幕間 在りし日の聖女Ⅲ
「お前は友を得てはならない」
かつて、聖女シルヴィアが七歳という幼さで旅立つ前日に、彼女の剣術の師は言った。
「この先、人の名を知ってはならない。顔を覚えてはならない。誰かが助けを求めても気に留めるな。人など、誰一人として価値のないものだと思え。それでも道を共にする必要があるのならば、使い捨ての道具だと見なせ」
「……なんかむちゃくちゃなこと言ってない?」
魔王から聖女に生まれ変わって七年、とっくに人族としての常識も身につけたシルヴィアにはわかる。師の言葉は、およそ人のあるべき姿とは真反対だ。というより、たとえ魔族でも絶対に非常識だ。
訝しむシルヴィアに、師は仮面の下で笑った。師の男は以前は戦場の英雄として活躍し、片腕を失って前線を引いたという老兵だ……それ以外のことをシルヴィアは知らない。シルヴィアの前では決して素顔を見せず、名前すらも明かしてくれなかった――お前は俺から剣を学ぶ、しかしそれ以上の関係ではあってはならないと、シルヴィアに常日頃から言い聞かせていた。
「シルヴィア、お前は冷たい子だ。何も執着しないし、何も望まない。きっとこれから世界がどうなろうと、本当はどうでもいいのだろう」
「えっと、ちゃんと真面目にやる気ではいるよ? 一応聖女なんだし」
「ああ知っている。けどそれは天上の神に命じられたからだ。ただ、己に与えられた役目以上の価値など感じていないはずだ」
「まぁ、そうだけど……」
散々やらかした前世の自分の後始末という理由もあるが、それは語られないこと。
「明日にはたった一人でいつ終わるのか知れない旅に出るというのに、お前には不安の色すら無い。全く、まともな感性の子供とは思えないな。聖職者のジジイ共はどこで育て方を間違えたのだろうか」
「わかったわ、さっきから喧嘩売ってるのね。最後に二度と立てなくしてあげようか?」
「これでも褒めてるのだよ。その冷たさは世界を救うために無くてはならないものだ」
「……ふぅん、ていうか師範、今日は良く喋るねー」
いつもは稽古を付け終わったら最低限の連絡だけして帰っていく。ここまで長く言葉を交わしたのはいつ以来だろうかと、シルヴィアは頭の片隅で考える。
「……先の言葉を忘れるな。例え俺が教えた剣を全て忘れ去ったとしても、それだけは決してな」
いつもは自分から触れてこない師の節くれ立った手が、珍しく弟子の頭を撫でる。仮面に隠されていない口元が微かに微笑んだ。
「それが、誰よりも強く、誰よりも冷たく――そして誰よりも優しいお前の心を守る、唯一の盾になるのだから」
それが、シルヴィアが師と交わした最後の言葉だった。言われた言葉の意味は、その時、シルヴィアは真の意味で理解していなかった。
そもそも元より誰かと特別な関係を築くつもりなど無く、仲間だって作る気は無い。けれど、それは必要性を感じないから。結局のところいてもいなくても構わない。それがシルヴィアという人間にとっての他者と言うものだ。
だから旅を始めて間もなく、シンディオという青年が供をさせてほしいと願い出たのを断らなかった。正確には、足手まといは邪魔だからと断ってもあまりにもしつこく頼み込むものだから結局は同行を認めた。いなくても構わないのならば、いても構わないのもまた同じだ。
それから間もなくしてミザという女剣士が仲間になりたいと言ってきたときも、一人も二人も対して変わらないだろうと受け入れた。やがて半年も経ち、気づけば十人にまで増えていた旅の仲間がいつの間にか聖騎士などと名乗りだした頃には、すでに師の言葉など忘れ去っていた。
そんなある日のことだった。
「――う、そ?」
目の前でほとばしる温かな鮮血。ミザの下半身が、双頭の獅子の形をした淵源の王に噛み千切られていた。
本来、彼女の位置に居たのは自分であるはずだった――油断してた。死の淵まで追い詰められた魔物が、勝利も生存も諦めて、聖女の剣を自ら受けに行きながら相討ちを目論んだ。そのようなことなど、まるで予想をしていなかった。
そして、危うく牙に刺し貫かれるところだった自分を突き飛ばして、ミザが犠牲になることなど。
「……ミザ! ねえ、ミザってば!」
残された上半身に駆け寄って揺すると、まだ体温はある……それだけで、もう命は風前の灯火。シルヴィアは加護の力を全力で引き出して治癒術をかけ――しかし、急速に失われていく生命力を補うには全く足りない。
「どうして!? 知ってたでしょう、私なら大丈夫だって!」
女神の加護のおかげで聖女の肉体は高い再生能力を持ち、今の戦闘でついた僅かな切り傷だって、もう跡形もなく癒えていた。だから自分は守られる必要など無いと、彼女らには常々言い聞かせていた。
わからない。彼女がどうしてこのようなことをしたのか。
わからない――なぜ、自分はこれほど取り乱しているのか?
「ねえ、どうして……」
「それが、我々の役目だからですよ」
「シンディオ! ねえ、ミザが!」
「もうミザは助からないでしょう、これ以上は苦しみを長引かせるだけです。せめて、安らかに逝かせてやってください」
シンディオの表情は同胞の戦死を悲しんでいて、同時に受け入れていた。シルヴィアの隣に跪いたシンディオは、まだ治癒をかけ続ける彼女の手をとってそっと退けようとする――その手をシルヴィアは払いのけ、まだかろうじて息があるミザへと治癒をかけ続ける。
「もう十分です。せめてまだ息がある内に、最期にミザのことを褒めてやってください。それが彼女にとっての餞になるでしょう」
「……でも、私をかばう必要なんて!」
「ミザがかばっていなかったら、貴女は死んでいたかもしれませんよ」
「だからいつも言ってるでしょう、私は何があっても死なないって――」
「加護の再生能力にも限界がある……その可能性を誰が否定できますか? 万が一があってからでは遅いのですよ」
聞き分けが悪い生徒に言い聞かせるように、シンディオは優しく諭す。
「聖女様は誰よりも強い。この世界を救えるのは貴女だけなのです……故に、絶対に斃れてはならない。死んでいたかもしれないという程度のことすら、貴女には許されないのです……ですから、我々がいるのですよ」
共に戦うためでは無く、希望の火を万が一にも絶やさないために――もしもの時に、身代わりになるために。
微笑んで語るシンディオに、共に並ぶ同胞達に、決して悲壮感は無い。
「……みんな、そうなのね」
「聖女様について行くと決めたその時より、我らは決して未来を望むことは無いと誓いました……残酷なことだとは理解しています。どうか、受け入れてください。そして死を背負わず進み続けてください。我らの命が聖女様の導く未来の礎になる、それだけで十分な名誉なのです」
さあ、後は我々が――シンディオがシルヴィアを立たせようとした、その時だった。
「……し……ぃあ」
「ミザ!?」
うっすらと開いたミザの目がシルヴィアへと向けられる――決して息を吹き返したのでは無い。聖女の潤沢な魔力を使い果たすほどつぎ込まれた最上級の治癒術で、かろうじて命の灯火が完全に消えるまでの少しの猶予を得ただけだ。
治癒術のエキスパートでもある聖女にはわかる、これ以上は無意味だと……それでも自分でもわからない何かに突き動かされて、治癒の手は止めない。徐々に魔力が枯渇し、呼吸が荒くなっていく
「だ、め、じゃない……むちゃ、したら……」
「こっちの台詞よ! なんで、こんな……!」
シンディオ達と違い、唯一ミザだけはシルヴィアの事を呼び捨てにして敬語も使わなかった。出会ったときから、幼いのに己の身を顧みない行動ばかりするシルヴィアを案じて、ミザは勝手に姉貴分を自称してシルヴィアの世話を焼いていた。
ゆっくりと持ち上げられたミザの手が、シルヴィアのもうかすり傷一つ無い頬に触れた……その指先が、血では無い透明な雫に濡れている。
「泣……ない、で」
「――ッ!」
困ったように微笑んだその表情が、前世で刺し殺した自称副官の少女に重なった。種族も立場も違う全く似てない二人なのに、世話焼きなところとシルヴィアが無茶する度に向けられる困った笑顔は何故かそっくりだった。
そして、遂にミザの命は尽きる。力を失ったミザの腕を、シルヴィアは支えてそっと地面に降ろした。
「……聖女様。弔いは我々がやっておきます。今はお休みになられてください」
それからのことは、よく覚えていない。ただシンディオにおぶわれて、戦場から離れた休息地に張られたテントへと運ばれて。寝床に横になってただぼんやりとしていれば、いつの間にか日は落ちきっていたようだった。
知らずに流れていた涙も止まり、ようやく、物事をはっきりと思考できる程にまで回復して……そのせいか、眠気が急に襲いかかってきた。睡魔に身を委ねる直前に表情に浮かんだのは、自嘲の笑み。
「……なんだ、聖女も魔王も、結局は何も変わらないのね」
世界を滅ぼす災厄と、世界を救う希望。全く正反対なようで――実のところ全く同じだ。
自分のせいで誰かが死ぬ。魔王でも聖女でも何一つ変わらない、誰かの命を奪い続けることが自分の運命だというのならば――
「もう、仕方の無い事なのかな」
次回の投稿は11/6を予定しています。
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