三十五話 夜はまだ明けない
「そろそろ寝たかな」
クシャナは膝の上でアリスが穏やかな寝息を立てているのを確かめると、その身体をそっと花畑の上に下ろした。
「ふう、今日は僕も頑張った……頑張ったんだから、ちょっとぐらい役得あってもいいよね?」
目の前には、無防備なアリスの寝顔。その唇についつい意識が吸い寄せられて……
「うーん流石に寝ている娘に悪戯するのは良くないよね。それにファーストキスが人に見られながらなんて風情がないものだ……君もそう思わないかい?」
「……」
「とっくにバレてるから隠れるのはやめなよ。出てくる気が無いなら、そのまま燃やすけど?」
「……いつから気づいてた?」
「最初から」
倒壊した木の陰から、クシャナ達を気配を殺して見ていた男――エルリックが姿を現した。
「やあ、覗き魔の騎士。あいつらの相手はもういいのかい?」
「とっくに捕縛済みだ……ってか、なんだよ覗き魔って」
「やるじゃん。」
「僕とアリスちゃんの逢瀬を覗いてたって自分で言ってたじゃん。あ、鈍いアリスちゃんとは違って僕は人の気配に敏感だからね。あの時君が見ていたことは気づいてたし、あれ以上近づいてたら殺すつもりだったから。君、命拾いしてたよ」
「そりゃよかった。んじゃ、命拾いついでにアンタには聞きてーことが山ほどあるんだ」
「ふぅん。僕、君より強いよ」
「んなこと知ってるさ。俺は、あんたとは協力できたらと思ってるんだ」
エルリックは短剣をその場に置いて害意が無い事を示すと、人好きのする笑顔を浮かべてクシャナに近づく。
「アンタが敵じゃねえってことは知ってる。利害が一致してるなら無駄に争うこともねえし、ここはアリスちゃんのためにも良い関係を――」
「――思い上がるなよ、俗物」
「がっ……!」
瞬きの間に彼我の距離を詰めたクシャナ。エルリックは背後から頭をつかまれ、地面に倒された。
「僕ね、人間って生き物が嫌いなんだ。特に君みたいな奴がこの世で一番気に食わないんだよ」
エルリックを見下ろすクシャナの目は、氷のように冷たい。
「正義の騎士様気取りでさ、自分は貴方様だけの味方ですなんて嘯きながら、誰にとっても利になるように立ち回る。誰からも好かれて、誰からも信頼される……ああ、物語に出てきそうな、反吐が出るほど理想の騎士様だね。でもね、だからこそ君は誰の味方にもなれないんだよ」
「離せ……!」
「聞こう。君は、いつから僕たちのことを見ていた? いつから隠れていた? ……言っただろう? 僕は君の存在に、最初から気づいていたって」
エルリックは言葉に詰まり、クシャナは全てを見透かしたように嘲笑する。
「答えは、戦いが始まってからすぐだ。君は戦闘の一部始終をずっと見ていた。もちろん、相変わらず鈍いアリスちゃんには黙っていてあげたよ……だって、知りたくないだろう? 誰よりも頼りにしているお兄ちゃんが、自分が傷つく姿を黙って見ていたなんてさ」
「――ッ」
頭を押さえつけていたクシャナの手が離され、エルリックはよろよろと立ち上がる。
「何度、彼女は魔法に呑まれた? どれだけ身の危険があった? ……幾つ傷つくのを見逃した? さあ、弁明があるなら言ってみなよ」
「……一人でも十分戦えていた。あの場に俺が出て行った方が邪魔になると判断しただけだ」
「は、そんなの関係ないよ。大事な大事なお姫様が戦っているのならそんな理屈なんて投げ捨てるべきだ……君はこう考えたのだろう? このまま身を潜めていれば、僕や彼女の秘密を暴ける、と」
「違う!」
「あは、図星ですって表情に出てるよ……それで、必要なことが知れてからいかにも今着きましたって表情で出てくればどうだい? 君はアリスちゃんの信頼を裏切らず、ご主人様には有益な情報を持ちかえれる……ああ、ほんとに君みたいな奴は心底嫌いだよ。君はね、アリスちゃんにとっての『頼れる騎士様』を演じたいだけ……いや、『頼れる騎士様』でなくなるのが怖いんだ。それでいて、ご主人様のことを裏切る気だって無い、ただの小心者だよ」
「……好き勝手言いやがって」
エルリックはいらついて頭をガシガシと掻いた。
「認めるさ、確かに俺はアイツの信頼を利用している。けど、それはアリスちゃんのためでもあるんだ。有益な情報を持ち帰れば、ひいてはアイツを守るための盾に転じる」
「……じゃあ、一つ君に問おうか。君は、何があろうとアリスちゃんの味方でいられるかい? 『頼れる騎士様』を何があっても貫き通せるかい?」
「そんなの勿論――ぁぐっ!?」
――瞬間、クシャナの手がエルリックの首を掴んで締め付けていた。
「魂ってのは感情の揺らぎも無慈悲に映し出すんだ……自覚してるか知らないけどさ、一瞬ためらったことなんてお見通しなんだよ。君はね、最後の最後にはアリスちゃんのことを裏切る、その選択をとれてしまう人間だ」
「ためらってなんか、ぐぅ……無い!」
「ああ無自覚なんだ、本当にたち悪いね……別に失望はしていないよ? 人なんて結局そんなもんだからさ。だからね、君には枷をつけさせて貰うよ」
「枷、だと……?」
「エフィラ、アルロント、ソーマス」
「ッ!?」
耳元で囁かれた名前……それは、故郷で暮らす家族の名前だった。続けて、クシャナは故郷の人間の名前を一人ずつ囁いていく。。
「何故知っているかって? アリスちゃんにつきまとう君ら第二部隊のことは気に食わなかったから、念のために色々と調べさせてもらったのさ。特に君は五人の中で一番厄介そうだから、君の故郷の人達に、僕の火を埋め込んだ。僕の合図一つで、皆火だるまだよ」
「……俺は何をしたら良い。あんたに従えばいいのか?」
「いいね、理解が早いのは好感だよ。僕の手駒になってもらうのもそうだけどね、一番の要求は――何があっても、アリスちゃんだけの騎士であることだ」
それは酷く単純で、残酷な命令だった。
「気に食わないが、アリスちゃんは君のことを信じてる。だから、その信頼を裏切るような真似だけはするな。全てを彼女のために捧げ、全てを彼女の利となるように動き、全てを彼女のために裏切れ。一切ためらうこと無く、彼女だけの『頼れる騎士様』の役で在り続けろ」
「それは、伯爵様をも裏切れと?」
「長い歴史をひもとけば、騎士が主君を変えるなんてありふれた事だろう? 気にすることは無いさ、君が演じ始めた滑稽な役を、ただ貫き通せばいい。それで、答えを聞かせて貰おうかな?」
「……くそったれ」
初めから、選択肢など与えられていなかった。
屈辱に顔を歪めて跪いたエルリックを見て、クシャナは笑う。
「君が忠義を尽くしてくれることを信じて、特別に記憶は消さないでいてあげるよ……僕を失望させるなよ? そうだ、子供達を家に帰すのよろしくね」
そうしてクシャナは隠すこと無く堂々と翼を広げて飛び去っていった。一人残されたエルリックはその場に座りこんだ。
「……なんなんだよ」
騎士になりたかった。取り立ててくれた主君である伯爵には強く恩義を感じているし、見放されれば自分は騎士では無くなってしまう。裏切る事なんてできない。
弱き者を守りたかった。アリスは本当は自分が盾となる必要などないぐらい強いのだろうが、その内面にどこか潜む弱さには寄り添ってやりたいと思った。何より、自分を信じて頼ってくれるのが嬉しかった。幼い頃に憧れた物語の騎士は、いつも守るべき姫から信じられていたから。
どちらも捨てるわけにはいかない。騎士であることも、アリスからの信頼も。そうでなければ、自分は『お姫様を守る騎士様』ではなくなってしまって――
「ああ、結局、俺が本当に守りたかったのはガキの頃の憧れだったんだな」
くそったれ。
吐き出した言葉は、虚空へと溶けて消えた。
◇◆◇
やがて、一連の騒動は収束する。
北門で発生した魔物の襲撃は、発生して間もなくラッドとテセウスらを初めとした騎士達に鎮圧された。そもそも偽天馬が起こしたこの襲撃はあくまで自分の戦いに邪魔が入らないようにするためのただの陽動だったため、結果的に物的・人的被害は殆どなかった。
攫われた子供達は、エルリックによってそれぞれ家へと帰された。こちらも殆ど怪我といった怪我は無く、無事の帰還をそれぞれの家族は喜び……もっとも、子供達自身はそもそも意識が無かったために何が起きたかイマイチわかっていなかった。
そして、偽天馬。表向きにはその存在はベルフ大森林の奥に生息していた新種の魔物とされた。その討伐についてはクシャナの存在が隠され、アリス単独での功績とされた。後に『再誕の天使』として歴史に名を刻むことになるアリスの、最初の一節として刻まれる物語である。
エルリックが捕らえた第四執行者の三人は、偽天馬の捕獲のためにナタリアが送り込んだ手勢であった。やがて催眠により意識を支配下に置いて吐かせた情報から、『神兵計画』の存在がアインズバードへと知れ渡ることになるが、それはまだ公に明かされること無く、教会に対する手札としてとっておかれる。
かくしてたった数刻の事件は終わり――遂に、祭りの当日を迎える。
次回の投稿は4/14を予定しています。
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