初恋の香りと失恋(ヒーローサイド)
この国において、魔法の力は聖獣により授けられたものだとされている。
それでも、長い年月が過ぎて彼らとの繋がりは薄まってきた。
しかし、その血を守ってきた高位貴族の中には、まれに人ならざる特徴や強い力を有するものが生まれる。
――サーベル侯爵家の始祖は、大きな犬の姿をした聖獣だったという。
人の姿をとることができる聖獣は、一人の女性を番と認め、人の世界で過ごせば、長い寿命を失い、死する宿命だとしても、彼女のそばで老いることを選んだ。
「……この人の世界で犬に姿を変える子孫のことも少しは考えてほしかった」
生まれたとき、赤子だった俺の姿はすぐに小さな子犬へと変わったという。
もちろん前例がなかったわけではない。
サーベル侯爵家には、時々そんな子が誕生した。
周囲は聖獣の強い力を持つ子どもが生まれたことを喜ぶと同時に、異形の姿に戸惑った。
「……王立学園入学か……万が一にも犬の姿になんてならないよう気をつけなければ」
王立学園の少々華美な制服は装飾品が多く着るのに手間取る。
普段は略式の軽装が認められるが、入学式の今日はすべての装飾品をつける必要がある。
マントにつけられた飾り紐、魔力を溜め込むための魔石がついたブローチ、白い手袋。
全てを身につけて鏡に映るのは、もちろん人の姿をした自分だ。
子どもの頃は、犬の姿でいることが多かったが、今は自由に人の姿をとることができる。
「……さて、行くか」
ため息交じりで入学式に向かう。
そこでようやく、番に出会いこの世界に残ることにしたという祖先の気持ちを理解することになるなんて、想像もしないで……。
* * *
王立学園の入学式。
体育館は推薦入学の面接で訪れたときとは明らかに違う香りで満たされていた。
薔薇の香りと爽やかなベリー。
その香りはあまりに甘美だったから、思わずその香りの元を探す。
そこには一人のかわいらしい女生徒がいた。
癖の強い淡い金色の髪はフワフワと柔らかそうで、緑の瞳は知的に輝いている。
彼女を見たことはない、平民なのだろうか。
そんなことを思いながら、彼女のことを調べようと決めていた自分に戸惑う。
いつもであれば、人にそれほど興味を示すことなどなかったのだから。
それは俺の初恋だ。そしてミリスティア伯爵家の庶子である彼女には婚約者がいたことを知った、苦い失恋の思い出でもある。
* * *
そして月日は流れ、彼女への恋慕は募るばかりだった。
自分とは距離を置いていた父と母を同時に失った三年生の雨の日。
淡々と葬儀を執り行い、侯爵になるための手続きを済ませた俺を周囲は賞賛すると同時に冷たいと言った。
「差し出がましいかもしれませんが……風邪を引いてしまいますよ?」
「……フィア嬢」
雨の日に彼女と出会ったのは偶然だ。
差し出された傘と白いハンカチ。
彼女を見た瞬間に瞳から頬に流れたのは、雨ではなかった。そのことに気が付いているかのように、彼女が拭ったのは俺の頬だった。
* * *
卒業と同時に彼女と会えなくなった苦しさは全て仕事にぶつけた。
薄れることはない香りの記憶、それは聖獣に人の世界で生きることを決意させるほどの感情だ。
騎士団長にまで上り詰めてすべてが順風満帆だと他人は言った。
それでも、ぽっかりと心にあいてしまった穴は塞がることがない。どこから情報が漏れたのか、魔力を不安定にさせる毒を受け、犬の姿から戻れなくなったところを襲撃された。
かろうじて逃げて、ようやくこの苦しさから逃れられると少しだけ安心して倒れ込んだ俺の前に彼女は再び現れる。
ポスンッと倒れ込んできた軽い体とあんなにも恋い焦がれていた甘く爽やかな香り。
『ワフ?』
「っ、大変!」
それは彼女との物語が再び始まった合図だった。
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