十一話 伯爵
「んゅ……?」
「ふむ、目覚めたか」
眠りから目覚めたアリスが目にしたのは、ぼんやりと薄黄色の光を纏った大きな手と、手の平に浮かぶ幾何学模様を複雑に組み合わせた魔法陣だった。
「……治癒術?」
「そうだ。まだ熱があるようだな。暫くじっとしていろ」
魔法陣の幾何模様が示すのは、生物の身体の状態を調べる上級魔法である『インスピクト』で、どうやら診察されているらしい。すると、さっきから聞こえる声の主は医者だろうとアリスは熱でぼんやりとした頭で考える。
医者の手はやがてアリスの顔から身体の方へと動いていく。そうして視界を遮るものが無くなった事で、周囲の状況を確認できるようになった。
「あれ、ここどこ……?」
森で倒れたはずが、今はどこかの室内にいるらしい。背中に感じる感触も、ざわざわとした草の茂る地面では無く、寝心地のよいベッドのものだった。
「ベッド、ふかふか」
清潔な白いシーツの柔らかいベッド。診察のために今はどかされているらしいふわふわの羽毛布団も含めて、今生の平民の暮らしでは縁がないものだ。前世以来すっかりご無沙汰だった寝心地の良い寝具の感触を楽しもうと、アリスはベッドに深く身を委ねて……
「って、そうだ! 捕まる前に逃げなきゃ……!」
「その必要は無い、じっとしていろ」
「あぅっ」
慌ててガバリと起こした身体は医者の手に優しく押し戻されて、アリスはぽてんとベッドの上に転がる。急に激しい動きをしたせいで頭がクラクラするのを感じつつ、アリスはようやくベッドの傍らに立つ医者に目を向けた。年齢は四十代にさしかかったところだろうか、ロマンスグレーの髪をオールバックになでつけた壮年の男で、白衣の下には仕立てのいい服を纏っている。
医者の男はアリスから手を離すと、あらかじめベッドサイドのテーブルに用意していたらしい、若草色の粉末を包んだ紙をアリスに差し出した。粉末は何かの薬草を煎じた物らしく、漂ってくるツンとした匂いにアリスは顔をしかめた。
「外傷は無く、内臓にも異常は無い。わかっていたが、やはり過度の疲労による発熱だ。滋養の薬を処方するので、熱が引くまでは一日三度飲むように」
「……にがい?」
「我慢しろ」
うへぇ、と思いっきり顔をしかめるアリス。苦い物は魔王時代からずっと苦手だ。ましてや、今の子供舌だと相当にキツいに違いない。
嫌だなーと視線で訴えかける、そんなアリスを意に介する事は無く、医者の男は「早く口を開けろ」と淡々とした声音でせかしてくる。観念したアリスは恐る恐る口を開けた――瞬間、容赦なくドバッと流し込まれるお薬。口一杯に広がる青草を濃縮したような苦み。
「~~~~!?!?」
「水だ、飲め」
「うぐっ!?」
間髪おかずに口に水差しが突っ込まれた。一切の手心無く流し込まれる水にむせそうになりながらもアリスは必死に飲み込む。そうして口内の薬が完全に飲み下されたところを見計らって水差しが離されると、医者の男をやや殺意のこもった目で睨んだ。
「……幼女虐待、はんたい」
「薬は適正な分量を飲んでこそ正しく効果が発揮されるというのに、君のような年齢の子供はどれだけ注意しても薬を吐き出してしまうのでな。経験上、このように一気に飲ませてしまうのが良いと学んだ」
「うっ……」
そう言われると、普通に飲んでいたら絶対に吐き出していた自信があるアリスは言葉に詰まってしまった。
――尚、アリスは聖女時代に医者のまねごともしており、聞き分けの悪い子供には同じような無慈悲な手段をとっていたのだが、そんなことはすっかり忘れていた。
「追加の薬は後ほど届けさせる。君はどうやら聞き分けが良いようだから心配いらないだろうが、必ず全て飲むように」
「……はぁい」
ふてくされながらもアリスは頷いた。これから暫くこの地獄の様な苦みに耐えなければいけないのか……と憂鬱になっていたところ、扉がコンコンとノックをされる音が響いた。
「入れ」
「失礼します」
入ってきたのは、燕尾服を纏ったいかにも執事然とした初老の男だ。執事然とした男は起きているアリスに気づくと一瞬驚いた表情を浮かべた後、すぐに表情に穏やかな笑みを湛えて優雅に一礼する。
「お初にお目にかかります、天使アリス様。私はエルドラン伯爵家の家令を拝命しております、クラークと申します。以後お見知りおきを」
「エルドラン……たしか領主の……」
「ええ。貴女の生まれ故郷、ケールを治められる領主のエルドラン伯爵家です。ここはコルドにある本邸で、アリス様は蒼影騎士団第二部隊の者達に救出され、療養のためにこちらへ運びこまれたのですよ」
「そうだったんだ……」
領主の邸宅だと聞いて、アリスは納得する。なるほど、お布団がふかふかなわけだ。それと、襲撃者から無事に助けられていたらしい。そういえば騎士達の姿がここには無いが……
「それにしても、ようやくアリス様の意識が戻られて、この老輩もとても嬉しく思います」
「ようやく……? え、まって、今ってなんにち……?」
「アリス様が誘拐未遂に遭われてから、本日で丁度七日目になります。その間、アリス様はずっと眠っておられたのですよ」
「なな……!?」
告げられた数字にアリスは驚愕する。それほどの長い間眠り続けてたというのも衝撃だが……何より予定では、もう王都までの旅程を半分以上過ぎている日だった。
「たいへん! は、早くいかないと……!」
「何度も言わせるな、病人は大人しく寝ていろ」
「あうっ」
焦って飛び出そうとしたところを、再び医者の男に押し戻されてぽふんとベッドに倒れ込む。病人はもっと丁寧な扱いを……と、アリスがジト目で睨むのを無視して医者の男はクラークに向き直った。
「それで、クラーク。わざわざここまで来た用事は何だ? この娘の見舞いというわけでもあるまい?」
「見舞いも兼ねているのですがね。王都の枢機卿からの返事の書簡が届いたので、お届けに参りました」
「随分と早かったな? もう少しかかると思っていたのだが」
「飛竜便を使ったみたいですよ。一日と経たずに届いたようです」
「ふん、大聖堂の寄生虫共め。普段は嫌というほど催促しても腰が重いくせに、こういうときだけは動きが早いのだな」
「こちらに」と差し出された紙束を医者の男は受け取り、めんどくさそうにその内容に目を落とす。クラークは一歩下がって静かに佇む……そんな二人のやりとりを見て、アリスは目を白黒させていた。
医者の男の態度と、従順に従うクラーク。それはまさしく主従のやりとりだ。そしてクラークはエルドラン伯爵に仕える執事と名乗った――そこから容易に導かれる結論に気づいたアリスの頬に、ツーっと冷や汗が流れる。
「クラークさん、この医者ってもしかして……」
「……ああ、まだ名乗っていらっしゃらなかったのですね。お察しの通り、領主であらせられるアインズバード・エルドラン伯爵閣下でございます」
「医者じゃなかったの……!?」
「医者でもある」
「私から補足させていただきますと、我が主は家督を継ぐ前は宮廷魔術師団所属の筆頭治癒術士であられたのですよ。その治癒術の腕前は、国内は勿論のこと、周辺他国の術士にも比肩する者がいないと言われるほど」
「クラーク、余計なことは言わなくていい」
「おや、これは失礼しました」
まだ事態を完全には飲み込めていないが……ひとまずアリスは目の前の医者の男改め、エルドラン伯爵の人となりについてわかったことがある――名乗らなかった事といい薬を飲ませたときの容赦のなさといい、他人を思いやることをしない人柄なのだろう。少なくとも子供に優しくするタイプではない。
「さて、主に変わり私から申し上げます。アリス様の王都行きは中止……いえ、延期になり、体調が回復次第、ケールへ帰っていただきます」
「……へ?」
「騎士ヴィッカーナ卿が企てたアリス様誘拐未遂事件……これは氷山の一角にすぎず、王都、いえ、この国にはまだアリス様の身柄を狙う様々な勢力が渦巻いていることでしょう。そのような情勢下でまだ幼いアリス様を送り出すのは、何者にも代えられない天使の身を危険に晒すことになる。そう我が主がお決めになられました」
「それ、向こうが納得するのかしら」
「……奴らが納得しようがしまいが、お前の身柄を正式に引き渡すまでは我が領の民だ。であれば、私は神聖なる王家に任された領主の責務として、領民の安全を最優先に考える義務がある……違うか?」
「……そうね」
いかにもな綺麗事だ、この伯爵が本心から言っているとは信じていない……けど、わざわざ否定する動機はアリスに無い。
帰れる。お父さんとお母さんにまた会える。
いまだ実感が湧かないその事実だけが、今のアリスには何よりも代えがたいことだった。
「旦那様、アリス様の帰郷に伴う事務処理が残っているため、私はこれで」
「ああ、ご苦労だった」
「では、失礼します……アリス様も、お大事になさってください」
最後にアリスに微笑んで、クラークは医務室を出て行った。そうして二人きりになった部屋で、アリスは診察の結果をカルテに書き込んでいるアインズバードに胡乱げな目を向けた。
「――それで? どこからどこまでが、貴方の計画だったの?」
「……何の話だ?」
「考えてみれば、おかしいところがあるの」
そう、今になって考えれば、熱でぼんやりとする頭でも気づける不審な点がいくつもある。
「まず、カルトロさんが簡単の私の馬車に侵入したの。あんな隠れるところがない野営地で、どうやって?」
「偶然監視をすり抜けたのだろう、不覚をとられた騎士共には厳重処分だな」
「それで、無様に監視を抜けられたあげく、あんな雑魚共に足止めされて取り逃したと……精鋭が、笑わせるわね」
野営地から連れ出される前の僅かな時間だが、アリスはリチャードらを足止めする襲撃者の戦いを見た。はっきり言って、魔王の食指がピクリとも動くことが無いような雑兵で、トゥループ・ウェスペの群れに余裕の戦いを繰り広げた彼らが苦戦するなど思えない。
更に言えば、攫われた先で待ち構えていた黒装束の男達も、誘拐の一味としてはやり方が杜撰というか生ぬるい。聖女だった時にいくつか壊滅させた人売りの組織など、もっと呆れるぐらい狡猾なやり口だったのを良く覚えている。
「ねえ、ほんとはわざと私を攫わせたんじゃないの? 私が攫われたという事実が必要だったんでしょ」
「正確には、あの男が攫ったという事実が必要だった、ということだな」
何でも無いような口ぶりで、アインズバードはあっさりと認めた。
「奴は大聖堂でもその実直さと誠実さでこそ名の知られた騎士だ。そんな者ですら天使という存在の誘惑にあらがえず狂気に陥る……その事実があればこそ、私の主張にも説得力が出るというものだろう?」
「外道ね」
「だが、実際に犯行に及んだのは奴自身だ。私はそれを利用したにすぎない」
「それは……」
否定したい、何かの間違いだと思いたい……だが、あの時見たカルトロの狂気に墜ちた目は、決して演技では無かった。
「だがまあ、年齢以上には頭が回るようだな。ならば話は早い」
カルテを書き終えて、ペンを置いたアインズバードはようやくアリスに視線を向けた
「三年だ。お前の望みのために、そして私の計画の準備のために、奴らから三年の時間を稼いでやる。ヴィッカーナ卿の不祥事を糾弾し、大聖堂の不穏分子の徹底排除を要求すればそれだけの時間は稼げるはずだ」
「……その対価に、私に何を望むの」
「今、お前に求めるのはたった一つ――価値を示せ。私が庇護するに足るか、そして我が宿願を叶える存在となるか、その価値を示せ」
――失望させるなよ?
最後にそう言い残して、伯爵は部屋を去ったのだった。
次回の投稿は10/4を予定しています。
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