五十六話 不意の再会Ⅵ
更に夜が深まり、喧噪がやまない酒場もようやく寝静まり帰った頃。街を満たす静寂を破らぬように静かに駆ける人影があった。
カンテラを片手に見回る衛兵や徘徊する浮浪者に見つからないように裏路地を、屋根を駆け、浮かぶ火の玉が照らすレッツォルの広場の様子を物陰から窺った人影――エルリックは、そこにいるのがクシャナ一人であることに気づいて、怪訝な顔で物陰から出た。
「……伯爵様達を呼び出してたんじゃなかったのか?」
「やあ、おつかいご苦労様。彼らならついさっき帰ったよ。君にとっては都合が良かったでしょ?」
からかい混じりに聞かれ、エルリックは苦渋に顔をしかめた。故郷の家族を人質に取られて仕方なくとはいえ、大恩のある主に対する背信行為に手を染めている今の姿を、決して見られる訳にはいかない。
「あ、でも君のことはとっくにバレてるみたいだったよ」
「……マジ?」
「ご愁傷様。でも安心して、君の事は今まで通り使ってくれてかまわないってことで話は付いたから。契約違反で今までの献身が台無し、だなんてことにはならないよ」
アインズバードにとってクシャナと内通するエルリックは喉元に突きつけられた刃も同然。そのリスクを天秤にかけた上で、エルリックを通じてクシャナという強力なイレギュラーとのつながりが得られることのアドバンテージをとった。
むしろ、エルリックを内通者のまま置いておくというクシャナが一度冗談として頼んだことを、アインズバードの方から改めて提案してきた。そのときの勝ちを確信した顔を思い出して、クシャナは苦渋を浮かべた。
「『お前は私の喉元に突きつけた刃をわずかたりとも動かせない』――参ったね、その通りだよ」
「は? どういうことだ?」
「確かに君を美味く使えば伯爵を害することは簡単。そしてそうなれば、さすがに伯爵も君の事を処分しなければならない……さて、そんなことになればアリスちゃんはきっとすーっごく怒るだろうね」
アリスはエルリックのことを頼れる兄貴分として慕っている。だからこそ、エルリックの存命そのものがクシャナを制する楔となり得る。
「君がアリスちゃんのお気に入りであることが、敬愛するご主人様に対する一番の防御であり献身であるわけだ。せいぜいがんばりな……あ、うかうかしてたらぽっと出の聖女もどきに座を奪われて飽きられちゃうかもよ?」
「へいへい、気ぃつけますよー……ってか俺バレてるって知ってて明日からどんな顔で伯爵様に会えばいいんだよ! いや、今更だけど!」
「本当に今更だねぇ」
あーうーと、エルリックがひとしきり頭を抱えてうなった後、どさりとあぐらをかいて座り込んだ。かつては悪ガキめいた少年の容貌が今はどこか大人びて影のある様に見えるのは、決して成長のせいだけではないだろう。
「んで? 例の件、伯爵様に聞いたんだろ? ……なんておっしゃってた?」
「あ、気になるんだ」
「……そりゃあ、な。さすがにあんな秘密を聞かされたらな」
「意外だね、君らって伯爵の側近みたいな扱いなんでしょ? なのに知らなかったんだ」
「所詮は使い勝手のいい手駒ってだけだ……まあ隊長とゴードン先輩あたりなら知ってるかもな。で、はぐらかさずにさっさと答えろよ」
「そうだね。概ね予想通りだったかな」
『確かにお前の言うとおり、私は過去に天使アリシエルの封印を暴こうとした。その時私の頭に神エルネスタの思念が流れ込み、いずれアリシエルの後継者が生まれることを知った……これが真相の全てだ』
これが、アインズバードの答えだった。
では、何故封印を暴こうとした? 大天使を蘇らせて、一体なにを企んでいる? 問い詰めるクシャナに、アインズバードは感情のない声でたった一言答えた。
――蘇らせること、それ自体が目的なのだよ、と。
「なんじゃそりゃ?」
「真意はわからない。けど、嘘や誤魔化しじゃないことは確かだったよ」
天使の目は、人の体の奥に潜む魂を見ることができる。その目を持ってしても、アインズバードが嘘を言っている兆しは見えなかった。
「概ね僕の想像通りだった……けど、それ以上の情報は無かった。結果としては期待外れだったね」
「……伯爵様、相変わらず何考えてるのかわかんねーからな」
「ところで、君の方こそどうなんだい。例の件、上手くいったかな?」
問われたエルリックは無言のまま、懐から取り出した鍵束をクシャナに投げ渡した。無骨な鉄製のそれの、リングに共に通されたプレートには『第十七区収監所』と記されている。
「上々。ここにいるんだね? 君が催眠にかけて騒ぎを起こさせた、例のエルフがいるのは」
「ああ、言われたとおり収監先の情報もリークさせた……ったく、ヤな仕事させやがって」
アリスとシャルローゼが遭遇した、路上で酔い潰れていたエルフの男――亜人狩りの暗躍するこの街でそんな無防備な醜態をさらすほど、本来あの男は愚かでは無かった。
それを人の精神を支配し、思うがままに操るエルリックの固有魔法で、支配下に置いてあのような騒ぎを起こさせた。そして衛兵に連れて行かれて収監された先――あくまで不穏な情勢を鑑みての保護としてだ――の看守を支配下に置き、牢を無防備にした。看守は今頃は酒場を渡り歩いて、無意識のうちにペラペラと醜態をさらしたエルフのことを話しているだろう。どこかで亜人狩りの耳に入るように。
クシャナがエルリックにそう指示した。その目的はただ一つ。
「このエサがあれば、あの亜人狩りの天使を捕らえられる。よくやってくれたね、褒めてあげるよ」
「へいへい、お褒めの言葉よりも約束の報酬をだな」
「そうだったね」
クシャナは手のひらに小さな火種を浮かべ……それを勢いよく握りつぶした。パリン、と火種に似つかわしくない硬質な破裂音が響いた。
「はい、ドーレンに仕掛けた火種が消えたよ。これで君の故郷の八十七人のうち、三人目の解放だね。よかったね、お手柄じゃないか」
「……あんだけこき使われて、まだたったの三人か」
「僕としては三人も解放してあげたことに感謝して欲しいね。ま、こんな事で君が真面目に働いてくれるなら安いもんだけど」
「それも、どうするかは結局あんたの裁量次第。はぁ、先がなげえな」
エルリックが顔を手で覆って天を仰ぐ――かすかに開いた指の隙間から、怪しく光る瞳がクシャナに向けられる。
「……何度試しても無駄だよ。僕に『催眠』は通用しない」
クシャナは哀れむように微笑んだ。
「随分強力な能力だけどね、そこらの人間とは格が違うんだ」
「……わかってる。無駄なあがきだって」
言葉とは裏腹に、本気で悔しそうに歯がみするエルリックの頭を、クシャナがポンポンとなでた。まるで飼い犬にそうするように。
「さ、それだけ元気ならもう一働きできるかな、伯爵様の忠実な騎士クン? 早速、仕掛けたエサの様子を見に行ってみようじゃないか」
◇◆◇
深夜の王都を馬車が往く。その中で静かに揺られるアインズバードは、随伴するラッドが騎馬を寄せてきた気配を壁越しに気づき、閉じていた目を開けた。
「何かあったか?」
「いえ、異常はありません」
簡素な報告を返すラッドは、何かを言おうとしてためらっていた。続きをアインズバードに促されると、ラッドは「意見具申失礼します」と前置きをした。
「あのクシャナという天使のこと、やはり放っておくべきではないと思います。アレは危険すぎます」
「それは実際に剣を交えてみての感想か?」
「……悔しいですが、あいつが本気でかかってきたなら今頃この命はなかったことでしょう。何より危険なのは、あいつは人の命をなんとも思っていません」
「おそらく、価値観そのものが人間とは異なるのだろうな……厄介なものだ」
「伯爵様はあいつを利用する……いえ、手を組むつもりでしょう。しかし、友好ではない純粋な利害の一致ですら、成り立つのは互いに理解ができると言う前提があってのものです。俺はそれを、学院の貴族達から嫌というほど学びました」
「つまり、お前から見てクシャナは交渉相手にできないと? 意見の相違だな、私はむしろ交渉相手として最良に思える。アレはとにかく、アリスの利となることが唯一の行動原理だ」
クシャナは別れ際ですら、『大天使の封印を暴こうが僕はかまわないが、それでアリスちゃんの身に何かあれば容赦しないよ』と念押しをしたほどだ。無意識か、意識してか、クシャナは何が交渉材料となり得るかを明確に示してきた。
「価値観が理解できずとも、少なくとも行動原理に相反しないと言うことは理解できた。なれば、多少のリスクを負うことになろうとも強力な天使が手札に加わるリターンに見合うほどだ」
「差し出がましい意見を申し上げました」
「今後はエルリックを介して、アレとも連絡を取ることになるだろうな……ああ、そういえばお前も何か提案をされていたか。ふむ、戦力増強に繋がるのであれば少々真面目に検討しても良いかもしれない」
「それは……ご命令とあれば」
生真面目に表情をこわばらせるラッドに、アインズバードは真顔のまま「半分冗談だ」と告げた。
「……そういえば、伯爵様はなぜ天使アリシエルを――いえ、なんでもありません」
問いかけて止めたのは、それが職務の領分を超えるからか、あるいは馬車が帰るべき屋敷にたどり着いたからか。馬車を出迎え、生真面目に規定通りの確認をよこす警備の衛兵にラッドが応対するさなか、アインズバードはふと屋敷の一室に灯りが灯っていることに気づいた。
「何事か? ダイニングルームに灯りがついているようだが」
「はっ、それが……なにやらお嬢様が起きていらっしゃるようで」
「何?」
時刻はすっかり深夜、通常ならばすっかり眠っている時間だ。
怪訝に思いつつダイニングルームまで向かってみると、確かにアリスがいた。眠気覚ましだろう濃いめのコーヒーの淹れたカップを手に、しかし耐えきれず半分眠っていた。その正面では同じくコーヒーを片手に、リチャードが苦笑いを浮かべていた。
「……んあ、はくしゃくさま、おかえり~」
「リチャード、どういうことだ? 何故起きている」
「伯爵様の帰りを待っていたようですよ」
「私を?」
「最初はちゃんと寝室に向かったのですが、間もなく出てきたのです。なんでも――」
「……んっとねー、あした、だいじなぎしきでしょ……だからー」
「ああ」
直前に最後の確認をしておきたかったということだ。席を立ったリチャードに代わってアインズバードはアリスの正面に座り、そこへ暖かな香りを燻らせるコーヒーが運ばれる。
「知っての通り、明日は三神の一柱、エルネスタに祈りを捧げる重要な祭事だ。フレイヤに捧げる祭事とは異なり、祭事も律世楼の内のみで執り行われる小規模なものとなる。とはいえ今年は神代以来となる本物の天使が執り行う祭事となることもあり、通常とは変更点もあるという。具体的には先日説明した通りだが――」
アインズバードは事前に教会から聞かされていた祭事の流れを説明する……その目の前で、当のアリスはこっくりこっくりと船をこいでいた。
「聞いているのか」
「ん、だいじょー、ぶ……」
明らかに会話の中身が頭に入っていなかった。自分から説明をねだっておいて一瞬で寝落ちしたアリスに、少しばかりイライラが募った。
ふと、アインズバードは今夜のことを思い出す。クシャナとの邂逅は決して悪くはない利を今後もたらすことになるとはいえ、結果だけ見れば今日は――そしてこれまでのことも――彼女にやられっぱなしだったことは変わりない。
そしてあの盤外の協力者のことを、アリスはこれまで必死になって隠していた。そこまで考えたところで、アインズバードの中に珍しく、今日のストレスを解消するための些細な悪戯心が芽生えた。
「そうそう、先ほどクシャナという天使と会ってきたぞ」
「――んぇえ!?!?」
アリスは一瞬で覚醒した。倒してしまったマグカップからコーヒーがこぼれたことにも気づかず、青い顔を両手で覆ってあわあわ狼狽した。
「庇護者に対してひどい話だな。あのような友人がいるのなら、もったいぶらずに紹介してくれればよかったものを」
「あの、違っ……じゃなくて! あわ、えっと、な、何をどこまで聞いたのっ!?」
「さあ、何をどこまでだろうな……いろいろと興味深いことを聞いてきたな」
狙い通り、あるいはそれ以上に慌てふためくアリスを見てアインズバードの溜飲もいくらか下がった。クツクツと忍び笑いをこぼし、何か言いたげなアリスに「明日に備えて早く寝るように」と言い残して部屋を去った。
一方、庇護者の想像以上に重大な秘密をクシャナに握られているアリスにしてみれば、何がどこまで伝わったのか気がかりでほかならず――結果として、アリスはこの後一睡もできないまま祭事に向かうことになるのだった。
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