鏡開かない
鏡開きの一月十一日は終日出掛けていたので、鏡開きをしていない。
そもそも鏡餅がなかったりする。置くところがなくて(作れよ
好物の餅が食べられなくなった僻みである。
雑煮も餅なしで、途中まではひとつの鍋で汁を作ったけれど、餅を入れる段になって自分の分だけ小鍋に取り分けするくらいには気を遣った。もち菜(小松菜の仲間で愛知・岐阜の伝統野菜)と餅を同時に入れるから、餅成分を避けたかったのだ。
なのに夕食で「雑煮の汁が美味しかったから」と根菜と豆腐をぶちこんで汁物にして食べたよね。午前の気遣いはいったい。
いつもより餅の溶け出しがなかったからかもしれない。あっても米はおナカが痛くなることが稀だから、気づかなかっただけかもしれない。
ざ・にぶちん☆
さて。
話は戻って、鏡開きである。鏡餅はないが、餅はある。
食べないけど。
しかし、ぜんざいは食べたい。
昨年は途中からあんこを炊くのをサボった結果、小豆が少々だぶついているのだ。使いかけの令和四年度産のものがいる。
といっても、購入したのは年明けの令和五年。十二月に新豆が売っていたことに気づいて手に取り、あんこにして食べたら美味しかったから年明けにまだ売場に残っているものをご機嫌で入手した残り。
令和五年度産の新豆も当然スタンバイしている。
食べ始めると早いからね、ストックだいじ。
そんなわけで、数日遅れのぜんざいデーを作り出すことにする。
古豆にしてしまったから、小豆に心の中でごめんなさいと唱えながら煮ていく。
新豆だと渋切りはそこまで気にしないけれど、さすがに今回は三回ほどすることにする。やり過ぎても旨味がなくなってしまうからよくないが。
渋切りとは、小豆の渋味と灰汁を除くためにたっぷりの湯で茹でこぼすことを指す。こんにゃくや里芋などの下茹でと同義と思ってもらえれば。
皮が多少かたくても、つぶあんだと気にならない不思議。黒豆だと妙に気になるのだが。小豆と大豆の差なの?
あとはこれまたたっぷりの湯でことことと、力を入れなくても指でつぶせるようになるまで小豆を煮て、湯で汁が多すぎるなら捨てる。だいたいひたひたくらい。
砂糖を加えると、浸透圧で小豆から水分が出てくるから、水位が上がる。
砂糖はレシピによって扱いが変わるが、数回に分けて入れながら炊きあげていくと柔らかい仕上がりになる。全量をいっぺんに加えてかたい粒になったのは笑い話である。家族が忘れなければ一生言われるな。
あとは好みで塩を少し加え、少し早いかなというタイミングで火からおろしたら、つぶあんのできあがり。
今回の砂糖は四分の一を黒糖にしてコクを出してみた。全部黒糖にすると色は黒くなるし、味も黒糖になるし、ミネラルのせいかくどくなるし。そこは好みの問題でもあるけれど。
途中(砂糖を全量加えたあと)で、ぜんざいにする分を取り分ける。
水分を足すなり好みの濃度にして器に盛り、焼いた餅や茹でた白玉団子などを加える。わたしはどちらも拒否してあんこ部だけ食べるけど。
家族には餅を焼いて入れたよ。
くっ、くやしいな。
煮てすぐのあんこは味が馴染んでいないから、あんこというよりまだ小豆なのだが、これはこれで好きなのである。出来立てしか食べられない味でもあるから、手作りの醍醐味かもしれない。
ちなみにこしあんは真面目に作ると大変だから、粉末あんを買ってきて砂糖を加えて煮ることにしている。和菓子職人は無条件で尊敬対象である。
 




