おかあさんの昔話 10
どこまで本当かわからない話。
終戦後の、母がまだ娘だった頃のこと。
近くに住むおじさん(血縁者ではない)の話を聞いていて、驚いた。
「名古屋駅で自衛隊に誘拐された」というのだから、それはもう驚くだろう。この話を聞いたわたしも驚いた。
当時、日雇いなり紹介なりの仕事を求めて人づてに各地から集まる土地がいくつかあった。そのうちのひとつが名古屋駅であったわけだが。
今でいう勧誘があったわけだな、自衛隊の。しかし、今のように詳しい説明があるわけでなし、仕事がもらえるならとひとまずついて行ったら、大変な目に遭ったのだとか。
遠くへ連れ去られ、まずは基本訓練から。
「今でも最初は山口県の基地で匍匐前進とかの基礎訓練からだっけ」
「え、そうなの? なんで知ってるの?」
「受けたやん、自衛隊」保護者権限で入隊阻止されたけど。
当時の入隊時にどこで基礎訓練を受けていたのかは定かではないが、その後おじさんは自分の身に何が起きているかよくわからないうちに、遠方へ行くことになったのだとか。
「中国で豚を追いかけていた」
うん?
日本の中国地方かと思いながら話を聞いていると、どうにも要領を得ない。
海の向こう、中国のことだった。どーやって入国したんだ?
豚を追うことにどのような意味があったのかは話を聞いても全くわからないのだが、おじさん本人もなんの意味があってこんなことをしているのかさっぱりわからなかったそうだ。ひたすら豚を追い立てる日々。飽きそう。
スパイの適性をみていたとか、スパイの養成をしていたとか、諸説あるらしい。諸説なのに全部スパイなのはなぜだ。
実際、似たような時期にこのおじさんと同様の経験をした人が、ちらほらといたという。
なにやってんの、(当時の)自衛隊。
その後、おじさんは日本に帰されたということで「俺にはスパイの適性がなかったんだろうなあ」と笑い飛ばしていたそうなのだが。
問題はここからだった。
恋愛かお見合いかは不明だが、とにかくおじさんが結婚することとなり。役所へ届出をしに行ったところ、おじさんの戸籍がないことが判明した。
「は?」
中国へ送り込まれた際に、なにをどうしたのかは不明だが、自衛隊によっておじさんの戸籍が抹消されていたのだとか。
日本に存在しない人になっちゃったよ、おじさん。
どういうことかと自衛隊に問い合わせたところ「自分で何とかしてくれ」と、とんでもない返答がきた。詳しくは聞けなかったそうだが、あれやこれやと非常にめんどくさい手続きを経てどうにか戸籍を復活させることができ、おじさんは無事に結婚することができたのだそうだ。
なにやってんの、(当時の)自衛隊。
いったいどれくらいの人が、このおじさんのように戸籍を消されてしまったのだろうか。
自分の戸籍がなくなっていることを知らずに生きていくことはできたのだろうか。
今じゃ不可能だろうなあ……、と思ったのだった。
わたしは顔も名前も知らない、縁もゆかりもないおじさんの、不思議な話。
聞いたのが戦後ってだけで、もしかしたら戦前、戦中の話だったのかもしれない。
なんにしても当事者には甚だ迷惑な話である。人の戸籍を勝手に消すんじゃない。




