幕間 在りし日の魔王Ⅰ
泣き疲れていつの間にか眠ってしまった馬車の車内で、アリスは懐かしい夢を見ていた。
それは、彼女が聖女とも天使とも呼ばれる前――魔王として恐れられていた時代の、在る日の記憶。
◇◆◇
魔族領アムルテイアの最奥に築かれたレティス家居城は、魔王城という呼び名から受ける印象とは裏腹に、その外観は白亜の城と称するべき美しい物だ。その最上階に位置する王のための執務室……民家が数件は収まりそうなほど広い部屋の奥で、十九歳の誕生日を迎えた魔王セレナーデ・フィア・レティスは優雅に読書に興じていた。
セレナーデは人生の全てを破壊と暴虐に捧げた、滅びの化身であると後世に伝えられている。それは大部分は真実であるのだが、一方で正しく伝わっていない部分も存在する――彼女にも心穏やかに過ごした時間が存在したということだ。
例えば、巨大な国を一夜にして滅ぼした後。例えば強敵と心躍る死闘を繰り広げた次の日……つまり身を焦がすほどの破壊衝動を一通り消化した後は、少しばかりだが静かな日々を過ごしていた。
その間は、意外にもセレナーデは普通の少女と変わらなかった。赤紫色の長髪を一部編み込んでルビーの宝飾が美しい髪飾りを添え、その髪色に合わせた闇色のドレスを身に纏い、紅茶を片手に本を読む姿は、その美貌も相まって深窓の令嬢と言うべきもの。もし社交界に出たなら、男女問わず誰もが彼女に目を奪われてしまうことだろう……彼女の本性を知らなければ。
「……暇ねー」
それまで読んでいた本を突然机の上に放り投げ、セレナーデは凝り固まった身体をぐーんと伸ばしながらため息をつく。
「流石に五回も読み返したら、面白みも無くなるわね……」
本来ならば、居城には生涯をかけても読み切れないほどの数の本があったが、いつかのときに蔵書室ごと焼き払ってしまった。今ではセレナーデの手元には戦場で偶々拾った――それも、比較的彼女の理性が保たれているときにだ――僅かな冊数しかなかった。それらも一通り読み切ってしまい、暇を潰す手段に苦労しているところだった。
本来ならばセレナーデは魔族の王として、息をつく暇も無いほどに政務に忙殺されているはずだった。しかし、セレナーデが枕代わりに突っ伏している執務机の上には、書類の一つも乗っていなかった。それも当然のことで、そもそも彼女が治めるべき領地は自身の手によって壊滅状態なのだから、すべき政務があるはずもない。かつては千人は詰めていた城の中ですら、今ではたった一人の部下を除いて誰一人いない。半数は自分で殺し、もう半数は知らない間にどこかへ逃げてしまった。
その結果、常勝無敗を誇る最強の魔王は今や退屈に殺されそうになっていた。
(こういうとき、あのわんこがいたら少しは退屈も紛らわせるのになぁ)
昔に気まぐれに拾って、暇つぶしにお腹をわしゃわしゃ撫でたりしていた三つ首の魔犬は、三年前にどこかで見失ったきりだ。この際だから探しにいってみようかなー……などと突っ伏した机の上で思案していると、机の上に暖かな湯気を燻らせるティーカップが置かれた。
「魔王様、紅茶のおかわりをお持ちしました……暇そうですねー」
「ええ、退屈で死にそうだわ。シルフィ」
セシルフィーラ。誰もが恐れを為して彼女の元から離れた中で、自らの意志でセレナーデに仕える唯一の部下である少女だ。
魔族は種族全体として暗い色彩の髪と目をしているが、その中でもセシルフィーラは赤紫色の髪に漆黒の目で、血縁関係が全くないにもかかわらずセレナーデとよく似た容貌をしている。セシルフィーラ本人もそれを自覚していて、わざわざ主人とお揃いになるようなファッションをするものだから、一見姉妹にも見えるような二人だ。ちなみにセシルフィーラの方がセレナーデよりも五歳年下だ。
そんなセシルフィーラ……魔王の副官を勝手に自称する少女のことを、セレナーデは実のところそこまでよく知らない。元から仕えていたので無く、いつからか勝手についてきて副官を名乗るようになった、そんな関係だ。
「ね、魔王様! 暇でしたらベルフ大森林に行きませんか!? 私の調べだと、そこで連合軍の残党がこっそり拠点を築いているらしいですよ。潰しにいきましょうよ!」
「却下、今はそんな気分じゃ無いわ。それに、そんな寄せ集めを早々にぶっ殺しても楽しくないし……遠い」
「そんなぁ」と残念そうに眉を下げたセシルフィーラは、机の上に放られていた本に気づいて、何気なく手に取った。
「……うわぁ、魔王様、よりにもよってこれ読んでたんですか?」
「結構面白いわよ、これ」
「いや、そういう問題でなくてですねー」
決して悪書ではない。むしろ種族を超えて人気を博したベストセラー作家の名作で、セシルフィーラも一度読んだことはある……問題なのは、その内容。
「これって、アレですよね。両親と生き別れになってしまった少年が、家族と再会するために幾度の困難を乗り越えて旅をするお話ですよね……よりにもよって魔王様がこれ読みます? 貴女どっちかって言うと少年を両親もろともぶっ殺す側でしょ?」
「……でも、面白いんだもん」
何度も読んでいい加減飽きが来つつも、つい手に取ってしまうほどにはお気に入りの本なのだ。それでも彼女自身に似合っていない自覚はあったので、気まずげにセシルフィーラから目をそらしてみる。目をそらしたまま、読みながら思い浮かんでいた疑問を何気なく副官の少女にぶつける。
「……ねぇ、シルフィ。家族ってどんなの?」
「ああ、魔王様ってご自身の手で家族皆殺しにしましたもんねー? まさか、今になって後悔しているんですか?」
「そういう訳じゃ無いけど……でも、たまに思うのよね」
もし、自分にアシュヴァルドの加護なんて言う呪いがなかったら。普通の少女として育ち、両親に愛されていたなら、それは一体どんな感覚なのだろうか、と。
いや、とセレナーデはかぶりを振る。
両親は、確かにセレナーデを愛していた。そもそも災厄となる定めを背負った子と知りながらも、取り返しがつかなくなる前に処分するべきだという周囲の反対を押し切って育てることを決意したのは他ならぬ両親だったと聞いている。
愛されていたと、今では理解はしているが、その愛は知らない。知る前に自分の手で殺した。それを思う度に胸にチリチリと燻る痛みは、後悔というのかもしれない。
そんな柄にも無い感傷を抱く主人に対し、セシルフィーラは……仄暗い笑みを浮かべた。
「……それ、よりにもよって私に聞きます? 忌み子として家族どころか村の全員から迫害されていた私に? 家族愛を聞くんですか?」
「……そういえばそうだったわね、失言だったわ」
「いえいえ、お気になさらず。他の奴らならともかく、魔王様はあの村のクソ共をぶっ殺してくれた恩人ですからね! 本当、魔王様には感謝しているんですよ」
「……別に、あなたのことを助けたつもりなんて無かったのだけれど?」
セシルフィーラを迫害していた村の者達を皆殺しにしたのも事実で、その中で彼女一人の命だけ見逃したのも事実……だが、それは自分とよく似た姿をしていて、それでいて魔王のもたらす暴虐に対して何一つ感情を揺らさない少女のことをわざわざ手にかける気が起きなかったと言うだけの話だ。
「それに、あなたが迫害されてたのって私とよく似ていたからなのでしょう?」
「ええ、そうですけど。災厄の子、なんて言われてましたねー」
「私に、恨みの一つも無いの?」
「へ? どうして私が魔王様を恨まなきゃいけないんですか?」
コテンと首をかしげた、その表情に映るのは純粋な困惑。
「魔王様は誰よりも強い。強いということは、何よりも正義で、全てが許される絶対の権利なんです。魔王様が災厄なのも、そのせいで私が迫害されたのも全て正しいのですよ」
「……狂っているわね」
「ええ、魔王様と一緒で、狂っているんですよ」
きゃ、お揃いです、とか呟きながら頬に手を当ててくねくねと悶えるセシルフィーラ。副官の奇行にセレナーデが白い目を向ければ、何故か更に悦びだした。
「……ね、魔王様。家族なんていなくてもいいじゃないですか」
身悶えるのをやめたセシルフィーラは執務机の上に頬杖をつくと、敬愛する主人の顔を口づけができそうなほどの距離で覗き見る。主人の顔を映すその瞳に宿る感情は、狂気的なまでの崇拝。
「私、今のままの魔王様のことが好きですよ。何も考えず、何にも縛られず暴虐の限りを尽くす魔王様の姿は本当にお美しくて、誰よりも輝いていて……だからこそ、私は貴女に仕えたいと思ったんですよ?」
「……あなた、やっぱり狂っているわ」
「ええ、狂った私は、魔王様に是非とも叶えてほしいお願いがあるんですよ?」
――どうか、私の最期は貴女の手で終わらせて欲しい。私は貴女に殺されたい。
まるで恋人にそうするように、セシルフィーラは頬を紅潮させ、敬愛する主人の耳元でそう囁く。囁かれたセレナーデは……「あーはいはい」とめんどくさそうな顔で手を振った。
「そうね、気が向いたらあなたのこともぶっ殺してあげるわ」
「むー。魔王様、そういって毎回はぐらかしますよね!? 私、もう何回もお願いしてるんですよ!?」
恋する乙女の表情から一転、駄々っ子のように頬を膨らませたセシルフィーラが怒りを露わにする。そんな副官から、セレナーデはそっと目をそらした。
「かれこれ五年ぐらい待ってるんですよ!? なんで殺してくれないんですか!?」
「……気が向かないから? こう、ここまで真正面から殺してって請われると逆に興が削がれるのよ。なんでかしらねー」
「……もしかして、魔王様って怯えて命乞いしながら逃げ惑う相手をいたぶるのが趣味だったりします? あの、それなら私もできる限り頑張りますが……」
「そんな趣味ないわよ!? ……うん。無い、はず」
「そこは言い切ってくださいよ……」
自信なさげに語調を弱める主人にセシルフィーラはじとーっとした目を向けた。
「……あ、そうだ、魔王様! 魔王様でも家族愛を知れる方法がありますよ!」
「え、本当!?」
「ずばり……魔王様ご自身で家族を作るのです!」
期待に目を輝かせて椅子から立ち上がったセレナーデ。名案を思いついたと、自信満々な表情を見せるセシルフィーラがビシィと指さしたのは、魔王の顔……よりもやや下にある、豊満に実った胸元。
「道で適当な男を捕まえて、『ねえ、私と家族を作らない……?』とか言って誘惑するんですよ! ちょっとドレスを着崩してその使う予定も無いくせに無駄にエロく育った身体を見せつければ、あら不思議、翌朝には魔王様のお腹に新たな命が――」
「そんなことできるかー!? ぶっころすわよ!?」
「きゃー、魔王様、お許しをー!」
セシルフィーラは楽しそうに笑いながら部屋を出て行った。そんな副官の姿を赤い顔で睨み付けていたセレナーデは、やがて呆れたため息をつくのだった。
次の日、セシルフィーラを殺した。
彼女の願いを叶えようとしたわけでは無い。ただその日の戦場が物足りなくて、フラストレーションがたまっていたところに丁度良く現れた相手がいて、それがずっと側に置いていた副官の少女だと気づいたのは、既にその胸を深々と刺し貫いた後で――
「ウソ、シルフィ、どうして……」
「嬉しいです、魔王様……ようやく……私の願い、を……」
崩れ落ちていく少女が浮かべた微笑みも、最期に告げた言葉も、頭が理解を拒んでいた。我に返った頃には、もはやそれはただ、魔王が数多に手にかけた内の一人に、たったそれだけの物言わぬ骸になっていた。
その日から、セレナーデは城へ帰ることをやめた。何かを忘れるように、昼夜問わず破壊と殺戮に没頭し、疲れ果てては血と屍の中で泥のように眠る生活を続け……一年後、その生涯を閉じた。
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