかけるファンも多い。

なんでもヤスリでピカピカにする職人がいて、ボロボロの錆びた包丁を復活させたり、十円玉を黄金のように削り上げたりする。動画を見ているだけで気持ちいい。

PCで動画を編集するなんて行為は、一部のデザイナーしか携わらなったのに、今では、PCのスペックの基準は、画像編集ソフトや動画編集ソフト、コーディングソフトが、いかに早く動くかという世界に変わっている。昔、iMacで、テロップ一つ入れてレンダリングするのに三〇分もかかったという時代からは隔世の念がある。

YouTuberは、多くの視聴者リスナーを集め、「チャンネル登録者数」という、会員を増やしていき、YouTubeから、広告掲載料をもらい、スポンサーから「案件」という形で宣伝を手伝い、収益を上げていった。基本的には顔をさらけ出して活動を行っていたが、そのうち、「ガワ」をイラストにし、それが本人のモーションに合わせて3Dで感知され、イラストが動く「Vtuberバーチャルユーチューバー」が流行し、知らない人から見れば失笑してしまうような、イラストに熱狂しているリスナーを生み出すことになる。

YouTuberは、ライブ放送を実施する際に、「投げ銭」が受け取れるようになり、世界最高峰クラスであれば、一〇〇ドル(まあ、一万円だ)程度の投げ銭が、温泉卵のようにポコポコ投げられる。一度に投げられる投げ銭の最高額は五〇〇ドルである。

一晩で数百万円を稼ぐYouTuberも生まれ、現代のゴールドラッシュのように人が集まり、人が多く集まれば、リーダーとして開拓した人々に、より多く還元されるという形となった。

僕が好きだったニコニコ動画出身の人たちのYouTubeでの運命は真っ二つとなった。片方は、ニコニコ動画時代に培った実況能力と話芸、企画力、人間関係を以って、有力な事務所に所属し、億単位の売上を達成する者。対極にいるのは、過去の栄光にすがりついて、ちょっとした小遣い稼ぎ程度にYouTubeに参戦するも、数百回程度の再生数しか稼げず、収益化もままならない者だ。

僕が追っていたニコニコ動画のゲーム実況主や、ニコニコ生放送のゲーム実況「生」主が、YouTubeにて、かつて一瞬で数千再生を稼いだ動画を再アップロードし、それが数十〜数百再生で頭打ちとなり、そしていつの間にか消えていくのを見るにつけ、僕はとても切なくなった。盛者必衰の如く、リーダーたちとフォロワーたちの間はどんどん開く。残酷なほど、数字は語っていく。「ライブ」という生放送のタブをYouTubeで検索すると、有力なVtuberが上位で数万人の同時接続者を稼ぐ中、二桁台、もしくは一桁台の再生数でライブを行っている人がいる。

一桁台のライブを行う者は結構辛い。再生数が少ないのはなんとかしたとして、コメントを打つ人が圧倒的に少ないという事実が辛い。そういう人たちのライブでは、少ないコメントを、たった一人が連続で打ち込んでおり、ライブを続ける動機付けが遠くなる。

それにしても現在のYouTuberたちのPCのスペックはすごい。ゲームもできて、動画も編集できることが前提となるので、大切な要素として、GPUなるものがPCのスペック指標に加わっていく。僕がある日、営業の合間に大手家電量販店に立ち寄った際、ふと、こんなやり取りを聞いた事がある。

「友人が、YouTubeでゲーム実況を始めたいって言っていて・・・」

「だとすると、ゲーミングパソコンが必要ですね」

ちなみに、尋ねていたのは女性だ。もしかしたら、彼女自身がゲーム実況を始めるのかもしれない。

ゲーミングパソコンは、通常のOffice文書を扱うような、WindowsPCでは太刀打ち出来ないほどのスペックを持つ。

一般的に、PCの要素と言えば、CPU/メモリ/HDDと相場は決まっていたが、そこにグラフィックボード及びその周辺の性能―GPU―なるものが重要な指標として加わったのだ。

団塊ジュニアで就職氷河期世代の僕からすると、マイクロソフトのパワーポイントが快適に動けば、ガジェットとして満足できれば、PCなんてなんでもよかった。ガジェットマニアも、とことん突き抜ければ、非常にお金のかかる趣味だが、僕はそのあたりは中途半端なので、WindowsとMacの新型機種を時折、家電量販店で適当に触れれば、それで満足だった。人によって、要望スペックには差があるが、メモリが4GBもあれば、パワーポイントはサクサク動くので、それ以上はクロック周波数―CPU―での演算能力が、インテルのCore i5以上あれば充分だし、HDDも現在ではクラウドがあるので、それほど必要としない。隔世の感は否めないが、メガバイト、ギガバイトを超え、TB、つまりテラバイトレベルのHDD(現在の主流はSSD)を搭載する機種もある。

しかし、ゲーム実況YouTuberは違う。一式揃えるのに一〇〇万円なんてのはザラだ。

そして、ただPCを買えばいいというものではない。女性が本能的に苦手であろう、PCの設定を積極的に行う。配信ソフトの設定、コメントビューアーの設定、サムネイルと呼ばれるキャッチーなアイコンの設定。それをライブの度に更新していく。大変だ。

たくさんのリスナーがいるYouTuberは、「PC購入相談枠」を開けば、有象無象のPCに詳しいリスナーに、最新のPCのCTOでの買い方をレクチャーしてもらえる。グラボ(グラフィックボード)は1050がいいとか、僕には全くわからない、そういうことを教えてもらえる。リスナーたちは、他のYouTuberのところでも、その知識を披露し、いや、ひけらかし、満足を得る。Win−Winの関係とはこういうことであろう。

YouTuberたちは、一再生あたり、0.05円~0.7円という広告掲載料を得て、そこから所属している事務所に何割かをマネジメント費用として取られ、残りの金額から更に所得税を取られる。事務所のうちいくつかは、上場も果たしている。

個人はものすごく稼いでそうに見えて、そうでもない。しかしながら、「収益化」条件に達するまでの時間が、事務所に所属すると恐ろしく短いし、万が一係争などになっても、本名や居住地などがすぐにはバレないような仕組みになっているため、両者にとってメリットがあるということだ。

ちなみにYouTubeの収益化条件は左記の通りとなっている。

• チャンネル登録者が千人以上

• 公開動画の総再生時間が四千時間以上またはショート動画の視聴回数が一千万回以上

• YouTubeの収益化ポリシー・ガイドを遵守している

• Google AdSenseアカウントを所有している

有力な事務所に所属すると、その事務所の先輩たちが築き上げてきた道への期待感から、デビューイベント前に会員が十万人に到達し、シルバークリエイターアワード、所謂「銀の盾」を貰えるYouTuberもいる。これが百万人に到達すると、「金の盾」となる。芸能人でもなかなか辿り着かない景色を見るYouTuberは、決して運で決まるものではなく、人知れぬ努力の果てになれるものだ。

すごい女性が何人かいる。頻繁にコメントをくれる好意的なリスナーのキャラクターを全て記憶しており、とても最適なタイミングで、コメントを読み上げては、その人について語って、場を盛り上げる。一体何人のリスナーを覚えているのだろう。そこまで行き着くには一体どのような得を、前世で積んだのだろう。その人達のライブは、コメントが次から次へと流れていき、数百ドルの投げ銭がどんどん貯まっていく。

ライブを行う女性のYouTuberには、「ガチ恋勢」と呼ばれる、熱心すぎるファンがいる。ガチ恋勢は、しばしば過激な行動を取る。

かつてニコニコ動画の女性ゲーム実況主が、男性とのコラボレーションをしたり、出会ったりしていることに本気でキレる向きもいたが、まだ金銭が絡んでいないだけマシだった。

しかし、YouTubeでは、好意を示すために投げ銭を行う者も多く、金が絡む。彼らの意識の中では、「これだけ貢いでいるのだから、男絡みの怪しい動きなんてしてねぇよな」的な思いが渦巻いている。テレビに出ているアイドルと同じだ。

テレビの中のアイドルは、「仕事が恋愛です」と言わねばならない。グループアイドルは、握手会を開催して、「会いに行けるアイドル」となり、「信者」と呼ばれる熱心なファンを惹き付ける。ひとたび男性スキャンダルが起きれば、鬼の首でも取ったような騒ぎになり、その騒ぎ自体を楽しむ輩も相まって、社会問題化している。

有名どころのYouTuberも同じだ。その存在は、若者がボリュームゾーンであり、ごく一部の人間しか認知していないはずなのに、画面に映ったチャットツールの、男性からの通知一つで、引退にまで追い込まれることもある。

僕は、いつものようにライトに楽しむユーザーであったので、そこまでの思い入れはなく、ただ、日々、YouTubeを見ながら時間を潰していた。

見ていて、ただただその才能と、不断の努力に敬意を払う。僕には出来ない、努力の賜物だ。しかもそれは、一瞬の爆発ではなく、数年に渡ってトップに君臨し続けるのだ。そんなトップリーダーになれるのは、最新のオーディションでは、倍率千二百倍。東大に行くよりも難しい。

かつて月九などの隆盛を誇ったテレビの視聴率が落ちた原因はここにある。自分の好きな人が、インタラクティブに、毎日ライブを行ってくれる。その人を追っている仲間が、数万人、同時に視聴している。こんなメディアを敵にして、テレビが勝てるわけがない。世の中の可処分時間が、ネットに獲られていったのだ。


第九章


僕がITソリューション会社で最初に営業をした頃、社員販売で一つ、売上を計上した、小さなものがあった。それは「iPod」と呼ばれる。当時の僕は何も知らなかったが、「千曲保存できる」と言う触れ込みで、大々的に販売した。

レコード、カセットテープ、CD、MDと進化してきた音楽メディアは、音源を何枚持っているかがお洒落度に繋がる要素もあり、モテる男はアルファベット順にCDを整理し、部屋を訪れる女性を魅了したものだった。MDには曲のタイトルやアルバムのタイトルを表示させる機能が追加され、しかしながら入力のためのキーボードはないので、皆一生懸命一文字ずつ入力したものだった。

僕はあまり音楽に詳しくなく、ダンスサークルで使用するための音源についても、詳しい人に手伝ってもらっていた。時代は進み、PCで音楽編集ができるようになり、音に拘る人以外は、皆、MP3などの圧縮方式で小さくなった音楽を聞くようになった。

二〇〇〇年代初頭は、音楽を保存する「母艦」のPCに、CDを読み込むツールが雨後の筍のようにあり、かつてのウォークマンに相当するものがたくさん発売された。コモディティ化した市場は差別化要素が徐々になくなり、ワイヤレスイヤホンも安くなって、もう、持ち歩きをするにはちょっと大きめな、カセットレコーダーは前時代のものとなってしまった。

一九九九年に、宇多田ヒカルがファーストアルバムを出すと、これがCDの終焉と言わんばかりに、売れに売れた。その頃は、安室奈美恵、浜崎あゆみ、globe、華原朋美らディーバを始めとした、ビッグアーティストが数百万枚という規模でヒットを飛ばし、新曲が出ると、女性は競ってカラオケで歌ったものだ。ある合コンで、僕は華原朋美の新曲を、一晩で三回聞いたことがある。

今でこそスマートフォンに、「この音源を探す」という機能があり、街角のカフェなどで聞いた曲を検索できるようになっているが、一九九〇年代初頭は、一般の学生/生徒にとってはインターネットの到来前だったので、聞きたい曲は、レコード屋で一生懸命探さなくてはならなかった。僕も、ある時、スーパーマーケットで聞いた曲が気になり、それが森高千里の「雨」という曲だとわかるまで、3枚もレンタルした。結果、森高千里のファンになった。

小学生では光GENJI、中学生でribbon、高校生で森高千里、それ以降は宇多田ヒカルを追いかけ、周囲から比べれば数少ないCDを、母艦に入れて、初めて買ったiPod shuffleという小さな機械で、ハードディスクレコーダーデビューを果たした。

この頃はせっせとCDを読み込んだものだが、いつしか、音楽はサブスクリプションで、プロモーションビデオ込みで聞く世の中になり、街角の女子高生が、「今月は通信量がもう少ないから音楽聞けない」という、通信ありきの音楽鑑賞の世界となった。なかなかのカルチャーショックを感じていた。

CDはどんどん売れなくなり、アイドルたちの握手会商法以外で、ミリオンの売上を達成するものは少なくなり、カラオケ前提の曲購入は廃れていった。個人ごとに、好みは千々に分かれていき、共通して知っている曲も少なくなった。上司の前で、気に入ってもらうがためにカラオケで昔の曲を歌うという女性も、若ければ若いほど少なくなった。

今の若い世代には、昭和のアイドルソングも、平成のアーティストソングも、直近のヒット曲も、枚挙に暇がない。みんなが共通して知っている曲を歌うのがカラオケの定番だったが、世の東西問わず、好きな曲は人によってそれぞれとなった。

ゲームもそうだ。YouTuberたちは、新しいか古いかは問わず、面白そうなゲームを、初期のファミコンから、最新のMMOまで、選択肢が無数にあり、所謂「かぶり」も回避できる。また、一人で遊んだ方が面白いソフトから、大人数で遊んだ方が盛り上がるソフトまで、なんでも選べる。音楽と同様に、過去のものも現役で楽しんだ世代にも響く放送を繰り広げる。


ある年のゴールデンウィークに、久しぶりに精神状態がよかった僕は、吉祥寺へ買い物にでかけ、文房具屋で、二千円くらいの万年筆を買った。万年筆デビューだった。

筆圧とキーボードの打鍵が重い僕にとって、万年筆の書き心地はエポックメイキングだった。こんなに軽く筆が走るとは思わなかった。時代はITだが、たまにはこういう文房具も楽しい。何より安い。

万年筆に合うノートを探した。少し残念だったのは、僕の書き方での万年筆は、大体のノートで、裏写りしてしまう。では万年筆の方の太さを変えてみようと、安い万年筆の先端をいくつか買って、満足の行くものを見つけた。硬筆はとても下手な僕だったが、偶には「書く」という行為もいいなと思った。

そこから、文房具「沼」に少しハマって、何かをアウトプットしたくなった。身の回りを探すと、僕のいるIT業界は、四月と十月に資格試験がある。四月が「プロジェクトマネージャー試験」、十月が「ITストラテジスト」試験だ。政府は、ITの普及を目指して、巷間のITスキルの向上を目指しており、「ITパスポート」なる試験を制定し、国民に広く勉強して欲しいという願いを持っていた。ITスキル標準(ITSS)と呼ばれる段階を設定した。ITパスポートの次に目指すべき試験として、技術者のコースと管理者のコースがあるが、僕は別に技術者ではないので、プロジェクトマネージャー試験と、ITストラテジスト試験を目指してみようかと思った。目的は、ただ、万年筆とノートを使いたかったからだ。

資格試験というと、後生大事にテキストを買い込み、一から勉強を始める人もいるが、それは多分、暇つぶしと自己満足にしかならないと思う。僕は、ひたすら過去問を解き、どうしてもわからない所だけ、ネットで調べて、記憶するためのメモ帳を作った。

両試験とも、丸一日を潰す試験だ。午前Ⅰ、午前Ⅱと、小問からなる択一式の試験があり、午後Ⅰは読み取り問題、午後Ⅱは論述試験だ。IT関連の試験なのに、午後の試験は手書きであり、腕が疲れて仕方がなかった。特に午後Ⅱの論述は、一二〇分という制限時間がありながら、三〇〇〇字を目指して論述するもので、終わった後の受験者は、腕に必死に血液を送るべくブンブン回していた。

午前の試験で 六割が取れていないと午後Ⅰは採点してもらえず、そして午後Ⅰで六割を取らないと午後Ⅱの論述は読んでももらえない。三〇〇〇字は書き損だ。

勉強自体は楽しかった。久しぶりに頭を使うことを求められた気がする。社会人になってから、勉強の楽しさを知るとは思わなかった。資格試験という、誰からも強制されない試験の勉強だからよかったのか、特に焦ることもなく、暇を見つけては論述問題の構成などを考えた。

結果的には、両試験とも、午後Ⅰまでは合格したが、午後Ⅱの論述は、自分でも不足だな、と感じたくらい出来なかった。まあ、そんなもんだ。僕の人生そのものという感じがする。中途半端なのだ。午後Ⅰまで合格したなら勉強を続ければ、というのは所謂「たられば」だ。「たられば」がいかに人生で無駄かを僕は知っている。挑戦するだけでもよかった。何より、万年筆でノートに書き込むのは楽しかった。

万年筆を続けて使いたかった。何かないかと大きな文房具屋を巡って探し当てたのは、ちょいと予算は張るが、システム手帳だった。

ガジェットが好きな僕は、「形から入る」タイプで、中まで入り込めればいいのだが、大抵は買っただけで満足してしまう。それはあまりよくないぞと、自分に言い聞かせるため、分厚い書籍も買った。全世界で四千万部以上売れたと言われる、「7つの習慣」だ。

なるほど、さすが世界のベストセラー。なかなかの内容だ。それを試してみよう。

派遣先の上長が、そういうタイムマネジメントに詳しく、フランクリン・コヴィー教授のこともよく勉強しており、色々教えてくれた。

例えば、人は予定に関しては手帳によく書き込む。これは電子版でも同じだ。今や、カレンダーアプリで、簡単に予定を書くことができるし、その予定を丸ごと翌日に回すということもワンクリックでできる。あまり良くないことだ。しかし、上長は、「予定を矢印で書いたら、色を変えて実績も矢印で書きなさい」と教えてくれた。

例えば「会議」が一時間あると予定表に黒いボールペンで書き込む。そして、それが一時間半に伸びて終わったならば、それを赤いボールペンで矢印を引く。そこには、三十分のズレがあり、矢印が主張している。そうして、それを振り返ることにより、会議を仕切るファシリテーションに何か問題があったのか、それともそもそもアジェンダが多すぎて一時間では終わらないのか、そういうことが「見える化」された状態になる。では、予定を組み直すとか、議題を絞るとか、みんなが好き勝手に話し始めるブレストに入り込まないようにファシリテーターがコントロールするとか、手帳の実績から分析できることは多い。

それにしても、こうしてビジネスについて語るようになると、カタカナ語が多く出てくる。僕はこういう、外資系コンサルタントチックな喋り方は本来好きではない。

ある派遣先で出会った、大手の外資系コンサルティングファ―ム出身の人は、カタカナ語でマウントを取る人だった。「バジェットは?」「エクスペンスの精算方法は?」「ワランティ入っているの?」。次々と繰り出されるカタカナ語に辟易した記憶がある。

確かに、カタカナでないと伝わらない用語もあるだろう。特にITの現場にいるのであれば、コンピュータシステムそのものが、世界共通語で語られるので、例えばプロキシを「代理」と言ったところで、意味が伝わるとは限らない。でも、バジェットは予算だし、エクスペンスは経費だし、ワランティは保証だ。きちんとした日本語があるのだからそれを使えばいい。メタフィジカルに考えれば、カタカナ語を多用することで、自分が「賢い」存在であると、周囲に認めさせる効果があるのだろう。僕はできる限りそうならないように、使い慣れてしまったカタカナ語を発した際には、できる限り日本語も添えて喋るようにした。「メタフィジカルに、形而上学的に、考えれば」というような形である。形而上学的にというニュアンスが相手に伝わる効果があるかは知らないが、なるべくそう話した。

僕はフランクリン・プランナーというシステム手帳に、万年筆で何でも書き込んだ。システム手帳だから、白紙もたくさん差し込める。一週間の予定と実績、目標、毎日の出費、食費、カロリー、体重、議事メモ、ToDo、わからない言葉、そして一日のまとめとしての一行日記。

記載された数値は、休みの日に、Excelに打ち込んでデータベース化する。今のExcelはグラフも簡単に作れるので、棒グラフで出費、折れ線グラフで体重などをチェックすると、少しずつ下がってくるのが嬉しかったりする。飲み会に行った次の日は、体重が増えていて、なるほど、生活習慣というのは、見える化で管理することも可能だと思った。

システム手帳はなかなか良い。スターターキットは若干懐に痛いが、タブレット端末などを買うよりは遥かに安い。万年筆も、パーカーとかは高いのだろうが、選ばなければ二千円で買える。万年筆のインクは、びっくりするほど安い。毎日、手帳への書き込みをすることによって、精神的安定も得られるような気がした。文房具屋は、僕の唯一のストレス発散場所となった。


第十章


「はい、では第一回の講義を始めます」。

僕はそう言って、中途入社の人たちを相手に、教育を始める。


この文章を読んでいる人の属性は様々であろう。あなたは前職(または現職)ではSEかも知れないし、プロジェクトリーダーやプロジェクマネージャーを経験したことがある人もいるかもしれない。はたまた、今までこんな業界とは縁がなかった人かもしれない。ちなみに私が知っている範囲で一番変わった経歴の持ち主は、パティシエからITソリューション営業に転職した若い女性だ(パティシエールと言うらしい)。

とは言え、あなたを含め我々はコンサルタントとなった(あるいはこれからなるという人もいるかも知れないがもうなっているのだ)。ここはいっちょ、気合を入れて頑張ろうと思っている人も多いのではないか。

頑張るのは頑張らなきゃ始まらない。でも、果たしてコンサルタントとして、何を頑張ったらいいのか、そこに頭を悩ます人は多いと思う。世の中には、会計のプロとしての公認会計士や税理士がいるし、法律のプロとしての弁護士もいる。ではコンサルタントのプロ資格なんて存在するだろうか。日本では、MBAがそれに当たるかもしれない。

公的な資格が存在しない以上、名乗れば今日からあなたも私もコンサルタントだ。どこの企業の助言監督(コンサルタントは導く人だからね)を行うことになっても、あるいはお手伝いレベルの作業であっても、我々はコンサルタントということになっているので、外部の人間から見れば、コンサルティングできる人である。当たり前だ。


では、相手にとって「コンサルティング」できるということはどういうことか、を伝えなければ価値が出ない。価値を出すためには、圧倒的なコンサル力を発揮する必要がある。資料作成スキルやファシリテーション(説明や引率)能力、説得力、地頭力等考えれば考えるほどたくさんの学習すべき事項が浮かんでくるが、それはプロ社会人としては身につけておくべき事柄の集大成に他ならない。


自分で考えていても仕方がないので、コンサル企業や監査法人がどのように教育をしているかを振り返ってみよう。餅は餅屋と言うではないか。

彼らは社会人一年目の社員達にとても多くのことを教える。それは過剰とも言えるくらいである。英単語を覚えていなければ英語が話せないのと同様に、どんなコンサルタントであっても、覚えておかなくてはならない単語は存在する。それはある特定の分野に偏っているため、基礎を覚えてしまえば、単語レベルでそんなに苦労することはない。そう、わずか二十歳代前半の若者に、コンサルティングの手法を教える前に、知識を教えるのは、とりあえず単語レベルで圧倒すると言う意味があってのことなのだ。


社会人としての経験も少しは積んだ。言葉だって、今では「企業ドメイン」くらいはわかるようになった。でも基本はできているのだろうか。自分に問いかけてみよう。そして、コンサルタントの教科書を学習して、自分で作ってみよう。


このテキストはコンサルタント育成のための教科書である。教科書は自分で書き込みをしてこそ意味がある。このテキストを常に携帯し、自分のものにして欲しい。そのためのヒントは世の中の至る所に存在する。毎日の生活こそが最大の学習チャンスだ。


では、始めよう。あなたが優れたコンサルタントになるための1ページだ。


第一講:優れたコンサルタントとは


1.1 人に伝えるということ


優れたコンサルタントは、少なくとも優れた社会人であるはずだ。こういう言い方をするとき、あなたはベン図を思い起こさねばならない。優れた社会人は、頭の中にある抽象的な概念を即時に具体化する。

ベン図が書けるようになること、これはコンサルタントの第一歩である。戦略論とか、組織論とか、ITストラテジーとかは後回しだ。説得力とは、抽象的な概念を具体化することと認識して欲しい。

同時に、私たちは日本にいるので、日本語が適切に話せることの重要性を理解して欲しい。とかくコンサルタントは横文字を使いたがる。予算をバジェットと言ったり、経費をエクスペンスと言ったりしてもよくなるには、先に基本を身につけてからだ。社会人一年目ならば「微笑ましく」見える横文字羅列も、年齢を経ていくにつれ、本質がわからないとダメになる。もしあなたがITの世界を経験したことがあるのであれば、三文字略語やカタカナ用語に辟易した経験はきっとあるはずだ。説得力を養うのに、相手を辟易させては本末転倒だ。

メールの書き方一つとっても、個性はある。個性があるから人間は面白いのだが、気を付けるポイントはたくさんある。タイトルで伝えたい事が言い切れているか、何度も往復しているメールで「Re:Re:Re:・・・」となっていないか。

【転送】とか【周知】とか【依頼】とか【確認】などの言葉を付け加えるだけで、相手の理解のスピードは全く異なる。優れたコンサルタントになりたいのであれば、日本語に気を付けることが何より肝要である。

誤字脱字は、コンサルタントを生業にするのであれば禁止である。配慮するとか留意するではない。禁止である。

あなたがパワーポイントを駆使し、大変努力した作品(資料ではなく敢えて作品と呼ぼう)を作ったとしよう。気を付けるべきは、作品の並びであり、言いたいことが伝わるかどうかだ。あなたは頑張って相手に説明する。昨日遅くまでかかった作品だ。説明していると、相手も頷いてくれているし、時折メモをとっているように見える。あなたは益々「うまくいくぞ」という気持ちになって、説明を頑張る。

一般的に、お客さんはサボる。コンサルタントを抱えているならば余計サボることには長けている。大体のお客さんは、二度と作品を読み返してくれないし、メモを取っているかのようにアリバイ作りをしているだけである。

試しに、あなたが作り上げた作品が、お客さんの机に放置してあったら、中身を見てみるといい(もちろん内緒で)。メモは全て誤字脱字の訂正のみである。せっかく作ったのにこれは悲しい。あなたは少なくとも、作品の文字校正を依頼したのではないので、誤字脱字についてチェックして欲しかったのではないはずだ。

これはIT化の悪しき文化とも言える。あなたの作る作品(以下普通通り資料と呼ぶ)は、少なくとも一から作ることはこのIT社会では少なく、多くの資料は使い回しをする。週次の報告書だって前回の使い回しだ。IT化はコピーペーストで次の資料を生み出せるという非常に便利なものであるが、同時に日付であったり連番であったりといううっかりミスを多く生み出す元凶ともなっている。

優れた社会人は、ミスをしない。あるいは何度もチェックしてミスを見せない。それは、伝えたい相手に言いたいことを伝えたいという気持ちそのものの発露だ。コンサルタントの第一歩は、誤字脱字をしないこと、「てにをは」が適切であること、これに尽きる。

誤字脱字の他にも、使いまわした資料は数値のミスなどが多発する。プロジェクトの週次報告を発表する際に「数字が反映できていないんですけど」という言い訳を、我々は一体何回聞いたであろうか。伝えたい数字は反映されていてナンボであり、言いたいことは最初に伝えなければ意味がない。

新聞の社説は読みやすいのに一面のコラム欄が読みにくいのはなぜであろうか。言いたいことが最初に来ていないとか、表題が付いていないからだ。繰り返すがコンサルタントとしての気付きは日常生活に溢れている。我々は仕事をしているのと同等の時間、日常生活を送っているのだから、普段から思考トレーニングができる。ジムに行かなくたってトレーニングは可能なのだ。


1.2 知識をベースに日本語を駆使する


英単語と同様に、知識は必須である。知識については、OJTで学習するもよし、座学をするもよし、学習の方法は様々である。このテキストでは、最低限の知識については補完できるように作ってあるが、知識はあくまでもベース(基礎)であり、応用するのは日本語であるということを常に念頭に置いておこう。

資料の作成は副次的なものである。

資料は、あなたの頭脳のアウトプットであって、体系化された知識を相手にわかりやすく伝えるためにある。あなたがもしも、言葉だけで相手を説得できるならば、資料は不要だ。しかしそんなスーパーマンはいない。資料は、枚数を多くすることによって努力したことを見せるというメタ的な意味合いも持つし、資料があれば、お客さんが何も覚えていなくても、決定権者にその資料を持って行ってもらえば、説明できたことになる。資料はお客さんがサボっていないことの証明にも使われる。

世の中がそうであるならば、それを活用しない手はない。プレゼン用の資料と、配布用の資料、エクゼクティブサマリーを別に作ろう。そして作った資料をもとに、ときには説得し、譲歩を引き出し、意図的に反対させ、またあるときは噛んで含めるように教えてあげよう。それこそが日本語を駆使する優れたコンサルタントだ。

様々な方向から相手に説明できるようになれば、コンサルタントとしては一流だ。そしてこの説明の根本こそが、知識を持っていることや、優 れた社会人であることそのものなのである。

どんなものでもそうだが、ベースがしっかりしていない建物は倒れる。子供の頃の積み木から我々は学習しているのだ。外から力を加えられる(これをコンサル用語では外部環境の変化と呼ぶ)と倒れてしまう頭でっかちな社会人にはならないでもらいたい。


1.3 画期的なことなんてない


前ページで方法論やテクニックという話が出たので、いい機会なので少し付け加える。方法論(例えばマインドマップのようなフレームワークであったり、片付け方としてのGTD、プロジェクトマネジメントにおけるTOCなどだったり、山程ある)に関しては、世の中に書籍も沢山あり、とっつきやすいし身になるものである。

ビジネス書籍に関しては、好みもあるので、何かを読んでないとモグリであるかのようなことは言わない。大事なのは、多くの書籍を読むことではなく、その書籍から何を学んだかである。学ぶ受け入れ態勢が出来ていないにも関わらず、知識を詰め込むと結局頭でっかちになり、その名の通り、倒れやすいものである。

コンサル会社に入ったからといって、すぐにそういう役立つ方法論を教えてくれるわけではない。それどころか、センパイたちがエラそーに語る内容は、どっかの本や現場の受け売りである。そんなんだったら本屋か図書館に行けば情報は手に入るではないか、そう考えてくれて構わない。

世の中に、画期的で即効的なノウハウなんて存在しない。書籍は知識が体系的にまとめられたものであり、断片的な知識を整理してくれる。古今東西の学者たちが知恵を出し合い、ときにはトヨタ自動車の大野耐一さんのように企業人も知恵をまとめてくれる。

学者は、過去のあらゆる研究を精査し、初めて自分の発見や発明を世に出せる。そのために彼らは道具としての外国語を取得し、全ての関連研究を網羅する。数学界で有名なフェルマーの最終定理に至るまでに、アンドリュー・ワイルズは日本人の立てた定理・予想をもとに、寝食を忘れて研究をした。一部の天才であっても、過去の叡智を集約しなくてはならないのだ。

我々は幸か不幸か凡人なので、過去の叡智を活用することで日々の様々な問題を解決しようと試みる。画期的なことは恐らく自分では生み出せない。画期的と思った理論には、きっと過去の学者が付けた名前がある。そのことを意識して、道具として使おう。そのための学習の仕方は人それぞれであろうが、行き着くところはおなじだ。それでよいのである。我々は、過去の叡智を道具として使う。道具の使い方がうまい人が、優れたコンサルタントだ。優れたコンサルタントになったとき、あなたは一方で優れた社会人として成長を遂げている。

あなたのセンパイも、そうして大きくなった。断片的な知識を総動員して、お客さんに怒られて、上司に怒られて。そしてあるとき、知識を体系的に捉える手段を知り、そのアウトプットを小出しにして、コンサルタントになっているのだ。


僕は、こんなテキストを作った。今までの派遣人生で学んだことを、僕なりにまとめた。万年筆とノートが大活躍したが、これを銭にするにはと、Power Point版も作った。目次はこんな感じである。


第一講 :優れたコンサルタント

第二講 :会社のことを知ろう

第三講 :タイムマネジメント

第四講 :ロジカルとは何か

第五講 :ストラテジストたれ

第六講 :モノを売るということ

第七講 :ファシリテーター

第八講 :ドキュメント作成

第九講 :プレゼンと面談

第十講 :システム開発

第十一講:知識体系―PMBOK―

第十二講:PMO

第十三講:BPO

第十四講:価値を高めよ―スキルアップ―

第十五講:数字に強くなる―会計―


派遣業界―特にIT―には、新しい波が訪れていた。従来の、(SESと呼ばれる)技術者派遣サービスは、同業他社が鎬を削っているため、年々低価格化していった。既に述べたように、中間マージン(中抜き)のため、技術者本人に届く報酬は下がる一方だったが、世の中、ダンピングする企業はそれを営業努力と呼び、そもそもの発注価格が、六〇万円/月なんていうのもあった。一社通る度に、五万円程度しか抜けないというのが業界に定着し、もはや、技術者派遣では稼げず、業界は新たな付加価値を産まなくてはならなくなった。

そこで生まれたのが、プロジェクトを管理する人員を派遣するというサービスである。今まで、プロジェクトに参画する技術者を送り込んでいたが、その技術者たちを「統括する」側として、技術者ではなく、「コンサルタント」を派遣します、という形態を取った。

その形態は、大手のコンサルティングファームから始まった。草創期は、そのファームが積み上げてきたプロジェクト管理手法と、体系化された管理ツールを用いて、専門部隊として、大手の企業の情報システム部に食い込み、展開していった。

それまでのプロジェクトは、「プロジェクトマネージャー」と呼ばれる責任者が、プロジェクトの管理の全てを担当していた。管理監督に加え、会議の招集、ファシリテーション。週次進捗資料の作成、印刷。プロジェクトマネージャー(PMと呼ばれる)は疲弊し、倒れてしまう現場も多くあった。

そんな中、プロジェクトの進捗管理や、会議のファシリテーションなどは専門部隊が行うということになると、PMは全体を見渡すことに集中できる。毎日会社から帰れないという事態からも解放される。

需要と供給が合致し、プロジェクト管理支援の必要性はどんどん増していった。そうなると、コンサルティングファームだけでは人員が足りなくなり、SESの前例の如く、外部の会社に応援を依頼することになる。

技術者派遣サービスの単価が、六〇万円台/月になる中、コンサルタント派遣は、一〇〇万円/月を超えて募集がかけられる。もちろん、求める経験値は高い。

稼げると分かれば、この業界は何でもするので、あちらこちらに、「プロジェクト管理支援」を目的としたコンサルタント派遣の会社が設立された。乱立と言ってもよい。

時期を違わずして、監査法人も、「システム監査」という領域で、コンサルタントを顧客企業に提案し、契約した。時代が変遷し、年度末の会計監査だけでは食べていけなくなった監査法人が、活路を見出したのが、システム監査だった。大手コンサルティングファームに倣って、複数要員を、高い単価で常駐させる仕組みを作り上げていったのだ。システム監査は、企業にとって重要な役割を担い、例えば、パスワードの確実な運用一つとっても、半年ごとに監査されるため、情報システム部の責任者たちは、戦々恐々とした。

コンサルタント一人当たり、一五〇万円/月〜二〇〇万円/月で、元請けの大手コンサルティングファームは受注する。そして、コンサルティングファームのプロパーが責任者で、残りのメンバーは外注、つまりパートナー企業の面々という、軽いバブルが始まり、技術者への投下資本は更に圧縮された。おおよそ一〇〇名の技術者に対して、管理工数、つまりプロジェクト管理をする人員は一割とされた。三千人月のプロジェクトならば、三〇〇人月が管理サイドの工数ということだ。この管理サイドの要員を、プロジェクトマネジメントオフィス、略してPMOと呼ぶ。

節操のない業界ではあるが、そこに長年雇用してもらって、口に糊をしているのもまた僕なのだ。

PMOが担当する領域は、プロジェクトにおいて、技術者たちの、毎週の進捗管理。技術的に解決すべき顕在化した課題の管理。まだ見えない、顕在化していない潜在レベルのリスク管理。テストフェーズの支援。リハーサルを含めた移行の支援。「要件定義」「基本設計」「詳細設計」「プログラミング」「テスト」という各フェーズにおける、品質管理。

技術者が特定の言語などに依存するテクニカルな面でシステム開発プロジェクトに対応する中、PMOは、種々の管理手法を用いて、プロジェクトの管理を行い、その円滑な遂行に寄与する。そのための教科書と言っていいものが、PMBOKと呼ばれる教科書で、そこに出てくる用語や運用方法などを身に着けた証としてのPMP―プロジェクトマネジメントプロフェッショナル―と呼ばれる資格だ。

実際に従事してみると、特別なことを行っているわけではないものの、知見は色々問われる。

プロジェクトは、有期、つまり、期限に制約があるものを指すが、人間がコンピュータを相手にこなす以上、スケジュールの遅延や、テクニカルな課題など、いつも色々な問題にぶつかる(プロジェクト管理における『問題』というのは、明確な定義があるのだが、ここでは割愛する)。まずはその遅延が、ダッシュボード的に分かる指標を定める必要がある。そのため、多くのプロジェクト管理では、アーンド・バリュー・マネジメント(EVMと省略する)という手法を用いて、プロジェクトの見える化を図る。

見える化には、元データ(rawデータ)が必要だ。技術者たちを束ねるチームリーダーに、進捗の数値入力を促す。そういうことも、支援部隊としてのPMOの仕事そのものである。

管理するためのツール(データベース)を定め、そこに、技術者のチームリーダーに、週次の期日までに入力してもらう。それをExcelで分析する。そしてグラフ化し、現在までにどのくらいの予算を使って、どの程度の価値バリューを達成できたか、それをトップマネジメント(プロジェクトマネージャー)に提示する。

簡単に例えよう。一〇階建てのビルを作るプロジェクトがあるとしよう。基礎工事など、要素は色々あるがそれは無視して、まずは全体の予定を立てて、週毎に細分化する。一週間の予定で、一週間かけて、一〇階建てのうち、一階部分を作ったとする。それは、予定進捗率が一〇%で、完了進捗率が一〇%と言うことだ(繰り返すが、そのように単純な測り方ではない)。一階部分を作るのに、例えば埋蔵文化財が発掘されてしまって、遅延が起きているならば、予定では一〇%建築する計画なのに、完了が三%しか到達していない、というように「遅延発生」となる。ギャップがひと目で見える。

トップマネジメントは、その遅延に対応するために、人を増やすか、並行して作業を行うか、はたまたスケジュール事態を延伸するか、いずれかを選択しなくてはならない。

人を増やすことをクラッシングと言う。しかし、人を単純に増やしたら、スケジュール通り(オンスケ)になるかと言うと、そんなことはない。世の中には偉い学者さんがいて、ブルックスさんが、「人を増やしたところで、教育にかかる時間などを考慮すると、生産性がそのまま上がるとは限らない。むしろ、増員したことによりスケジュールは遅延する」という法則を提唱している。「ブルックスの法則」と言う。

並行して作業を行うことをファストトラッキングと言う。一人の技術者に、複数の作業を負わせて、残業時間などは考慮せず、トップマネジメントの思うままに働かせ続ける、理論上は成立する仕事である。ビルの例で言えば、コンクリートブロックを積んでいる休憩時間に、水道の配線もやれという感じである。日本語で敢えて言うならば、「輻輳」である。字面からして、あまり歓迎すべき状態でないことは確かであろう。

プロジェクトマネジメントサイド(PMOサイド)と、システム監査は、ビジネス上は、敵同士のようなイメージだ。プロジェクトをなんとかスケジュール通りに進めたいPMOサイドと、確実に、石橋を叩くようにチェックを行うシステム監査側。毎週の進捗会議には、システム監査のメンバーも参加し、今起きている課題は何か、スケジュールにクリティカルなダメージを与える要素は何かを分析する。

システム監査側は、技術者たちのチームリーダーに、味方と言わんばかりにヒアリングを行い、PMOサイドが指示している、スケジュール上の「無理、無駄、ムラ」の3Mを聞き出す。そして「システム監査レポート」を作成してPMOサイドへの警鐘を行う。要件定義フェーズ、基本設計フェーズ、詳細設計フェーズという、各フェーズの完了時には、「システム監査報告」として、公式に成果物をまとめ、プロジェクトを遂行している企業の「経営陣」に提出する。企業のお偉方は、役員会議などでその監査を精査し、PMOサイドにお叱りやお墨付きを出す。


技術者では味わえない、キリキリしたPMOという現場に、ある日突然、未経験者がPMO支援コンサルタントとして放り込まれる。その人は、いくつかの中間紹介会社(この業界では、慣例的にパートナーと呼ぶことは述べた)を経て、中間マージンを搾取されているため、元は一五〇万円/月だった発注金額が、七十万円/月くらいまで減少している。それでも、昨今の技術者よりは、高い。バックボーンとなる予備知識などは何も持っていない。ただ、自らが今まで仕事をしてきた中で得た経験を、還元するしか方法がない。

新しく勤め始めたその人材派遣会社の先輩たち―同等に苦労したであろう―に紹介されるタイミングすらないまま、入社早々、あるいは入社前に、プロジェクト面談に臨まなくてはならない。「お化粧」を施した「盛った」経歴書で、合格して「しまった」ら、そこから配属先の企業や、プロジェクトマネジメント手法について慌てて学習する。

このようなことは、どこの派遣会社でもやっていることだ。しかし、ことプロジェクトという、企業の未来を担う案件を遂行するには、心許ない。せめて、エッセンスだけでも中途入社者に教育しておきたいが、時間がないし、教育する人もいない、というのが新興ベンチャー社長さんの本音だろう。

僕は新興ベンチャーの社長さんたちに、テキストプラス講義をセットで営業した。週に一回、十五週に渡る講義だ。もちろん、各ベンチャー企業に取捨選択してもらい、不要なものは割いて、全体を縮めて安く上げることも可能にした。また、第二講用に、ベンチャー企業の社長にインタビューをし、講義用資料に記載するカスタマイズも行った。

オプションサービスとして、ビデオ会議システム(スカイプなど)を使って、そのベンチャー企業に中途入社した社員からの相談窓口を付けた、「マツウラ先生の」フォローアップも、講義から一ヶ月は無料です、ということを売り文句にした。そういう企業は、随時中途社員を入社させている。ものづくりとは異なり、人材そのものが、収益源だからだ。なので一つの企業に、約四ヶ月講義を続けるが、タイミングにより、途中から参加する者もたくさんいる。

いくつかの新興ベンチャー企業が賛同してくれて、契約を締結してくれた。どうにか、個人事業主(講師業)として食べていける下準備ができた。

講義は、一企業当たり、週に一回、定時後に、お客様となる企業の中途入社組が集まって行われるので、主に活動するのは夜となり、朝にとことん弱い僕の体は少し楽になった。新興ベンチャーの社長さんたちは、皆、遊び好きで、講義が終わると、僕と、ちょうどいいタイミングなので、中途入社者を連れて、夜の街を案内してくれる人もいた。

僕は、人より数年遅れて何かにのデビューをする節がある。子供の頃のチョロQも、ミニ四駆も、コンピューターゲームもそうだった。今度は、ベンチャー社長たちに連れて行かれてキャバクラデビューである。

なるほど、化粧の上手な女性が、ミニスカートを履いて、接待してくれる。僕を連れて行ってくれる社長さんは、自分がよく通う店を決めていて、そこでは常連で、いつもたくさんのボトルを経費で空けてくれるから人気が高く、黒服も一目置くという感じであった。僕自身の魅力でもなんでもないのに、綺麗な人が入れ代わり立ち代わり、僕のLINEを尋ねてはコースターに蓋をしてどこかに行った。翌朝から僕のLINEは鳴りっぱなしになったが、僕自身の小遣いで行けるわけもなく、小金持ちの気分だけ味わった。若い頃に行ければ、もっとギラギラできたかも知れない。まあ、楽しもう。


PMOコンサルタントになろうとして、ベンチャー企業に転職してくる人の年代は様々だ。動機としては、「コンサルは稼げる」というまことしやかな噂に飛びついて来た人たちだ。

確かに、外資系コンサルティングファームは稼げる。日本で創業されたコンサルティングファームでも、大手はまあまあ稼げる。ただし、激務に耐えられればこその報酬だし、寿命は短い。二十代、三十代が飛んでもないスピードで走り去り、不惑を超えれば、現場からは用済みとなる。その後は、組織のディレクターとして渉外担当になるか、それまでに稼いだ貯金で独立開業するか、どちらかだ。

開業すれば、昔のツテを頼れば、自分一人くらいは派遣で食べていけるかもしれない。しかし、ひと度自分が経営者サイドとなると、営業もして、リクルーティングをして、マーケティングをして、面接もして、教育もして、メンバーのフォローもして、と、成功する人は一握りだ。

そして、そのベンチャー企業の門戸を叩く応募者たちも、過去の社会人生活になんらかの疑問を抱えている人たちが、一発逆転して高給取りになりたいと目指して来るわけだ。コンサルタントになろうとする際に、未経験者でもOKという企業を選択する。真に優秀な人は、応募に来ない。

パレートの法則の如く、優秀な人とそうでない人は二割対八割だ。結局、転職時の給料は、前職の源泉徴収票の数字に少し色を着けた額になるだけだ。求人の段階で、「将来の幹部候補」ですよ、と募集がかかっていても、それは転職サイトが盛りに盛って記載した集客文句であることに気づいた時は、後の祭りだ。

こうして、世の中は、PMOコンサルタントばかりが跋扈することになり、かつての技術者派遣と同様に、経歴書にお化粧がなされ、コンサル会社とは名ばかりの人材派遣企業の営業マンによって、巷間にばらまかれていく。僕のように、すぐ逃げ出してしまう酷い人材であっても、そんなことは記載されるわけないので、経験値が高いというように解釈されてしまう。尤も、需要があるのも三十代中盤くらいまでではあるが。

そんな転職者たちがいるお陰で、僕の講師業は、数ヶ月、忙しい夜を過ごした。

教育用の教科書を投影するため、また持ち運びに便利、と自分に言い訳をし、昔から憧れていた、パナソニックのLet’s noteを買った。個人事業主でも、減価償却できるのかなと考えながら、ガジェット好きが、買ったら終わりではないガジェットをようやく手に入れた。

Let’s noteにしたのは、豊富なインターフェースがあり、頑丈だからだ。新興ベンチャー企業の社屋には、プロジェクターはあっても、インターフェースがD−Sub端子の中古品だったり、昨今では主流のHDMIだったりと、様々だ。プレゼン当日になって、プロジェクターの端子に接続できないという緊急事態を招かないために、複数のバックアップを備えた機種がよかったのだ。頑丈というのは、パナソニックの売りで、カバンに入れたまま、多少ぶつかったり、落としてしまっても、本体は壊れないという鉄壁の守備があった。もちろん、相応の価格はするが、欲しくて仕方がなかった筐体を手に入れた感動は、なかなか味わえない。

この時代、PCそのものの利益率は低く、低価格化競争もあって、IBMや東芝、ソニーがそれぞれ、「Lenovo」「dynabook」「VAIO」となり、独立ブランドとして販売していた。ヒューレット・パッカードやAppleも、高価格帯に焦点を当てるなど独自のブランド展開をして、台湾や韓国のIT企業と戦っていた。かつてPCにおいて一大牙城を築き上げたNECや富士通も、頑張っていた。


お酒と、この頃流行り始めた電子タバコを買うくらいの収入はあったが、講師業は営業のための出費も多かった。僕の教育メソッドを受け入れて頂くためには、当然ながら接待も必要で、今まで経験したことのない、夜の街での接待費用が痛かった。最初は奢ってもらっていたのだが、その次はお返しに奢らなくては営業にならない。そもそも教育事業は、暴利を食う価格設定をすると、どの企業も採用しない。「そんなにかかるなら内製で教育する」と言われてしまっては商売上がったりなので、低めに設定している。そうかと言って、法人化するほどの人材もスケールバリューもない。

カードの支払に四苦八苦しながら、営業先を開拓していったが、元々一緒に派遣現場で働いていた社長さんが興した会社を一巡すると、新規の開拓は難しかった。教育事業の横展開は難しい。中には、再発注かと思いきや、「前回払った分で二回めもやって」という企業もあったが、今後に繋がればと、引き受けた。

派遣の仕事を暫く中断し、営業を頑張ってみたが、教育「事業」は先細りになった。とは言え毎月の支払いは容赦なくやってくるので、また派遣に戻り、朝九時からの業務になった。精神状態が寛解したわけではないので、相変わらず毎日通うことがままならず、勤怠が問題となり、正社員の人に注意され、どうしようもなくなって、無断欠勤をした。電話も取らなかった。携帯電話なのに、持ち歩くことすらしなかった。

個人事業がちょっとうまく行ったことで、いい気になって賃貸契約を結んだ家賃が高めのアパートは、またたく間に酒の空き瓶と、電子タバコの残骸でゴミ屋敷になった。実家からは、派遣元から連絡が行ったのか、頻繁に電話があり、母親とは離れて暮らしている妹の幸子までもが、珍しく電話をかけて来た。

僕は全て無視し、酒を飲み、タバコを吸った。月に一回だけ、睡眠導入薬をもらうために、電車で二〇分ほどかけて病院に通い、嘘をついて薬をもらった。アルコール三昧であることを伝えると、睡眠導入薬を処方してもらえない可能性があるからだ。

自殺という最悪の結果への「幇助」となることを、精神科医は忌避する。だから僕は、個人事業の「講師業」が順調であると伝え、前日の酒は残っていながらもシラフを装い、病院での一〇分の問診時間を乗り切り、薬を処方してもらう。

時々予約した日程で精神科に通えないと、睡眠導入薬が切れ、その時の苦しみは筆舌に尽くしがたい。二日経っても三日経っても、一切の眠気が来ない。代わりに体が痙攣し、脳が削がれていくような感覚を覚える。そうなると再び病院に通えるまでに随分な時間がかかるため、なるべく予約日に通うことを、人生の最大かつ唯一の目標として、毎日を過ごしていた。

その他の病気は無視した。医師は、総合的な治療、つまり、内科的な治療と精神の治療は並行して行うべきという意見だったが、それは生きることを望む人がすることだ。できるなら、合法的に早逝したい。タバコで肺がんになりたい。酒で、膵臓がんになりたい。栄養の偏りで、大腸がんや胃がんになりたい。盲腸になったら、腹膜炎になりたい。尿毒症になったならば、腎臓透析を受けなければ、それで僕の望む道に進む。

睡眠導入薬だけは欲しくて、しかし他の病気を放置している矛盾を、敢えて無視して、終わりを迎えそうな気分だけで、稼がず、時間だけが通り過ぎていった。

しかし、ある日、警察官が、不動産屋と、母親と妹を連れ立って、玄関をこじ開けた。ゴミ屋敷の中、制服を着た警察官が、「マツウラさん!」と怒鳴りながら、ゴミを掻き分け、入ってきた。僕は痙攣したまま、首を向けた。その時のインターフォンの音は、僕にとって恐怖の音楽となった。すっかり痩せて、食事も取らず、ゴミ屋敷に住んでいる僕を、見るに見かねた母親と妹によって、僕は強制的に実家に引っ越しさせられた。意識は朦朧としており、その頃の記憶がない。そんな騒ぎを起こしては、もう賃貸アパートも借りられまい。

そうして僕は、二十年ぶりに実家のある川崎市に帰ってきた。

帰ってきて考えることはただ一つ。僕は、生きていくことに執着がない。


この時代の遺書とはどんなものだろう。宛先は親族だ。そこまではいい。ただ、「先立つ不幸をお許しください」と書くのだろうか。思いつかない。

三年前に父は死んだが、痴呆が入っていたようで、事後処理は大変苦労したらしい。僕は、相当調子が悪い頃で、かつ、感染症が流行っていたことに便乗して、そもそもの葬式や、納骨関連から逃げた。母親もまた、調子が悪い時期だったようだ。妹の幸子が主として担当した、借金の精算、未だに分からない証券会社での株取引、相続関連・・・。なるほど、この時代に必要なのは、パスワードだ。身綺麗に旅立つためには、パスワード一覧を作っておく必要がある。

日本人のパスワードに関するリテラシーは低い。「12345678」とか「Password」などというパスワードを使いまわしている、という調査がある。簡単なパスワードを使っている人が、ツイッターを乗っ取られ、レイバンのサングラスの販促を手伝わされたりする。乗っ取られるくらいはさしたることないのだが、そのパスワードが多くのサービスと結びついているため、真に大切な、金銭が絡む銀行や通販サイトへの使い回しに対する警鐘が、色々なところから鳴らされていた。

パスワード一覧、どうするか。

例えば僕が使っているPC。過去に泥棒に盗まれたものからは随分進化したが、WindowsPCであっても、まずは端末へのログインに指紋かパスワードのどちらかが必要だ。会社を初めて無断欠勤した際に存在した自宅のPCにはパスワードをかけてなかったので、当時の課長は好き勝手に(今となればそれも課長の努力だったのだ。感謝すべきことだ)ログインして、色々な情報を抜いて、後に笑い話にした。それ以来、僕は、パスワード運用をしていたため、今では誰も、僕のPCを開けることは出来ない。

スマートフォンも同じだ。iPhoneなので、指紋認証か、8桁の暗証番号が必要だ。指でも切り落としておいたらどうなるのだろう。警察は、変死の人のパスワードをどうやって解除しているのだろう。死んだ後の指から一度端末に入って、それでパスワードを解除するのだろうか。

僕は、遺書は遺書らしくと思って、手書きで書き始めたが、書くべき本文はあまり思いつかなかった。何を書いても恨み節になってしまう気がした。悪いのは父親であって、他の家族ではない、と思っている。むしろ迷惑ばかりかけた。翻って本当に父親だけが悪いのかと問われると、そうでもない気もする。全て中途半端な僕自身に原因がある。一体何を、どこで間違ってしまったのだろう。

僕は手書きでの遺書を諦めた。こんな世の中だ。PCを使って、最後のメッセージを書こう。パスワード一覧を作ろう。まずはいくつもあるフリーのメールアドレスからか、いや、サブスクリプションの解約方法が先か、はたまた、銀行口座とかクレジットカード情報が先か。唸っていても、とっかかりが見えない。Wordで書くか、Excelで書くか。あれ?僕の家のPCに、Officeは入っていたっけ。

今現在のマイクロソフトのOfficeソフトは、サブスクリプションで販売されているものと、買い切りのものに分かれる。僕は、サブスクリプションだったが、ずっと更新していなくて、期限が切れていた。年間で一万円を超える料金を、かつては気軽に契約していたが、遺書を書くために契約するのか・・・。

かつて、PCは、色んなソフトがバンドルされていた。僕が初めて購入した頃は、一九九〇年代末だったが、ワープロソフトに一太郎、表計算ソフトにLotus1−2−3が入っていた。そもそも表計算なんて仕事でしか使わなかったから自分のPCに必須というわけではなかった。確か、選択制で、Word及びExcelが同梱されているパターンもあったはずだ。

それに山程のゲームとかエンターテイメントソフトがバンドルされていた。メールを運んでくれるクマさんもいた。まだ当時は廃れていなかった年賀状ソフトも各社色々積んでいて、コンピュータに詳しい友人は、その辺りを一切合切アンインストールしてくれた。

一太郎やLotus1−2−3は段々廃れていき、Windowsは初期バンドルソフトとして、Word/Excel/Outlook Express/Internet Explorerを標準として定めた。裏側では、独占禁止法などの色々な係争はあったようだが、それが標準だった。

その頃はプレゼンテーション用のPower Pointが、家庭用Officeには搭載されていなかった。それが必要な人は、別途二万円くらい出して、Power Pointを家電量販店で買った。

会社のメールを家で受信するという設定も、会社の規模が中堅規模以上になると、素人には手が出なかった。Webアプリケーションの登場まで、クライアントサーバーシステムで覆われた企業のシステムは、オープンではなく、営業マンが外出中にメールをチェックできる環境も、構築するのが一苦労だった。例え外出先でメールをチェックできても、それが既読にならなかったり、どこまでメールを読んだかわからなくなってしまったり、不便は多かった。

スモールビジネスを始めた人たちは、積極的にWebのシステムを使い始め、Googleがサービスを色々提供した。Gmailや、Webで完結する、ドキュメント作成ツール・表計算ツール・プレゼンツール。

マイクロソフトもWebでOfficeアプリケーションを提供するようになったが、無料版ということで、機能には一部制限があった。

企業の情報システム部は、ソフトウェアのアップグレードについて慎重だ。それまでに使っていた、例えば勤怠管理や営業管理などのシステムが、新OSや新Officeでまともに動くかどうか、検証しないとならないからだ。スモールビジネスなら、常に最新版ということでも、大した問題にはならないが、社員数数万人ともなると、ちょっとしたアップデートも大変だ。そのせいで、既にマイクロソフトの保守切れ、つまり、もう面倒は見ませんよとなったソフトを、未だに使い続けている企業は結構ある。2020年代になっても、保守切れ状態のWindowsXPや7を使っているなんてことは、決して稀ではない。

iPhoneやアンドロイド搭載携帯登場以前は、会社の外でも情報を取得し続けなくてはならない外資系の会社員が、スマートフォンと呼ばれる、BlackBerryに代表されるような、qwerty配列のキーボード付き携帯を持ち歩いていた。

その後、マイクロソフトは、Officeそのものを、年額のサブスクリプションモデルとして、常に最新のOfficeソフトが、一人当たり複数の、スマートフォンを含む端末で使えるようにし、企業がこぞって導入した。そしてWindowsも、7以降は基本的にアップグレードを無料とした。

Googleは、独自にスマートフォン用OSアンドロイドと、PC用OSであるChromeOSを世に出した。基本的な関数などはマイクロソフトと変わりがなかったが、日本人は保守的で、シェアが逆転するほどではない。

Appleは、日本では順調だったが、あまりにもWindowsが強すぎて、企業ユースとしては、デザインやクリエイト系に好まれ、普通の企業向けではシェアは狭く、個人ユースの方が強くなっている。

しかたなくサブスクリプション契約更新をした僕は、遺書を書き慣れたWordで、縦書きのフォーマットを使い、文章中に、表組みでパスワード一覧表を掲載することにした。

書き始めて、いかにIDとパスワードが必要な社会かを痛感した。おおよそ五十ほど列挙し、死後の処理を担当するであろう妹の幸子が困らないようにした。困らないように?その気遣いは必要なのか?


前略


お母さん、幸子へ


ごめんなさい。いっぱい、面倒をおかけしました。


どうしても、生きることに疲れました。


ここまで頑張ったけど、もう、いいかなと思います。


何も残せず、すみません。


お母さん。いっぱいご飯食べてごめんなさい。


幸子。姪にプレゼントの一つもあげられなくごめんなさい。いつまでも、幸せに。


パスワードを列挙しておきます。

草々


僕はそう書いて、『遺書.docx』にパスワードをかけて保存した。

そして、付箋にパスワードを書いて、PCを久しぶりにシャットダウンし、画面に付箋を貼り付け、物理的に閉じた。

次に、iPhoneから指紋認証を外し、表面に、付箋を貼った。もちろん、iPhone用の暗証番号が書いてある。


僕の計画は今度こそ成功するはずだ。

用意するものは、ロープの代わりに延長コードを三本。体重をかけても切れにくいと聞いた。

靴は、底の滑りやすい、百円ショップで買ったサンダル。靴下は履かない。靴下ではサンダルが滑って脱げてしまう。靴下と足の裏の間には、摩擦力が必要だ。

そしてローション。足元にひと瓶ばらまく。

延長コードをベランダの手すりにくくりつけ、縊死を狙う。

我が家には鴨居がないので、紐をくくりつけられるのは、ベランダしかない。夜は、母親はテレビを見ているので、ベランダには出てこない。見つかるのは、明日の朝になるだろう。

薬は、普段の二倍程度で足りるだろう。飲めば、四十五分で効いてくる。ふと、眠くなった瞬間に、目を瞑った僕はもう旅立っているはずだ。精神科の先生、この処方に至るまで十年かかりましたよ。でも、自然と眠りにつけるようになりました。

ドクターショッピングをしてきた僕が、まさか十年同じ先生にかかるとは、思ってもみませんでした。

思い起こしても、中途半端な人生だった。

小中高と長年やったサッカー。もうちょっと体力を着けて、筋トレをして、倒されないフォワードになるべく、毎日努力をすればよかった。

学生時代のダンス。サークル感覚ではなく、スキルを磨くべきだった。酒なんて飲んでいる暇があったら、基礎練習に明け暮れるべきだった。

社会人。日々、給与を貰うということへの感謝と、雇用してもらったという初心を大切に、どんなことがあっても通い、生き抜いていくべきだった。

家族。どこかしら偉そうな、人を小馬鹿にしたような不遜な態度を取らず、世の中で唯一の、大切な家族との人生を楽しむべきだった。

他人が見たら、どう思うだろう。きっと、「自己責任で草」「全部中途半端で草」と、大いにコメントで笑われる人生だろう。

僕の目には、網戸と、その先にPCを置いた机がほのかに見える。PCの充電状態を示すランプが一つだけ点いている。足元のサンダルの一センチ先には、ローションが水たまりのように広がっている。中腰が崩れたとき、足はそこに到達する。

最後に、何か歌でも、と考えて、頭の中で歌を探した。


あなた真似して、かえたの右手に腕時計・・・

 Good−bye Season

 とっくに End of Summer 終わっちゃってる季節

 Good−bye Season 

捨てなきゃ 私が引きずってたSummer time

 Good−bye Season

今夜は End of Winter サヨナラを言えそうよ

Good−bye Season

右手に今でも 白く残ったSummer time


リフレインする音楽はふと途切れ、脳が眠気を感じた。


「マツウラさん、分かりますか?病院ですよ」

若い医師が言って横に首を向けた。

そばに、救急車に同乗してきた老婦人が、遠い目をしてだらしなく唇を開けていた。




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