目から鱗な坊主の説教
その問い合わせを受けたとき、たまたま所用で目と鼻の先のところに訪れていたわたし。
これもなにかの巡り合わせかなとお受けすることにした、葬儀のお手伝い。
坊主と説教は切っても切れないものなだけに、久しぶりにお通夜の席で説法を拝聴する。
依頼は受付だったのだが、家族葬で人が少ないこともあり、斎場のかたの誘導によって列席することに。お念珠持っていって正解だったなあ……念のためにかばんに入れたつもりが。
「縁」とは不思議なもので。つながるものばかりではないということを、説法からあらためて認識しなおすこととなった。
人やもの、立場などと離れることを「縁が切れる」と表現することが多いが、この離れるということすら「縁」であると。
「『離れる』という縁」ということなのだという。
以前からなんとはなしに頭の中ではおぼろげに、そのように認識していたようにも思うが、縁切りという言葉に意識が縛られていたようにも思う。知らず頭がかたくなっていたようだ。
お坊さんのお話で「なるほどなあ」と思った自分に「あれ?」と思ったことで気がついた。いつの間に忘れていたのだろうか。
子どもの頃は親戚の法要へ列席していたからお坊さんのお話はよく聞いていたはずなのに、実はあまり覚えていなかったのだなと、反省することでもあった。
いつの間にか法要も欠席が増え、説法をうかがう機会もなくなり、日常に追われて、忘れてしまう。
「○○(法要に出席する地名)の説教坊主」は覚えているのに。ちょう失礼である。
生きることに意味や意義を見出ださなければならないこともない。
「今」を「毎日」を、一生懸命生きている。それがすべてであると。
たとえ無為に生きているように思えても、実は本人、一生懸命生きているのだよと。
過去の仏さんたちとの縁があって、自身が生まれ、先へ続いていく。
自身を「なにもしていない」「なにも産み出さない」と卑下することはないのだ。
たとえ自身に子どもがいなくたって、縁は続いていくものなのである。血縁ばかりが縁ではないからね。
あらためて、日常と宗教観は一体だなあと思いながら帰ることとなった。
今回のはっけん:祭壇のお花かお線香(あるいは双方)の何かに反応してお腹が大音量で鳴る。
お腹は空いていないのに、読経の合間を縫って鳴る。
退出したら治った。
以前はこんなことなかったんだけどな。
勘弁してくれ~~……。
喪主以外全員、お焼香の回数を違えるという謎現象がおきた。
導師の宗派はきちんと聞いておいてこれである。
自分ちの宗派のお作法がつい出てしまったものと思われる。
いい加減覚えようよと、自己嫌悪したのであった。
西は1回、東は2回。半世紀生きていて未だに覚えられない。
※この東西は日本の東西ではなく本山のことである。西本願寺か東本願寺か。




