十三話 ただいま!
伯爵邸で目覚めた日から三日もすれば、熱はすっかり引いて元気を取り戻していた。体調が元通りになったことよりも、毎日飲んでいた死ぬほど苦い薬をもう飲まなくて良いという事に涙を流して喜んだアリスだったが――
『まだ身体は弱っている筈だ。暫くは継続して飲むように』
『かんべんして』
無慈悲な宣告によって地獄の苦しみが続くこと、更に五日。ようやく伯爵からの『もう問題ないだろう』という診断が下されたアリスは、生まれ故郷であるケールに帰ることになった。
そのために今は伯爵邸の広大な庭園でアリスの出立のための準備が行われていた。帰路は十台もの馬車が連なる大所帯になるらしく、それらの準備で伯爵家の使用人達は朝から慌ただしい。一方で特にやることの無いアリスは少し離れたガーデンテーブルで、のんびりジュースを飲んでいた。そこへ荷造りを監督していたクラークが近づいてくる。
「アリス様の荷物は、あちらで全てでよろしかったですか?」
「うん、そうだよー」
文字通り身一つで出てきたアリスには持って帰るべき荷物など一つも無い……筈だったのだが、今や馬車一つを占拠する程に増えていた。というのも、土産のコルド産の品や、アリスが伯爵にねだって手に入れた貴族御用達のふかふかの布団――一度その心地よさに慣れたら家の薄っぺらいかけ布には戻れない――が大部分だが、中には滞在の間に仲良くなった伯爵家の使用人達からの贈り物も入っていた。
「ここをはなれるのも、ちょっと寂しいかな」
「おや、意外ですね? 一刻も早く帰りたいのかと」
「そうだけど……メイドさんたち、みんないい人だったから……それに、快適だったし」
「なるほど」
滞在中、アリスには専属の使用人がつけられ、ここ数日は文字通り貴族令嬢の如き優雅な生活をしていた。そんな至れり尽くせりの生活が終わってしまうのをアリスは少し惜しいと感じていた。
ジュースの甘味を堪能するアリスは、メイド達の手によってドレスのような意匠のふんわりとしたワンピースで着飾られ、アッシュブロンドの髪は専用の香油が揉み込まれて艶々になった上で丁寧に編み込まれていた。元々顔立ちも非常に整っていて、聖女時代に身につけた行儀作法も備えているので本当に貴族のご令嬢と見紛う状態となっている――事実、メイドと護衛の騎士を連れて一度街の散策に出たときは、領主の隠し子かとちょっとした騒ぎになったほどだ。
「クラーク執事長、護衛の準備も整いました。いつでも出立できます」
「ええ、わかりました。十分承知しているとは思いますが、アリス様は今は我が家にとっても重要人物です。万が一の事が無いようお願いします」
「ええ、心得ております」
護衛部隊の指揮官として報告に来たリチャードとクラークが交わす会話を聞いていたアリスは、自分の首に提げられたネックレスの、その先に付けられた伯爵家の家紋入りのブローチに目を落とした。
昨夜渡されたそれは、エルドラン伯爵家の後見を示す証だ。ただの領主と領民という関係から伯爵家に連なる者として扱われ他家の者が容易に手出しできなくなるという。少なくとも、これで正式にエルドラン伯爵家はアリスの身柄に関する権利を主張する事が出来る。
(……結果としては、何も不満は無いんだけど)
後見を受ける対価として、アリスは伯爵家には逆らえない立場になるのだが……それは領主と領民という関係の時から別に変わらない。基本的には今まで通り自由にしていて構わないというし、望むならば地位でも金でも好きな物を与えてやるという――流石に遠慮したが。
理屈の上では文句なしの後ろ盾。それでも、何故そこまでしてアリスの身柄をほしがるのか、その目的を語ろうとしない不気味さや、結局のところ良いように転がされたという事実が納得いかない。なにより、苦い薬を無理矢理飲まされた恨みは忘れてない。
(ま、いざとなったら思いっきり噛みついてやるわ)
自分の平穏のためにも、今は大人しく飼い慣らされてあげよう……そう無理矢理不満を飲み込んで、アリスはリチャードに笑みを向けた。
「リチャード隊長、またよろしくね……こんどはちゃんと守ってね?」
「はは、心配なさらずとも、あのようなことは二度と起こりはしないと誓おう」
また変な企みしてたら承知しないからね――言外に含めた意図はしっかりリチャードに伝わったようだ。
帰路の護衛に就くのは蒼影騎士団第二部隊の中からは隊長のリチャードの他はラッドとテセウスだけ。エルリックとゴードンは他の任務に行っているらしく、伯爵邸に滞在している間一度も姿を見ていなかった。
ただその代わり、帰路の護衛にはリチャードらの他に二十名の騎士が同行するらしい。規律よく整然と並んだ、赤銅色の鎧を纏った騎士達を見てアリスは旅立つ前に聞かされた話を思い出した。
「伯爵様の騎士って、蒼影と、あとしゃくようってのいるんだっけ?」
「ああ、その通りだ……我ら蒼影騎士団は少人数で特殊な任務を遂行する事を得意とする部隊なのに対して、彼ら灼陽騎士団は伯爵家の主力を担う。所属する人数も圧倒的に多い、いわば花形と言う奴だね」
「帰路の確実な安全の確保という目的もありますが、主力である彼らが護衛に就くことでアリス様が当家の庇護下に入ったことを外部に示す意図もあるのですよ……ちなみに伯爵様から持たされた大量の贈り物もお二人の関係が良好であると示すためのものです」
「うへぇ……」
アリスが持って帰る土産物は、実はそのほとんどが伯爵家から用意されたもの。今度はどういう企みかと勘ぐっていたのだが、まさか政治的意図によるものだったとは。
「……どうやら、出立の準備ができたようですね。アリス様。どうかご達者で。また会える日を楽しみにしております」
「うん、クラークさんも元気で……あ、やっぱりちょっとまって」
「ふむ、何か忘れ物で?」
首をかしげるクラークの前で、アリスは「むー」と背中に力を込めた。翼を二、三度力強くはためかせると、やがてふわりと一枚の羽が舞った。遠巻きに見ていた使用人達はにわかにざわめき出す。
「おや、羽が」
「やっぱり抜けた。ちょっとむずむずしてたんだ」
年に一枚抜けるかという天使の羽。つい二十日程前にケリーとのもみ合いで抜けたばかりで生え替わるには時期が早いはずだが、この前カルトロに無理矢理引っ張られたときに抜けかかっていたようだ
ふわふわと舞う羽をパシリと捕まえ埃汚れがついていないことを確かめるとクラークへ差し出した。
「羽、伯爵様にあげる」
「おや、よろしいので?」
「……一応お世話になるからね。ほんとは嫌だけど」
アリスの表情は苦虫を噛みつぶしたかの如く顰められていて、言葉からも態度からも本音を一切取り繕わない姿にクラークは苦笑いしながら、シルクのハンカチで羽を丁寧に包み込んだ。
「確かに受け取りました。責任を持って我が主に届けさせていただきましょう」
◇◆◇
ケールへの帰路は一切のトラブル無く進み、三日後、アリスはいよいよケールに着く直前のところまでさしかかっていた。王都の教会が手勢の一つや二つ差し向けてくるかもと警戒していたアリスはやや拍子抜けの気分だ。それをリチャードに話すと「こんなタイミングで強引に奪いに来るなど、疚しいことがあると自ら喧伝するようなものだ」と笑っていた。
鬱蒼とした木々の隙間を縫うように敷かれた街道を走っていた馬車の群れは、やがて森を抜けて切り開かれた平原へと出た。それはケールの街を囲む青々とした平野で、視線の遠く先に見えてくる生まれ故郷。
「街が見えてきたな」
「……うん」
――やがて、ケールの目前へと馬車はたどり着く。
アリスがこの日に帰ってくることは先触れで知らされていた。門の前にはアリスの帰還を待つたくさんの住民達が押し寄せていた。中にはマイサにぎゅっとしがみついてもう涙を流しているケリーや、優しげな笑みを湛える教会長ベイルークの姿も見える。
そして当然、その先頭に立つのはロナルドとミーネ……両親。
「――おとうさん、おかあさん!」
アリスは馬車が歩みを止めるのも待たず、衝動的に飛び出していた。薄絹のワンピースの長い裾が草花に擦れて汚れるのも気にせずアリスは走り、やがて母親の胸へと飛び込んだ。
「アリス……! 無事に帰ってきてくれて、よかった……!」
「お母さん、会いたかった……!」
力強く抱きしめあい、涙を流して再会を喜ぶ母娘。ロナルドはアリスの側でしゃがみ、ぽんと娘の頭に手を置いた。
「全く……急に出て行ったと思えば、随分と可愛くおめかしして帰ってきたじゃないか」
「これでも、色々大変だったんだよ?」
「ああ、聞いているよ……よく、無事で帰ってきてくれた」
優しい表情で頭を撫でるロナルドの手の温かさをアリスは少し気恥ずかしそうにしながらも受け入れる。やがて母の抱擁が解かれ、ロナルドの手が退けられると、アリスは二人に改めて向き直った……最初に言う言葉はただいまでは無いと、この三日間の旅路の間に決めていた。
「……三年後には今度こそ、この街を出るの」
「ああ、それも聞いているよ……どうしても行かなきゃいけないのか?」
「それは、ダメみたい」
時間を稼ぐことは出来ても、大聖堂の要求を完全に無視することはできない。聖女が興したという成り立ち故に、教会が王家よりも強い権力を持つこの国ならではの事情だ。
「それにね、もし行かなくていいって言われても、私は行くよ」
「そんな、どうして……!」
「やらなきゃいけないことがあるの」
それは、自分のルーツを知ること――天使アリシエルのことだけでは無い。
何故、魔王セレナーデは滅びの加護を授けられた? 何故、フレイヤは自分を聖女にした? 何故、エルネスタはいまだ沈黙している?
何故、自分だけが、魂を持ったまま転生し続ける?
大聖堂とはただ教会の総本山で聖女の生まれ故郷というだけではない。三神が自ら聖地と定めた、この世界で最も神に近い地だ。そこでなら、何かわかるかも知れない。
最も、それはあくまでついでで……最大の目的は。
(やっぱり、諦めるなんて……やられっぱなしなんて性に合わないのよね)
一度諦めたのは、今の自分には理不尽をはね除けられるだけの力が無いと思っていたから……けど、それは違った。
『君は今でも魔王セレナーデで、聖女シルヴィアでもあるんだ』
世界の頂点として君臨していた力が、今もまだ自分に残っているというのならば、それを 取り戻すことが出来るのならば……もう諦める道理は無い。権力などと言うまやかしの力で自分の平穏を脅かす相手など、この手でぶちのめす。
それが、滅びの神の加護を失ってもなお自分に残る、『魔王』としての矜持だから。
「……ちょっと見ない間に、たくましくなったな」
その本心は語らずとも、両親を見上げる視線に込めた強い意志。
「はぁ、また寂しくなるなぁ」
「ほんとよ、これでまたみんな一緒に暮らせると思ったのに……」
「別に今すぐ出て行くわけじゃないのに……出て行くのは三年も後なんだよ」
「馬鹿、たった三年じゃないか。三年なんてあっという間だぞ」
「そうよ、アリスちゃんの嫁入り衣装を作ってあげるの、ずっと楽しみだったのよ」
「……ごめんね。でも絶対にまた帰ってくるから」
それまで待っていて。そう言って微笑んだアリスには、もう一人、その帰りを待っている人がいる。
「……ケリー」
「ぐすっ、えぐっ……アリスちゃん……」
ずっと泣きじゃくっているケリーに、アリスは困ったように笑う。
(やっぱり、なんて言ったらいいかわからないや)
再会を信じてくれた少女の、その信頼へ答える言葉は変わらず探し続けているままで……こうして再会できた今でもまだわからない。
だからもう難しく考えない。ただ、思ったままに口に出す。
「もう今日は疲れたの」
「ぐすっ……えっ……」
「馬車って乗ってるだけで疲れるの、揺れてお尻だって痛くなるし……色々言いたいことあると思うけど、知らない。もう今日はおうちに帰って寝るから」
「あ、う……」
「だから――また明日ね」
「っ! う、うん……!」
必要なのは難しく考えた言葉じゃなくて、また明日も会えると信じる心なのだから。
「……みんな、ただいま!」
第一部完! と言いたくなるような話ですが、アリス五歳編はまだ少し続きます。
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