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一度目

第一章 


僕が生まれたのは、一九七五年、昭和五十年九月十九日で、雨だったらしい。ちょうどその日は、池袋の西武百貨店のオープンだったそうで、僕の家には、大きく引き伸ばした赤ちゃんの写真があった。西武百貨店が、昭和五十年九月十九日生まれを募集して、写真を拡大するサービスをしたということだ。

母親曰く、自慢の赤ちゃんだったそうで、西武百貨店の女性スタッフが口々に「かわいい!」と言ってくれたそうだ。確かに、目がぱっちりしていて、テレビに出ている子役の三分の一くらいの魅力はあった。現在は写真撮影を拒絶するほど醜くなっている。よって、ここ十年は、免許証とマイナンバーカード、パスポート、社員証くらいしか写真を撮っていない。

僕の生まれた家は東京の三鷹市にあるアパートだった。二階建てで、一階は我が家で2DK、二階は学生さんたちが住むワンルームが四つあった。トイレは学生さんたちと共同で一つしかなく、玄関も共有だった。

アパートから少し歩くと、国際基督大学(ICU)があり、よく散歩に連れて行ってもらった。とても広く、自然が一杯で、将来はこんな大学に通いたいなとぼんやりと思っていた記憶がある。幼児用の英語教室なんかも、ICUの施設内を借りて運営していた。母親と一緒に参加して、「あっぽぉ」とか「おーれんじ」とか幼児たちで叫んで勉強した。

幼少期、五歳までの記憶は飛び飛びだが、強烈に覚えているのは、両親の喧嘩だ。今の言葉で言えば、DVとモラハラになるだろう。父親は毎日のように母親を恫喝し、ときには母親の服を破り、タバコの煙を直接母親の顔に吹きかけた。

母親も、激昂すると台所から包丁を取り出し、刺す寸前まで振り回していた。二歳年下の妹の幸子がいて、まだ理解できないことが多いながらも、大声が聞こえると、そのただならぬ様子を見て、ひたすら泣いたりしていた。

僕は毎日の「喧嘩」を見る度に胃が痛くなり、眠れなくなった。ある雪の日、母親は裸足で外に出て行った。数時間で、足を霜焼けまみれにして何とか帰ってきた。共有の玄関のたたきに座り込み、心の傷を癒やすかのように、憔悴しきった表情で居眠りをしていた。マンガみたいだが、鼻提灯を浮かばせていて、その鼻提灯が僕の記憶に刻まれている。

父親は浮気もしていた。その相手から年賀状が毎年届くのだが、郵便受けから百枚ほどの年賀状を回収した母親が、毎年その不倫女の年賀状を真っ先に破り捨てていた。僕にとっては、元旦というのは、一年で一番緊張する日だ。年始から母親が機嫌悪いから、家族全員で初詣に出かけたこともない。

小学校に上がる時期に、東京都三鷹市から神奈川県の川崎市に引っ越すことになった。僕の父親は銀行マンで、ある有名作曲家の元に営業をしていたが、その作曲家から勧められた近所の新しい団地に、四千万ほどのローンを組んで引っ越した。千葉県船橋市と神奈川県川崎市の二つを検討して、所謂「花街」―子供にとって良くない環境―のない駅に決定したとのことだ。

小田急線のその駅は、開発途上で、区画だけは定められていたが、九割がた草ぼうぼうで、買い物する施設もなかった。普段は、母親と妹と三人で、最寄り駅の両隣に買い物に行った。マクドナルドなどは、電車で四つ先の駅に行かなければ食べられなかった。

そのうち地下鉄も開通するぞ、なんてその土地の将来の利便性は語られていたが、団地が分譲されたのが一九八〇年で、その後、日本はバブル経済を迎え、一九九〇年頃にはバブルが崩壊したため、なかなか駅周辺の環境は便利にならなかった。

最終的には、映画館も建てられ、二〇〇〇年代以降は、新宿まで急行で三〇分ということと、新しい街並みが評価され、少しは人気の街になった。

団地には分譲当初、約一万人が住んでおり、小学校も中学校もすぐ近くに、団地専用学校としてあった。

担任教師としては、家庭訪問がものすごく楽だったのではないかと思う。家庭訪問はマンションの各階に行って、「玄関で結構です」と、教師全員が共通して宣言する。家に上がることもないから、親たちもお茶やお茶菓子を出したりする必要もない。

そんな小学校・中学校も、現在は少子化の影響で統廃合されてしまい、隣の小中学校にまとめられた。跡地には、老人ホームが出来ている。


小学校にも、ちゃんとカースト制度があった。

一九八〇年代は、まだまだ野球が人気で、ジャイアンツが負けると世の中の父親がイラつくという風潮だった。

他所様の家庭と違って、残念ながら我が家の父親は、イラつくだけではなく、母親か、息子の僕に当たる。時には暴力までつながる。毎晩、日本テレビを中心にナイター中継していたのを、僕は部屋で耳を手で塞いで、ジャイアンツの原選手がホームランを打つことを願っていた。

誕生日に、「原選手の野球盤」というのをプレゼントしてもらったが、抑うつ気味(当時はそんな言葉知らなかったけど)の母親は、僕や妹の友人を家に入れることがなかったため、野球盤を友人と一緒に遊んだことがなかった。野球盤を一人で遊ぶのはなかなか大変だ。

小学生は、「手打ち野球」というものを春から夏にかけて遊び、秋から冬にかけてはサッカーを楽しんだ。

「手打ち野球」というのは、狭いダイヤモンドで、カラーボールというゴムボールを使い、バットの代わりに軍手をした手を使うスポーツだ。チームは二人のリーダーが「トリトリジャス」というじゃんけんで、クラスの生徒たちをドラフトして九人対九人の組を作る。面白いお約束ができていて、二人のリーダーのうち一人は、いわゆるガキ大将・・・の都会化された感じの男子だった。そして、もう一人のリーダーは、クラスでの位置づけが「第三位」である。

なぜ三番目なのか、それは、都会化されたガキ大将が、「トリトリジャス」で必ずグーを出し、三番目の男の子は必ずチョキをだすことが、パワーバランスによって暗黙の了解と決まっているからである。ガキ大将はクラスでのスポーツの位置づけが「第二位」の、運動神経が非常に良いメンバーをまずチームに取り込んで、後は適当に七人選ぶ。もう一人のリーダーは、仕方なく、比較的脚の速かった僕をドラフトする。つまり、僕は、手打ち野球においては「第四位」ということだ。

僕には必勝の出塁方法があった。もともと握力が弱く、手のひらも小さい僕は、外野までは、カラーボールと言えども飛ばすことはできなかった。そのため、手のひらをカラーボールに触るだけという、「バント走法」を開発した。バントしたカラーボールを、敵が追いかけて一塁に送る間に、小さなダイヤモンドでは、僕の脚の方が余裕で間に合ってセーフになる。

出塁率は実に九割を超える。それが理由で、二人目のリーダーは僕をドラフトするのだ。体は細く弱く、握力もない僕でも、役立つことがあるのだ。だが、もちろんというか、小学校の休み時間は二十分しかなく、ガキ大将のチームが先攻なので、僕は一塁止まりで休み時間を終える。


小学校三年生のとき、とあるサッカーマンガが大ヒットした。日本中の子供たちが夢中になり、各地のサッカー少年団は、ものすごい人数に増えたという。

その頃テレビでは、「ダイヤモンドサッカー」という番組しかサッカーを放送してなくて、現在では一大イベントのFIFAワールドカップでさえ、NHKの深夜に「W杯」と二文字で、番組放送予定が書かれているだけで、マラドーナの活躍だけがニュースになり、他は簡単にまとめられた。もちろん、日本は出場していない。

それでも、そのサッカーマンガの影響で、サッカー人口が膨れ上がり、子どもたちは野球とサッカーを半々でやるようになっていた。

僕は両親にお願いして、サッカー少年団に入った。近くの小学校のグラウンドで、土日に開催していた少年団だ。

「地域にサッカーを根付かせよう」という、近所にあった大学の先生が、苦労して立ち上げた少年団だった。コーチはその大学のサッカー部の方々だった。

その時代は当然の如く、「水を飲んではいけない」「とにかく走れ」「休んだらレギュラーを外す」という、コーチはとても怖い存在だった。各学年四十人くらい在籍していて、公式の試合(○○杯)みたいなものには、十五人しか選ばれない。

僕は入団当初、小学生のお団子サッカーにおいて、結構得点を取れたので、期待の新人とコーチたちに持ち上げられ、いい気になっていた。全学年が集まる年始の「集会」で、ジャージのポケットに手を突っ込んでいたら、「マツウラ!なんて格好しているんだ!」とこっぴどく怒られた。

小学校六年生のとき、全国大会があった。

普通、全国大会と言えば、各県の予選を突破した強豪チームが出場するものだが、その時の「第一回草サッカー大会・沼津」は、申込みを出せばどんなチームでも出られる大会で、しかも予選のリーグ戦試合成績に応じて、全チームが同じ試合数を経験できるという、画期的なものだった。

全部で二五六(見事な数字だ)チームが参加したが、トップのブロック十六チームはエキシビジョンマッチ的に決勝トーナメントに進み、優勝決定戦に目指す。その他のチームも、敗退ではなく、強いチームは強いチームと、弱いチームは弱いチームと戦えて、最後は、参加した選手全員が、プロが使うような大きなスタジアムで、「草サッカー最強」のチーム決定戦を見届ける。

記念すべき第一回大会の決勝は、サッカー王国静岡県の2チームで争われ、結果、現在のJリーグのジュニアユースの母体の少年団が優勝した。

僕はチームのキャプテンとして大会に参加した。と、偉そうに言っても、一軍と二軍で、二チーム分の参加要望を事務局に出したので、下手っぴな中でも練習は真面目に受けていた僕が二軍のキャプテンに選ばれたのだ。

しかし、ずっとフォワード(最前線で点を取る役割)を三年間やってきたのに、コーチの作戦は、「キャプテンなんだからマツウラはスイーパー」だった。背が低い僕(しかも、メガネをしているからヘディングすると眼鏡が壊れる)がスイーパーだなんて・・・、かなり葛藤があった。ちなみに最近の若い人たちは「スイーパー」という役目がわからないだろう。ディフェンスの最後尾・ゴールキーパーの眼の前でゴールを守る役割だ。


初戦は、埼玉県のサッカー少年団だった。スタメンの倍ぐらい補欠がいて、少年団特有の応援を繰り広げていた。

『佐藤のドリブル強い!(強い!)、南葛・岬もたまげた!(たまげた!)』

こんな応援を四〇分間ずっと繰り広げる。グラウンドにいるレギュラーの名前を延々と挙げて応援していた。予選はランダムな組み合わせで、正直、とても強かった。僕のチームは十五人しかいないため、応援またはヤジも言う人はいない。それに二軍だから圧倒的に弱い。

初戦のグラウンドは、沼津市内の小学校だった。イベントとして気を配ってくれたのか、その小学校に通う放送委員の女の子が三人で、グラウンドで得点が入る度に、得点者の名前を呼んでくれるようになっていた。

『只今の得点は、☓☓サッカー少年一〇番の佐藤くんです。一対〇で☓☓サッカー少年団がリードしています。』

これが放送委員用原稿の定型文だったが、僕のチームの初戦は悲しいことになった。

「ピピー!ゴール!」審判がホイッスルを鳴らして言う。☓☓サッカー少年団が圧倒的なチームワークで僕たちのチームを翻弄し、開始三分で早くも一点入る。「只今の得点は、☓☓サッカー少年団佐藤くんです。一対〇で☓☓サッカー少年団がリードしています」

二点目が入る。

放送委員「只今の得点は・・・」、

審判「ピピー!ゴール」

放送委員「た、只今の得点は、☓☓サッカー少年団9番の田中くんでし・・・」

これで三点。

審判「ピピー!ゴール」

放送委員「プ・・プププ・・・ただ・・・今の得点は・・・ププ・・・☓☓少年団の・・・」

僕たちのあまりの弱さに、ついに少年団名も短くカットして、笑いを堪えながら放送している。あまりにも短い時間で、得点がバスケットのように入る。四〇分という小学生の標準的な試合時間で、僕たちのチームは、十四点取られた。

最終結果は十四対一である。僕のチームの一点は、僕が泣きながら相手のゴールに叩き込んだ。コーチは、「マツウラ!お前スイーパーだろ!ポジション守れー!」と、発狂していた。

その試合も含めて予選リーグ四戦四敗で、二次リーグも全敗にて二四一位という成績で大会を終えた。十六の倍数が分かっている人はピンと来るだろうが、要は最下位グループタイ、十六チームのうちの一つということである。

決勝戦を大きなグラウンド(その頃には『ピッチ』と呼ばれることはなかった)の観客席で見ている最中、主催の新聞社の記者が、キャプテンの僕のところにやって来た。

実は、僕のチームが、少しばかり美談の対象に指定されたようだ。恐らく、全敗しているチームから選んだのだろう。僕たちの知らぬ間にコーチが取材を受けていた。

コーチは泊まっている旅館の部屋を掃除することの意義をメンバー全員に共有し、僕たちは特に何も考えずに、過剰なほどピカピカにしていた。靴がちょっとでも揃ってないと叱られたし、食事が終わったときの全員の食器の集め方、重ね方、おしぼりでテーブルを綺麗にすること、など全てきちんと実行した。

後日、新聞のスポーツ面を見ると、コーチの言葉で『サッカーだけ上手くなればいい、ということは教えていません。一人の人間として、きちんとしてほしいのです』と書かれていた。

キャプテンの僕は、いくつかの質問を受けたが、新聞記者の思う通りの回答を出せなかった。例えばこんな質問だ。「今回の大会で、他の県のメンバーと仲良くなって、文通しようっていう約束はしてないの?」

大人になって分かることだが、新聞記者というのは、予めウケのいいネタを頭に浮かべておいて、裏取りをするのだ。それが先に分かっていれば、「ええ!三人と文通することになりました!」とすらすらフェイクを答えられたのに。小学校六年生の僕は、そこまで大人の社会を分かってなかった。

大会遠征初日、☓☓サッカー少年団と対戦する前、沼津は大雨で雷も鳴り続け、サッカーができないほどだった。

高知県から来たチームが同じ小学校のグランドで待機していたのだが、体育館に避難して、子どもたちがじっとしてらいれない、我慢してられないと見ると、各チームのコーチたちを集めて、暇つぶしを模索した。この時代のコーチたちは、教育者並みに子どものことを考えてくれていた。

話し合いの結果、高知県のチームのコーチが、「みんなで阿波踊りをやりましょう!」と言って、子どもたちの興味を惹いてくれた。

一時間ほど手ほどきを受け、みんなで円になって、地元の人よりはもちろん下手だけれど、ちゃんかちゃんかちゃんかちゃんかの音に乗って、なんとか手を回し、膝をくねらせ、阿波踊りで時間を潰した。よく阿波おどりのカセットテープなんて持っていたものだ。高知県の人はみんなそうなのか?

僕のコーチは「マツウラ、お前結構阿波踊りできるじゃないか」と褒めてくれた。このエピソードを新聞記者に話せばウケたかもな、と後で思ったものだった。


そういえば、沼津への遠征中に、チームメイトの何人かの母親が激励と見学に来てくれた。二日目に僕の母親が、予告なしにみかんを差し入れがてら来てくれて、少し誇らしく思った。

母親は常に父親に虐待されていて、いつ自殺するかもわからなかった。僕は毎晩、布団に潜りながら、部屋のドアを半開きにすると、直接見える台所を監視していた。辛そうに洗い物をし、涙を流し、包丁をじっと見つめている毎晩だった。三鷹に住んでいるころ、雪の中を裸足で飛び出していった記憶で僕は震え上がり、どうか母に何も起きないようにと、ずっと監視していた。

大人になって、精神科医と一時間のセッションをしたときに気づいたが、僕の不眠症は、その頃から始まったと思う。とにかく、長いこと布団にいるが、眠気が襲ってくるのは母親が部屋に戻った朝方だ。

当時の社会的常識として、「睡眠薬」は、殆ど「自殺」に使うというような間違った風潮があり、「不眠症」という単語すら、僕の周りにはなかった。夏休みにラジオ体操という文化が、ご多分に漏らず僕の周囲にもあったが、僕は、父親に無理やり六時に起こされて、六時半のラジオ体操に間に合うように家を出ろという指示が、とてつもなく辛かった。

朝方にようやく浅い眠りについて、一日に唯一の貴重な睡眠が取れる時間に無理やり起こされる。しかも平手打ちで、だ。僕は玄関で泣く。まだ起こされてから十五分しか経過してないから、二度寝ができるのではないか。小学校に行ってラジオ体操したら、目が完全に覚めてしまって、また二十四時間ほど起き続けなければいけないのか。そう毎日思って、玄関前で横になったりして抵抗していた。

そんな父親から辛い目に遭わされていた母親が、無理やり笑みを浮かべながら、みかんをチームメイトに配ってくれた。川崎から沼津まで、少しは旅行気分を味わえただろうか。コーチも「遠くまでありがとうございます」と紳士的に対応していた。

その時のみかんが、人生で一番甘く感じた。大人になって、デコポンとかパール柑とか、美味しい柑橘類は食べたが、僕にとってのみかんは、あの小学六年生の夏、沼津で食べた母親のみかんだ。


現在社会ではどのくらいのパーセンテージか分からないが中学校受験というものがある。小学校から中学校に上がるには、地元の公立に行くか、私立に行くかを考えなくてはならない。

僕の団地では、クラスにいる私立志望はまだまだ割合が低く、数人というところだった。テニスの強い学校を志望する人、将来国立上位の大学に進むために進学校を望む人、性格上の問題から絶対女子校がいい、女子校以外考えられないという人。それは数えるほどで、人数的にはマイナーだった。

彼ら彼女らは、当時隆盛を誇っていた全国展開の進学塾(専用のバッグに『N』と書いてあるのが象徴だ)に通い、小学校の規定の教科書ではまるで習わない、特に算数を中心に勉強し、狭き門を目指す。

ただし周囲は、「あの人は私立狙っているから」と言ってはいけない空気になっている。一度僕が、授業中に仲が良かった友人の女子を名指しして、「○○さんは私立受験だから」とぽそっと呟いたところ、担任の教師が烈火の如く僕を糾弾した。事実を呟いてなんで悪いのだろうといつまでも腹落ちしなかったが、私立を目指す人はそれだけ僕の団地では珍しい存在だったのだ。

僕も、なんとなく、Nのマークの塾に行きたかった。それを両親に伝えた日、僕は思い切り父親に殴られた。当時、父親は、銀行マンとして、約八〇〇万稼いでいると言っていた。小学生の僕にとっては、それがどのような価値かは全くわからなかった。その収入で塾に行けて私立に行けるのか、それとも極々一般的な収入で、貧乏ではないけど公立に進むものなのか、知らずに相談しただけだった。その後、塾の話は暗黙の了解で禁止になった。

小学校四年生で塾を志望して、殴られてその話題はなくなり、小学校六年生になった頃には、私立受験の生徒とは決定的に、自分の置かれた位置が低いということを理解した。

僕を叱った担任は、なぜか算数と理科の授業で、数少ない私立受験組を黒板の前に出して、問題の解き方を説明させていた。他の生徒が未習の単元を、塾に行っているから解き方を知っている私立受験組が、みんなの前で説明するのだ。

「この問題は『点対称』を使って解きます」

と、私立受験組の一人が説明を始める。ところが、学習の進度的には、線対称も点対称も習っていない。よって説明はチンプンカンプンだ。なぜ担任が私立受験組の数名ばかり指名したのかは全く分からないが、クラスの大半は「お金持ちって勉強もできるんだな」と、不公平をぼやいていた。

そんな軽い人生のすれ違いを感じながらも、掃除の時間には、毎日なにかしらのディベートをしてた。高度な内容ではない。野球が人気だった時代だから、PL学園の桑田と清原の、どっちがジャイアンツに入るか、ライオンズとジャイアンツの日本シリーズはどちらが勝つか、芸能関係では光GENJIとチェッカーズどちらが好きか、エンタメの分野では北斗の拳とドラえもんはどっちが面白いか、そんな下らない争いだ。

光GENJIは昭和最後のアイドルと呼ばれ、短い期間ながら圧倒的な人気を誇り、追いかけるファンの過激な行動が社会現象となった。僕の周りもみんなローラースケートを買い、誰が光GENJIの○○を担当するという感じで、「ガラスの十代」の振り付けを中途半端ながら踊った。自宅で何度も何度もビデオを巻き戻しして、テレビ画面で習得したためみんな揃って左右逆に振り付けを覚えて、それでも楽しく踊っていた。

ちょうど、近所に新しい戸建て用の土地が開発されていて、まだ上モノの物件が何も建ってなかったので、人もおらず、ローラースケートが安全に滑り放題だった。僕はサッカー少年団と並列して、体操を地域のスポーツセンターで習い、光GENJIがやっていた「バク転」をできるようになった。日体大の先生が担当で、バク転の次は「バク宙」「ローンダートバク転バク宙」を教えてくれたが、どうも上手くできないまま卒業してしまった。

光GENJIの次の世代はSMAPで、元々は光GENJIのバックで踊っていたのが、満を持してデビューした。しかしながら、光GENJIとの比較で見てしまうと、ややキャラの押し出しが弱く、ローラースケートの次に流行らそうとしていたスケボー(スケートボード)も、意外と操縦が難しく、僕の周りでは流行らなかった。

その点を考慮したジャニーズ事務所は、SMAPを、次世代の総合型アイドルとして、マルチに動き回れるように売出した。テレビでコント兼企画兼曲紹介の番組を始めて、光GENJI以前にはなかった「各メンバーの人間らしい、楽しい個性」をきちんと表現し、ドラマ・司会者(MC)・お笑いと一人ひとりが強みを持って、日本のトップアイドルに昇り詰めた。


小学校には凄惨なイジメもあった。クラス全員が、ある一人の女の子を、「汚い・臭い・死ね」と追い詰めていた。担任は、何度もクラス会議を開いて、「△△さんはちゃんとお風呂に入っていますし、歯磨きもしていますよ!なぜ・・・なぜみんなでイジメるんですか?」と嗚咽を上げていた。僕は四年生からずっと学級委員だったので、本当は止めたかった。しかしながら、周りの環境がそうさせなかった。

四年生で学級委員になったときに、一つだけ決めたことがあって、女子に関しては、「名字+さん」で統一することにした。つまり、呼び捨てを止めたのだ。もちろん、男子から呼び捨てされることを当たり前に思っている女子もいる。カッコいい男子相手なら余計そうだろう。そういう所でもカーストは成り立っているのだ。

僕が「名字+さん」に呼び方を統一すると、クラスの男子の、特にイジメっ子たちは、僕を攻撃してきた。手打ち野球に使うカラーボールを取り上げられて、その数人で投げ回しては僕を泣かせる、遊ぶ場所を指示しておいて、誰も来ない。

そんな風に、自分がまた追い詰められると思ったら、例え学級委員であっても、うかつな擁護ができるわけない。人間としては間違っているが、小学校の児童としては、処世術として、イジメ側の方に寄るしかないのだ。

イジメられていた女の子は、六年生が終わり、卒業式まで出て、僕たちが誰も知らない中学に入学したらしい。その情報は、地域では一切タブーとなっていた。振り返ればそんな凄惨な状況でも女の子は休まなかった。強かった。一体どれだけの傷を背負って学校に来ていたのだろう。両親はどう思っているのだろう。

そのイジメられた女の子に、一学年上の兄貴がいるのだが、子どもは無邪気で不愉快なものだ。その兄貴は人気者だった。

解せなかった。では一体何を根拠にイジメたのか、イジメられいた僕は感じていた。

これは国全体でも、どこまでも続くのだろうか。現代でもイジメを認めない校長は多い。イジメを認めると退職金でも減らされるのだろうか、担任の給料が下がるのだろうか。

現代になってもこの問題は根深い。僕は一つの提言を読んだことがあるのだが、イジメが発生したら、イジメっ子を隔離すべきだと言う人がいた。イジメられた被害者が勝手に、とは言え苦悩の上に、自宅に引きこもる登校拒否状態になると、教室では次のターゲットが生まれて、悪循環になる。それならいっそイジメの主犯を別教室に隔離し、教育は個別で実施する。こうすることで教室の生徒たちはホッとして緊張しなくなり、イジメられっ子も復帰しやすい。そんな提言だった。極々普通の生徒たちが笑顔を浮かべられる状況を作るにはこの方法がベターかと思う。


小学校六年にもなると、友人同士で、「好きな人」について語るのが一つの大人の階段だ。「絶対内緒だよ」とお互い約束しても、そのうち漏れてしまうことに苦笑するが、僕も同じ団地の女の子を好きになって―無論「愛」なんて知らないけど―眺めているだけでほんわかと幸せだったし、割り算の筆算を教えてあげたときは「いいとこ見せた!」と興奮した。僕はひょろひょろで髪型もただのスポーツ刈り、服装は何も気にせず、毛玉のたくさんついたジャージばかり着ていた。だからその女の子に興味を持たれることもなかったけど、「初恋さん」だった。その子とは、高校まで同じ学校だった。高校生のときに同じバスで、恋愛話をした際に、「初恋は君だったんだよ」とサラリと言ってみたが、「らしいね」と笑顔で返してくれた。女子はそういうものに鋭いのだ。


第二章


中学校は僕の家から三分だったが、毎日起きるのに苦労した。八時四〇分から授業だったと思うが、いつも遅刻ギリギリだった。どう表現すれば伝わるだろうか。朝方まで母親を見守って、浅い睡眠を取る。ようやくノンレム睡眠に入ったあたりで起きなければならない。僕にとっては、そのノンレム睡眠が唯一の幸せの時間なのだ。

夕食を食べていると、突然父親が激昂し始め、ちゃぶ台を叩きまくる。同時に僕の胃は痙攣をし始め、食欲はなくなる。その後に両親での喧嘩が始まる日もある。そんな中、睡眠だけが、僕に許された休憩時間だった。

その頃から家計を助けるために、母がパートを始めたので、僕と妹はいわゆる「鍵っ子」になった。僕一人か、妹の幸子と二人で静かな家にいると、ホッと落ち着いた。

しかしながら鍵っ子になったこの時期、僕の性格が奇妙になった。妹に当たることが多くなってきたのだ。なぜだか分からなかったけど、妹の行動に一々ケチをつける性格になった。

夕方になってお風呂に入ってないと「風呂に入れ!」とばかりに無理やりセーターを脱がせようと引っ張ったり、大声で恫喝したり・・・。父親の普段の態度をコピーしたみたいだった。

「虐待は遺伝する」と何かの本で読んだことがあるが、普段見ている光景が、例え反吐が出そうでも、何かのスイッチが入ってしまうと、自分が攻撃側に回ってしまう。それは自分でも恐怖であったが、止められなかった。年月が過ぎてそういうことはなくなったが、妹には悪いことをしたと思う。今でも、妹は僕と一定の距離を取る。

その事実から推測するに、多分僕は、子供の頃から不遜で陰険な人間なのだ。しかも大人になってそれに気づいていても、いつもその傲慢とも言える性格で、他人に不愉快を与えている。迷惑だけはかけたくないと思って生活しているのに、結果的には、貢献したよりも何倍もの迷惑をかけてしまう。

その証拠に小学校でイジメられていた僕が、中学校二年生のとき、体の小さな、そして控えめな性格の男の子を、最初は意図せずイジメてしまって、担任と話し合ったことがある。

ある日の音楽の時間に、横に並んでいたその男の子が、「口パク」をしていることに、(関係ないのに)カチンときて、責めてしまった。男の子は「ちゃんと声出している」と反論したが、わけもなく「ムカついた」僕は、二週間ほどの間に、何度かその男の子に向かって飛び蹴りをしていた。暴力だ。

周囲の友人からも、イジメられている男の子が可愛そうだとの進言があった。なぜなのだろう。子どもというのは、そういう意味のない衝動が、いつの間にか走ってしまうのだろうか。それとも、自分の体型よりも小さい人を、淘汰するような本能が人間の子どもにはあるのだろうか。僕の持論に依れば、僕は他の教室に隔離されるべきだったし、その男の子が平穏に過ごせるように担任は厳しく僕を責めなければならななかった。飛び蹴りは暴力なのだから、警察を呼んでもいい。母親というのは、自分の子供は悪いことをしないと思い込んでいるから、警察を呼ばれたらさぞかしショックを受けるだろうが、本当はそういいう措置をしてもらってよかった。しかし、中学卒業時の内申書には、そんな悪いことは書かれていなかった。


どこの社会(会社)にも、新人・ベテラン・老害がいるものだが、中学校もそうだった。小学校は、担任がどの科目も担当するし、場合によっては複数年担任を務めるから、「教師の質」なんてものは、比較対象がないので考えもしないが、中学校は各教科で異なるので、比較しやすい。僕は、小学校六年生から取り寄せている、某有名通信教育のテキストを、英語の授業に持ち込んで、教科書と通信教育のテキストを同時に机に置き、学習を定着していこうとしていた。入学から一週間くらい経って、新人の英語の女性教師から、「こんなもの(通信教育のテキスト)は必要ない。持ち込なくてよろしい」と強く言われた。しぶしぶ納得してカバンにしまったが、ある日変な出来事があった。

「今日はWhichを使った文章を学びましょう」

もちろんもっと砕けた口調だが、授業の冒頭にそう話して、新人の英語女性教師は授業を始めた。

そして、

「Whichという疑問文で聞かれたら、まずはYes/Noで答えます」。

と説明した。

その瞬間、僕は通信教育で習ったことと違うことに気づいた。一言でいうと、中学一年生の英語においては、Whichを使った疑問文には、「Yes/Noでは答えられない」が真である。よもや中学校の先生が間違っているとは思わないから、質問してみた。

「先生、Yes/Noでは答えられないと習ったんですが」

そうすると新人女性教師は、

「あなたはあの妙な参考書を見てそう質問しているんでしょう。前にも言ったはずです。あの参考書は見なくてよろしい」

彼女は「~しなくてよろしい」が口癖だった。けんもほろろに抑え込まれた僕は、自分の記憶を書き換えなければならないなあと、勉強で初めて躓いた。

次の英語の授業のとき、新人女性教師は、なんと訂正をした。

「前回の授業で、Whichを使った疑問文では、Yes/Noで回答すると教えましたが、今のところ回答しません。」「でも言うでしょう?『りんごとバナナどっちが好き?』って聞かれたら、『はい、りんごです』って」。

僕は呆れてものも言えなかった。新人だから、教科書の説明を間違って板書したことはまだ許せる。ただ、人の学習方法(この場合は教科書と通信教育をミックスして学習を定着させること)を否定し、はっきりと間違っているのにそれは謝罪せず、更に、日本語の相槌の「はい」を「Yes」とごまかして、間違ったことを認めていない。世の中には、とんでもない教師がいるものだと思った。


老害は国語の先生だった。僕の中学校は、一学年四クラスで、二年生までは四クラスとも、同じベテランの教師で、中間テスト・期末テストともに、その教師が作問していた。四クラスの平均点や中央点も、当然だがしっかりと統計が取れていた。

しかしながら、引退寸前の教師―教務主任でも総務主任でも生活指導でもない、管理職にもつかずに生涯一教師―が、三年生の時に僕のクラスの三年一組のみ、担当することになった。

去年までの先生とは、「国語」の教え方が違う。古典に詳しくて色んな知識を話してくれる。「万葉集」の成り立ちと裏話について、こんこんと説明して、万葉集研究発表大会を開催する。それだけに何時限もかける。当然、他のクラス(三年間同じ国語教師)の進度と異なって、定期テストの度に未習分野がでる。魯迅の「故郷」はテストが終わった後に習った。進度が異なるというのはいいのだろうか。こういう授業は予備校の古文の先生だったら評価されるかもしれない・・・いや、やはり評価されないだろう。万葉集について国文学者が大学で講義するなら、よい先生かもしれない。

更に、その老害先生の許せないところが、中学三年生の国語のテストなのに、「ひらがな」「カタカナ」を、まるで書道の授業のようにチェックし、字そのものに対して減点するところだ。

選択肢問題で答が「ア」だとしよう。そして、僕が「ア」を選びカタカナで解答用紙に書き込む。採点のときにその老害先生は、「ア」が下手という理由で、バッテンになる。こんなことが信じられるだろうか。

中学三年生の定期テストは、内申点に直結する。僕のクラスの国語の平均点は、教師が一人で全四クラス全てを担当していた去年と比べて、三〇点下がった。

僕は字が汚かったので、解答は合っているのに減点されまくった。ちなみに、硬筆検定を受けて、傍から見てもとても字の、特に楷書はすごく上手い母親は、訂正してある老害先生の字自体を

「きったな!」

と言って憤慨していた。

「こんなやつに文字を訂正、添削する資格あるのか」と、「受験に関わるんだけど」

と言って、学校にクレームを入れていた。今で言ったら、いわゆるモンペ(モンスターペアレント)に近いかもしれない。


高校受験に関しては、両親が別々に動いて、担任を困らせることになった。

僕は第二次ベビーブーム・団塊ジュニアだ。後には「氷河期世代」となる。両親は団塊世代で、母親が一九四七(昭和二十二)年、父親が一九四九(昭和二十四)年生まれだ。

僕の学校の進学指導には、決められたパターンがあった。それが政治的なものなのか、僕からはわからなかったが、父親がまず啖呵を切りに学校へ足を運んだ。

担任は、「県立K高校を受けるんだったら、滑り止めには私立S高校を受けてください」と機械的に言った。県立K高校を受ける十五人(なぜか毎年人数が決まっている)は、全員私立S高校を3万5千円払って滑り止めに受験する流れに、毎年なっているらしい。

ところが父親は、自分の体験を話した。親としてと言うよりは、どちらかというと、社会人・銀行マンの態度で担任を、まるで部下を諭すような、あるいは叱るような口調で話し始めた。

「俺は熊本県出身で、中三の夏に全県統一の模擬テストを受けた。その結果は五〇位だった。一方、目標としていた熊本で一番の公立高校は六〇〇人募集していた。どう考えても受かるから、滑り止めの私立なんて受けない。それにその私立は大学の付属校だろう。三年後にその大学に通わせるつもりはない」

今後も至るところで受験のことではぶつかる父親と僕だが、まさか二十五年前の、しかもどちらかと言えば地方である熊本県の受験体験を話されても、担任も僕も困ってしまう。

しかし、教師の価値は落ちたものだ。

児童書で「三太物語」という本がある。ずっと昔の話だが、主人公三太の担任の、花荻先生という若くておっちょこちょいな女性が、地域では高等女学校を出ていることで、尊敬されている。しかし、一九八〇年代には、大方の親が教師より社会経験が長く、学歴の差なども相まって、尊敬される存在ではなくなった。僕の父親は、日教組を「諸悪の根源」と敵視しており、その分、説得も厳しかった。

当時、神奈川県は、ア・テスト(アチーブメントテスト・中学二年生の三月)という九教科のテストがあり、それも受験の評価に使われた。そして、人口の多い神奈川は、学区を細かく分割していた時代であり、公立高校自体の評価は決して良くはなかった。

なぜなら、学区がいかに分割されていても、受験の問題は神奈川県で共通だからである。一科目五〇点満点だが、基礎的な問題が多く、ほとんどの人は五〇点を取ってしまう。数学の第一問は足し算と引き算だ。間違える人はほとんどいない。二十五年前の、熊本県での一発勝負とは違いすぎる。

僕は今だったら父親に、昨今の高校受験というものを説明できるかもしれないが、その頃は論理立てて銀行マンの副支店長を説得する能力も度胸もなかった。例えば、東京都立で一番歴史が長く、かつては国立上位大学に相当数送り込んでいた、ネームバリューの高い高校が、東京都が学区制を導入したために、レベルが著しく下がり、国立上位大学への合格者が大幅に減ったことなど、父親にとっては他山の石で、理解できないだろう。

担任は、最終的には、私立大学付属校のS高校を僕に受験させることは諦めた。ノルマでもあったのだろうか。リベートでもあったのだろうか。他の十四人は、特に問題なく受けてきて全員合格していた。

また、担任は、体育の先生だったからなのか、県立高校より上位の私立高校受験については、特に何も指導しなかった。そこは自己責任というわけだろう。

そこまで大方の話は片付き、学校との三者面談は終了した。

父親は次に、僕が中学校一年の冬から通っている進学塾にアポを取り、母親と共に塾に赴き、通える範囲の私立高校の合格可能性を塾長から聞き出した。

塾長の見立ては、あまり良いものではなかった。大学の付属高校を見立ててもらったが、どれも「挑戦校」というレベルで、合格可能性は三割から四割程度とのことだった。七割程度の合格可能性がある、と塾長が見立てた高校は、当時は大学付属校ではなく、系属校と定義されていた時代で、最終的な目標である私立大学への推薦割合は、生徒のうちの八割とのことだ。二割は落ちこぼれて、下位の大学を自分で選択しなくてはならない。

野球で有名な高校だったので、父親の中では魅力的だった様子だが、母親と僕にはそれほど魅力的ではなかった。

他には、大学付属校ではないが、国立大学に多く進学させている新進気鋭の私立高校が自宅の近所にあり、候補に挙がった。

しかし塾長が、

「この高校は男女別学で、非常に校則が厳しく、恋愛なんてもってのほかです。勉強漬けですし、マツウラ君にはあまり向いてないんじゃないですかね」

と笑いながら言って、そこも候補から外れた。学費がとても高く、パーソナルコンピュ―ターなども揃えなくてはならないというまことしやかな噂があって、我が家の経済状況的には厳しいと判断された。

母親は、パートの収入の中から自腹を切って、塾の最後の、追い込みオプション講座の受講料を払ってくれた。そこでひたすら私立高校の過去問をこなしながら出願先を探した。

最後の追い込み講座で、問題傾向を見ると、一つ行けるかもしれない候補が出た。

すったもんだしながら、第一志望の私立高校が決まり、もう一つ挑戦校に出願し、二校で七万円の受験料を払って、最後に受験料の安い県立K高校に出願した。

行けるかもしれないと思った高校の国語の出題傾向だが、「雑学」が多かった。本番で、僕が間違えた雑学を書いておくと、「常磐津」「博打」などの読み仮名だった。知らないので「じょうばんづ」「とばく」と答えておいた。「とばく」は惜しかったなあと後悔した。

我ながらよく正解したと思ったのは、「栗よりうまい(    )」という問題だった。

僕の家は、母親がマンガを許可してくれなくて、「ドラえもん」ですらコミックスを買ってもらえなかった。仕方なく、友達の家に色々遊びにいっては、「キン肉マン」や「ドラゴンボール」「明日天気になあれ」などを読み漁らせてもらった。

しかし、「まんがタイム」という、植田まさし先生がの描く「おとぼけ課長(現在はおとぼけ部長代理かな)」が掲載されている四コママンガだけは買い与えてくれた。ああいう雑誌は月間だから、何年も続けていると、季節ネタが重複する。「栗よりうまい十三里」は色んな四コママンガで読んだことがあって、正解できたのだ。

本番の数学も、ひどい後悔をした。いつも数学の定期テストは解答を始める前に、全問題をチラッと見て、時間配分と、問題の解き順を計画するのがだが、本番でA3の問題用紙を「始め!」とともに開いたところ、ぎっしり大問が6問出されていた。かなりテンパっていて、なぜか大問1から順番に解いてしまった。時間一杯になるまで、大問6問を全て終わらせて、頭脳をほとほと疲れさせて、なんとか解けた!と思ってA3の紙を畳んだら、裏面にもう一問、第7問があった・・・。

しかも3進法と確率・統計というすごい組み合わせだ。

『0,1,2が2つずつ振ってあるサイコロがあります。それぞれを転がして順番に出た目を6桁の数字に・・・』

こんな問題が書かれていて、小問5問あった。受験をしたことある人はよく分かっていると思うが、大問の中の小問は、(1)とか(2)くらいまでは、基礎問題で平民でも時間さえかければ解けて、それ以降の小問は、発想の転換が必要な、難問となっている。しかし、その日の僕は、大問6までで時間を使い果たしてしまって、もう問題すら頭に入らない時間だった。

そうして、明確なミスを犯したことを心のなかで後悔し、「受験っていうのは1点差に何人もいるんだ。あんなに間違えて更に空欄なんか作ったらもうダメだ、落ちた」と自分で結論づけて、県立高校の対策に切り替えた。ちなみにもう一校の私立の挑戦校は、英語が手も足もでなかった。

第一志望の合格発表日、僕は落ちたと確信して家を出なかった。見かねた母親が、辛い体調だろうに、わざわざその高校まで合格者掲示板を見に行ってくれた。携帯もピッチもない時代だから、帰ってくるまで結果はわからない。社会と理科の、県立高校用の用語集を覚えていたときに母親は帰ってきた。開口一番、

「補欠合格の二十五番目だったよ」

もし、「ときわづ」と「ばくち」が合っていたらどうなっただろう・・・、数学の大問7の小問一つでも解いたらどうなっただろう・・・、本番で出る実力が真の実力、模試の成績なんて関係ない、塾の講師はいつも僕たちに言っていた。結局、辞退する人が二十五人以上いなかったようで、僕は県立K高校に進むことになった。


第三章

 

高校は、川のほとりにあり、暇つぶしに河原に行くことも多かった。高校生はそういうセンチメンタルな部分もあっていい。入学当初、面食らったのは女子(二年生・三年生の先輩)のスカートの短さだった。と言っても、ただの膝上一センチで、ミニスカートと呼ぶほどでもないのだけれど、中学校の見慣れた制服からしてみれば、一気に大人の世界に入った気がした。

現代はどうなのだろう。なんとなく膝丈で落ち着いているような気がする。一九九〇年代のコギャル文化の太ももが見えるような短さはもうない・・・ような気がする。昨今では痴漢冤罪とかが多いので、小心者で一般人の僕はそんなに女子高生を見つめたりしない。むしろ視線を向けないようにしているから分からない。電車に乗るときは、両手をつり革にかけて万一の事態を予防する。

入学初日、サッカー部の新二年生が直接僕の机に来て、勧誘を始めた。中学校時の部活、そういう情報は、内申書かなにかで高校側もつかんでいるのだろう。当時のサッカー部顧問は、女子生徒にはすこぶる人気の、今の言葉で言うイケメンだったが、部活になると竹刀を手に、鬼の訓練を課す人だった。

体育館で行われた新入生歓迎会では、各部活の紹介があったが、サッカー部は、出演自粛状態にもう何年もなっているらしい。自粛というか、出入り禁止とのことだ。

大体の学校で、サッカー部というのはそういうものである。ふざけることが好き、リーダーシップを取るのが好き、下ネタが大好き。教育上良くない一面が多数見受けられるが、僕の高校は生活指導なんてものは何もないので、結局各部活の演目に、勝手にサッカー部が混じってふざけたり、幕間にホモの性行為の真似をしたりと、あまり僕好みではなかった。

その頃、テレビでは、「ダンス甲子園」という企画が大流行していて、僕に鳥肌(鳥肌というのは元々マイナスの意味だが、昨今では感動するときも鳥肌と表現したりする)を立たせた。ローラースケート部やダンス部みたいな部活がないかと歓迎会を見物したが、体操部くらいしかダンス要素がなかった。一応バク転だけはできるので、体操部に仮入部に行き、熱心に誘われたが、女子生徒のレオタードの魅力にも抗って、結局サッカー部にした。

新一年生は、毎日昼にグラセン(グラウンド整備)がある。一年三六五日、一〇〇メートル×七〇メートルのグラウンドを、二人組になって「トンボ」で削る。トンボの底辺を抑えて砂をガリガリ削る。砂を元に戻す。三平方の定理を使って、コーナー(グラウンドの隅)を九〇度に測り、ラインを石灰で描く。ボールの空気を毎日抜いて、昼に空気を入れる。これを十三人で四十五分の昼休みの間にこなす。弁当は三時限が終わった後の十分休みにかきこむ。

僕のグラセンのパートナーは同じクラスの人だったが、僕の自律神経及び不眠は中学時代に比べても悪くなっていて、七割くらいしか学校に行けなかった。しかし、学校側は自由な校風で、教師も生徒に信頼を寄せていることから、授業を休んでも親に連絡が来ることはなかった。僕が休むと、グラセンをパートナー一人でやらせてしまって、その現実を忘れたくて、罪悪感を解消するためにひたすらベッドに寝ていた。だが眠れないので、冷蔵庫からこっそりビールを出して、少しずつ飲んでなんとか眠気を引き寄せた。この頃から、現代で言うアルコール依存症が始まった。

父親が暴れて心が傷ついたら、小田急線に乗って江ノ島まで行き、売店でタバコを買って、頭をクラクラさせて傷を癒やした(つもりでいた)。母親も同様の苦しみを背負っていたので、僕が「海に行ってきた」と言えば、何も叱ったりしなかった。

大らかな社会だった。地下鉄のホームでも灰皿があったし、いたる所で男性がタバコを吸っていた。当時の喫煙率は実に八〇%は超えていたはずだ。

ドラマのなかでもタバコは一つの演出だった。あるときは給湯室にて複数人でタバコを吸っているOLを表現して、二十代女性の表の部分と裏の部分を見せたりした。また別のドラマでは、女子高生役の女優が、世界が辛くなったときに、初めてのタバコを、街中の歩道橋で吸って咳き込んでいた。平成の後半から、徐々にタバコの演出が減っていった。テレビ局や映画会社に、色々な苦情が来て、さぞ苦悩した結果だろう。しかし、視聴者からしてみれば別に煙いわけではない。演出から、タバコで表現される、悩み・虚無・現実逃避・考え事などの感情表現が徐々に減っていった。

サッカー部の「主務」という、意味がよくわからない役目をなんとかこなしていた僕は、高校二年生のラスト、春の合宿で沼津に行ったときに、今となっては貴重な体験をした。

高校の部活というのは、顧問が二人つく。サッカー部は、メインで教える体育の先生がいて(竹刀を持っている方だ)、副顧問として、物理の先生がついている。物理の先生は、カメラが趣味で、キヤノンの一眼レフを持って、いつも試合に付き添って、写真を撮影してくれた。サッカーに関する戦術とかスタメンとか、そういうことには手も口も出さない。ただ、ニコニコ笑顔を浮かばせながら、試合を見届けてくれる。

そんな先生が、合宿の三日目の夜、ふと旅館を歩いていた僕を呼び止めた。何の用かと思ったら、

「マツウラ君、ビール飲まないか?」

と言った。

九〇年代始めの高校生は、イベントごとに打ち上げを開催するのが暗黙の常識で、近くの居酒屋数件は、「K高校です」と言えば予約がとれた。最近では未成年に見える若者は、入り口で身分証明(免許証など)を見せないと、飲めないらしい。

「ええ、頂きます。明日は試合が一つだし」

そう僕は答えた。物理の先生は嬉しそうに、僕をちょっとした休憩室に連れていき、自販機に財布から千円札を出して五〇〇ミリリットルの缶ビールを四本買った。

二人で乾杯したあと、取止めもない話をした。副顧問のスタンスなのか、サッカーのことは一言も話さなかった。その代わりに、先生の奥さんが障がい者であること、休日には、車いすを使って公園を散歩してあげていること、先生自身は、カメラとともに、希少な切手を集めることが趣味だという話をした。

「そうだ、タバコ吸いますか?」

教育者としては不適切だろうが、大体、生徒たちがどんな嗜好品が好きなのかをよく分かっているようだった。特に抵抗もなく、僕はタバコをもらって、ポーの「盗まれた手紙」の冒頭の、至高のパイプタイムみたいだなと思いながら、リラックスして先生と話し続けた。

話し終わっておやすみなさいとお互い別れても、大人に付き合わされた、というような嫌な気は全然しなかった。思えば、高校の先生たちは友達・・・というか先輩みたいな感じだった。高校三年の秋口からは、本格的な受験勉強が始まる。自習室なんてその頃はなかったので、放課後は、適当な教室で一人、または友人と、一緒に勉強した。なぜかタバコを吸いながら勉強している十八歳もいた。それでも、教室の横を通り過ぎる度に、色んな先生が、ちょっと雑談をしに教室に入ってくれた。入試に直結するような話ではなく、大学で学ぶ理論とかの前フリだった。理系組と文系組によって、話題を選んで、僕たちが負担に感じないように五分程度で職員室に帰っていった。タバコの煙くらい当たり前に気がつくだろうに、先生たちは注意することはなかった。少なくとも僕が知っている限りは、喫煙で停学になった同級生はいない。

しかしながら、我が高校は残念なな二つ名があった。

「神奈川県で唯一、四年制の高校」

殆どの生徒が一浪するのだ。

なぜ、みんな一浪するのかを説明しよう。まずは部活。お正月に開催されるサッカーの全国選手権の、神奈川県内予選などがあって、大体高校三年生の六月末に引退する。他の部活も大体そうだ。まあ、そこまでは普通高校であれば横並びだ。受験する高校生はそこから馬力をかけて猛勉強するものだが、我が高校は、九月中旬に文化祭と体育祭がある。

体育祭は、もちろんどこの学校も燃える行事だろうが、我が高校は気合の入れ方が違う。

まずチームだが、春組・夏組・秋組・冬組の四つで、高校に入学したときから、生まれ月で三年間所属するチームが決まっている。よってチームへの愛着がすごいし、三年間、優勝目指して、各季節、一致団結する。

応援団と呼ばれる幹部は、団長(三年男子)、副団長(三年男女二人)、DE幹部(〃)、マスコット(〃)、パネル(〃)、演技応援(女子)、競技応援(男子)、作戦(男子)、学年リーダー(各学年男女二人)である。一チーム三〇〇人の大所帯をこれらの幹部で仕切る。サッカー部とバスケットボール部、女子はダンス部の中心人物が、この幹部に立候補する。

夏休みも、作業及び練習に明け暮れる。本番直前―およそ3週間前―になると、学校側にかけあって全ての授業が中止になり、体育祭の準備に全校生徒が集中する。

そして、体育祭が終われば、当然のように打ち上げに行く。その打ち上げで高校最後の恋愛をしたり、体育祭の熱気が冷めるのをゆっくり楽しんだりする。僕は毎年、体育祭の後は8ミリビデオで撮影したものを何回も巻き戻しして過ごしていた。半ば登校拒否のように、家で余韻を噛み締めていた。

DEとはなんだろうか。伝え聞いた話では、「ダンス・エクスプレッションズ」の略、簡単に言えば八〇人のダンスを四チームが踊り、採点されて体育祭の得点に反映されるというものだ。演技時間は五分間である。

まだダンス自体が、チアリーディング部や体操部女子くらいしか慣れてない時代に、朝6時からみんなで練習をして、いかに綺麗に魅せられるかを競う。八〇人だから、縦横斜めのフォーメーションがいかに美しく並んでいるかを審査員たちに見せなくてはならない。部活よりもよっぽど楽しかった。そうだ、僕はダンス甲子園の影響を受け、ダンスをしたかったんだ。

そんなこんなで高校三年の十月になる。大学入試センター試験まで残りたった三ヶ月だ。普通に考えて受かるわけもない。

だから「四年制の高校」と揶揄されるのだ。そういう文化を口コミなどで知っている県民は、我が高校ではなく、もっと「現役」大学合格者が比較的多い高校を志望高校としているのが昨今だ。現在の共通テストとはまるで違うが、僕の最初(現役時)の大学入試センター試験での英語は、二〇〇点満点中、一三〇点だった。リスニングもなかったから文法と英文読解だけなのに、点数は取れなかった。大体の男子の三年生がそんな実力である。女子は割と堅実で、おシャレと言われる大学群に、指定校推薦で入ったり、現役で合格したりしていた。

今の時代の大学受験の潮流は「現役合格」だ。団塊ジュニアの、更にその子どもたちの世代が、浪人するよりはと、自分の行けるレベルの大学に行く。大学側が、文部科学省から、合格人数を絞るように指導を受け始めた。一時期はザル勘定だった合格者数が、あまりに逸脱していると、文科省からの補助金が減額されるようになり、大学側も合格者選抜に苦労し、指定校推薦の割合が増えてきた。一発勝負の一般受験の合格者は年々減少し、昔ならAランクを目指す生徒が、Bランクを第一志望として確実に合格するように世の中が変わってきている。浪人する人も少なくなり、かつて隆盛を誇った予備校産業も、利益構造を改める必要がある。

一九九〇年代前半は浪人も多く、予備校産業が幅をきかしていた。その頃はマス型で、一つの教室に二〇〇人も詰め込んで、後ろに座った生徒はオペラグラスで黒板を見入ったものだった。教えるのが上手い講師が、高校の先生の何倍も稼いでいた。時代は変化するが、僕の浪人時代の有名講師は、三〇年経った今でも第一線にいる人も存在する。インターネットの普及で、そういう有名講師の講義の一部を動画で見ることができる。大人になってインターネットでその講義を見ると、各教科のファンダメンタルな部分を見事に説明しているなと感動する。

現在は種々の環境が整い、昔なら「ハズレ」を引くこともあった授業の担当講師が、自分で選べるビデオオンデマンド型授業になり、予備校もフランチャイズ化するようになった。確かに、勉強するなら、雑談も面白く、身に着いた気になる授業をする講師の講座の方がモチベーションも高まるものだ。先駆けてビデオオンデマンド型を採用した予備校は、かつては中堅だったが、今では一流と名を馳せている。


僕は御茶ノ水にある予備校に通った。浪人するのに、国立大学にするか私立大学にするか相当迷ったが、そろそろ自分の限界を認識する年齢だった。数学と、大学入試センター試験に必要な理科の一科目を負わなくてはならない学習は、自分のサボりぐせには適合しないと思い、自分の自習の時間を確保するためと言い訳をし、ほぼ午前中に講義が終わる私立文系コースにした。

大人になってから分かったことだが、そのコースに入ったからとはいえ、ターゲットにしている大学に入れるわけではない。トリクルダウンと表現するのは意味が違いすぎるが、結局、「(私立)☓☓大学三〇〇名合格!!」などという謳い文句は、私立☓☓大学より上位の、国立大学志望の人たちが、余裕を持って滑り止めとして合格している数字なのだ。

僕の予備校友達は、高校時代の友人を除くと、実質三人いたが(あまり交友を広げるのは、浪人生活では本末転倒と思って絞っていた)、残念ながら三人とも志望校には受からなかった。一浪して、中堅大学に進んだ女の子、中堅にも落っこちてしまった男の子、夏休みを過ぎたら予備校に来なくなって、結局退塾してしまった女の子。もちろん携帯もピッチもない時代だし、予備校生が女の子の自宅の電話番号なんて手に入れる理由もなく、その後の人生を知る由もない。

二〇〇名の教室が四つある、僕がいたコースは、夏休み明けからどんどん人数が減っていった。浪人というのは十八歳くらいの身や心に重い負担をかける。僕は休み休み最後まで通った。父親は、「前期欠席数二十一日」という予備校からの通信簿を見て激怒し、僕を殴った。父親は社会人として指摘し、僕は学生気分だったのだ。

さすがに七十万円も出してもらって、予備校が意味ないということは申し訳ないので、施行の末、不眠症の対応にいい勉強手段を見つけた。

夜の二十二時に「起きる」。そして、そこから勉強を始める。朝の七時になったらそのまま電車に乗って御茶ノ水に向かう。私立文系コースは、英語と国語が午前中で、日本史が午後なので、英語と国語だけのときは昼に、日本史があるときも十五時に開放される。家に帰る途中にレンタルビデオ屋で一本映画を借りる。家に帰って映画を見て息抜きをして、すぐ寝る。ギリギリまで徹夜していることで、なんとなく睡眠が深い。夕方から夜の二十二時まで眠って、またその生活を繰り返す。

勉強時間の確保は上手くいったと思うが、反面、学習内容自体は酷かった。私立文系で科目数が三科目と少ないのに、やるべきことを全然やってなかった。

まずは英単語。その頃の流行りは、「英単語ターゲット1900」だったが、一度も開かなかった。御茶ノ水の予備校だから、そこの講師が出版した定番の参考書として、「新・基本英文700選」や「新・英語文法問題頻出問題演習」、この二冊を徹底的に暗記するまでやれと言われたが、やらなかった。浪人当初は、あまり切羽詰まっていなかった。

古文単語、たかだか二〇〇語程度なのに覚える気にならなかった。日本史B、二年目のセンター試験は大失敗で得点が九割に届かなかった。

『織田信長は、長篠の戦いで初めて鉄砲を使った、○か☓か』

みたいな問題が出た(もちろんもっと複雑な選択肢があるのだけど)。

僕は本番で、

「はて・・・『初めて』って言葉に引っかかるな。誰か他の戦国大名が鉄砲の一本や二本くらい使ったことあるんじゃないか。歴史なんてコロコロ変わるし」

などと、免許証の試験みたいにドツボにハマってしまい、結局不正解。国立理系志望の友人が付け焼き刃の一夜漬けでインプットした地理Bの得点と、対して差がなかった。つまり、一年間の日本史学習は、殆ど役に立たなかったとも分析できる。あれだけ奥州藤原氏を覚えて、歴代の総理大臣を全て暗証できるようになったのに、高得点に届かなかった。「イクヤマイマイ」知っている人は知っている語呂だ。

僕の所属していたサッカー部のディフェンスで、背が高く、ヘディングの上手い阿部くんという男の子がいた。高校三年生の四月初頭、入学式で僕と一緒に漫才を披露した、秋組の副団長の阿部くんは、浪人はしたものの、とても尊敬できる人だった。決して貧乏な家ではないのに、猛勉強して、前期・後期ともに、模試でトップクラス(全国ランキング一桁)をキープし、大手予備校を無料で、むしろ補助金、奨学金をもらって通っていたスーパーマンだ。自身の志望通りに大学に余裕で入り、四年後には官僚試験も受けて、官僚よりも更にレベルの高い企業に入社した。元々某芸能人に似て、背も高い色男だったが、恋愛に関しては真面目だった。彼に惚れる女の子はたくさんいたし、僕が密かに恋い焦がれていた後輩も、彼と付き合いたいと思っていた。その話を聞いたときにはショックを受けたものだ。勝ち組と負け組ってあるよなぁと。

女性というのは、男性が将来的に大きな飛躍を遂げるかどうか、端的に言えば稼げるかどうか、本能的に分かるものなのだろうか。モテていた人が、一浪して希望通りの進路に進むのを待ち構えるような文化が、浪人が通例となっている我が高校にはあった。立派で尊敬できる彼が、浪人中に気分転換をするのは、僕とひと月に一回の飲み会だけだった。街中でナンパした女の子グループと王様ゲームをやったりした。彼は初心な感じで王様ゲームに参加していたが、後から振り返ってみれば、女性に慣れているとか、少々性的なゲームに高校生時分から触れてましただとか、そんなことは全く自慢にならないことに気づく。


さて、僕の合格発表が始まった。最後のお願いとばかりに私立を四大学六学部、公立を一校、節操もなく受験した。全て三教科で受験できるところだ。一部の受験費用は、僕が浪人を始めた春から夏まで、ファミリーレストランで、キッチンのバイトをして貯めたものだ。ちなみにこのキッチンで、大体の定番料理の作り方を教わったので、大人になってから、一人暮らしで料理には困らなかった。

合格発表は苦い思い出しかない。まず、最初に受験した私立の合格通知が送られてきた。一応礼儀として、金を出してくれた父親と母親に、別々に報告した。癇癪持ちの父親にどう切り出そうかと考えに考え、とりあえず合格をつかんだなんて生ぬるい空気ではなかった中、僕は背筋を正して正座をして、父親に一通目の合格通知を表彰状のように差し出し、「先程郵便が届いて、浪人を終わらせることができました」と言った。一瞬後、父親は受け取った合格通知書を握りつぶして、僕の方に投げた。一言もコメントはなかった。僕は怖くなって、すごすごと部屋に帰った。二通目も同じだった。

三通目が届いたのは、二月二十五日、国公立大学の前期試験日だ。僕が、尊敬する頭のいい阿部くんとともに、同じ公立の法学部を受験していた最中に私立大学から電報レタックスが届いたらしい。昔はインターネットなんてなかったから、合格発表はレタックスだったのだ。その後すぐ入学案内の分厚い書類が届いたそうで、家では、僕の帰りを待っていたようだ。

公立大学受験にて、全ての浪人日程が終わったので、試験後、母親に一報入れた。そうしたら、その私立大学内ではレベルは決して高くないが、なんとか滑り込みセーフの学部に合格したとのことだった。

その晩、生まれて初めて、僕の家族は団欒の場を共有した。いつもは出ない刺し身の盛り合わせが置かれ、ビールで乾杯し、母親は「最後の追い込み頑張ったね」と言ってくれ、父親は熊本にいる祖父祖母に連絡して上機嫌だった。正直、僕の勉強法を顧みると、合格したのは間違いではないかと自問自答していた。夢なのかなと。でもこうも考えられる。これは運命なのかもしれない。高校受験のときに、補欠合格二十五番だった僕が、高校三年+浪人一年で、学部はともかくリベンジを果たしたのだ。何度も何度も勉強机に、その大学の名前を落書きして、思いを募らせた結果、やっと一学部受かったのかも知れない。

結果は四勝三敗で締めくくった。高校の同期の浪人生たちも、それぞれ悲喜こもごもの結果を受け入れた。やっと自由になれる、そう思って喜んでいた。しかし、僕の不遜で傲慢な性格が、今後通用するのだろうか。その時はそんなことを考えもしなかったほど浮かれていた。


第四章


大学の入学式の朝、最寄りのバス停で、慣れないスーツを着て立っていると、後ろから追いかけて、小学校五年生の終わりで転校した元友人がスーツを着ていた。

「おお!懐かしい!スーツ着て何やってるの?」

と僕は聞いた。元友人は笑いながら、

「お前と同じ入学式だよ」

と答えた。全然意味が分からなくて、バスの中で詳しく聞いた。元友人の転校は、商社マンのご尊父の海外赴任に伴うものだった。それも、世界の中心ニューヨーク。そこで学校に通ったため、浪人の僕と同じ、十九歳の年に入学式を迎えたようだ。帰国子女は順調に行っても、日本の四月始まりだとだと一年遅れるのだと、初めて知った。

僕は雑学をたくさん持っていると少しばかり調子に乗っていたが、海外関係のこととか、何も知らなかった。そしてなぜ僕が入学式というのを知ってるのだろうと思ったが、タネを明かせば簡単だった。彼はニューヨークにある、僕が通う大学の付属中学・高校に通っていたのだ。中学入学時の倍率は「1.6倍」だったらしい。こちらが一年苦労してやっと倍率六倍を突破したのに、海外赴任で有利だったのは羨ましかった。しかしながら、キャンパスに同時に着いた後、次々とニューヨーク校卒の仲間を紹介してくれたので、話し相手が早々とできたことはありがたかった。

ものすごい数の新入生勧誘の学生がおり、サッカー日本代表の試合会場のような混雑の中、スーツを来ている新入生は至るところで声をかけられる。僕は高校の先輩で(体育祭のチームは秋組なので知り合い)、チアリーディング部出身の人が入部しているダンスサークルに、迷うことなく入った。一五〇人ほどの大規模なサークルだ。


日々の練習は楽しかった。ジャズダンスの基礎から習って、ヒップホップ、ロッキング、ポッピング、ハウス、ブレイクダンス・・・様々なジャンルを一通り習い、六月にダンスパーティーを開催する。サークル仲間ができて、飲みに行ったり、僕には未知の世界の、一人暮らしの仲間の家で料理を振る舞ったり(浪人時代の春から夏まで勤めたファミリーレストランのキッチンのバイトに無事復帰できた)、複数人で海に行って肌を焼いたり、女の子とコンパを開いたり、順風満帆な滑り出しだった。

一方で、ダンス経験者も同級生にいて、基礎がすでに完成しており、自分で「曲責」と言われる、一つの演目のリーダーになる人もいた。僕はサークル感覚で入部したのだが、ストイックな経験者からしてみたら随分と邪魔な存在だったであろう。幾度も衝突した。

僕は高校三年生のとき、体育祭のDEという演目で、八〇人のダンスの「曲責」を務めたが、ダンスの世界は深く、身体能力もかなり必要で、スポーツと同じく上手いか上手くないかが一目で分かってしまう。客席に鳥肌を届けるには、かなり練習する必要がある。

バイトがない日は夜遅くまで基礎練をした。ガラスの扉や窓がある場所は、ダンサーにとっての格好の練習場だ。鏡のある公式の練習場は週に二回くらいしか回ってこない(同じ「ダンス」でも社交ダンス部とか応援団のチアとか、練習に鏡を必要とするサークルや部活は多いので)。なので、他人様の迷惑なんか考えず、ガラスの前で振り付けを確認する。時には六本木のクラブに行って、DJに曲をリクエストし、それに合わせてフリーダンスを練習した。普通の客は、体を軽く揺らす程度のクラブなのに、早くダンスを上手くなりたい僕たちは、いくつかのルーティーンをクラブで練習して、目立っていた。

僕が大学に入学した一九九五年は、ジュリアナ東京というクラブが閉店されるなど、バブル経済の後遺症がまだまだ続いていたが、学生の中には裕福な人もいた。

仲良くなっていつも一緒につるんでいたダンスサークルのおぼっちゃんは、世田谷区にある豪勢な家によく招待してくれて、帰りはBMWに僕を載せて川崎市の家まで三〇分で運んでくれた。

「いやあ、僕も早く免許取りたいよ、クルマもほしいよなあ」

と、送ってもらった時にふと呟いたら、

「今の為替の状態なら外車一択だぜ。七〇〇万くらい出せばいいの買える」

と返してくれた。

ああ、住む世界が違う・・・。僕は教習所への入学金すら払えないのに。夢に見るクルマデビューはトヨタマークⅡだというのに。

僕の通った大学は、私立の中では、比較的授業料は安い方だったが、「奨学金」というものが認められる場合がある、ということを知らなかった。本当に経済的に苦しい、テレビで見るような典型的な貧乏家族の人のみの権利だと思っていた。僕の家は借金だらけだったが、表面上、八〇〇万稼いでいると豪語する父親の言葉を真に受け、奨学金は受け取れないと端から諦めて、授業料と小遣いの捻出に、たくさんのバイトを経験した。ファミリーレストランのコック補助、土方、巨大イベントのスタッフ、大企業のビルまるごと移転に伴う引っ越し・・・どれも時給千円程度で、友人たちと飲みに行く度に、「ああ、今晩も三千円かかるのか・・・牛丼四〇〇円でいいのにな、バイト三時間分だよ」とチラッと思う。でもお酒は楽しい。そして、僕は授業をサボりがちになり、バイトばかり入れるようになった。

授業をサボりがちになったのは金銭面という理由だけではない。親の世代、つまり団塊の世代の学生時代がどうだったかは知らないが、僕たち団塊ジュニア世代は、大学の授業中なのに、とても私語が多い。

「おしゃべりを止めてください」

と毎週何度も、呆れたように発する心理学基礎の教授、

「この単位は出席を取りません。だから私語を話したいなら教室から出ていってください」

と怒鳴る論理学の教授、

「宗教学を扱うものとしては、D判定、つまり不可をつけることはポリシーとしてできません。ですので一切出席しなくてもよいですから」

と最初に宣言する宗教学教授。

本当にうるさい。まるで自習になった中学校のクラスみたいにうるさい。僕は、父親から怒られる(時には殴られる)生活を子どもの時から送ってきたので、他人が「怒る」「注意する」という光景を目にすると、胃が痙攣し始め、心臓がバクバクしてしまう。この性格が、後々も人生に深く影響してくるのだが、大学の授業は、語学以外、今の言葉で言う「パリピ」「陽キャ」たちが心からの自信を持って、男女で話しまくっている。

大学生時代はモラトリアムというが、いくら何でも大半の学生がピーチクパーチク雀のように騒ぐことはないだろう。

僕は大学を愛していすぎたのか、そのギャップに加え、教授が怒るという恐怖に、ずっと続いている不眠症と、それを何とか解消しようとするアルコールも相まって、朝は起きられなくなった。大学側からはもちろん連絡なんか来るわけもなく、午後の十七時を目指してダンスの練習だけは行っているので、なんとなく感覚的に、学校にきちんと通っているような錯覚を起こしていた。バイトでは、一応「仕事の要領は良い方」と言われて、あまり叱られなかったため、自分は社会性のある、まともな人間だと思いこんでいた。その先どんな運命が待っているか、不遜で傲慢な僕は気づかなかった。僕は頭が悪いのだ。

 

恋愛のことを少し振り返ろう。小学校で「初恋さん」に片思いをして、それはバレていたが、一切興味を持ってもらえることはなかった。彼女は「南ちゃん」と言うあだ名で呼ばれていた。当時、日本のマンガ史に誇る青春野球マンガが出て、男女とも夢中になっていた。そのマンガのヒロインのロングヘアーと可愛さをベースに「南ちゃん」になった。

中学校では「第二片思いさん」のキラキラした笑顔に恋をして、村下孝蔵の「初恋」の歌のように告白もせず、そんな程度でもちょっとした幸せを感じていた。ちなみに、この第二片思いさんも、高校が同じで、チアリーディング部に入り、三年生のときには、夏組のDE幹部になった。彼女は一年生のときから、僕に、数人のチアリーディング部の子を紹介してくれたが、僕は心のなかで、本当に付き合いたいのは君なのに、と思っていた。

中学二年生。いつも男女六人でつるんでいた。その中に、非常に顔の整った、芸能界にいてもいいんじゃないかと思う女の子がいた。榊原さんと言った。

中学三年の、年明け一月になって、榊原さんは僕に手紙をくれた。そこには端的に、

「わたし、卒業したら引っ越すの。フランスへ。三月十九日に」

「お願い、○○高校に進学して!」

と書かれてあった。後に榊原さんは、僕のことを気にしてくれていたらしことが、噂と言うか彼女の友人のおせっかいで僕に吹き込まれた。

僕は、恋愛の方面には滅法弱くて、顔もいいわけでもないし、サッカーをやっているから太ももが太くて胴長短足、低身長だし、と、芸能人のような彼女が、僕のことを気にしているなんて信じることもなかった。

三月、中学の卒業式が終わって帰り道、僕の家までは三分だが、自然と一緒に歩いて、短い時間の間に、彼女は勇気を出してこういった。

「ねえ、この後うちに来ない?卒業パーティーで」

しかし僕は即座にこう返した。

「いやーゴメン!クラスメイトたちと集まる先約が入ってるんだ」

二年のときに同じクラスだった僕たちは、三年では別々のクラスに分かれていた。

彼女は悲しそうな顔をして、

「じゃあね」

と最後の挨拶を発した。その日の午後はクラスメイトたちとビールで乾杯し、乾き物をつまみながら中学最後の体育祭の話などで盛り上がった。

三月十九日、ボーっとしていた僕はあることを思い出して机の引き出しを開け、彼女の手紙を開いた。やはり・・・彼女のフランス行きは、今日だ・・・。しばし考えて、三千円ほどの貯金箱の中身と、僕が好きだったセーターのシリーズの、まだ腕を通してないキレイめのやつを、買ったときの箱に入れ直し、成田空港に向かうことにした。時にそんな変な行動を勝手に起こすのが、僕の妙なところだ。

今のように「駅すぱあと」や「Yahoo!路線案内」もない。そもそもパソコンすらない。取るものもとりあえず小田急線に乗り、代々木上原で千代田線に乗れば、とにかく千葉県の中にはいけるだろう。僕にはそこまでの知識しかなかった。

すごく時間をかけて、取手という駅につき、駅員に「成田空港に行きたい」と言って、取手からとても大回りして、一時間半ほどかけて成田空港の駅についた。

思い起こしてみれば苦笑してしまうのだが、彼女からのメッセージは「三月十九日に、フランスに旅立つの」だけだった。何時の発着便か、トランジットはあるのか、そもそも空港に行ったら会えるものなのか、何も分かってない。

更に、その日は、「成田エクスプレス」の記念すべき「開業記念日」だった。僕が成田空港の駅で降りて改札を通ろうとすると、警備員が二人、僕が急いで進もうとする道を塞いだ。「身分証明書を見せてください」

警備員は機械的にこういった。中学生の身分証明ってなんだ?クルクル頭を働かせて、

「生徒手帳ってことですか?」

と聞いた。警備員はモゴモゴ呟いて、

「本当は写真付きじゃなきゃいけないんだけど、まあ生徒手帳でいいよ」

と答えた。

だが、僕の生徒手帳は、卒業式の日に、僕に憧れてくれていた一つ年齢が下の後輩女子にあげてしまったからそもそもない。それを伝えると、警備員はイライラした様子で僕を個室に連れていき、ボディーチェックを始めた。セーターを入れた箱も開けられた。成田空港に来た目的を聞かれ、

「友人の見送りです」

と言ったが、

「何時の便?」

と言われて言葉に詰まってしまった。少しばかりの沈黙が流れ、二人のうち、年配の警備員が、

「まあこの子なら爆弾は持ってないでしょう」

と言って、改札を通ることが許された。

当時の僕には分からなかったが、成田空港はかつて、建設時に色々と反対運動があり、今回の成田エクスプレスの開業を狙って、テロ事件が発生する可能性はゼロではなかったということだ。それで、中学生一人で開業当日に来ていることが、警備員の目に止まったのだろう。

北ウイングか南ウイングかもわからず、ただ、彼女に一目会えることを、万分の一の確率を信じて、空港のフロアを見回した。後ろで、まだその時代はアナログだった発着表パネルが、パタパタパタと何度か鳴った。「Paris」という文字は見つけられなかった。僕はまた取手まで戻り、家に帰った。

高校生になった頃から、榊原さんからエアメールが送られてくるようになった。母親は女の子の署名のラブレターらしきものを訝しがり、ゴシップ好きのOLのように、僕にあれこれ聞いてきた。しかしながら、榊原さんと僕は特に何かの人生の約束をしたわけではないので、説明のしようがなかった。

よくテレビなどで芸能人が語る、昔話のエピソードにある通り、携帯もピッチも、ポケベルもない世の中では、男女は、自宅の黒電話で通話する必要があった。外出先からだと公衆電話だから、薄い電話帳をみんな持っていた。電話をかけて、偶然、本人が出てくれればまだいいが、相手のお母さんやお父さんが最初にコールを取る可能性を考えると、手がガクガク震えて、勇気を決めて電話するまでに葛藤の時間が数分続いたものだった。高校に入った僕にも、一学年当たり一人~二人くらい、頻繁に電話をかけてくる女の子がいた。うちは黒電話からコードレスフォンに変わったのが高校三年生の終わりくらいだったので、それまでは黒電話の置いてある玄関で、できるだけ小さな声で、母親の検閲を受けないように電話した。

エアメールの交換は、その年の四月から十二月くらいまで続いた。大体ひと月に二往復で、近況を知らせるくらいだった。お互いに「好き」なんて文字も書かなかったし、春には一時帰国するという知らせを聞いて、それを楽しみにした。しかし、何かがふと切れてしまったのか、それ以降エアメールはなくなった。僕の手元には、彼女がパリの郊外で撮った写真が一枚だけ残っている。

高校生では、僕が秋組一年生のときに、秋組の三年生で、チアリーディング部の吾妻先輩が女子のDE幹部となった。男子の幹部はお約束通り、サッカー部の先輩だった。チアリーディング部の先輩の笑顔はクシャクシャで、それがたまらなく可愛く、習慣的になっている仕草で腰に両腕をグーにしてくっつけ、腰を振る動作が究極に「萌え」た。DEのメンバー八〇名を褒めて、あるいは叱りながら最終的には四つの季節のチームの中で優勝をもぎ取った。ちなみにその年の体育祭は、僕のいる秋組が総合優勝も果たし、団員たちは、幸せな体育祭を終えた。僕は一年生唯一の幹部、「学年リーダー」で、学年対抗競技「大縄跳び」を優勝させることができた。

恒例のDEメンバー打ち上げは、大きな居酒屋で行われ(「K高校です」と言えば予約がとれるいい時代だったのを述べた)、僕は生まれて初めて腰が抜けるほど酒を飲み、周囲にそそのかされて、全員の眼の前で、

「みんなー!聞いてくれー!僕の好きな人はー!DE幹部の吾妻さんだーーーー!」

この記憶は殆どないのだが、次の日から、同級生や二年生、三年生が、面白がって僕をからかった。

吾妻さんは、指定校推薦で、中堅の大学に進むことが既に決まっていて、体育祭が終わると、生物室か学食で、軽めの学習をしていた。恐らく、推薦で早々に進路が決まった人と、体育祭後の十月からセンター試験を目指す一般受験組では、何となく立場が違うので、気を遣って別の教室で勉強していたのだろう。

多分、時間的には余裕があったのだろう。吾妻さんは十二月になって、僕と学食で会話をしてくれるようになり、喫茶店で一緒に紅茶を飲んだり、横浜の山下公園に遊びにいったりしてくれた。喫茶店は制服で行ったが、山下公園は2人で申し合わせて、制服をコインロッカーに預けて、駅のトイレで着替えてしまって、山下公園の裏手にある隠れ家的なバーに入った。

僕の顔はあどけなく、十六歳にしか見えなかったと思うが、吾妻さんがお洒落して大人っぽい洋服を着てくれていたお陰で、何も言われずにお酒が飲めた。

吾妻さんはピーチツリーフィズ、僕はモスコーミュール。その頃、カクテルブームがあり、高校生でもいくつかの種類は知っていたものだった。つまみは、薄いイタリアン風ピザとナッツのセット。楽しくお話しして、バーを出た後は山下公園のベンチで酔いを冷ました。

モスコーミュールに勢いを借りた僕は、「吾妻さん、僕はあなたが好きです」と、生まれて初めての告白をした。

今まで上機嫌で喋ってくれていた吾妻さんが、ゆっくりと沈黙し、

「なんで私なんか?」

と聞いた。僕は

「人を好きになるのに、理由なんてあります?」

と逆質問をした。

「また返事するね」

と答えるまでに、まるで一時間もかかったように感じた。

山下公園から関内駅への帰り道、吾妻さんは横浜の官公庁・政府機関の建物をいくつか説明してくれた。これがジャック、こっちはクイーン、これがキング・・・。

僕は横浜に行く度に、同じコースを通って、横浜に詳しい吾妻さんとばったり会わないかと、何度も通った。十二月の横浜は、とても美しく、切ない気分を呼び起こさせる。夜景が恋愛の思い出に結びつくようになったのは、この頃からだ。

吾妻さんは、数日経って、僕を多摩川のほとりに呼び出し、

「マツウラ君のこと、弟にしか見られないから」

と、告白を断った。

僕は失恋して苦しく、ただでさえ休みがちな不眠症なのに、恋煩いも加わってますます学校に行かずにDEのビデオばっかり見ていた。吾妻さんが八〇人の先頭で踊っているのを、画質の悪いビデオで、未練がましく憧れて見続けた。そして悲しいラブソングや、山田詠美、村上春樹、サリンジャーなどの本を読んだ。『ライ麦畑でつかまえて』は、多感な高校生にはドはまりする。しばらくは吾妻さんとの思い出とともに生きて、世捨て人というには中途半端すぎるが、特にやることもなく、サッカー部恒例の冬の鍛錬期にて、走りまくって頭から失恋を消した。

高校二年生。クラス替えがあって、新メンバーが揃った教室で、僕の好きなタイプの顔があった。由里子という名前だった。昨年の吾妻さんとの経験から、色々な恋愛小説などを読破した僕は、相変わらず斜め上の方の発想しか浮かばなくて、高校三年間のポリシーに「恋愛はゲームだ」などという名言ではなく迷言を生み出し中二病を持ち込んだ。繰り返すが、僕は頭が悪いのだ。

折よく、母親が大ファンのアーティストが、立川にある昭和記念公園でライブを行うということで、チケットを四枚買っていた。母と妹で二枚使うのだが、

「あんた、誰か誘えるんだったら布教して!」

という旨を僕に伝えた。

布教というのは、自分の推しアーティストや推しアイドル、推し漫画家などを他人に紹介して一人でもファンを増やす行動のことだ。

恋愛はゲームと言う馬鹿なポリシーを持った僕は、適切なタイミングを図り、今までの恋愛下手と違う動きをして、何とかその好きなタイプの顔の由里子をライブに誘った。

世代としても別にターゲットではないアーティストのライブを見に行こうなんて、普通は気が進まないだろうが、僕の「ゲーム」は成功した。

当日、広い会場だからバレないかなと思っていたけど、座席指定ではなかったので、僕たちのカップルは、すぐに母親と妹に見つけられた。それからすぐに由里子と付き合うことになって、僕にとって初めての「彼女」ができた。

由里子と僕は昔の高校生の手本のような自称爽やかカップルとなった。学校の中ではベタベタしない。帰りは一緒に帰る。時には彼女の自宅まで送る。ファーストキスに辿り着くまでは時間をかけて、フレンチキスで舌は出さない。その先は、まだ早い。そりゃあ、高校生の男子としては、興味あるけど、何となく、その先というのは、大学生か社会人になってするものだという、ある種の潔癖症が僕にあった。

現代の高校生はどうだろう。色んな社会で、「二極化」していると説明されている。地価含めて高い物件資産と田舎の方のバブル崩壊後、一向に回復しない安い物件資産。信じられないほど稼げる外資系証券や外資系コンサルティングファームと、給与が二十年頭打ちになっている旧態依然の日本企業。モテる陽キャと、女性に一切縁のない、三十歳になったら魔法使いになれる陰キャ。性行為も、経験する年齢や環境は二極化している。

僕は由里子との恋愛にだんだん驕り高ぶっていった。タイムマシンがあれば、その頃の自分を叱りあげ、一発殴ってあげたい。

「彼女がいる」というのは、高校生にとっては一つのステータスである。

意図しているのか無意識なのかわからないが、高校内のスクールカーストは、大体アメリカのハイスクールと似ている。僕はアメリカに行ったことがないが、ものの本によると、「ジョック」と「クイーン・ビー」を頂点としたスクールカーストがあるらしい。ジョックはアメリカン・フットボールのQB、クイーン・ビーはそれを応援するチアリーダーのトップだ。

カッコよくて体格も運動神経もいい男子と、キレイか若しくはセクシーで、運動神経抜群・スタイル抜群の女子がカップルとなる。僕のいたサッカー部のメンバーも、バスケット部のメンバーも、人気者の男子(僕より明らかにカーストが上)たちはこぞって、誰もが認める美人若しくは可愛い女の子の中から、派手でおしゃれな「部活」に入っている子とカップルになっていた。部活も付加価値となるのだ。

僕の彼女の由里子は音楽系ではあったが、極めて真面目な部活の部長だったので、特に派手とは言えない。そんな所に劣等感を持つという、下らない考えもあった。

更に、僕は両親の仲良い姿を見たことがなく、冷たくあしらい、時には暴力を振るう父親の姿しか知らなかった。無意識に男尊女卑の口調が出てしまったり、僕自身に悩みがあるときなど、強がって彼女に吐露したり愚痴を言ったりすることができなくて、一人で抱え込んでは二~三日由里子と話さないということもあった。

告白まではできても、より幸せが膨らむような行動を知らなかったし、自分で訓練もしなかったから、そのうち由里子は愛想をつかして

「別れよう」

と言ってきた。

「君がそう思うならそうすればいい」

僕は極めてカッコつけて、どこぞの三流ドラマにあるようなセリフを返して、僕の最初の付き合いは終わった。

自分は人間的に精神年齢が低い障がいではないかと悩んだことがある。

子どもたちの流行りというのは、一定期間で次々と変わっていく。ただ、僕の家は、それほど自由に使えるお金も少なく、また、おもちゃ・マンガの類は母親自体がシャットアウトしていた。大体の流行品は僕の家にはなかった。そして僕は、もはや流行になく、誰も遊んでないおもちゃなどを、過去を取り戻すかのように数年後に買う。

例えば、「チョロQ」。クラスの男子がみんなで競争しているときは買ってもらえなくて、それはそれで割り切れば一つ大人の階段を上ることになるのだけど、ふとお小遣いをもらったときに、母親に内緒で、おもちゃ屋で一つ買った。しかし、その瞬間のチョロQは、同級生の誰もが「子供っぽい」と認識するもので、僕は一人で滑らせて、遊ぶ仲間がいないことを後悔した。

他には・・・「ミニ四駆」。チョロQよりもっと高級で、色々改造の楽しみなどもあり、速さを競う。繰り返しになるが、僕は買ってもらえなくて、流行は去った。

流行後、二年くらい経過した、誰もミニ四駆を扱わなくなった頃、父親が珍しく上機嫌で、

「母親に内緒で何か誕生日プレゼントを買ってやろう」

というので、僕はミニ四駆とプラスチックでできたレースコース(楕円形の二列のコース)のセットを買ってもらった。同年代が所望するプレゼントと、だいぶズレている。僕以外にミニ四駆を走らせる人は、既に近所にいないから、僕はコース二列のうち、一コースだけで、ぐるぐる走らせていた。

「キン消し」「ビー玉」「ヨーヨー」「カー消しゴム」「紙飛行機」、次々と生まれては消える流行品は、我が家にはなかった。

恋愛も同じだった。成長がズレていて、その年齢に応じた楽しい生活が送れればいいだけなのに、妙に割り切ったり、切なさだけを求めたり、変にカッコつけたり、人間的な欠陥があるとしか思えない。

高校三年生の四月に入学式で漫才をした。例のサッカー部の賢い友人、阿部くんがボケ、僕がツッコミだ。

体育館に体育座りをしている新入生の中に、一際目を惹く可愛い女の子を見つけた。その子はチアリーディング部に入り、秋組だった。DE幹部の僕は民法一条三項、権力の濫用を用いて、魅力的な彼女となるべく自然に話せるようにした。その子は体育祭のDEの練習中、よく僕の隣にちょこんと座り、

「センパイは文化祭の女装選手権出ないの?」

なんて、何気ない話を束の間して、いつの間にかまた練習に戻る、という小悪魔的な子だった。

こんな魅力的な子がいるのだろうか。その可愛さは、犯罪的と表現したい。彼女の一挙一動に一喜一憂する毎日は幸せだった。

僕はその頃、右利きにも関わらず、右腕に時計を巻いていた。好きなアーティストが歌っていた歌詞を真似したものだ。恋人の男性の影響を受け、女性自身も右手に腕時計をし、夏が終わると、恋は終わり、右腕に白く日焼けの痕だけが残った、という説ない歌だ。そのことを彼女はよくツッコんでくれた。

体育祭後のDE打ち上げでは、ストレートヘアーにベレー帽を被り、ミニスカートに紫のタイツ、十五歳の魅力を思う存分発揮して、打ち上げ会場の男子たちが皆、彼女に酒を注ぎたがっていた。とても人気のある女の子だったのだ。

最後、代表者として、

「みんな!ダンスを楽しんでくれてありがとう!来年も、優勝目指して練習して!」

と締めた直後、彼女が僕のもとに千鳥足で到達した。

「また右手に時計してる」

「だから言ったろう。僕の好きな歌手なんだって」

「いつもそればっかり!」

「・・・ていうか呂律まわってないよ!酔ってるだろう」

「酔ってないよ」

僕が人生で聞いたなかで一番可愛い「酔ってないよ」だった。

数日後、急展開が起きる。漫才の相棒の賢い友人、阿部くんは、恋愛には真面目だったが、体育祭後、いきなり二人の後輩(一年生)から、言い寄られることになった。どちらも秋組で、チアリーディング部。ぶっちゃけとても羨ましかった。

悲しいことに、彼に言い寄った片方は僕が好きな小悪魔ちゃんだった。体育祭の練習中、幾度も僕の隣にちょこんと座ったのは、実は阿部くんへの気持ちを相談したくて、また、逆に阿部くんの気持ちを知りたくて、僕に話しかけていたものの、なかなか切り出せなかったらしい。

阿部くんを好きになったのが、同じチアリーディング部で、部活の一年生たちは、こぞって、彼女ではない、もうひとりの部員を応援していた。こういうときの女子の団結力は凄まじく、万人受けするアイドル的な魅力を持つ彼女を応援する人はだれもおらず、もうひとりを全員が応援し、彼女は部活内でのけものにされてしまった。そういう相談を受ける僕は、君のことが好きなのに、と思いながらも、カッコつけてものわかりのいい先輩を演じた。

僕はその後の学生生活でも、色々読んだ本や、いくつもの失恋経験を元に、恋愛相談を受けることが多かった。そういう運命なのだ。決して僕の方を向いてくれるわけではなく、僕の先にいる誰かに恋をしている女の子が、食事に行こう、飲みに行こうと誘ってくれる。そういう役割を神様が割り当てたのだろう。どうせ女性との幸せな光景も思い浮かばない僕が、父親のように、虐待を輪廻転生させるコースには行ってはいけないと、神様が指示したのだ。

その役割は、社会で需要があった。普通の恋愛相談、彼氏の横暴で避妊せずに堕胎した女の子のアフターケア、DVを受けている子が「私、マツウラ君と寝たわ」というアリバイを作るためだけの存在。便利に使われて、僕はいつも傷ついて、自分の恋愛からはどんどん遠ざかって行った。


ダンスサークルを楽しんで、バイトをたくさん入れて授業料を払い、留年した。本末転倒とはこのことだ。僕の入った学部は、大学の中ではレベルが低いカーストにいたので、就職活動も大変だろうなとぼんやり考えていたのだが、教授が怒るという環境に耐えられず、一度その授業に参加しなくなると、今度は僕自身が怒られるかもしれないと杞憂し、語学の授業(出席だけでほぼ単位が取れる)すら通わなくなった。普通の学生なら、何らかの理由で留年したら、襟を正して翌年こそ完璧に勉強するだろう。ところが、不遜で傲慢な僕は、毎日アルコールを摂取して頭をフラフラにし、授業なんて「関係ないね」と、甘えた馬鹿なスタンスを取り続けた。

それでもバイトにおいては普通の社会性を保っており、仕事はできる方だねと言われていた。きっと、誰かから注意されるのが最も苦手という性格が、仕事のルールを完璧に守る方向に転がったため、「バイト」のいう身分であれば、仕事はルール通りにカチッとこなして、指摘されることもなにもないね、ということだったと考えている。それは正社員とは異なった処遇においての、極めて限定された褒め言葉だったのだ。

学生バイトの王道、塾講師も週三日こなした。スーツを着て、生徒の親からは「先生」と呼ばれ、学習計画や受験対策の面談対応も行う。社員の方は、一部講義はするが、どちらかというと、塾生を集める営業活動に労力を奪われる。学習塾の正社員は、授業が巧くても巧くなくても別に関係ない。ただひたすら営業をかけ、何人集めたか、いくら親たちに注ぎ込ませたかが重要であるため、殆どの講義は学生が受け持っている。

高校受験クラスは、僕と同じ大学の麻雀友達三人で、英語・数学・国語を分担し、いわゆる難関校と呼ばれる高校へ、高い合格率を出していた。僕を含めた麻雀仲間三人とも、一浪しており、有名予備校のカリスマ講師の講座を受けていたので、その劣化コピーを施せば生徒はついて来て、親は学校よりも受験に役立つと考え、やれ夏期講習だ、やれ直前講習だと、どんどん塾費をつぎ込む。僕たちは生徒の悩みなどをサポートして、時には叱咤激励する。志望校に合格すると、生徒の親はお礼に、と言って謝礼を持ってくる。

貧乏学生としては、謝礼のお金がもらえるのは魅力的だが、表面的にはサラリーマンなので丁重にお断りするしかない。バレたら翌年の講義は担当できず、個別指導専用の講師になってしまう。お金が目の前から消えていくのは臍を噛む思いだ。

月日が経つに連れ、教え方にも工夫が加わり、最終的には三つの校舎で、ほぼ全教科を担当した。最高水準クラスのみを相手にした合宿の担当講師にも選ばれた。頭のいい子供たちに勉強を教えるのは、とても楽しい。

一方で自分が、大学の講義に出てないこととのアンバランスで、酒量はますます増えていった。塾のバイトは十六時から始まるが、十五時まで寝て(もちろん大学はサボっている)、無理やり起き、時には塾の中で、前日のアルコールの影響で嘔吐するなど、やはり一般常識のない、人より成長が遅れている面も見せていた。それなのに、人より仕事ができると自負してしまっていた。


アルコールばかり飲み続ける僕と父親は、もはや回復できないほどの溝があった。毎日激昂していた父親は、五十万出すから家を出ていってくれと言って僕を実家から追い出した。僕は大学に通いやすい駅にアパートを六万円で借りて、極めて狭い部屋に、ソファーベッドとちゃぶ台とテレビデオを一つずつ買って。毎日ご飯と味噌汁、たまにツナ缶とかレトルトカレーをご馳走として暮らし始めた。

生まれて初めての一人暮らしは快適だった。母親を実家に残してしまったので、父親の攻撃が母親だけに向けられてないか、それだけが不安だった。

妹の幸子は、父親の暴力の相手には一度もならなかった。

小さな頃は僕と比較されて、成績があまり良くないことをプレッシャーに感じていた。また、絵がとにかく下手だった。

それでも、僕と違って褒められる点があった。学校を休まないのだ。

中学校では、決して上手くもないバドミントン部に入って、皆勤賞だからと言うことでレギュラーでもないのにキャプテンになった。

高校は、ブラウスの第一ボタンを外した姿を教師に見られただけでも掃除当番が待っている、とても厳しい私立の女子校だったが、殆どのクラスメイトが卒業するとフリーターになる中、頑張って短大まで進んだ。

父親の紹介で就職した会社が、大手企業の傘下に吸収されたため、今では夫婦揃って余裕を持って暮らしている。二〇一一年の震災の十日後に、娘、僕にとっては姪が生まれ、現在は優秀な私立女子中学に通っている。トヨタのアルファードに乗って母親の面倒も見てくれている。

人生とは不思議だ。幸子は、幸子なりの人生を、自らきちんと開拓してきた。偏差値では、僕に差を付けられていた。高校入試の際、学校側から提示された、行けそうな県立高校は、学区内で一番低いというレッテルが貼られている高校だった。母親は失望し、一生懸命私立を探して、なんとかそこに入った。「マツウラの所のいもうとさん」という呪縛から離れた幸子は、活き活きとし、周りがしない勉強を頑張った。

僕は、自分の人生が不幸なのは全て父親のせいだと思って、何も生み出さず、安穏と日々を過ごした。どちらがきちんと成長したかは一目瞭然だ。神は見ている。


一人暮らしを始めて、前期はなんとか通った。しかし、後期になって、いつもの病気が顔を出し、講義を休んでは、もう行くことすらままならないという状態になった。

バイトだけは家賃の支払いのために続けていたけれど、もはや十月の時点で、先は見えていた。

除籍だ。

僕の最終学歴は高卒になる。

ダンスを楽しむ余裕もなく、ダンスサークルの仲間から「一緒に踊ろうぜ!」と慰めてもらっても立ち上がる気にならなかった。

実家に、除籍の通知が届くのは年明けの3月中旬だろう。それを受け取って、実家が大騒ぎするのが目に見える。怒られる、父に怒られる、母にもだろう。父に殴られる、人格すべてを否定される。それだけは嫌だ。それだったらいっそ・・・。

バイトで稼いだなけなしのお金で、学習塾のバイト用のスーツをかけるアルミラックを取り寄せたのだが、毎晩そのアルミラックの横棒をじっと眺めた。そして決行日、普段着ているバスローブの腰巻き紐をその横棒に投げかけて、結んで首を突っ込んだ。人生最大の勇気を奮って首を吊ったところ、アルミラック自体がどんがらがっしゃんと前に倒れ、僕は多少の怪我はしたが、失敗した。

中途半端だった。アルミラックの重さを考えれば、体重を支えることなど出来ずに、助かることは目に見えているじゃないか。どうしてもっと確実な方法を選ばない。それともまだ「生きたい」のか。「未遂」で済まそうと、未遂でもろもろのことを免じてもらおうとしているのか。

年が明けて二月になった。バイト先の塾は二月で一学年が終わる。受験日程に合わせて、学年が切り替わるからだ。除籍の通知まであと一ヶ月。どうしたものか。

僕は三件のドラッグストアを巡り、頭痛薬を三箱買った。日本酒一升を買った。僕が住んでいたエレベーター無しの五階建てのフロアには、四件の部屋があり、学生たちが住んでいた。

夜中は人の出入りがないので、頭痛薬と日本酒を持って、廊下に出て、ドアに背をもたれた。ゆっくりと頭痛薬の台紙から錠剤を指で押し出し、五錠出したら日本酒で飲み込む。これを繰り返す。三箱あれば逝けるだろう。そして、逝けた時は朝になって、誰かが発見してくれるだろう。部屋の中だと、発見も遅れるし、オーナーにも迷惑がかかる。これでいいのだ・・・そう繰り返しながら、五錠ずつ、オーバードーズして行った。

地球が回っている。縦に横に斜めに恐ろしい強風で地球がひっくり返り続ける。頭の中に「りんご」という文字がうかんだが、脳の右隅に「り」、脳の真ん中に「ん」、脳の左隅に「ご」と浮かんで、その文字がビリヤードみたいに玉突きを始めた。心拍が激しくなって、すぐに弱くなるという繰り返しが始まった。走馬灯なんて見えなかった。そして錠剤を出すゆびが、うごかなくなたひしにちからをだそとしてもでないそしてぐるぐるまわるうちゅがたおれた


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