五十八話 律世楼にてⅡ
祭壇に浮かぶのは、無数の文字列が流れ、書き換わり、そして生まれては消えていく光の奔流――世界の循環。
その上に子供のような光が立っていた。
「ふぅん、本当は随分と面白みがない見た目してるのね」
ぼんやりとした光が、頭、胴体、そして手足を形作っていた。それだけで、表情を形作るものの一つも無ければ身に纏う衣服もない。ただ、光の固まりが人を形作っただけの存在。
それがエルネスタの、真の姿だった。
『剪定せよ』
頭に直接届いてくる、大人とも子供とも、男とも女ともつかない声。同時に、エルネスタの思念とも追憶とも言うべき何かがアリスの頭に流れ込んでくる。
神域にて、大いなる存在は葛藤していた。
世界の秩序を司り、あらゆる事象を裁定する――己の存在意義に従わねばならなかった。
裁定の対象は、世界の循環。
フレイヤとアシュヴァルド、先に降り立った二柱しか存在しなかった原初の世界では、彼らが世界に定義した無数の事象が混在し、混沌を為していた。
朝と夜が溶け合うように世界を覆い、生き物は虚空から生まれては突然形を変え、消える。ある時は草花に覆われていた大地が、瞬き一つの後には海の底に沈んでいる。そのような無秩序を一つの大いなる流れとして整え、秩序を与えるべく自ら規定したものだ。
だが、出来上がった結果は紛うこと無き失敗作だった。
世界は複雑すぎた。身勝手な二柱が無数に定義した事象の羅列はもはや手に負えず、一つの秩序だった形に束ねることは為しえなかった。
故に、出来上がった秩序は全くの不完全。事象は流動的で未来は不確定。循環を規定した己自身にすら行く末の見通せないそれは、無秩序と言うほかならない。
そのようなものは許されてはならない。
思考の末、たどり着いた答えは最も単純な帰結……事象が多すぎることが全てにして唯一の原因だ。
ならば残すべき事象だけを残し、後は消してしまえば良い。循環を剪定しようとし――そして思いとどまる。
この中途半端な無秩序が、一度規定されてしまった以上は、世界にとっての絶対の秩序だ。ならば自らの手で乱すなどあってはならない。それは、己の存在意義に反することだ。
己が為すべき、しかし己の手では決して為してはならない。その矛盾に満ちた使命を果たすには、担い手となる存在が必要だ。
故に、アリシエルという少女に大いなる使命を任せた。己の全てを与えた少女に世界の全てを見定めさせ、取り決めた『審判の日』に彼女が選んだ事象だけを残して、新たな秩序を再編する――そのはずだった。
だが、アリシエルは失敗し、秩序の再編は為されなかった。彼女は誰よりも世界を愛し、そして誰よりも世界から愛された。故に、世界の何をも切り捨てることができなかったのだ。
そして使命は、次の世代へと託される。
二度目の失敗はあってはならない。一度目の担い手が誰よりも慈愛に満ちていたが故に失敗したのなら、次はその真逆となる者を選べばいい。
すなわち世界の瑕から産み落とされた魔物ならば、生まれながらにして世界の敵になる事が定められた少女ならば、世界を剪定することに何の躊躇いを抱くことがあろうか。きっと同じ過ちを繰り返さないだろう――
「……そう、だから私って訳ね」
流れ混んできた思念が終わると、アリスの目の前に光の球が現れた。それは一度強く輝いた後に再び跡形もなく消え、代わりにそこに一振りのレイピアが残された。
柄に絡み合う茨の意匠が刻まれただけの、簡素な作りのレイピア。それがエルネスタが授けた世界を剪定するための神器だと、直感的に理解した。
使い手を待つかのように浮かぶそれを、アリスは思いっきり払いのけた。石造りの祭壇の上を跳ね転がる、硬質な音が反響する中……その音をかき消すほどの剣幕でアリスは吠える。
「ふざけんな! 勝手に天使なんてものにして何をさせたいかと思えば……自分の不手際の後始末ぐらい、自分でしなさいよ。私はちゃんとしたわよ、自分の後始末!」
「そもそもねー、世界の敵だからって何よ? 私の生き方は私が決めるってのっ」
「八年遅いのよ、八年。そんでこっちから出向いてようやく登場って何様のつもり?」
「ていうか、天使の境遇すっごく酷いことになってるんだけど? おかげでこっちは苦労してるのよ! 仮にも超常の存在ならちゃんと管理しなさいよばーかばーか!」
ここぞとばかりに八年間ため込んでいた不満、もとい愚痴をエルネスタへとぶつける。神への敬意が一欠片もないアリスを前にしても、エルネスタは微動だにしなかった。
「はぁ、はぁ……いつになったら帰してくれるのよ。大事な儀式の、途中だったんだけど」
喋りすぎて少し息切れしながら、アリスはおそらく騒ぎになってるだろう現世のことを思う。下手をすれば体調不良を疑われて、久しぶりに庇護者特製の苦くて良く効く薬を飲まされかねない。
さっさと出せ、と無言で見上げる。エルネスタは世界の循環の上からアリスを見下ろしたまま、何一つ反応を見せなかった。
いや――よく見れば、パーツの一つも無い顔が、かすかにアリスから視線を外しているようだった。きっと目線が向いているだろう先をアリスも辿ってみれば、その先は払いのけて転がったままのレイピア。
「言うこと聞かなきゃ帰さないってわけ?」
少女の身に似合わない大きなため息一つ、アリスは嫌々向かった。
「触っても大丈夫だよね?」
しゃがみ込んで、つんつんとつついてみる。続いて柄の端をそっと抓んで持ち上げてみた。そうしておかしな物じゃないことを確かめてから、ようやくアリスはレイピアを手に取った。
「あ、しっくりくるかも」
レイピアはとても小ぶりで、実年齢より小柄なアリスの手でちょうど収まる造りだった。それだけじゃなく、意識しなくても自分の体の一部であるかのように魔力が良く通った。
「で、使い方は――ああ、そういうことね」
手に持った瞬間、どうすればいいかは剣そのものから伝わってきた。アリスの身に流れるエルネスタの神力を流すだけ。そうして剣身で切り裂けば、切られた対象――それを為す事象をこの世界から消し去るというものだ。
その使い方は、どこかイミテアエクスに似ていると感じた。
『剪定せよ』
「はいはい、そればっか……うわわっ!?」
突然アリスの立っていた床が崩れ落ちた。床が、壁が、音も立てずに崩落していく。
祭壇の外に広がっていたのはどこまでも広がる何もない空間で、アリスはその中を落下していく。唯一崩落せずに残っていた世界の循環の上に立つエルネスタが、徐々に遠くなっていくアリスを見下ろしていた。
『務めを果たせ、小さき者よ』
「……あ”っ?」
エルネスタから再び言葉が届いた……瞬間、アリスはカチンときた。
それはどこまでも上から目線で言いつけてくる傲慢さに対してか、それとも結構気にしている伸びの悪い身長のことに触れられたからか。ともかく額に青筋を浮かべたアリスは、胸の奥底に湧き出た衝動に深く考えずに従うことにした。
「お望み通りやってやるわ……よっ!」
翼を最大サイズまで展開。空気を捉えて落下する体を急停止させると、力強く羽ばたく。同時に暴風の魔法を自らにぶつけ、急加速。重力に逆らって飛翔する先はエルネスタのところへ。
レイピアを握る手に力を込める。すると奥底に眠る神力の源へと自然に繋がり、剣身が仄かに光を纏った。
瞬き一つの間に彼我の距離は詰められる。そして無防備なエルネスタの胴体めがけて――刃を突き出した。
『――!』
「……ふぇ?」
驚いたのは防がれたから……ではなく、刃があまりにも呆気なく通ったから。エルネスタはレイピアの切っ先を胸に受けてよろめいていた。
もともとただの鬱憤晴らしで、会ったら一発殴ると密かに決意していたのを実践しただけ。つまりまともに通用するとは思っていなかった一撃だ。内心、やってしまったと固まった。
再び自由落下しながら、その最中ふと視線を感じて見渡せば、それまでいなかったはずの者達がこの場に現れていた。
遠く左手には、黒髪を足首まで伸ばした長身痩躯の男――滅びの神アシュヴァルドだ。虚空にあぐらをかいて座り込んで、、膝を叩いて大笑いしている。アリスと目が合うと、ニヤニヤ嗤いながら口の動きで『よくやった』と伝えてきた。
対する右手側に顔を向ければ、アシュヴァルドとよく似ていながら、黒の色調を全て純白へと転じたような装いの女神がたたずんでいた。
「……フレイヤ」
その正体にアリスはすぐに気づいた。姿を見たことはなけれど、かつて聖女だったときに嫌というほど言葉を交わした相手だ。
三神の中では最も縁が深く、アリスにとってはある意味で知古とも言える相手。そんなフレイヤは、アリスに対し――一切の感情の映らない瞳を向けていた。
◇◆◇
目が覚めると、アリスはベッドの上に寝かされていた。見覚えのある景色は律世楼の寝室だ。体を起こせば、ベッドサイドから心配そうにアリスを見つめるエカテアの姿に気づいた。
「御使い様、お目覚めになられましたか。お身体の調子はいかがですか?」
「ん……大丈夫」
むしろ少し寝たおかげか、儀式の前よりは調子がいいくらいだった。神域で暴風を体にぶつけての急加速という無茶をやらかしたはずの体にも痛みはない。
「ごめんね。せっかくまかせてもらった儀式、台無しにしちゃって……」
「いえいえ、とんでもない! むしろ、最高のものになったことにお礼を述べさせていただきたいほどですわ」
「へ?」
「なにしろ、御使い様が神の座に招かれるまさにそのときに立ち会うことができたのですから。歴史に残る瞬間に出会えたと、皆が感激に打ち震えております」
「ああ、そう……え待ってなんで知ってるの」
もしかして一部始終を見られていたのか。そう心配するアリスだったがそれは杞憂だったようだ。
エカテアが語るに曰く、意識を失ったアリスの体は仄かに金色の光を纏っていたという。目にした誰もが己の奉じる主神の力であると気づいた。それ故に、今頃アリスはエルネスタの御許へ招かれているのだろうとわかったとのこと。
「特に光がひときわ強く輝いて至聖の間を照らした瞬間がありました。あのときはまるでエルネスタ様の御身に直接触れることを許されたかのごとく身近に感じることができ、自然と涙がこぼれたのです……差し支えなければ、あのとき何が起こっていたのかお教えいただけないでしょうか?」
「……ナンダッタンダロウネー」
考えるまでもない。絶対にエルネスタをぶっ刺した瞬間のことだ。アリスはそっと目をそらしてよく覚えていないととぼけた。
「あら、そうなのですか? ……私はてっきり、こちらをエルネスタ様より授かった時のことかと思ったのですが」
「あ、それ……!」
エカテアが恭しく差しだした両手の、直接触れないようシルクのハンカチを広げた上に乗せられたそれはエルネスタから授けられたレイピアだ。エルネスタにぶっさしたあとついでにそのまま手放していたのだが、アリスのところへ帰ってきていたようだ。
「こちらの神器は、エルネスタ様から御使い様へ授けられたもので間違いありませんか?」
「……うん、そうだよ」
「ああやはり!」
再び感動に打ち震えたエカテアは、この神器をしばらく塔で預からせて欲しいとアリスに願い出た。
「聖女様の時代以来の初めてとなる、神から直接賜った神器となります。是非律世楼の信者達へ……いえ、所属を問わず皆が一度、拝観することができるよう取り計らいたいのです」
「どーぞどーぞ、気にせず持って行っちゃって」
「ありがとうございます! ……では、失礼して」
エカテアはレイピアをテーブルへ置くと、使用人呼び出し用のベルをチリンと鳴らした。すぐに数人の聖職者の男が部屋へと入ってくる。彼らが神器を預かるようだ。
「くれぐれも万が一のことがないように。打ち合わせした手はず通りにお願いいたしますわ」
「承知いたしました、司祭エカテア」
男達の法衣につけられた階級章は司教以上のもので、エカテアよりも階級が上のはずなのだが、彼らは皆エカテアを心から敬っているように見えた、気になって彼らに尋ねてみれば、どうやら律世楼の最古参の司祭ということで階位以上に尊敬されているらしい。
何やら特別な魔術が施されているらしき、漆塗りの木箱にレイピアを収めて、男達は部屋を出ていく。その背中をアリスがじっと見送っていると、気づいたエカテアが申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんさないね、本来であれば淑女の寝室に男性を立ち入らせるのは御法度なのですが、、万が一の事がある前にまずは安全な場所へと思いまして」
「ううん、それはいいんだけど。あの人達って審問官だよね?」
黒染めした法衣と刺繍された天秤の紋章には見覚えがあった。確かに彼らも律世楼に所属しているのだが、物事の真偽を確かめ判ずる役目の者達が何故そこに。
「ええ、おっしゃるとおりですわ……これより神器は律世楼に所属する審問官三十七名全員の立ち会いのもと、真にエルネスタ様が世に遣わした神器であることがあらゆる魔術的解析を用いて確かめられます。その後には枢機卿猊下方々の前で聖認の儀を執り行い、神が御使い様に神器を授けられたことを、律世楼の名の下に宣言いたしますわ」
「ふーん、なんでそんな……あ、わかった。まためんどくさい政治的なやつでしょ」
「ええ、そのめんどくさい政治的なものでございますわ」
「はあ、どこでも結局それね。律世楼も結局変わらないのかしら」
ここは聖職者という名の俗物とは無縁だと思っていたのに。アリスが失望のため息をつけば、エカテアは「耳が痛いお言葉ですわ」と苦笑した。
「ご不快かもしれませんが、必要なことなのです……これを以てすれば、御使い様はただの『天使の現し身』ではなく、聖女シルヴィアに匹敵する偉業を成し遂げた神子として何者にも負けない実績を得るのです。そうすれば、我々律世楼も、御身を守るために格段と動きやすくなるでしょう」
「あ……」
天使アリシエルの後継者であるが、結局は何の後ろ盾もない平民の生まれ――それがアリスの最大の弱点で、アインズバードという強力な庇護者が付きながらもこれまで一神分派の干渉をはね除けきれなかった原因だ。
律世楼にしてみても、枢機卿の権力に抗うほどの動きはこれまでとれなかった。しかしエルネスタから直接授けられた神器という、史上でも初めてとなる偉業をもたらしたという実績があれば。
律世楼という三大勢力の内の一つが、全力をもってアリスを庇護するために動く。その大義名分となる。
「……辛い目に合われたことは聞いております。けど大聖堂にだって、心から御身を案ずる者は数多くいるのです。アリスさんどうかそれを忘れず、辛いときはいつでも頼ってきてくださいな」
司祭ではなく、少女の身を案じる老婆の微笑みで。アリスの髪を優しく撫でたエカテアは、ベッドを離れて部屋の灯りを落とした。月明かりのみが差し込む薄暗さとなって初めて、この時間が夜遅くだと言うことにアリスは気づく。
「エルドラン伯爵閣下からは、こちらに泊まられることの了承は得ております。何かあればテーブルのベルを鳴らしてくださいな、当直のシスターがうかがいますわ。それでは、今宵はゆっくりとお休みくださいませ」
儀式を執り行ったのは早朝のことで、つまりそこで意識を失ってから今までの間ずっとそばについていてくれた。それにアリスが気づいた時には、既にエカテアは扉の外で遠ざかる足音を残すのみとなっていた。
「……はぁ、とんでもないこと知っちゃったなぁ。ていうかさらっと三神全員と会っちゃったし」
思いがけない形でアリスは自分が天使となった意味を知った。その身に課せられたあまりにも重大すぎる……そして決して相容れない使命と共に。
「ふわぁ」
精神的な疲労のせいか、ずっと寝ていたはずなのに再び襲ってくる睡魔。そういえばごはんを食べてないと思い出しつつ、今から食べる気になれないアリスは再び眠りに落ちようとした。
そのときだった。コツンコツンと、何かを叩く堅い音。
「……窓?」
窓を外から誰かが叩いている、それが音の正体だった。こんな時間に窓から入ってこようとする相手など、心当たりは一人しかいない。
どうやってここがわかったのだろう。不思議に思いつつも無意識のうちに笑みを浮かべながら窓を勢いよく開け放てば、飛び込んできたのはクシャナ――ではなかった。
「やっと、会えた……」
「だ、誰!? え、あれ、もしかして貴方……!」
転がり込んできたのは、かつて亜人狩りの襲撃から助けた魔族の少年――ジェイクだった。
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