二話 ケールの街のアリスⅠ
神々は、人間やエルフ、魔族――『人』と呼ばれる存在を創った。だが、生まれたばかりの人類は知恵も文化も何も無く、獣同然の存在だった。
神々は人を教え導く存在としてより神に近い存在――『天使』を造りだした。天使は人々に知恵や技術、道徳を伝え、人類の文明は大きく発展した。人々は天使に大いに感謝し、彼らを神と同様に崇め祀った。
だが千年前のある日――『審判の日』、天使達は人々の前に姿を現さなくなった。
その理由は定かではないが、一説では文明が高度に発達したことで、天使達の導きがもう必要なくなったからと言われている。ある説では、発達した文明同士で起こった大きな戦争が原因ともされている。『神代』と称されるその時代から千年余りの時が過ぎた今では天使達の姿を見た者は誰も――長命種であるエルフにすら居なくなり、その存在のみが伝えられているだけだ。
そして、どういうわけかアリスは千年ぶりに世界に復活した唯一の天使らしい。背中に生えた白い羽は、伝承に伝えられる天使の特徴そのままだ。
生まれてすぐのことを、アリスは鮮明に覚えている。
『神託によれば、この子こそが秩序の神エルネスタ様が新たに遣わされた天使!! 大天使アリシエルの後継者として、この世界を救い導く存在である!!』
世界を救うとかもうこりごりなんでむしろ私に救いをください、と叫びたい――そんな感情ごと、アリスは無かったことにして、記憶の奥底に封じ込めていたのだった。
別名、現実逃避。アリスは聞かなかったことにした。だってまだ赤ちゃん、言葉わかんないもん。幸いにして、生まれてしばらくは見た目も他の人族と変わりなかったので、しばらくは身の安全のことも考えただの子供として育てられる事になった。
けれども、二歳の誕生日を迎えると同時に背中に小さな白い翼――伝承にある天使の特徴そのものが生えてきたことで神託が正しかったことがわかり、晴れてアリスは天使様として皆に周知されることになったのだ。
すなわち、嫌でも現実を受け入れざるを得なくなった。
(……あれから、もう三年かー)
散々な目にあった二歳のお披露目会からはや三年。アリス、五歳
その間、様々なことがあった。
街の人々が家に押しかけてきて騒動になったり、母に連れられて出かければ行く先々で拝まれたり、ついうっかり魔法を使って両親を驚かせたり、羽があるなら飛べるんじゃ無いか、と期待してベッドからジャンプしたら床に顔から落ちたり――ただの自業自得も混じっているが、まあいろいろあった。
(……でも、ただそれだけ。不思議なことに、生まれてこの方エルネスタとやらは何もしてこなかったわねー)
エルネスタはこの五年間アリスに対して一切干渉してこなかった。人を天使などと言う大層な存在にしておきながら、何か使命を言いつけるでも無く、神託の一つすらよこさない。
(まあ、おかげで平和な暮らしを満喫できているんだけどね)
――でも、それもきっとつかの間の休息なのだろう。時が来れば前世のようにこき使われるに違いない。
エルネスタは『秩序』や『裁定』を司る神だったはずだから、戦争の仲裁にでも行かされるのだろうか。そういえば、昔にエルフとドワーフの諍いを仲裁したことがあった。エルフが大事に育てていた貴重な精霊樹をドワーフが間違えて伐採してしまったとかで、あの時は結局、精霊樹の苗木を探して寝ないで駆けずり回るはめになったのだ。切り倒したドワーフがでは無く、何故かシルヴィアが。
精霊樹は普通の木に対して精霊が宿ることによって生まれるものだ。なので精霊を直接視認できるエルフ以外からは、よく注意してみなければ普通の木と判別がつかない。そのため、シルヴィアは数え切れない程の木を一本一本地道に調べて回り――
「……あばばばばば」
「アリスちゃん!? 大丈夫、アリスちゃん!?」
「――はっ!?」
母の呼びかけで我に返るアリス。危うく、意識が無数の木に埋め尽くされて帰ってこれなくなるところだった。
「もしかして、身体がどこか悪いんじゃ……」
「ううん、だいじょうぶ。ちょっと大自然の広さに恐れおののいただけなのー」
「そ、そう……?」
大自然……? と、首をかしげるミーネをよそに、アリスは首を振って嫌な記憶を脳裏から追い出す。あれはもう過ぎたこと。もう、あるかもわからない精霊樹を探して森という森をかけずり回らなくていいのだ――
(てか、なんで私がやらなきゃいけなかったのよ!? エルフが行けばよかったじゃない!? 精霊樹見たら一発でわかるんだから! 私より適任でしょーが!)
これだけじゃない。前世ではあちらこちらから頼まれごとが舞い込んで来たが、その半分ぐらいは別に自分がやらなくても良かったように思える。当時は忙しさに思考が停止していたが、今更ながらそんなことに気づいてしまった。
まあ、当時は人の生存圏から一歩踏み出せば常に魔物の脅威がつきまとう世界な上、まともに戦えた者は、そのほとんどを前世の自分が始末した後だったのが実情。つまり完全な自業自得だったのだが、アリスはそれに気づかない。
なんにせよ、それに比べたら今の暮らしはなんと楽なのだろうか。少しだけ天使としてのお仕事はあるけど、それでも三食ちゃんと食べられて毎日ぐっすり寝られるのだ。
そんな平穏が、エルネスタとかいうよくわからない存在やらの気分次第で奪われる――? 否、そんなことたとえ神であっても許されない。
(……よし、決めたっ。エルネスタからなんかお役目言いつけられても拒否しよう)
既に五年も放置されているのだ。今更何か言いつけてきてももう遅い。平穏無事な暮らしにどっぷり染まってしまったが最後、もうそれは捨てられないのだ。人とは堕落する生き物なのである。
(……エルネスタとやら。決してあなたの思い通りにはさせないわ。何があろうと、必ず平穏をつかみ取ってみせる!)
「うんめいにあらがうんだー」
据わった目でそんなことを言い出した娘を見て、ミーネは本当に熱でもあるんじゃないかしらと心配するのだった。全くの平熱だった。
「えっと、熱も無いようだし……それじゃお母さんはもう行くわね」
「お仕事頑張ってねー」
「ふふ、アリスちゃんも教会長様の言うことを聞いて、良い子にしているのよ」
そういうわけで晴れて平民の幼女にして天使という奇妙な身分となったアリスだが、拍子抜けなことに生活には殆ど変化が無かった。強いて変わったことと言えば、ミーネがお仕事に行く午後の間、教会に預けられるようになったぐらいだ。
普通ならばどこででも遊んでおけと放っておく物だが、流石に誘拐でもされかねないというと言う理由の預かり。アリスにしてみても、今更子供に交じって遊べと言われてもなぁであるから、むしろありがたいことであった。
「きょうかいちょー、こんにちはー」
「こんにちは、アリス様……おや、また背が伸びましたかな?」
「前会ったの一昨日だよ、伸びてるわけ無いよ」
おやそうですかほっほっほ……と朗らかに笑う立派な法衣を纏った老人、ケールの教会長であるベイルークだ。平民ながら昔は王都でかなりの地位にいた聖職者らしいのだが、貴族の権力争いに巻き込まれた結果地位を追われてケールに左遷されてきたのだとか。当人は辺境暮らしの方が性に合うと左遷を喜んだというのだが。
エルネスタから神託を授かった人物でもある。一時はなんてことをしてくれたんだと恨んだものだが、今ではすっかり打ち解けていた。
「さて、儂はまだ執務が残っていまして……今日は執務室の方に来てもらえますかな?」
「んー、今日は礼拝堂でお昼寝してるよ。お仕事の邪魔しちゃ悪いし」
「そうですか? しかし……」
「へーきへーき、どうせ誰も来ないもん。子供達とシスターさんだっているし」
ただでさえ小さな街であるのに、礼拝のある安息日でも無い平日午後の教会など、まず訪れる人がいない。礼拝堂の中など、数人の熱心な信徒がたまに訪れるぐらいで、代わりとばかりに併設された孤児院の子供達の遊び場代わりになっている。
「……では、なるべく早く戻りますゆえ。そうそう、先日知人から良い茶葉をもらったので、その後はお茶にしましょうか……とっておきのお茶菓子も出しましょう」
「わぁい」
執務に向かうベイルークを見送って、アリスは自分の定位置となったポジションにおいたクッションに座る。ちなみにその定位置とは祭壇の上、ステンドグラス越しに心地よい午後の日差しが降り注ぐ特等席だ。
神聖な祭壇の上だが、罰当たりな等という者はもちろんいない。
「平和だなー」
保護者代わりに面倒を見ていたシスターが子供にせがまれて絵本を読むのを、アリスは暇つぶしとばかりに耳を傾ける。
絵本の内容は、世界の成り立ちの神話
――かつて、世界とは何も無く、何も生まれない停滞した場所であった。それを哀れに思った二柱の神が、それぞれの権能から事象をこの世界に作った。
――フレイヤは世界に【創造】の事象を作った。そうして世界には物や生命が生まれるようになった。アシュヴァルドは【滅び】の事象を作った。そうして物や生命に終わりがあるようになった。
――更に、二柱の神はそれぞれの権能の一部を分け与えた存在として天使を生み出した。天使達はその力を持って、世界に更に無数の事象を生み出し、世界は鮮やかな姿となった。一方で、そこには法則も無く、ただ無数の事象が織りなす混沌だけが広がっていた。
――そこへ、【秩序】を司る神エルネスタが現れた。エルネスタはその権能でもって世界の事象に秩序を与え、そうして生命の生と死、物の創造と滅びからなる【世界の循環】が成立し、今ある世界の形ができあがった。
――我々は世界に生まれることができ、そして死という終わりがあるからこそその命を大事にすることができ、そして血の繋がりを未来につなげることができるのは、その三神の権能があってのことである。それ故に、我々【三神聖教会】はフレイヤ、アシュヴァルド、エルネスタの三柱を主神として崇め、祈りを捧げる。
創世記は要約すればそのような内容だ。教義では三柱を等しく主神として崇めているが、実際にはそのうちの一柱を対象にして信仰している者が多い。人間の多くはフレイヤを信仰し、ドワーフやホビットなどの物作りを得意とする種族はアシュヴァルドを崇めていた。エルフは自然の循環を司るエルネスタを特に神聖視していたという。ちなみに魔族は個人によりバラバラだ。
(そういや、一神分派なんていう変な奴らもいたわねー)
フレイヤが唯一世界の主であった時、生物には死も老いも存在せず、永遠の命が約束されていた。それがアシュヴァルドとエルネスタが介入したことで、人は永遠を失ってしまった。故に、世界を再びフレイヤの手に返し、永遠を取り戻さなければならない――そんな思想を掲げていた集団だ。ちなみに今のアリスはアンチ神様派である。
読み聞かせが終わり、移り気な子供達は外でボール遊びに行くようだ。一人礼拝堂に残されたアリスは。
「平和だなー……ふわぁ」
世界を滅ぼさなくても良いし、世界を救わなくてもいい。何もない日々のなんと素晴らしいことか。
退屈という幸せを噛みしめながら、アリスは昼下がりの睡魔に身を委ねるのだった。
「……もう寝たかな?」
その姿を、物陰からじっと見つめる人物がいたことに気づかずに。
評価・感想などいただけると励みになります。
呟いています:X(旧Twitter)→@Ressia_Lur