おかあさんの昔話 5
母が育った家の近くに、養母のお母さん(おばあさん)の家があった。
養母は家事をしない人だったようで、おばあさんがごはんを作ってくれたりしていたそうな。育ってから(中学以降)は母が家事をしていた。
そのおばあさん、藁草履作りがとても上手な人で、いつも家に大量の藁草履があったそうだ。そしてそれは近くの商店で売られていた。
「今思うとそんなはずないのだけれど」と当時を思い返しながら苦笑いするから訊いてみれば。
おばあさんはその藁草履の売上で生計を立てていた、と思っていたと言う。
うん、常日頃から見ていたらわからんでもない。
「でもよくよく考えてみれば、藁草履の値段で暮らせるだけ稼ぐって、どれだけ作らないといけないのかと、今思ったわ」
たしかに。日用品だよなあ、履き物。
おばあさんの生活費は、おそらく年金。戦争に行った息子さんがいたとのことだから、なんとなく察し。
強烈な性格の娘(たち)だけが残っちゃって、苦労したのだろうなあと、聞いているだけで思った。
「おばあさんは穏やかな人だったんだけどねえ……。」どうしてそうなった。
さて。
その藁草履、いろんなサイズのものを作っていたおばあさん。母のためには前坪(親指と人差し指で挟む部分)のところにきれいな色の布を巻いておいてくれたのだった。
「どっかから端切れを調達してきたのを、足がこすれて痛くならないようにって巻いてくれるの」
女の子だからきれいな色のがいいよねと、割と赤系統が多かったようだ。
ところが。
おろしたてのそれを履いて学校へ行くと、帰りに下駄箱に向かえば自分の履いてきた藁草履がない。代わりに、大人サイズですりきれたぼろぼろの藁草履が無造作に入れてある状態。
モノがない時代だから仕方ないとはいえ、これどうしろと。
「藁草履がないから帰れないって泣いてねえ(笑)。裸足で歩きたくなかったのよ。でもどうやって帰ったのか記憶にないんだわ。迎えに来てもらったのかなあ」
自分のものがなくなったら普通に泣くわ、子ども(小学校低学年)だし。しかも履き物。
まあ学齢進んでも続くのだけど。
するとおばあさん「藁草履なんか、おばあさんがどれだけでも作ってあげるから。藁草履が買えなくて、羨ましかったんだろうねえ」と、常に家に新品が十足以上ある状態を作り上げた。さすがだ。
あれか。制服とか常に洗い替えを常備しておく習慣はここがルーツなのか?
不思議なのは、そうやってなくなった藁草履をその後学校で見たことがないということ。布をはずして履いていたのか、きょうだいの多い時代だから他の人に強奪されて履けなかったのか。とにかく「なくなったそのまま」で再会することはなかったということだった。
さすがにそのままは履く強心臓ではないと思いたい。
今ならいそうだけど。
しばらく前に布草履が一部で流行ったようで、なにかのときにもらったものがあったからと室内で履いていたことがある(スリッパ的な使い方
わたしも布草履の作り方の本を持っている。作ったことないけど。なぜか防災用品と一緒にしてあるけど(いつ作る気だ
「やっぱり、こういうの気持ちいいけど、おばあさんの藁草履には敵わないなあ」
記憶に深く、深く刻み込まれている。
「作ってみたから」と渡したら、けちょんけちょんに評されそうだ。
だ、だから作らないわけではない。と思う。