ベッドサイドテーブルにある使い捨ての櫛
「間宮の話どう思う?」と隣にいる夫は聞いた。
「ひどく悲しい話よね」と妻は答えた。
深夜12時。夫婦はベッドに横になり、眠気が襲ってくるのを待っていた。
だが、夕方に間宮の話を聞いた後だと、眠気は遥か遠くにまで行ってしまったような気がしていた。
「幸せがいきなり奪い取られるんだ。いつも通りの生活をしていても、不幸が向こうからやって来る。それに避ける事ができない。そんな酷い話はない」と夫は言った。
「そうね.........。間宮くん、子供はいたかしら...?」と妻は聞いてきた。
「いや、確かまだ..いなかったと思う...」と夫は答えた。
「そう...」と妻は言った。
「けど、間宮の奥さんはどう思っ...いや、今どんな感じなんだろうな?」と夫は言った。
「...まだ現実を受け入れられないと思う...」と妻は言った。
「そうだなよ......。」
「うん...、あまりに辛い話よ...。」
そう言った後、夫婦は同じ暗い天井を見ていた。
この部屋には二人しかいないのだが、誰にも聞かれてはいけないように、とても小さな声で会話をしていた。
間宮浩正は自動車事故で死んだ。
その知らせを聞いたのは、今日の夕方だった。
友人から、その知らせを仕事帰りの夕方に電話で聞き、夫より遅い時間に帰宅した妻にその事を伝えた。
間宮が死んだのは今朝で、事故にあったのは2日前みたいだった。
2日前、間宮は遠方からの仕事帰り、会社の車で高速道路を運転している最中、反対車線から来た対向車と正面衝突したのだ。
線をはみ出したのは相手の車だった。
その事故の様子は悲惨なもので、両者の車は大きく変形し、知らせてくれた友人曰く、間宮が即死でない事が奇跡みたいだと言っていた。
一方、はみ出した対向車の運転手は頭を強く打ち即死で、遺体がある車内にはアルコールの臭いが漂っていたみたいだった。
だが、一命を取り留めた間宮の奇跡は長く続かなかった。
友人からの電話を切った後、夫は早速インターネットで調べ始めた。
地元の名前を打ち、交通事故と追加し、検索をした。
そして、軽くスクロールをし、その記事を見つけた。
地元のニュースで、その事故事態は大々的には取り上げられてはいなかった。
夫婦は東京に住んでおり、地元から離れてしばらく経っていた。
夫婦は同じ地方出身であり、元は高校の同級生だった。
そして、間宮と夫婦の関係も高校の同級生であり、高校3年生の時、一緒につるんでいた仲間だった。
当時、つるんでいた仲間は男3人と女2人だった。
しかし、間宮と夫婦は高校を卒業してから、成人式を最後に会ってはいなかった。
あんなに一緒の時を過ごし、育んだ友情は一体何だったんだろう?と思ってしまうほどのものだった。
お互いに避けていたわけではなかったが、偶然のすれ違いが起きていたのだ。
そして夫婦は今、ともに32歳だった。勿論、間宮も同じ年齢なのだ。
「もう12年も会ってなかったよな。間宮とは...」と夫は枕の位置を直しながら言った。
「そうね。あっという間ね。12年なんて...。」
「うん。あっという間だ。信じられないよ」
「もう会えないんだしね...。」と妻は言った。とても弱弱しい声だった。
「...昔5人でよくつるんでたよな」
「うん...」
「どんな思い出がある?高校の時?」と夫は聞いた。
夫婦は結婚して3年、付き合ってからを含めると、7年経っていた。
夫婦は25歳の時、同窓会で再会し、付き合い始め、結婚したのだ。
それは夫婦が唯一出た同窓会であり、間宮が唯一参加していなかった同窓会でもあった。
今まで夫婦間で高校の思い出を語り合う事はそんなに多くはなかった。
したとしても、上っ面の話だけだった。
そうなる理由は、10代特有の複雑な人間模様がそこにあったからだ。
静まり返った深夜、夫婦は当時の人間模様を少し思い出す事にした。
「高校の思い出は...あんまりないかな...」と妻は言った。
「...そんな訳ないでしょ?」と夫は小さく笑いながら言った。
「結構、忘れたのは本当...。大学の方が記憶がある」
「そうなの?あんなに一緒に過ごしたのに」
「...うん」
「...なぁ、間宮はなっちゃんの事が好きだったんだよ。知ってた?」と夫は妻に言った。
なっちゃんとは隣にいる妻の事だ。
そして、その言葉は寝室に少しの沈黙をもたらした。
「...うん。知ってた」と妻は言った。
妻がそう告白するのは、初めてかもしれない。
二人ともその話を知っていたと思うが、今までわざわざ持ち出して話す事まではしなかった。
「だよな。知ってたと思っていたよ。噂もあったしな」と夫は言った。
「...うん。...間宮くんから告白された事もあったから」と妻は言った。
「えっ、そうなの?!」と夫は小声ながらも、ほんの少しだけ身を浮かし、驚いた様子で言った。
間宮のなっちゃんへの告白については何も知らなかったのだ。
「うん」
「はじめて聞いたよ、それ」
「...うん。はじめて言ったから」
「で、なんて言ったの?いつ?どこで?」と夫は妻に執拗に聞いた。
「断ったけど、いつかは忘れた。至って普通の日だったから」
「じゃあ、どこで?」と夫は妻から聞いていない答えを聞きたかった。
「メールよ」と妻は言った。
「そうなんだね...。間宮、意外だな...行動に移したんだな...。他に誰か知ってる人いるの?告白の話を」
「いや...多分、誰も知らないと思う」と妻は言った。
「そうか...。俺も知らないぐらいだもんな。......なんて言われたの?」
「まぁ、もういいじゃない」と妻ははぐらかした。
「自分から言っておいて、それはないだろ」と夫は冗談っぽく言った。最初に話を切り出したのは自分だという事はどうでも良かった。
妻が口を開く前に、遠くの方からバイクが大きな音を立てて、真夜中の街中を走り去っていくエンジン音が部屋の中に入り込んできた。
「...好きです。付き合ってください。とか普通の告白よ」と妻は投げやり気味にそう言った。
「そうなんだね。まさか、告白までしてたとは思わなかったよ。間宮、おれに何も相談しないで...」と夫は言った。
「そんなもんよ。10代なんて...。あなたも、まりあと付き合ってたじゃない?」と妻は言った。
まりあという人物は高校時代、なっちゃんと高2年生の時に仲が良かった女の子の事だ。
妻のその発言に、夫は何も言えなかった。そこを突かれるのも初めての事だったからだ。
「まぁ...昔の事だからな...」と夫は言った。
「ほら、あなたもはぐらかすじゃない」と妻は言った。
夫にとって、まりあという人物は、初めてできた彼女であり、初めてキスをした相手だった。
勿論、そんな事は一切、妻に言うつもりはなかった。
そして、妻はまりあとおれの話をどこまで知っているのだろうかと、夫は思った。
だが、妻はそれ以上、何も聞いては来なかった。
その代わりに、
「ねぇ、もし私が明日突然いなくなったとしたらどうする?」と妻は聞いてきた。
「...いや、そんな事、今は考えられないよ」と夫は言った。
「けど、どうする?」と妻は再び聞いてきた。
「う~ん、そんなこと...あり得なさそうだから」
「けど...、間宮くんの場合も同じ事だったと思うわ」
「...まぁ...うん、そうだけど...」
「私ね、さっきお風呂に入っている時に考えてたの」と妻は言った。
「もし明日、あなたがいなくなったとしたらって...」と妻は夫の方を向く為に寝返りを打ち、枕を正した。
「もし、あなたがいなくなったとしたら、その日の朝、あなたが使ったままのコップや床に落ちているあなた髪の毛、使い捨てのティッシュ、そんなものを洗ったり、捨てれなくなると思ったの」と妻は言った。
「...そんなの、大袈裟だよ」と夫は鼻で笑ってから言った。
「いや、全然大袈裟じゃないわよ」と妻は小声の中で語尾を強め言った。
「普段なら何の気もなしに捨てているものでさえ、状況が変われば、ガラッと価値が変わるのよ。そこに意味が生まれるのよ。それらはあなたのもの、あなたが使っていたものだったって、意味がつくの」
「なんか、怖い話だな」と夫は言った。
「...うん。そうかもしれない...。けど、本心なのよ...。もし、明日私がいなくなったとしたら、」と妻は言い、ベッドからサイドテーブルに手を伸ばし、何かを掴んだ。
「これ捨てる?」と妻はそのものを夫に見せながら、聞いてきた。
妻の手には、ホテルに泊まるともらえるアメニティの使い捨ての櫛があった。
それは薄暗い部屋でもよく見えていた。
とても簡素な作りの櫛だ。妻が時々使っているのは知っていたし、いつまでそれを使っているんだとも思っていた。
「いや...、どうだろうね」と夫は言った。
「私がいなくなったら、この櫛が私の記憶を呼び起こすと思うの。ここに座って、髪を梳いていた姿を」
「そう言われたら、捨てれなくなるな」と夫は言った。
「ものが呼び起こす記憶はあるの。そう考えると、とても怖いのよ。気づかないだけで、思い出に囲まれて生きているから」
夫婦は目を合わした。
「うん、そうだね。普段、忘れているか、意識していないだけでね」と夫は言った。
「うん。だから...、間宮くんの奥さんの今の気持ちが..なんとなくだけど、わかる気がするの...」と言い、「私だったら、耐えれるか、不安なの...」と続けて妻は言った。
「気持ちはわかるよ。けど、おれもなっちゃんも今ここにいるから、大丈夫だって」と夫は言った。
「...変な話してごめんね...」と妻は言った。
「大丈夫。もう寝よう」
「うん...。...明日、この櫛、捨てるわ」と妻は言った。
「なんで?」と夫は聞いた。
「さっきの話で、さらに記憶が濃くなったからよ」と妻は言った。
「大袈裟だよ」と夫は小さく笑い、「なっちゃんの好きなようにすればいいよ。おやすみ」と言った。
「うん。おやすみなさい」
夫はおやすみと言ったものの、数秒後には、
「...けど、今夜は眠れそうにないよ。完全に頭が冴えているんだ」と言った。
「私もよ」と妻は言った。
そして、夫婦は毛布の下で、自然に手を取り合った。
今度は遠くの方から救急車のサイレンが聞こえてきた。
ここがとても静かな夜だとしても、
世界が完全な沈黙をする事はないのだという事を、
夫婦共に、声に出さずとも頭の中で感じていた。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
暗い話ですが。
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