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真面目な彼女の本当の姿

作者: 有栖川 すず
掲載日:2023/01/28


「いってきます」


黒縁のメガネ、低めの位置で束ねられた黒髪、目元を隠すような重い前髪、メイクすらしてない顔。

そして極めつけは、校則をしっかり守った制服。


鏡に映っている私はどっからどう見ても真面目で暗そうな雰囲気を醸し出している。


そんな自分を確認してからリビングにいるお父さんとお母さんに声をかけて家を出た。



田中玲。

高校1年生。


今日も何もない平凡な一日を静かに過ごしたいと思いながら、学校までの道を歩く。




「田中さん、今日の掃除当番変わってくれない?」


登校して自分の席に座ったと同時に、待っていたかのようにクラスの女子が話しかけてくる。


「…うん、いいよ」


頷けば「ありがとー」と言いながら戻っていく女子。



時間が経つごとに教室も徐々に騒がしくなり始める。


昨日のドラマがどうだった、この俳優さんが結婚した、部活でこんなことがあった…。


四方八方から聞こえてくる会話に私が混ざることはない。


私はいわゆる「ぼっち」と呼べれるポジションで、クラスメイトからしたら大変な作業を引き受けてくれる雑用係くらいにしか思われていないだろう。



入学した当初は、いつまでも1人でいる私に気を遣ってか、放課後遊びに誘ってくれる人もいた。

でも、その誘いをことごとく断っていたり、馴れ合おうとしなかったため、入学から1か月経った今となっては誘われることもなくなった。


その結果、クラスメイトからの私の評価は最悪だった。


『遊びに誘っても来ない人』


『真面目で暗いし、何を考えているか分かんない人』


『会話しようとしても続かないし、近寄りがたい人』


だけど、頼めば何でもやってくれる便利屋。



でも、それでいい。

例え便利屋だろうと、雑用係だろうと、クラスメイトの人たちから注目されていないのであれば問題ない。




「キャー!!」


椅子に座ってボーっとしていれば、急に叫び声が聞こえ思わず肩が跳ねる。


教室の外に目を向ければ、女子に囲まれた1人の男子生徒が歩いているのが見えた。


「暁人くん、今日もカッコイイね!」


「ありがとー」


「今日の放課後カラオケ行こうよ!」


「いいよ」


女子からの声にひとつひとつ笑顔で答えている男子。


九条暁人。

九条財閥の御曹司であり、跡取りという将来が約束されている人。

容姿端麗、成績優秀、運動神経抜群というまさに火の打ち所がない彼は、入学した当初から噂の中心であり、友達のいない私の耳にも入ってくるような人だった。


漫画の中から出てきたような存在の彼を女子たちが放っておくこともなく、あっという間に人気者に。

しかし、特定の彼女を作ろうとしないにも関わらず、告白は毎回オッケー。

根っからのプレイボーイだという。


つまり、私と九条暁人は月とすっぽん、光と闇。

関わることもなく、生きる世界が違う人物。


…だと思っていた。




「明日パーティーがあるから、玲も参加してね」


夕食のとき、正面に座っていたお母さんが口を開いた。


「え?」


「うちが主催するパーティーだから、家族が顔を出さないっていうのも失礼でしょ?最初だけでいいし、話はお父さんとお母さんがするし、いてくれるだけでいいから」


そんな必死にお願いされたら……。


「……いるだけなら」


断りたくても断れない。


「良かった。ドレスは用意しておくから、明日はとびきり可愛くしましょうね!」


久しぶりに私がパーティーに参加するから上機嫌なお母さんと、それを嬉しそうに見ているお父さん。

そして、一気に気分が沈んだ私。



田中玲は真面目で根暗な普通の高校生。

でも、私の本当の名前は―――

西園寺玲。


西園寺グループの一人娘で、正真正銘のお嬢様。

家も一般家庭よりも遥かに大きいし、使用人も何人もいるし、別荘だって何個もある。


きっと西園寺グループという名前を聞けば誰もがピンとくるほど知名度も高い。


なのにどうして私が本当の苗字を名乗っていないのか……。



『お金持ちだからって調子乗ってるよね』



そんな声が脳内で再生されて、頭を左右に振ってその記憶を奥へ閉じ込める。



顔を見られないように目なんて悪くないのにメガネをかけ、前髪を伸ばし、すっぴんで、スカートの裾は膝下で……。


目立たないように、注目されないように、バレないように……。

高校生になってから私は地味な生活をするようにした。



そんな生活が明日から一変するなんて、この時の私は微塵も考えていなかった―――。



翌日、淡いピンク色のドレスに身を包み、メイクをしてもらい、髪も綺麗にまいてもらい…

西園寺グループ令嬢、西園寺玲が出来上がった。


この姿をすると、窮屈な檻から解放された気がして、楽になる。



「やっぱり玲は可愛いな」


「私とあなたの子供なんだから当たり前でしょ!」


パーティー会場に着くまでの車の中は和気あいあいとした空気が流れている。


私のお父さんとお母さんはきっと、結婚数十年に突入する他の夫婦よりも仲がいいと思う。

そして優しい。

お金持ちだからと言う理由で権力を振りかざさないし、偉そうな行動もしない。

その為、会社の人たちや使用人、他の財閥の人たちからの信頼や人気は絶大。


そんな2人を私は誇りに思うと同時に、こんな人になりたいと思う。


そして、お父さんとお母さんは高校生の子供がいるとは思えない程美男美女だ。

街中を2人で歩いていれば、男女関係なく振り返るし、声をかけてくる人も少なくない。

既婚者だと分かると驚かれるほど2人は若い。


そんな2人の娘である私。

自分で言うのもなんだけど、どちらかと言えば容姿は整っていると思う。



「西園寺さん、本日はお招きありがとうございます」


パーティー会場につけば、怒涛の挨拶周りが始まる。

テレビで何度か見たことがある人、有名企業の社長さんなどがいるのを見ると、一代でグループをここまで大きくしたお父さんは本当にすごい人なんだと思い知る。


挨拶周りも終盤、ヒールを履いている足が限界に近付いてきたとき、


「西園寺」


後ろから声が聞こえて振り返れば、ダンディーな男の人が立っていた。


「おお、九条。来てくれたのか」


今までの人たちとは打って変わって砕けた雰囲気で話しているお父さん。


「あの方は子会社でもある九条財閥の社長さんなの。お父さんとは昔からのお友達なんですって」


隣にいたお母さんが小さな声で教えてくれる。



九条財閥……。


嫌な予感がして、咄嗟に下を向いた。


このままここにいてはいけないような感じがした。


お手洗いでも行こうかと足を一歩後ろに動かした瞬間、


「そう言えば、今日は息子を連れて来てるんだよ」


「おお、そうなのか。実は娘も来てるんだ」


2人の声にさらに嫌な予感が増す。


でも、足を動かすことが出来なかった……。


「息子の暁人です。いつも父がお世話になっております」


昨日聞いたような間延びしたような声ではなく、落ち着いていて大人びた声。


もう逃げられないと思い、顔をあげる。


そこにいたのは予想通りの人物。


「立派な息子さんだな。いやいや、こちらこそいつも暁人くんのお父さんには助かってるよ。…妻と娘の玲です」


お父さんの紹介で小さく微笑み、お辞儀をする。


再び顔を上げれば、バチッと彼と視線が合う。


バレた…?


いや、そんなはずはない。

今の私は学校の時とは全然違うし、そもそも彼が私の存在を、ましてや名前を知っているはずがない。


ドクドクと血液が早く流れるのを感じながら、出来るだけ下を向いたままお父さんと九条さんが話し終えるまで待っていた。



「じゃあ、また近いうちに遊びに行くよ」


「おお」



やっと解放されたと安堵した時、グイッと腕を掴まれ、再び心臓が縮まる。


ゆっくりと振り返れば、案の定彼がいた。



「あの、玲さんとお話したいのですが、よろしいでしょうか」


「え?あぁ……」


訳も分からず返事をしたお父さんとニコニコと意味深な笑みを浮かべている九条さんとお母さん。


「玲さんもいいですか?」


有無を言わせないような表情と口調で思わず頷いてしまった。



あぁ、私のバカ。


これから何を言われるのか分かってるのに……。



パーティーをしていた部屋から出て、喧騒が遠のいていく。

そしてついたのは、人気のない場所。


「……あの…っ」


先手必勝。

口を開こうとした瞬間、掴まれていた腕をグッと引き寄せられ、彼との距離が近くなる。

思わず口を閉ざした私をフッと笑いながら見下ろした彼は、





「君、隣のクラスの田中玲だよね?」



私が避けていた言葉を言った―――。



------------------------------------------------------------------------------------------



ノーともイエスとも言えないでいる私に彼はさらに笑みを浮かべて、顔を近づけてくる。


「黙ってて欲しい?」



その表情と口調で、私が田中玲だと確信していることが伝わってくる。


きっとここで私が必死に否定したとしても、何を言ったとしても、彼にとってはただの誤魔化としか聞こえないんだろう。


「……はい」


あぁ、きっとパシリとかにされるんだ……。


そんな事を覚悟して小さな声で頷けば、



「じゃあ、俺と付き合ってよ」


頭上から予想していたより斜め上の言葉が聞こえてきて、彼の顔を見上げる。



「……え?」


つ、きあう……?


それは…世に言う好きな人同士が手を繋いだり、キスしたりすること、だよね?



「無理です!」


数秒頭の中で考えて、声をあげた。


「でも黙ってて欲しいんでしょ?」


「だからってどうして、付き合うっていう考えになるんですか?」


「付き合って欲しいから」



真剣な顔で見つめられて、思わず口をつぐんだ。


……意味が分からない……。


どうしてそこまで付き合うことにこだわるんだろう?


彼はきっと私のことなんて好きじゃないだろうし、私だって彼のことは噂程度しか知らずに、好きと言う感情は全くない。


なのにどうして……。


もしかして、お金目当て?


今まで、西園寺グループの令嬢だからお金を持っていると言う理由で、近づいてくる男の人を散々見て来た。


もしかしてこの人も……?


あわよくば、次期社長の座に就こうと企んでいるんだろうか?



「付き合ってくれるんだったら、今日の事は黙っててあげるよ」


付き合うなんて嫌だ。


でもここで断ったら……学校中の人気者の彼のことだ。


きっと明日登校するときには既に私の本当の姿は、全校に伝わっていることだろう。



分かってた。



「……分かり、ました……」



バレた時点で、この話を持ち掛けられた時点で、私に選択肢なんてなかったって。



「良かった。じゃ、また月曜日学校でね、玲」


ポンと頭に手が置かれたと思えば、爽やかな笑顔を浮かべて颯爽と去っていく後ろ姿。


その姿が見えなくなった瞬間、力が抜けたように座り込んだ。



あれ?

でも、九条くん私の名前知ってたな……。


まさかあんな人気者に影の薄い私が知られてたなんて……。


もっと静かに過ごせばよかったかな?



なんてことを考えたのは一瞬で、月曜日を迎えるのがより一層憂鬱になった。






『来なければいい』と思えば思うほど、時間が過ぎるのはあっという間で、

月曜日がきてしまった。



変わらないはずなのにいつもより重く感じる制服を着て、いつもより重い足取りで学校まで向かう。


いつもより長いような1日をビクビクと過ごし、やっと放課後。


すぐに帰ろうとホームルームが終わったと同時に立ち上がれば、


「玲」


恐れていた声が後ろから聞こえて、体が固まる。


「あ!暁人くんだ!」


「今日もカッコイイねー!」


「ていうかさっき玲って言わなかった?」


「確か田中さんの名前、玲だったよね?」


「え?田中さん?なんで?」



ヒソヒソと聞こえる声。


動け、足……っ!


頭では動かそうとしても、動いてくれない足。



「今日一緒に帰ろうよ」


九条くんのその一言でザワッと教室の空気が揺れたのが分かった。


「え?今一緒に帰ろうって言ったよね?」


「なんで?」



鞄を持つ手が震える。


…怖い、ここにいたくない……。



「玲?」


返事をしない私を不審に思ったのか、後ろから九条くんの近づいてくる気配がして、

体がピクッと動く。


その一瞬で必死に足を動かし、教室から逃げ出した。



「え!?玲っ!?」


戸惑ったような九条くんの声が聞こえたけど、無視して走った。



走って、走って、走って……。


無我夢中で走っていれば、空き教室が多くある場所まで来ていた。


空き教室ばかりだから人の気配がない事に安心し、乱れている呼吸を整えるために、空き教室のひとつに入り、壁に背中を預けるように床に座り込んだ。


きっと教室は私と九条くんの話題で持ちきりだろうな。


どんなことを言われているのか想像するだけでも怖くなり、体を小さくした時、


―――――パタパタパタ。


廊下を走ってくる音と、ガラッ、バタンという扉を開け閉めする音がだんだんと近づいてきた。



誰か来た……?


空き教室しかないこんな場所まで?


……放課後に?



まさか……私を探してる……?



そんなわけないとは思いながらも、だんだんと近づいてくる音に、心臓がドクドクと大きくなりはじめる。



もしかして、九条くんの熱烈なファンの人が怒って探してるとか?


そうだったら、どうしよう……?



ガラッ―――。


勢いよく私がいた教室のドアが開き、心臓が跳ね上がる。



「はぁ……、いた」


聞こえたのは女の人の声でも、罵詈雑言でもなく、安堵した男の人の声。


……私が最近よく聞いている声。


顔を上げれば、そこには肩で息をしている九条くんの姿。


「……九条くん…」


とりあえずホッと息をはく。



「もう帰っちゃったかと思ったけど、靴はあるし…。学校中探してもいないなから…」


私の目の前にしゃがんだ彼は、


「良かった、ここにいて」


そう言って優しい表情を見せた。



「ごめん、俺がみんなの前で話しかけたのが嫌だったんだよね」


コクっと頷けば、九条くんは申し訳なさそうにしおれた。


「ごめん。俺、玲に会えたのが嬉しくて、玲の気持ちにまで気が回らなかった……」


私に会えたのが嬉しくて……?


「今度からは人前では話しかけないようにするから、連絡先だけ交換して?」


首を横に傾げながら、不安そうに聞いてくる九条くん。


……あざとい。


きっと彼のこの表情で頼み事をされたら、嫌だと言える人はいないと思う。


「いいですよ……」


「良かった。あ、あと敬語、禁止ね!」


語尾にハートが見えそうな口調に、プレイボーイの片鱗を感じた……。



その日、私のスマホのメッセージアプリの中に、『九条暁人』の名前が追加された。


メッセージアプリに学校の人の名前が追加されるのは初めてだった。





その後、言ってくれた通り九条くんは学校では話しかけないでいてくれた。


でも、あの時の記憶がみんなの中から消えてくれるわけではなく……。


直接話しかけてくることはないものの、あの時のことを話す声だったり、好奇の視線を感じるようになった。


とは言っても、至って普通の学校生活を送っていた中―――……



「お見合い……?」


「そうなんだよ。相手は懇意にしている取引相手の二階堂財閥のご子息なんだけど、玲より2歳年上らしいんだ…」


ポカンとしている私と申し訳なさそうに話すお父さん。



学校から帰って来て、お父さんから話があるからとリビングに行けば、


『お見合いをして欲しい』


と頭を下げてお願いされた。



「もしかしてまた?」


お父さんの近くに立っているお母さんをチラッと見れば、『やれやれ』という表情で肩をあげた。


私は、西園寺グループが主催するパーティー以外、公の舞台に顔を出すことがほとんどない。


そのため、私が西園寺グループの令嬢だと知っている人は、少ない。


今回の話だって、二階堂財閥と言う名前を聞いたことはあるけれど、『二階堂財閥のご子息』を私は知らない。

顔だって見たことがない。


「…あぁ……」


さっきよりも歯切れが悪い喋り方をするお父さん。


「実は……二階堂財閥の社長さんと食事をした時に、お酒を飲んだんだけど…」


あぁ、予想通り。


「気持ちよくなっちゃって…子どもの話になった時に、玲の写真を見せたんだよ。それで……写真を社長さんに送っちゃって……それを見た息子さんが会ってみたいって……」



お父さんはお酒が入るとテンションが上がり、何でも喋ってしまったり、見せてしまう癖がある。


私の写真を見せて『お見合いさせてほしい』と言われたことも初めてじゃない。



「……もう……」


お見合いという名前ではあるけれど、ただ会ってお喋りをして食事をして解散、というのが定石。


その後は婚約だの、お付き合いだの言われたこともあるけど、全部断ってきた。


なぜなら、付き合うなんて分かんないし、ましてや婚約なんて私には夢の又夢。


想像すらできない世界線の話のように思える。


そもそも……初恋すらまだの私には、『好き』という感情がどんなものなのか想像すらできないでいた。


九条くんのことだって、きっとあれがなければ付き合うなんてしなかった。



「……今回も会うだけなら…」


「玲、本当にありがとう!断るのはいつも通りお父さんが連絡しておくから」


本当はお見合いなんてしたくない。


たった数時間だとしても、早く終わって欲しくてしょうがない。


だけど……取引相手となると、西園寺グループの今後に関わる事にも繋がりかねない。


酔った勢いで写真を見せちゃうお父さんには飽き飽きするけど、それでもお父さんのことが好きなのには変わりないから……。



お見合い当日。


白のオフショルワンピースに、ブラウンのカーディガンを羽織った私は、待ち合わせ場所である高級イタリアンレストランに向かった。



「二階堂の知り合いなのですが…」


お店の中に入り、接客しに来たウェイターの人にそう伝えれば、


「こちらです」


とドアまで付いている個室に案内される。


ドアを開けてもらい中に入れば、スーツを着た背の高い男の人がいた。



「二階堂春です」


優しい笑顔を浮かべながら椅子から立ち上がった彼は、無駄な動きのない動作で頭を下げた。


「さ、西園寺玲です」


釣られるように自己紹介をして頭を下げれば、二階堂さんは更に優しい表情を浮かべた。



私の2歳年上ということは、高校3年生ってことだよね……。


余裕があって、大人っぽい……。



「じゃあ早速食べよっか」


テーブルの上には既にいくつかの料理が並べられていて、美味しそうな香りが部屋中に充満している。


「はい」



食事中は、在り来たりな話題で時間が経った。


私は、自分から話しかけたりすることが苦手な人だったから、二階堂さんがどんどんと話題を振って話を膨らませてくれたことが凄いありがたかった。


食事を初めて約1時間後。


コース料理のラスト、スイーツを食べ終わりそろそろ解散しようという空気が流れ始め、

私は心の中でホッと安心した。



「じゃあ、そろそろ……」


「そうですね」


鞄を持って立ち上がった私は、早く帰りたいとドアに手を伸ばした瞬間、


「……っ!」



グイッと腕を掴まれ、気付けば背中を壁に押し付けられていた。



え……?


状況を飲み込めないでいる私に、二階堂さんはニヤニヤとした不敵な笑みを浮かべて私を見ている。



「あっ、あの……っ」


至近距離で見下ろしてくる二階堂さんから距離を取ろうと胸元を押し返してみてもビクともしない。


それどころか、逆に押し返そうとしていた両手も掴まれ、壁に押し付けられる。



「こんなに丈の短いワンピースなんて着て来たら襲ってくださいって言ってるようなもんだよ?」


膝上の白のオフショルワンピースから覗いている脚にサラリと手が当たる。


その瞬間、体中に鳥肌が立つのを感じた。



嫌だ……。


「ホントはこの部屋に入ってきた瞬間に食べちゃいたかったんだけど、我慢してたんだ」


さっきまでの優しい表情や知的な口調はどこにいったのか、今は獲物を狙う目をしていて、囁くように語尾が伸びるような話し方に変わっている。


「大丈夫、痛い事はしないよ」


ゴツゴツした手が脚を撫で始める。


「や、やめ……っ」


体をよじっても、どんなに抵抗しても女の私が年上の男の人の力に叶うわけもなく……。


首筋に唇があたり、もう声を出す力も抵抗する気力もなく、どうすることもできない無力さから涙が頬をつたった刹那―――



バァンッ!!


と大きな音をたてて個室のドアが開いた。


音に反応してドアの方を向いた私と二階堂さんの前に現れたのは―――……。


驚いて動けずにいれば私から被さっていた影がなくなり、二階堂さんが引き離された。


声すら出せずにいる私は、彼を目で追うことすら出来ずにいた。



------------------------------------------------------------------------------------------



「ごめん、遅くなった」


まるでこの場所で何が起きるのか分かっていたような口調。


目の前に来た九条くんは、来ていた上着を私の肩にかけてくれた。



どうして、何で……。


聞きたいことはたくさんあったけど、もう大丈夫なんだと思うと、足の力が抜けその場に座り込んだ。


「……帰ろっか」


何故か泣き出しそうな顔をしている九条くんは、私を抱きかかえたと思えばそのまま部屋を出た。


あれ?

そう言えば、二階堂さんはどうしたんだろう?


さっきから声が聞こえないけど……。


二階堂さんの事を考えたけれど、それと同時にさっきのことを思い出しそうになり、頭を横に振って考えないようにした。



レストランの出入り口の前には黒塗りのリムジンが止まっていて、九条くんと私が乗り込めば、ゆっくりとリムジンが動き出した。



「あ、あの……」



聞きたいことはたくさんあった。


どうしてここにいるのか、何でこの場所が分かったのか……。



質問をしようと口を開けば、それを遮るように私の体が温かい何かに包まれる。



それが、九条くんだと分かるのに数秒。



「……え?」



どうして九条くんに抱きしめられているのか見当もつかず、驚いて小さな声が漏れる。



「……来るのが遅くなってごめん」


耳元で聞こえる力ない声。


「そんなこと…助けてくれてありがとう……」



冷たい手の感触。

有無を言わせない力。

飢えた獣のような目。



急にさっきの出来事が脳内にフラッシュバックし、体が小刻みに震えだす。



「……こ、こわかっ…た」



あの時、九条くんが来てくれなかったらどうなっていたのかと考えると、怖くて仕方ない。


ギュっと九条くんの服の裾を握れば、抱きしめる力がより一層強くなる。



「……もう大丈夫だから……」



背中に伝わる温もり。



その温かさに安心感を覚えながら、私はしばらく九条くんの腕の中で泣いていた…。





------------------------------------------------------------------------------------------


『今度の休み、デートしない?』



九条くんからそんなメッセージが届いたのは、それから数日後。



正直、異性の人と2人で出かけるということにあの一件からさらに抵抗がある。


でも、九条くんだから……。


それにあの時助けてもらったお礼も出来てないし……。



数分悩んで、『いいよ』と返事を送れば、すぐに笑顔の可愛いスタンプが返ってくる。




デート当日。


待ち合わせ場所に指定されたのは、遊園地。


老若男女が楽しめるようなアトラクションなどがたくさんあり、テレビ番組でも紹介されたほどの有名な場所。



……久しぶりに来た。


入口に向かっていた足がふと止まる……。


中学に入学した当初くらいに来たことがあったが、あまりいい思い出がなくそれから何となく足を運ぶことが出来ずにいた。



若い男女が賑やかに会話をしながら私の横を通り過ぎて行く。


あの頃は私だって、あの人たちみたいに青春出来るって思っていた……。


のに……――――。




「ねぇねぇ、あの人たちカッコよくない!?」


「でもその隣の女の子もめっちゃかわいいよ」


「いいな~。美男美女じゃん」


そんな会話をしながら女の人たちが通り過ぎて行く。



視線を入口の方へ向ければ……


まるでその空間だけ空気が違うんじゃないかと疑いたくなるほどのオーラを放っている人たちがいた。



そんなわけないのに、キラキラ光っているようなエフェクトまで見えてくる。




でも、あれって……。



その中の1人に見覚えがあり、目を凝らしていれば……


私の視線を感じ取ったのか、スマホを見ていた彼は顔を上げ、私の方を見た。


目が合って数秒。



彼は、嬉しそうに表情を崩すと、私の方へ駆け寄ってくる。



「玲」



私の前で足を止めた彼、九条くんはデニムにTシャツ、革のジャケットという珍しくもない服装をしているというのに、オーラが溢れ出ている。



……芸能人みたい……。



「九条くん…」



彼の顔を見上げれば、嬉しそうな表情が一変、眉を寄せ困ったような表情を見せる。



どうしたんだろうと首を傾げれば、私の言いたいことが分かったのか更に眉を寄せた。



「…実は、知り合いが2人勝手に着いてきちゃったんだ…。やめろとは言ったんだけど……」



チラッと後ろに見た九条くんの視線を追えば、未だにオーラを放っている男女が2人。


…さすが、九条くんの知り合い……。


オーラが凄い……。



「わ、私は別に……」



私と九条くんは好き同士だから付き合っているわけじゃないし……。


ここで帰って欲しいと言えるような関係値じゃない……。



「ホントにごめん」


申し訳なさそうに謝った九条くんは、その後私を2人の元に連れて行き、紹介してくれた。



「佐々木紘と鳳来結。紘は俺たちと同級生だけど、結は1個下で中学3年。2人とは小さい頃からの幼なじみ」



「初めまして。急にごめんね、デートの邪魔しちゃって……」



佐々木さんが優しい口調で話しかけてくる。



「……いえ…。……初めまして、田中玲です」


気付けば偽名の方を名乗っていた。


今は別に田中玲としてここにいるわけじゃないから、メイクもしてるし、髪もセットしてあるし、メガネだって付けてない。


もしもこの人が同じ学校だったら……。


名乗ってからそんなことを考えてハッとした。


でも、少なくとも同じクラスではないし、もし同じ学校にいたとしても田中玲なんて名前を知らないだろうし、私の存在なんて知らないだろう。



「へ―、あなたが暁人の彼女?」


考え込んでいれば急に顔を覗き込まれ、心臓がバクッとなり目を見開いた。


鳳来さんに鋭い瞳で見つめられ、思わず息をするのを忘れそうになる。



「……初めまして。仲良くしてください、田中さん」


さっきまでの声とは違うワントーン高くなった声。

そして効果音が付きそうなほど綺麗に口角が上がってできた笑顔。



……怖い……。



直感的にそう思ってしまった……。





「ねぇ~暁人今度はあれ乗ろうよ!」


「おい、あんまくっつくなよ…」


「えぇ~いいじゃん!遊園地なんて来るの久しぶりなんだから!!」



目の前で繰り広げられている会話。


傍から見たら、遊園地という場所にテンションがあがる彼女と、人前でくっつくのを恥ずかしがる彼氏…なんだろうな。



遊園地に入場して早1時間。


アトラクションを楽しんだり、ご飯を食べたり……。


もちろん楽しい。


でも……この1時間、鳳来さんは九条くんの傍を離れずにべったり。

アトラクションに乗る時も九条くんの腕を引っ張り先に乗ってしまい、この1時間私はまともに九条くんと喋る事すらできていない…。


しまいには、腕を絡めたり……。


目の前の光景になぜか胸が痛み、思わず俯いた。



「彼氏を取られてショック?」


近くで聞こえた声に弾かれたように顔を上げれば、佐々木さんが同情するような目で見ていた。



「え……?そんなこと……」


「でもそんな顔してたよ」



そんなことない。


…そんなことあるはずない。


だって私たちは本当の恋人じゃないから……。



「田中さん、暁人と付き合ってくれてありがと」



急に感謝の言葉を言われ、困惑してしまう。


そんな私の顔を見て、小さく笑った佐々木さんは、視線を前を歩いている九条くんに向けた。



「あいつ、昔から女遊びばっかりで、顔を合わせるたびに違う女連れて歩いてたんだよ」


確かに学校でも、その姿はよく見かけていた。


それに、プレイボーイだなんて言われていたし…。


「でも、田中さんと付き合うようになってからは、女遊びがパッタリなくなったんだ。今まで登録してた遊び相手の連絡先も全部消したみたいだし……。田中さんと付き合ってからあいつは変わったんだ。だから、あいつを変えてくれて、暁人と付き合ってくれてありがと」


……そんなこと知らなかった……。


私なんて偽物の恋人なんだから、そんなこと気にもせずいつも通りに遊び歩いているのかと思っていた。



なんで……?


どうして……?



だって私たち、本当の恋人なんかじゃないのに……。







「ねぇ、暁人と別れて」



少し休憩しようと飲み物を買いに行った男子2人を待っている間、パラソルの下に置かれている椅子に座っていれば、そんな声が聞こえた。



「……え?」



まさかと思い目の前に座っている鳳来さんを見れば、鋭い眼光で睨みつけてくる。


ビクッと肩が震え、顔を下に向けた。



「私、実は暁人の婚約者なの」


九条くんと話している時とは違う低い声。


それに……


「…婚約者?」


「そう。暁人とは小さい頃からの知り合いで、大人になったら結婚しようって約束してたの」


誇らしそうな表情で話す鳳来さんを呆然と見つめた。


「……でも…」


九条くんは婚約者がいるなんて一言も言わなかった。


婚約者がいるのに……何で付き合おうなんて……。



「まぁ、どうせあなたすぐに捨てられると思うけど。暁人があなたと付き合ってるのは遊びだろうから。だって私っていう婚約者がいるんだから」


自身に満ち溢れた表情。


私の事を冷たく見る瞳。



鳳来さんの全てが私の心に刺さるけど、何よりも婚約者がいたという事実に一番傷ついている自分がいる。


…そんなことあるわけないと思いたいけど、確かに婚約者だと言われた時が一番心がチクリとなった。



「ていうか、あなた田中なんていう苗字じゃないでしょ?」


自分の気持ちの整理をしようと思った瞬間、鳳来さんの言葉が聞こえて、一気に現実に引き戻される。



今、何て言った……?




……まさか…。



「私の家もパーティーに呼ばれたりすることがあるんだけど、西園寺グループの一人娘があなたによく似てたけど……同一人物でしょ?」


クエスチョンマークが見える口調だけど、確実にそうだと分かっているような圧を感じる。


「田中って名乗ってるっていうことは学校では西園寺グループだってこと隠してるってことでしょ?

もしも、このことバラしたらどうなるかな…?」



『お金持ちだからって調子乗ってるよね』

『自分が良い家の子供だって自慢したいんだよ』


頭の中で声が飛び交う。


「……っ」



首を黒縁のメガネ、低めの位置で束ねられた黒髪、目元を隠すような重い前髪、メイクすらしてない顔。

そして極めつけは、校則をしっかり守った制服。


鏡に映っている私はどっからどう見ても真面目で暗そうな雰囲気を醸し出している。


そんな自分を確認してからリビングにいるお父さんとお母さんに声をかけて家を出た。



田中玲。

高校1年生。


今日も何もない平凡な一日を静かに過ごしたいと思いながら、学校までの道を歩く。




「田中さん、今日の掃除当番変わってくれない?」


登校して自分の席に座ったと同時に、待っていたかのようにクラスの女子が話しかけてくる。


「…うん、いいよ」


頷けば「ありがとー」と言いながら戻っていく女子。



時間が経つごとに教室も徐々に騒がしくなり始める。


昨日のドラマがどうだった、この俳優さんが結婚した、部活でこんなことがあった…。


四方八方から聞こえてくる会話に私が混ざることはない。


私はいわゆる「ぼっち」と呼べれるポジションで、クラスメイトからしたら大変な作業を引き受けてくれる雑用係くらいにしか思われていないだろう。



入学した当初は、いつまでも1人でいる私に気を遣ってか、放課後遊びに誘ってくれる人もいた。

でも、その誘いをことごとく断っていたり、馴れ合おうとしなかったため、入学から1か月経った今となっては誘われることもなくなった。


その結果、クラスメイトからの私の評価は最悪だった。


『遊びに誘っても来ない人』


『真面目で暗いし、何を考えているか分かんない人』


『会話しようとしても続かないし、近寄りがたい人』


だけど、頼めば何でもやってくれる便利屋。



でも、それでいい。

例え便利屋だろうと、雑用係だろうと、クラスメイトの人たちから注目されていないのであれば問題ない。




「キャー!!」


椅子に座ってボーっとしていれば、急に叫び声が聞こえ思わず肩が跳ねる。


教室の外に目を向ければ、女子に囲まれた1人の男子生徒が歩いているのが見えた。


「暁人くん、今日もカッコイイね!」


「ありがとー」


「今日の放課後カラオケ行こうよ!」


「いいよ」


女子からの声にひとつひとつ笑顔で答えている男子。


九条暁人。

九条財閥の御曹司であり、跡取りという将来が約束されている人。

容姿端麗、成績優秀、運動神経抜群というまさに火の打ち所がない彼は、入学した当初から噂の中心であり、友達のいない私の耳にも入ってくるような人だった。


漫画の中から出てきたような存在の彼を女子たちが放っておくこともなく、あっという間に人気者に。

しかし、特定の彼女を作ろうとしないにも関わらず、告白は毎回オッケー。

根っからのプレイボーイだという。


つまり、私と九条暁人は月とすっぽん、光と闇。

関わることもなく、生きる世界が違う人物。


…だと思っていた。




「明日パーティーがあるから、玲も参加してね」


夕食のとき、正面に座っていたお母さんが口を開いた。


「え?」


「うちが主催するパーティーだから、家族が顔を出さないっていうのも失礼でしょ?最初だけでいいし、話はお父さんとお母さんがするし、いてくれるだけでいいから」


そんな必死にお願いされたら……。


「……いるだけなら」


断りたくても断れない。


「良かった。ドレスは用意しておくから、明日はとびきり可愛くしましょうね!」


久しぶりに私がパーティーに参加するから上機嫌なお母さんと、それを嬉しそうに見ているお父さん。

そして、一気に気分が沈んだ私。



田中玲は真面目で根暗な普通の高校生。

でも、私の本当の名前は―――

西園寺玲。


西園寺グループの一人娘で、正真正銘のお嬢様。

家も一般家庭よりも遥かに大きいし、使用人も何人もいるし、別荘だって何個もある。


きっと西園寺グループという名前を聞けば誰もがピンとくるほど知名度も高い。


なのにどうして私が本当の苗字を名乗っていないのか……。



『お金持ちだからって調子乗ってるよね』



そんな声が脳内で再生されて、頭を左右に振ってその記憶を奥へ閉じ込める。



顔を見られないように目なんて悪くないのにメガネをかけ、前髪を伸ばし、すっぴんで、スカートの裾は膝下で……。


目立たないように、注目されないように、バレないように……。

高校生になってから私は地味な生活をするようにした。



そんな生活が明日から一変するなんて、この時の私は微塵も考えていなかった―――。



翌日、淡いピンク色のドレスに身を包み、メイクをしてもらい、髪も綺麗にまいてもらい…

西園寺グループ令嬢、西園寺玲が出来上がった。


この姿をすると、窮屈な檻から解放された気がして、楽になる。



「やっぱり玲は可愛いな」


「私とあなたの子供なんだから当たり前でしょ!」


パーティー会場に着くまでの車の中は和気あいあいとした空気が流れている。


私のお父さんとお母さんはきっと、結婚数十年に突入する他の夫婦よりも仲がいいと思う。

そして優しい。

お金持ちだからと言う理由で権力を振りかざさないし、偉そうな行動もしない。

その為、会社の人たちや使用人、他の財閥の人たちからの信頼や人気は絶大。


そんな2人を私は誇りに思うと同時に、こんな人になりたいと思う。


そして、お父さんとお母さんは高校生の子供がいるとは思えない程美男美女だ。

街中を2人で歩いていれば、男女関係なく振り返るし、声をかけてくる人も少なくない。

既婚者だと分かると驚かれるほど2人は若い。


そんな2人の娘である私。

自分で言うのもなんだけど、どちらかと言えば容姿は整っていると思う。



「西園寺さん、本日はお招きありがとうございます」


パーティー会場につけば、怒涛の挨拶周りが始まる。

テレビで何度か見たことがある人、有名企業の社長さんなどがいるのを見ると、一代でグループをここまで大きくしたお父さんは本当にすごい人なんだと思い知る。


挨拶周りも終盤、ヒールを履いている足が限界に近付いてきたとき、


「西園寺」


後ろから声が聞こえて振り返れば、ダンディーな男の人が立っていた。


「おお、九条。来てくれたのか」


今までの人たちとは打って変わって砕けた雰囲気で話しているお父さん。


「あの方は子会社でもある九条財閥の社長さんなの。お父さんとは昔からのお友達なんですって」


隣にいたお母さんが小さな声で教えてくれる。



九条財閥……。


嫌な予感がして、咄嗟に下を向いた。


このままここにいてはいけないような感じがした。


お手洗いでも行こうかと足を一歩後ろに動かした瞬間、


「そう言えば、今日は息子を連れて来てるんだよ」


「おお、そうなのか。実は娘も来てるんだ」


2人の声にさらに嫌な予感が増す。


でも、足を動かすことが出来なかった……。


「息子の暁人です。いつも父がお世話になっております」


昨日聞いたような間延びしたような声ではなく、落ち着いていて大人びた声。


もう逃げられないと思い、顔をあげる。


そこにいたのは予想通りの人物。


「立派な息子さんだな。いやいや、こちらこそいつも暁人くんのお父さんには助かってるよ。…妻と娘の玲です」


お父さんの紹介で小さく微笑み、お辞儀をする。


再び顔を上げれば、バチッと彼と視線が合う。


バレた…?


いや、そんなはずはない。

今の私は学校の時とは全然違うし、そもそも彼が私の存在を、ましてや名前を知っているはずがない。


ドクドクと血液が早く流れるのを感じながら、出来るだけ下を向いたままお父さんと九条さんが話し終えるまで待っていた。



「じゃあ、また近いうちに遊びに行くよ」


「おお」



やっと解放されたと安堵した時、グイッと腕を掴まれ、再び心臓が縮まる。


ゆっくりと振り返れば、案の定彼がいた。



「あの、玲さんとお話したいのですが、よろしいでしょうか」


「え?あぁ……」


訳も分からず返事をしたお父さんとニコニコと意味深な笑みを浮かべている九条さんとお母さん。


「玲さんもいいですか?」


有無を言わせないような表情と口調で思わず頷いてしまった。



あぁ、私のバカ。


これから何を言われるのか分かってるのに……。



パーティーをしていた部屋から出て、喧騒が遠のいていく。

そしてついたのは、人気のない場所。


「……あの…っ」


先手必勝。

口を開こうとした瞬間、掴まれていた腕をグッと引き寄せられ、彼との距離が近くなる。

思わず口を閉ざした私をフッと笑いながら見下ろした彼は、





「君、隣のクラスの田中玲だよね?」



私が避けていた言葉を言った―――。



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ノーともイエスとも言えないでいる私に彼はさらに笑みを浮かべて、顔を近づけてくる。


「黙ってて欲しい?」



その表情と口調で、私が田中玲だと確信していることが伝わってくる。


きっとここで私が必死に否定したとしても、何を言ったとしても、彼にとってはただの誤魔化としか聞こえないんだろう。


「……はい」


あぁ、きっとパシリとかにされるんだ……。


そんな事を覚悟して小さな声で頷けば、



「じゃあ、俺と付き合ってよ」


頭上から予想していたより斜め上の言葉が聞こえてきて、彼の顔を見上げる。



「……え?」


つ、きあう……?


それは…世に言う好きな人同士が手を繋いだり、キスしたりすること、だよね?



「無理です!」


数秒頭の中で考えて、声をあげた。


「でも黙ってて欲しいんでしょ?」


「だからってどうして、付き合うっていう考えになるんですか?」


「付き合って欲しいから」



真剣な顔で見つめられて、思わず口をつぐんだ。


……意味が分からない……。


どうしてそこまで付き合うことにこだわるんだろう?


彼はきっと私のことなんて好きじゃないだろうし、私だって彼のことは噂程度しか知らずに、好きと言う感情は全くない。


なのにどうして……。


もしかして、お金目当て?


今まで、西園寺グループの令嬢だからお金を持っていると言う理由で、近づいてくる男の人を散々見て来た。


もしかしてこの人も……?


あわよくば、次期社長の座に就こうと企んでいるんだろうか?



「付き合ってくれるんだったら、今日の事は黙っててあげるよ」


付き合うなんて嫌だ。


でもここで断ったら……学校中の人気者の彼のことだ。


きっと明日登校するときには既に私の本当の姿は、全校に伝わっていることだろう。



分かってた。



「……分かり、ました……」



バレた時点で、この話を持ち掛けられた時点で、私に選択肢なんてなかったって。



「良かった。じゃ、また月曜日学校でね、玲」


ポンと頭に手が置かれたと思えば、爽やかな笑顔を浮かべて颯爽と去っていく後ろ姿。


その姿が見えなくなった瞬間、力が抜けたように座り込んだ。



あれ?

でも、九条くん私の名前知ってたな……。


まさかあんな人気者に影の薄い私が知られてたなんて……。


もっと静かに過ごせばよかったかな?



なんてことを考えたのは一瞬で、月曜日を迎えるのがより一層憂鬱になった。






『来なければいい』と思えば思うほど、時間が過ぎるのはあっという間で、

月曜日がきてしまった。



変わらないはずなのにいつもより重く感じる制服を着て、いつもより重い足取りで学校まで向かう。


いつもより長いような1日をビクビクと過ごし、やっと放課後。


すぐに帰ろうとホームルームが終わったと同時に立ち上がれば、


「玲」


恐れていた声が後ろから聞こえて、体が固まる。


「あ!暁人くんだ!」


「今日もカッコイイねー!」


「ていうかさっき玲って言わなかった?」


「確か田中さんの名前、玲だったよね?」


「え?田中さん?なんで?」



ヒソヒソと聞こえる声。


動け、足……っ!


頭では動かそうとしても、動いてくれない足。



「今日一緒に帰ろうよ」


九条くんのその一言でザワッと教室の空気が揺れたのが分かった。


「え?今一緒に帰ろうって言ったよね?」


「なんで?」



鞄を持つ手が震える。


…怖い、ここにいたくない……。



「玲?」


返事をしない私を不審に思ったのか、後ろから九条くんの近づいてくる気配がして、

体がピクッと動く。


その一瞬で必死に足を動かし、教室から逃げ出した。



「え!?玲っ!?」


戸惑ったような九条くんの声が聞こえたけど、無視して走った。



走って、走って、走って……。


無我夢中で走っていれば、空き教室が多くある場所まで来ていた。


空き教室ばかりだから人の気配がない事に安心し、乱れている呼吸を整えるために、空き教室のひとつに入り、壁に背中を預けるように床に座り込んだ。


きっと教室は私と九条くんの話題で持ちきりだろうな。


どんなことを言われているのか想像するだけでも怖くなり、体を小さくした時、


―――――パタパタパタ。


廊下を走ってくる音と、ガラッ、バタンという扉を開け閉めする音がだんだんと近づいてきた。



誰か来た……?


空き教室しかないこんな場所まで?


……放課後に?



まさか……私を探してる……?



そんなわけないとは思いながらも、だんだんと近づいてくる音に、心臓がドクドクと大きくなりはじめる。



もしかして、九条くんの熱烈なファンの人が怒って探してるとか?


そうだったら、どうしよう……?



ガラッ―――。


勢いよく私がいた教室のドアが開き、心臓が跳ね上がる。



「はぁ……、いた」


聞こえたのは女の人の声でも、罵詈雑言でもなく、安堵した男の人の声。


……私が最近よく聞いている声。


顔を上げれば、そこには肩で息をしている九条くんの姿。


「……九条くん…」


とりあえずホッと息をはく。



「もう帰っちゃったかと思ったけど、靴はあるし…。学校中探してもいないなから…」


私の目の前にしゃがんだ彼は、


「良かった、ここにいて」


そう言って優しい表情を見せた。



「ごめん、俺がみんなの前で話しかけたのが嫌だったんだよね」


コクっと頷けば、九条くんは申し訳なさそうにしおれた。


「ごめん。俺、玲に会えたのが嬉しくて、玲の気持ちにまで気が回らなかった……」


私に会えたのが嬉しくて……?


「今度からは人前では話しかけないようにするから、連絡先だけ交換して?」


首を横に傾げながら、不安そうに聞いてくる九条くん。


……あざとい。


きっと彼のこの表情で頼み事をされたら、嫌だと言える人はいないと思う。


「いいですよ……」


「良かった。あ、あと敬語、禁止ね!」


語尾にハートが見えそうな口調に、プレイボーイの片鱗を感じた……。



その日、私のスマホのメッセージアプリの中に、『九条暁人』の名前が追加された。


メッセージアプリに学校の人の名前が追加されるのは初めてだった。





その後、言ってくれた通り九条くんは学校では話しかけないでいてくれた。


でも、あの時の記憶がみんなの中から消えてくれるわけではなく……。


直接話しかけてくることはないものの、あの時のことを話す声だったり、好奇の視線を感じるようになった。


とは言っても、至って普通の学校生活を送っていた中―――……



「お見合い……?」


「そうなんだよ。相手は懇意にしている取引相手の二階堂財閥のご子息なんだけど、玲より2歳年上らしいんだ…」


ポカンとしている私と申し訳なさそうに話すお父さん。



学校から帰って来て、お父さんから話があるからとリビングに行けば、


『お見合いをして欲しい』


と頭を下げてお願いされた。



「もしかしてまた?」


お父さんの近くに立っているお母さんをチラッと見れば、『やれやれ』という表情で肩をあげた。


私は、西園寺グループが主催するパーティー以外、公の舞台に顔を出すことがほとんどない。


そのため、私が西園寺グループの令嬢だと知っている人は、少ない。


今回の話だって、二階堂財閥と言う名前を聞いたことはあるけれど、『二階堂財閥のご子息』を私は知らない。

顔だって見たことがない。


「…あぁ……」


さっきよりも歯切れが悪い喋り方をするお父さん。


「実は……二階堂財閥の社長さんと食事をした時に、お酒を飲んだんだけど…」


あぁ、予想通り。


「気持ちよくなっちゃって…子どもの話になった時に、玲の写真を見せたんだよ。それで……写真を社長さんに送っちゃって……それを見た息子さんが会ってみたいって……」



お父さんはお酒が入るとテンションが上がり、何でも喋ってしまったり、見せてしまう癖がある。


私の写真を見せて『お見合いさせてほしい』と言われたことも初めてじゃない。



「……もう……」


お見合いという名前ではあるけれど、ただ会ってお喋りをして食事をして解散、というのが定石。


その後は婚約だの、お付き合いだの言われたこともあるけど、全部断ってきた。


なぜなら、付き合うなんて分かんないし、ましてや婚約なんて私には夢の又夢。


想像すらできない世界線の話のように思える。


そもそも……初恋すらまだの私には、『好き』という感情がどんなものなのか想像すらできないでいた。


九条くんのことだって、きっとあれがなければ付き合うなんてしなかった。



「……今回も会うだけなら…」


「玲、本当にありがとう!断るのはいつも通りお父さんが連絡しておくから」


本当はお見合いなんてしたくない。


たった数時間だとしても、早く終わって欲しくてしょうがない。


だけど……取引相手となると、西園寺グループの今後に関わる事にも繋がりかねない。


酔った勢いで写真を見せちゃうお父さんには飽き飽きするけど、それでもお父さんのことが好きなのには変わりないから……。



お見合い当日。


白のオフショルワンピースに、ブラウンのカーディガンを羽織った私は、待ち合わせ場所である高級イタリアンレストランに向かった。



「二階堂の知り合いなのですが…」


お店の中に入り、接客しに来たウェイターの人にそう伝えれば、


「こちらです」


とドアまで付いている個室に案内される。


ドアを開けてもらい中に入れば、スーツを着た背の高い男の人がいた。



「二階堂春です」


優しい笑顔を浮かべながら椅子から立ち上がった彼は、無駄な動きのない動作で頭を下げた。


「さ、西園寺玲です」


釣られるように自己紹介をして頭を下げれば、二階堂さんは更に優しい表情を浮かべた。



私の2歳年上ということは、高校3年生ってことだよね……。


余裕があって、大人っぽい……。



「じゃあ早速食べよっか」


テーブルの上には既にいくつかの料理が並べられていて、美味しそうな香りが部屋中に充満している。


「はい」



食事中は、在り来たりな話題で時間が経った。


私は、自分から話しかけたりすることが苦手な人だったから、二階堂さんがどんどんと話題を振って話を膨らませてくれたことが凄いありがたかった。


食事を初めて約1時間後。


コース料理のラスト、スイーツを食べ終わりそろそろ解散しようという空気が流れ始め、

私は心の中でホッと安心した。



「じゃあ、そろそろ……」


「そうですね」


鞄を持って立ち上がった私は、早く帰りたいとドアに手を伸ばした瞬間、


「……っ!」



グイッと腕を掴まれ、気付けば背中を壁に押し付けられていた。



え……?


状況を飲み込めないでいる私に、二階堂さんはニヤニヤとした不敵な笑みを浮かべて私を見ている。



「あっ、あの……っ」


至近距離で見下ろしてくる二階堂さんから距離を取ろうと胸元を押し返してみてもビクともしない。


それどころか、逆に押し返そうとしていた両手も掴まれ、壁に押し付けられる。



「こんなに丈の短いワンピースなんて着て来たら襲ってくださいって言ってるようなもんだよ?」


膝上の白のオフショルワンピースから覗いている脚にサラリと手が当たる。


その瞬間、体中に鳥肌が立つのを感じた。



嫌だ……。


「ホントはこの部屋に入ってきた瞬間に食べちゃいたかったんだけど、我慢してたんだ」


さっきまでの優しい表情や知的な口調はどこにいったのか、今は獲物を狙う目をしていて、囁くように語尾が伸びるような話し方に変わっている。


「大丈夫、痛い事はしないよ」


ゴツゴツした手が脚を撫で始める。


「や、やめ……っ」


体をよじっても、どんなに抵抗しても女の私が年上の男の人の力に叶うわけもなく……。


首筋に唇があたり、もう声を出す力も抵抗する気力もなく、どうすることもできない無力さから涙が頬をつたった刹那―――



バァンッ!!


と大きな音をたてて個室のドアが開いた。


音に反応してドアの方を向いた私と二階堂さんの前に現れたのは―――……。


驚いて動けずにいれば私から被さっていた影がなくなり、二階堂さんが引き離された。


声すら出せずにいる私は、彼を目で追うことすら出来ずにいた。



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「ごめん、遅くなった」


まるでこの場所で何が起きるのか分かっていたような口調。


目の前に来た九条くんは、来ていた上着を私の肩にかけてくれた。



どうして、何で……。


聞きたいことはたくさんあったけど、もう大丈夫なんだと思うと、足の力が抜けその場に座り込んだ。


「……帰ろっか」


何故か泣き出しそうな顔をしている九条くんは、私を抱きかかえたと思えばそのまま部屋を出た。


あれ?

そう言えば、二階堂さんはどうしたんだろう?


さっきから声が聞こえないけど……。


二階堂さんの事を考えたけれど、それと同時にさっきのことを思い出しそうになり、頭を横に振って考えないようにした。



レストランの出入り口の前には黒塗りのリムジンが止まっていて、九条くんと私が乗り込めば、ゆっくりとリムジンが動き出した。



「あ、あの……」



聞きたいことはたくさんあった。


どうしてここにいるのか、何でこの場所が分かったのか……。



質問をしようと口を開けば、それを遮るように私の体が温かい何かに包まれる。



それが、九条くんだと分かるのに数秒。



「……え?」



どうして九条くんに抱きしめられているのか見当もつかず、驚いて小さな声が漏れる。



「……来るのが遅くなってごめん」


耳元で聞こえる力ない声。


「そんなこと…助けてくれてありがとう……」



冷たい手の感触。

有無を言わせない力。

飢えた獣のような目。



急にさっきの出来事が脳内にフラッシュバックし、体が小刻みに震えだす。



「……こ、こわかっ…た」



あの時、九条くんが来てくれなかったらどうなっていたのかと考えると、怖くて仕方ない。


ギュっと九条くんの服の裾を握れば、抱きしめる力がより一層強くなる。



「……もう大丈夫だから……」



背中に伝わる温もり。



その温かさに安心感を覚えながら、私はしばらく九条くんの腕の中で泣いていた…。





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『今度の休み、デートしない?』



九条くんからそんなメッセージが届いたのは、それから数日後。



正直、異性の人と2人で出かけるということにあの一件からさらに抵抗がある。


でも、九条くんだから……。


それにあの時助けてもらったお礼も出来てないし……。



数分悩んで、『いいよ』と返事を送れば、すぐに笑顔の可愛いスタンプが返ってくる。




デート当日。


待ち合わせ場所に指定されたのは、遊園地。


老若男女が楽しめるようなアトラクションなどがたくさんあり、テレビ番組でも紹介されたほどの有名な場所。



……久しぶりに来た。


小さい頃両親と1回だけ来たことがある場所。



……本当は友達と来たいと思っていたし、来れると思っていた……。


そんなことを思っている私の横を、若い男女が賑やかに会話をしながら通り過ぎて行く。


その後姿を一瞬だけ自分と重ねようとした……。


あの頃は、あんな青春を送れるんだと心のどこかで確信していた。


だけど、現実はそう簡単に上手くいかないものだと思い知った……。





「ねぇねぇ、あの人たちカッコよくない!?」


「でもその隣の女の子もめっちゃかわいいよ」


「いいな~。美男美女じゃん」


そんな会話をしながら女の人たちが通り過ぎて行く。



視線を入口の方へ向ければ……


まるでその空間だけ空気が違うんじゃないかと疑いたくなるほどのオーラを放っている人たちがいた。



そんなわけないのに、キラキラ光っているようなエフェクトまで見えてくる。




でも、あれって……。



その中の1人に見覚えがあり、目を凝らしていれば……


私の視線を感じ取ったのか、スマホを見ていた彼は顔を上げ、私の方を見た。


目が合って数秒。



彼は、嬉しそうに表情を崩すと、私の方へ駆け寄ってくる。



「玲」



私の前で足を止めた彼、九条くんはデニムにTシャツ、革のジャケットという珍しくもない服装をしているというのに、オーラが溢れ出ている。



……芸能人みたい……。



「九条くん…」



彼の顔を見上げれば、嬉しそうな表情が一変、眉を寄せ困ったような表情を見せる。



どうしたんだろうと首を傾げれば、私の言いたいことが分かったのか更に眉を寄せた。



「…実は、知り合いが2人勝手に着いてきちゃったんだ…。やめろとは言ったんだけど……」



チラッと後ろに見た九条くんの視線を追えば、未だにオーラを放っている男女が2人。


…さすが、九条くんの知り合い……。


オーラが凄い……。



「わ、私は別に……」



私と九条くんは好き同士だから付き合っているわけじゃないし……。


ここで帰って欲しいと言えるような関係値じゃない……。



「ホントにごめん」


申し訳なさそうに謝った九条くんは、その後私を2人の元に連れて行き、紹介してくれた。



「佐々木紘と鳳来結。紘は俺たちと同級生だけど、結は1個下で中学3年。2人とは小さい頃からの幼なじみ」



「初めまして。急にごめんね、デートの邪魔しちゃって……」



佐々木さんが優しい口調で話しかけてくる。



「……いえ…。……初めまして、田中玲です」


気付けば偽名の方を名乗っていた。


今は別に田中玲としてここにいるわけじゃないから、メイクもしてるし、髪もセットしてあるし、メガネだって付けてない。


もしもこの人が同じ学校だったら……。


名乗ってからそんなことを考えてハッとした。


でも、少なくとも同じクラスではないし、もし同じ学校にいたとしても田中玲なんて名前を知らないだろうし、私の存在なんて知らないだろう。



「へ―、あなたが暁人の彼女?」


考え込んでいれば急に顔を覗き込まれ、心臓がバクッとなり目を見開いた。


鳳来さんに鋭い瞳で見つめられ、思わず息をするのを忘れそうになる。



「……初めまして。仲良くしてください、田中さん」


さっきまでの声とは違うワントーン高くなった声。

そして効果音が付きそうなほど綺麗に口角が上がってできた笑顔。



……怖い……。



直感的にそう思ってしまった……。





「ねぇ~暁人今度はあれ乗ろうよ!」


「おい、あんまくっつくなよ…」


「えぇ~いいじゃん!遊園地なんて来るの久しぶりなんだから!!」



目の前で繰り広げられている会話。


傍から見たら、遊園地という場所にテンションがあがる彼女と、人前でくっつくのを恥ずかしがる彼氏…なんだろうな。



遊園地に入場して早1時間。


アトラクションを楽しんだり、ご飯を食べたり……。


もちろん楽しい。


でも……この1時間、鳳来さんは九条くんの傍を離れずにべったり。

アトラクションに乗る時も九条くんの腕を引っ張り先に乗ってしまい、この1時間私はまともに九条くんと喋る事すらできていない…。


しまいには、腕を絡めたり……。


目の前の光景になぜか胸が痛み、思わず俯いた。



「彼氏を取られてショック?」


近くで聞こえた声に弾かれたように顔を上げれば、佐々木さんが同情するような目で見ていた。



「え……?そんなこと……」


「でもそんな顔してたよ」



そんなことない。


…そんなことあるはずない。


だって私たちは本当の恋人じゃないから……。



「田中さん、暁人と付き合ってくれてありがと」



急に感謝の言葉を言われ、困惑してしまう。


そんな私の顔を見て、小さく笑った佐々木さんは、視線を前を歩いている九条くんに向けた。



「あいつ、昔から女遊びばっかりで、顔を合わせるたびに違う女連れて歩いてたんだよ」


確かに学校でも、その姿はよく見かけていた。


それに、プレイボーイだなんて言われていたし…。


「でも、田中さんと付き合うようになってからは、女遊びがパッタリなくなったんだ。今まで登録してた遊び相手の連絡先も全部消したみたいだし……。田中さんと付き合ってからあいつは変わったんだ。だから、あいつを変えてくれて、暁人と付き合ってくれてありがと」


……そんなこと知らなかった……。


私なんて偽物の恋人なんだから、そんなこと気にもせずいつも通りに遊び歩いているのかと思っていた。



なんで……?


どうして……?



だって私たち、本当の恋人なんかじゃないのに……。







「ねぇ、暁人と別れて」



少し休憩しようと飲み物を買いに行った男子2人を待っている間、パラソルの下に置かれている椅子に座っていれば、そんな声が聞こえた。



「……え?」



まさかと思い目の前に座っている鳳来さんを見れば、鋭い眼光で睨みつけてくる。


ビクッと肩が震え、顔を下に向けた。



「私、実は暁人の婚約者なの」


九条くんと話している時とは違う低い声。


それに……


「…婚約者?」


「そう。暁人とは小さい頃からの知り合いで、大人になったら結婚しようって約束してたの」


誇らしそうな表情で話す鳳来さんを呆然と見つめた。


「……でも…」


九条くんは婚約者がいるなんて一言も言わなかった。


婚約者がいるのに……何で付き合おうなんて……。



「まぁ、どうせあなたすぐに捨てられると思うけど。暁人があなたと付き合ってるのは遊びだろうから。だって私っていう婚約者がいるんだから」


自身に満ち溢れた表情。


私の事を冷たく見る瞳。



鳳来さんの全てが私の心に刺さるけど、何よりも婚約者がいたという事実に一番傷ついている自分がいる。


…そんなことあるわけないと思いたいけど、確かに婚約者だと言われた時が一番心がチクリとなった。



「ていうか、あなた田中なんていう苗字じゃないでしょ?」


自分の気持ちの整理をしようと思った瞬間、鳳来さんの言葉が聞こえて、一気に現実に引き戻される。



今、何て言った……?




……まさか…。



「私の家もパーティーに呼ばれたりすることがあるんだけど、西園寺グループの一人娘があなたによく似てたけど……同一人物でしょ?」


クエスチョンマークが見える口調だけど、確実にそうだと分かっているような圧を感じる。


「田中って名乗ってるっていうことは学校では西園寺グループだってこと隠してるってことでしょ?

もしも、このことバラしたらどうなるかな…?」


『お金持ちだからって調子乗ってるよね』

『自分が良い家の子供だって自慢したいんだよ』


頭の中で声が飛び交う。


「……っ」


首を縦に振ることも横に振ることも出来ずに、ただただ俯いてしまった……。


こんなの『そうだ』と言ってるのと一緒なのに……。




「お待たせ!」


しばらく沈黙の時間が続いていたところへ飲み物を手に持った男子2人が戻ってきた。



これでまた何か言われる心配はないとホッとしたのもつかの間、鳳来さんが立ち上がった。


「ねぇねぇ、次はお化け屋敷行かない!?」


お化け屋敷と言うワードにピクリと肩が跳ねる。


幼い頃から怖いものが苦手。


特に何があったってわけでもないけど、怖いものは怖い。


だから今までそういったものには関わらないように生きてきた。



だけど今の私に嫌だと言える勇気はない。


お化け屋敷に近付くと同時に足がだんだんと重くなる。



「田中さん、顔色悪いけど大丈夫?」


私の横に並んで顔を覗き込んできたのは、心配そうな表情をした佐々木くん。


「…だ、大丈夫です」


「そう?ダメそうだったら言ってね」


佐々木くんは優しい。


私は当たり前かのように前を歩いている2人の後姿を見た。


鳳来さんは、九条くんが私の事を心配そうに見てるなんて言っていたけど、前を歩いているのにそんなはずない。


だって遊園地に入ってから、彼と目が合った数なんてきっと片手で数えられる程度しかないはずだし……。


私の事を見ていたなんて……鳳来さんの勘違いだと思う。




「キャー!!」



大きな物音に、唸るような声、不気味な音楽……。


初めて入ったお化け屋敷は、あまりに怖すぎて叫び声すら出なかった。



「もう~暁人!!怖いよ~」


前から聞こえてくる鳳来さんの今にも泣きだしそうな声。


「は?お前が来たいって言ったんだろ?」



バタンッ―――



急に大きな物音がして思わずその場にしゃがみ込んだ。


「……っ」


「キャア……!」


私の声にならない声に鳳来さんの叫び声が重なる。


そしてバタバタと遠ざかっていく足音。



……待って、おいていかないで……。


こんなところで1人なんて……。



通路の端。


動こうにも足が震えて動けず、誰かに助けを求めようにも声が出ず……。


人の通る気配や叫び声は聞こえるが、暗闇のため誰も私の存在には気付いてくれない……。


お化け屋敷に入る前に懐中電灯を2人に1つずつもらったが、男子2人が持っていて、私の手元にはない。



……こんなことなら、お化け屋敷なんて来なきゃよかった……。


もう……帰りたい……。



「玲っ!」


声がしたと同時に、手をグイッと引っ張られ、何かに包み込まれる。


「…はぁ……はぁ」


耳元で聞こえる荒い息遣い。



「…く、九条くん…?」


聞き覚えのある声。

安心する温かさ。



「探した…」


私を抱きしめている体が激しく上下に動いているのを感じて、かなり探してくれたんだと分かる。


「…ごめん」


あまりにも申し訳なくて口から零れる。


「苦手だったなら言ってくれればいいのに」


もっともなことを言われて何も返す言葉が見つからない……。


「とりあえずここから出よ」


立ち上がった彼は、私の首と膝裏に手を回すと、簡単に抱きあげた。


「えっ!?ちょ……九条くん…っ」


これが俗に言う『お姫様抱っこ』っていうもの?


いや……ムリ。

恥ずかしすぎてムリ。


「どうせ玲歩けないんだろ?良いから黙って掴まってないと落ちるよ?」


身長が高い彼の腕から落ちれば、それ相応の痛みが襲ってくるはずだ。


それが怖くて、ギュッと九条くんの首に腕を巻き付けた。



「…かわい」


ポツリと呟かれた彼の言葉が、恐怖で怯えている私の耳に届くことはなかった。




「あっ!田中さん!」


お化け屋敷から出れば、予想以上の眩しさに思わず目を細めた。


そんな私のところに佐々木くんが走り寄ってくる。


「ごめん!俺が近くにいたのに……」


「…ううん。私の方こそごめんなさい……」



「暁人!!」


その声に思わずビクッと肩が震え、九条くんの腕の中で暴れ回り半ば強引に下ろしてもらう。


「もぉう……次は何乗る?」


チラッと私の方へ一瞬視線を向けた鳳来さんは、私から離すように自分の方へ九条くんの腕を引っ張った。



「んなこと…」


九条くんと目が合い、彼が何を考えているのか分かった。


私の体調を気にしているんだろう……。


正直1人で立っているのが限界に近い。


今すぐ誰かに寄りかかりたいし、座りたい。


なんだったら、この場でしゃがみ込みたい。


それくらい足が未だに震えている。


でも、それをしてしまえば、鳳来さんの目が怖い。



私は、力を振り絞って笑った。


「私はこの辺で休んでるから、3人で行ってきて」


「だったら俺が田中さんといるよ」


佐々木さんはそう言うと、私に「行こっか」と笑いかけゆっくりと歩き出した。


え?

みんなと行かなくていいの?


疑問は多かったけど、それよりも早くどこかに座りたいという思いの方が強すぎて、足を動かした途端―――――……。



「は?こいつは俺の彼女だから、俺が一緒にいるから」


そんな声と同時に手が伸びて来て、体が浮かぶ感覚。


……え?


気付けば私は再び九条くんにお姫様だっこされていた。


息を吐く暇もなく私を連れたまま九条くんは、その場を離れた。


その時、ピリッと肌を刺すような視線を感じ、その方向に目を向ければ、敵意むき出しの目で睨みつけてくる鳳来さん。


彼女が思っていることがひしひしと伝わって来て、すぐに鳳来さんから目を逸らした。



「大丈夫か?」


少し歩いたところにあったベンチに私を座らせると、九条くんはその場にしゃがみ込み私を覗き込んできた。


「……うん。……ごめん…」


…迷惑かけちゃった……。


私にもうちょっと体力があれば……。


なんて自分の不甲斐なさに飽き飽きしていると……


ドサッと隣に座った九条くんが私の肩を引き寄せ、彼の膝の上に私の頭がある状態になる。



……ん?


これって……。


少女漫画でよく出てくる膝枕だという事に気付き、一気に心臓が早く動き出す。



「……ちょっ……」


慌てて起き上がろうとするも、九条くんの手によって止められ、彼の手が私の頭に優しく触れる。



「良いから、しばらく休んでろ」


ぶっきらぼうな言い方だけど、心配してくれていると思うと心が温かくなる。



「…ありがとう」


そう言えば、頭上からフッと小さく笑う声が聞こえた―――…。



その後、体調は大分良くなったが、大事をとってということでそこで解散になった。


佐々木くんも鳳来さんも心配してくれていたが、どうしても鳳来さんの瞳の奥で怒りが見え隠れしているような気がして、怖くなった。



この時の私は、あんなことが起こるだなんて1ミリも想像していなかった。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


次の月曜日。


私が教室に入った瞬間、クラスメイト達の空気が変わったのを感じた。



会話の内容までは聞き取れなくても、小さく聞こえる話し声。

チラチラと感じる視線。



明らかに休み前とは違うクラスメイト。



確かに元から私に友達と呼べるような人はいないし、朝来た時に挨拶を交わすような関係値の人すらいない。


クラスメイトから見たら私は、ただのめんどくさい雑用を引き受けてくれる人でしかない。


だから、いつも私が朝来たとしても誰も気にも留めないし、ましてやチラチラ見てくることなんてない。


……絶対いつもと違う……。



でも……私は、この感じを知ってる。



今まで普通に接していた人たちがなぜか離れていき、手のひらを返したように急に態度が変わった、中学時代の時と同じ空気感をしている……。



鼓動が早くなり始める。




「田中さんが西園寺グループの一人娘ってホントなのかな?」



誰かが発したその言葉だけなぜか私の耳にははっきりと聞こえた。


一番聞きたくなかった言葉。


そうでなければいいと思っていたこと。



……バレた。


どうしよう……。



冷汗が出た。



誰が……?



いや、そんなことよりここから…逃げないと……。



「西園寺ってあの…?」


「え?田中さんてホントは凄いお金持ちのお嬢様だったの?」


「てか何で隠してたんだろ?」


クラスメイトの声がだんだんと遠のいていく。


目の前が暗くなっていく感覚……。


でも……こんなところで倒れるわけにはいかない……。


そんなことになれば更に噂の的になってしまう……。


その思いだけで必死に震えている足を動かした。



――ガラっとドアを開ければ、その前には他のクラスの人たちであろう姿がたくさん。


ドアを開けた私の方に多くの視線が集まり、クラッと頭が揺れる。



あぁ、クラスの人たちだけじゃないんだ……。


この学校の全校生徒が知ってるのかもしれない……。


いや、きっと知ってるんだ。



「あっ!この人だ!」



どうして分かったのか、どこからか誰かの大きな声が聞こえた。


あぁ……もう嫌だ……。



その声に反応して、私の事を好奇の目で多くの人が見てくる。



「……っ」



その視線やヒソヒソ話す声から逃げるように、人混みをかき分け、限界の足を動かした。



誰も人がいない場所に行きたい……。


視線も声も…何も感じない所へ行きたい……。



そして辿り着いたのは、いつかの時と同じ空き教室が多くある場所。


その一つに飛び込んで、ドアを閉めるのと同時にその場に倒れ込んだ。



「……はぁ……っ」


乱れる呼吸を必死で整えようとしても、息の仕方を忘れてしまったかのように荒くなる一方。



……落ち着け……。



大丈夫、少し経てばきっと治る……。


それまでここにいて、治ったら帰ろう……。


……大丈夫…。




「玲っ!」



ガラッと勢いよくドアが開く音と同時に、聞いたことのある声が耳に届く。


一瞬知らない誰かが来たのかと身を固くしたけど、その声にホッと胸をなでおろす。



…この声は……。



「大丈夫か!?」


今までに聞いたこともないほど焦っている声色をしている九条くんは、私を抱き起した。



「…く、九条くん……」


視界に入るのは、声と同じく焦っている表情。



「っ…ごめん」



九条くんが謝る必要はないはずなのに……。



謝った彼は、私をそっと包み込んだ……。





小さい頃、私は体が弱くてまともに小学校には通えなかった。

だから、私の初めての学生生活は中学校。


中学に入学した時、私は苗字を偽ってはいなかった。


だから、クラスメイトに『もしかして西園寺グループの人?』と聞かれるのに、さほど時間はなかった。


今思えば、この時首を振っておくべきだった。


『西園寺』なんて珍しい苗字そうそういないだろうけど、別にこの世界にたった1つの苗字じゃないんだから、『たまたま一緒なだけだよ』と言っておけばよかった……。


だけど、あの時の私は素直に頷いてしまった。


だって……あんな未来が待っているだなんて夢にも思わなかったから……。



『西園寺さんて西園寺グループの娘なんだって』


『え?西園寺ってすっごいお金持ちの家じゃん』


『何で公立の中学になんて通ってるの?お金持ちが通う学校に通えばよかったのに…』


『そうだよね…。もしかして、自分がお金持ちっていう事を自慢したかったんじゃない?』


『え~!最悪じゃん!!』



いつの間にか私の存在は全校生徒に知れ渡っていて、『お金持ちだというのを自慢したくて公立の中学に来た』なんていう噂まで広まっていた。



私が公立の中学に来た理由は、自慢したかったからじゃない。


財閥とか、お金とかそんな欲にまみれた大人の世界ではなく、もっと中学生らしい青春を謳歌してほしいという両親の想いで公立の中学を選んだ。


確かにお金持ちが通う学校に通うという選択肢もあった。


でも、たまに行ったパーティーで見かけた同年代くらいの人たちは、このドレスがオーダーメイドだの、アクセサリーは高級ブランドだの……。


自分の身に着けているものを自慢したり、自分の家がどれだけの権力を持っているのかを誇らしそうに話したり……。


とにかく自慢話の連続だった…。


そんなところを見てしまえば、学校に行ってもきっとこんな人たちばかりなんだろうと思うと、どうしても行く気にはなれなかった。



結局その後、学校には行けなくなり、通信で中学卒業認定をもらった。



私は別に自慢したいわけじゃない。


ただ……友達とどこかに出かけたり、くだらない話で盛り上がったり……。


そんな生活を送りたかっただけなのに……。



高校を決める時期になれば、両親は行きたくなければ行かなくてもいいと言ってくれた。


その言葉が嬉しかった……。


正直、高校には行かずに通信や家庭教師で知識を身に着けようと思っていた。


あんな思い二度としたくないと思ったから……。



でも、どうしても……。



学校というものに触れたかった……。


おかしいと笑われるかもしれないけど、小学校も中学校もまともに通えなくて……。


学校がどんな場所なのか知りたかった……。


性懲りもなく…と言われてもしょうがない…。



だから私は、学校という場所を知るために、友達を作るという目標を捨てた。


両親にどうしても学校に通いたいと伝えれば、その代わりと条件を出された。


『苗字を隠して学校に通うこと』


両親が私の事を心配して出してくれた条件だと分かり、頷いた。


この高校の校長がお父さんの知り合いだったため、事情を話して偽物の苗字で入学した。


出来るだけ目立たないように……。


西園寺家の娘だとバレないように……。


友達と一緒に出掛けたり、恋バナをしたり…、そんな夢は叶わなかったけど、学校というものを味わうことができた。


友達はいないけど、私のことをコソコソ話す人もいない…。


それだけで私の高校生活は十分だったのに……。



結局中学の時と同じ。




「…ここに来なければ良かったのかな……」



九条くんの腕の中でおもむろに口を開いた私は、過去の事を話した。


どうして話そうと思ったのかは分からない……。


でも、気付けば全てを話していた。



「そんなことない。俺は、玲と出逢えて良かったよ」



優しい言葉をかけてくれる九条くん。



「…ごめん。玲のことバラしたの、きっと結だと思う……」



九条くんの言葉に私は俯いた。



…分かってた。


心のどこかでそうなんじゃないかと思ってた…。


だって私の事を知っているのは、この学校の中では校長と九条くんだけだから。


校長はお父さんが信頼している知り合いの1人だし、九条くんが私の事をバラすなんて考えられない。


…この学校外で知っているのはただ1人……。


……鳳来さんだけ……。



遊園地での感じを見るときっと鳳来さんは、私の事を邪魔だと思っているはず。

だから、これは私への嫌がらせ……。



「…マジごめん……」



力なく謝る九条くんの声が聞こえてくる。


…そんなふうに謝るのは、自分の婚約者がしたことだから?


九条くんが鳳来さんのために頭を下げているのかと考えると、胸が苦しくなる。



本当は鳳来さんが婚約者なの?と聞きたかった。


どうしてあの時、付き合ってなんて言ったの?


…どうしていつも優しくしてくれるの…?


聞きたいことはたくさんあったけど、『暇つぶし』だなんて言葉を聞くのが怖くて、聞けなかった。





その後、落ち着いた私は、九条くんの手を借りて家に帰った。


九条くんから事情を聞いた両親は、心配そうな顔をしていたけど言葉をかけてくることはなかった。


でも、それが嬉しかった。


責めるようなことはきっと言わないだろうけど、公立の学校に行くことを許してくれた両親に申し訳なかった。


いつも私の気持ちを優先してくれて、優しくしてくれる両親に何て言えばいいのか分からなかった。


……ごめんなさい。


ただただ胸の中にあるのは、その言葉だけだった……。



次の日から私は学校を休んだ。


…どうしても行けなかった……。



そんな私を気遣ってか、九条くんは学校が終わるとすぐに家に来てくれた。


学校での出来事は全く話さず、好きな音楽のことやテレビの話などをしてくれた。


何気ない会話が楽しかった…。



学校を休んでから1週間が経った日のお昼を過ぎた頃。


部屋の扉を控えめにノックする音がした。


この1週間、ノックをしてきたのは両親のみ。


気晴らしにと連れ出してくれたり、ティータイムに誘ってくれたり……。


家にはお手伝いさんも数人いるが、滅多にノックをしてくることはない。


でも、今日はお父さんもお母さんも家にはいない。


お父さんは会社だし、お母さんは婦人会の集まりがあると、朝早くから2人とも出かけて行った。


だから今この家の中には、お手伝いさんたちがいるのみ…。



不思議に思いながら扉を開ければ、一番ベテランのお手伝いさん。


物腰が柔らかくて、優しい…。


私にとっておばあちゃんみたいな存在のお手伝いさんが立っていた。



「玲お嬢様にお客様です…」


頭を下げたお手伝いさんに、さらに頭の中にハテナが広がる。


今までの人生の中で、私にお客さんが来たことは片手で数えられるほどしかない。


最近では九条くんが毎日来てくれているけど、さすがにこの時間は学校が終わるには早すぎる。



……じゃあ誰……?


そう思った私の視界の隅に映った人物に、心臓が止まりそうになった。



「突然お邪魔してごめんなさい。学校を休んでいると聞いて心配になって…」



心配そうな表情に、声色。


きっと傍から見たら、学校を休んでいるのを心配して家を訪ねてきた優しい友達に見えるだろう。


でも…そうじゃないことを私は知っている……。



「……い、いえ」


ドクドクと鳴る心臓の音を感じながら、何とか首を横に振った。



「…ちょっと外の空気吸いに行きませんか?」


口調は優しいのに、断るのは許さないとでも言うような威圧感を鳳来さんから感じる。


今すぐここから走って逃げたかった。


自分の家から逃げてどこに行けばいいのかなんて見当もつかないけど、とにかくここにいたくなかった…。


でも……この場で逃げるような勇気なんて私にはなかった……。



家を出て、鳳来さんの後を歩いて数分、着いたのは近くの公園。


いつもは小さな子供たちや、会話に花を咲かせているお母さんたちがたくさんいるけど、平日のお昼過ぎと言うこともあって人の姿は全くなかった。


鳳来さんがベンチに座ったのを見て、私も少し隙間を開けて座る。


ここに来るまで会話は全くなかった。


ただ、鳳来さんの怒りのオーラは背中から感じていた。


……怖い。



「あのさ…」


隣から急に聞こえた声に反射的に方がビクッと震える。



……来たっ……。



「いつになったら、暁人と別れてくれるの?」



「そ、それは……っ」


ため息交じりの口調で言われ、なんと返していいのか分からなくなる。



だって私と九条くんの関係は本当の恋人じゃない。


だったら、すぐに別れればいい。


それに、私たちの関係が始まったのは、私の正体を学校中にバラされないようにするため。


みんなにバレた今、半ば強制的に始めったこの関係を続けるメリットなんて私にはない……はず。



「あっ!そう言えば、学校の人たちがあなたの本当の姿知らないみたいだったから、みんなに教えといてあげたから。どうだった?嘘つきだって言われた?…あ!もしかして学校に行ってないのってそれが原因?でも、自業自得だよね?別れてって言っても全然別れてくれないし…。しまいには、婚約者のいる前でイチャイチャし始めるんだから」



私を責めるように喋り出す鳳来さん。



「どうしてあなたが泣きそうなの?泣きたいのは私の方なんだけど…」


視界が涙でぼやけ始めるのを感じて、咄嗟に下を向いた。


何でこんなことまで言われないといけないんだろう…。



「あなたが暁人と別れるって言ってくれたら、それで終わる話なんだけど」


……そうだ。


九条くんと終われば、鳳来さんに絡まれることもなくなるんだ。


それでいいじゃん……。


だって別に彼の事を好きだったわけじゃない。


恋人っていうのは、好き同士がなるものであって、私は九条くんの事をそんな対象で見たことがない……。



―――チクッ。



そう心の中で思えば、胸が痛んだ。



九条くんは、襲われそうになった私を助けてくれた。


いつでも見つけてくれたし、駆け付けてくれた。


優しく、でも力強く抱きしめてくれた。


いつも私の事を気にかけてくれた……。



……好き。



簡単なことだった。


でも、初恋すらまだだった私には難しすぎる感情だった。



「…別れたく……ありません」



私は、九条くんのことが好き。



「は?」


一段と低い声が鳳来さんから聞こえて、恐怖で心臓が凄い勢いで動いているのを感じる。



「別れたくない?意味分かんないんだけど…何で?」


ギラッと鋭い瞳で睨まれ、逸らしたいのをなんとか我慢した。


自分の気持ちに気付いたからには、逃げたらダメだ。


逃げ出したい気持ちをグッとこらえ、口を開いた。



「…好きだから。九条くん事が好きだから…別れたくありません」



真っ直ぐに鳳来さんの目を見て言えば、ガタッと大きな音をたてて立ち上がった彼女。



「…っ…いいから別れろって言ってんだろっ!!」


右手を振りかざした鳳来さんの目は、怒りに満ち溢れていた。



……ヤバい。


逃げないと……。


って頭では分かっているけど、体が動かない…。



そのまま右手が私の方へ勢いよく振り下ろされる。


もう逃げられないと思い、痛みを覚悟してギュッと目をつぶった…。



瞬間、グイッと強い力で引っ張られたと同時に、バシッと音がした。


でも、思っていたような痛みはなく、目を開くと……



「……っ」


暖かい腕の中にいた。


……この腕を知ってる…。


何回もこの腕に助けてもらった……。



「…暁人……」



鳳来さんの手首を九条くんが掴んでいて、目を見開いている鳳来さんの表情が目に入る。



「何してんの?」



今まで聞いたことのない低い声。



「わ、私は……っ」


九条くんの手から無理やり逃れた鳳来さんは、気まずそうに俯いた。



「玲に手出すなって言ったよな?」


「だっ……だって…っ!」


勢いよく顔を上げた鳳来さんは、私の事を見ると赤い顔をしながら近づいてくる。


「暁人は私の婚約者だもん!!なのに、この女が……っ!この女が全部いけないんだよっ!!」


怒りを前面に出して私の事を指さしている鳳来さんは、今まで以上に怖く見えた。


そんな私の目元を後ろから塞ぐと、クルっと私の体の向きを変え、正面から抱きしめてくれる九条くん。



「誰がいつお前の婚約者になったんだよ」


「え…?だ、だって…私のこと好きって言ったじゃん!」


「は?いつの話してるか知らねーけど、それお前の勘違いだから。俺はお前の婚約者になった覚えなんてねーけど」


「……うそ……」



鳳来さんの信じられないという声を聞きながら、ホッとしている自分がいた。


婚約者っていうのは違ったんだ……。


……よかった。



「で、でも…暁人は私のこと好きでしょ?」


まだ食い下がる様子を見せる鳳来さん。



「は?全く好きじゃねーけど」


何言ってんだこいつとでも言うような視線を向けている九条くん。


私としては鳳来さんのことが好きじゃないと聞けて安心しているけど、言われた本人は顔を赤くし、目をうるうるとさせ、口元を震わせている。



「……な、なんで……っ」


「俺が好きなのは、玲だから」


その言葉と同時に、私の頭を撫でてくる九条くん。


――ドキッ。


まさかの言葉にこんな状況だというのに、心臓が音をたてる。



「……あっそ……。……2人とも不幸になればいいよっ!!」


捨て台詞を吐いた鳳来さんは、走って公園から出て行った。



不幸になれ……って。


そんな縁起でもない……。


でも、九条くんのことを諦めてくれたってこと…だよね?



安心したのもつかの間、自分が誰の腕の中にいるのか理解した私は、体中が熱くなるのを感じた。



「……っ」



とにかく離れようと九条くんの体を押し返したけど、全く離れる気配がない。



「あ、あの……っ。く、九条くん……」


出せる限りの力を出してみても、女の私が男の九条くんに叶うはずもなく……。


何だったら、さらに抱きしめる力が強くなった気がする……。




「……言って」



鳳来さんに向けていたような冷たい声ではなく、優しくて包みこんでくれるような声。



「……え?」



何を?



「さっき結に言ってたこと」


鳳来さんに…?


私何か言ったっけ?


思い出せずにいる私の耳元に九条くんが顔を近づけてくる。



「…俺のことが好きって言って…」


小さく聞こえた声に、体がビクッと跳ねる。



そう言えば、鳳来さんに九条くんのことが好きだって言った……。


えっ!?

まさか聞かれてたの!?


というか、こんなこと言うってことは確実に聞かれてたじゃん……。


……うそ……。



思わぬ形で九条くんへの想いが伝わってしまって、恥ずかしくなる。



「今度はちゃんと俺の顔見て言って」



恥ずかしすぎて穴があったら入りたいと思っている私に、さらに追い打ちをかける九条くん。



九条くんの顔を見て……?


……ムリムリ、絶対にできない……。


想像するだけで心臓が爆発しそうなのに、それを実際にしたらどうなるか分からない。



「……ムリ」


下を向きながら言えば、顎に手をかけられ、グイッと上を向かされる。


九条くんの真剣な瞳と目が合い、恥ずかしくて死にそうなのに、どうしてか目が離せない。



「…好きだ。俺は、玲のことが好きだよ」


九条くんの言葉が真っ直ぐ届いて、胸がギュッとなる。


好きな人に好きって言われるのってこんなに嬉しいんだ……。


私が好きって言ったら、九条くんも嬉しいのかな…?



……もしそうだとしたら、喜んで欲しいな……。



「わ、私も……好きっ」


本当に小さな声だったし、言った瞬間すぐに目線を逸らしちゃったし……。


九条くんに本当に届いたかどうかは分からない。


どんな反応をされるのかとドキドキしながら待っていれば……

数秒経ってもなんの反応もない。



「く、九条くん?」



やっぱり聞こえなかったのかなと思い顔を上げた瞬間、ギュッと力強く抱きしめられる。



「……っ」


突然のことに声にならない声が出る。



「今……好きって言った?」


「え……うん」


さっきまで言わそうとしていたのに、何でそんなことを言うんだろう?


「…付き合って、玲」


…付き合う?


それって……恋人ってこと、だよね?



「…うん」


頷けば、九条くんは私の体を離し、顔を覗き込んできた。


その顔が嬉しそうに綻んでいて、私まで嬉しくなってしまう。



「やべー。マジ嬉しい」


そう言い終わるのと同時に、九条くんの顔が近づいてきて、チュッと一瞬唇が重なったと思えば、すぐに離れた。



「……今っ」


口元を手で覆えば、九条くんはニヤッと笑った。


今……キスされたよね?


ファーストキス……。



心臓が早く動き過ぎてどうにかなるんじゃないかと思っている私を、九条くんは優しく包み込んだ。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――




付き合い初めて1週間。


未だに私は、学校には行けずにいるが、家庭教師に来てもらい勉強を教えてもらっている。



そして相変わらず、九条くんは毎日家に来てくれる。



「あ、そう言えば、聞きたかったことがあるんだけど…」


今日も私の部屋で変哲もない会話をしている途中、ずっと気になっていたことを思い出した私は口を開いた。


「ん?なに?」


「なんでパーティー会場で会った時、付き合おうなんて言ったの?」


私がそう言えば、机を挟んで目の前に座っていた九条くんは、サッと目を逸らした。


「……あぁ…それは……」


言いづらい内容なのか、なかなか話そうとしない九条くん。



もしかして…お金目的とか……?


その可能性だってゼロじゃない……。



「勘違いしてるかもしれないから言っておくけど、玲が思ってるようなことじゃないから。逆に、玲には一生思いつかない理由だから……」


私の心を読んだように否定してくれてホッとしたけど、じゃあどうして?


それに私が一生思いつかない理由って……?



九条くんの事をじっと見ていると、観念したかのように口を開いた。




「実は、ずっと玲のこと気になってたんだ。もちろん、西園寺家の娘だなんて知らなかったけど、玲のことを見かけると、いつも目で追ってた…。付き合ってほしいって言ったのは、俺しか知らない玲を独り占めしたかったから…。今考えるとマジきもいけど……」



ずっと気になってた……?


だから、パーティーで会った時も私の名前を知ってたんだ……。


九条くんは、自嘲気味に笑った。



「…そんなことない。あの時、あの場にいたのが九条くんで良かったし、付き合おうって言ってくれなかったら、九条くんのこと好きになれなかったから…。だから、ありがとう……」



そう言えば、急に立ち上がった彼は、私の事を後ろから抱きしめた。



「あ―マジ、玲のこと好きだわ」



耳元で囁くように言われた言葉に、胸がドキッと大きく音をたてる。



「……私も…好き」


私の言葉が届いたのか、九条くんは私のお腹に回した腕に力をこめる。



苦しいくらいの力だけど、優しくて温かくて……。




西園寺家の娘だからと青春を奪われ続けた私に、神様が与えてくれた存在。


それが……九条くん。


彼がいてくれれば、どんなことだって乗り越えられるような気がする―――……。




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