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月曜日の朝、桐生は三樹へのお土産をカバンに忍ばせて出勤した。彼女は、桐生が友人とともに温泉旅行に行ったのだと信じているのだ。ドライブ旅行の忙しい中、彼女のために、わざわざお土産を買ったとなれば、きっと泣くほど喜ぶだろう。アンテナショップで買ったとは夢にも思わないはずだ。
(こういうのは早い方が良い……。いつ渡すか……)
オフィスに入ると、すぐに三樹の姿は見つけられた。彼女は自分のデスクにいて、その側では東北沢と水沢のふたりが何か真剣な顔で言い合っている。三樹は、困ったような笑みを浮かべて、ふたりをなだめているようにも見える。桐生は舌打ちをしたくなる気持ちを、なんとか飲み込み、いつもの笑顔をつくった。
「おはよう!」
桐生が声をかけると、3人は会話をやめて振り返った。三樹の表情が、花開くように明るくなるのが分かった。可愛いものだと桐生は微笑み返す。
「おはようございますぅ!」
水沢が鼻にかかった声を上げて、ぱたぱたと走り寄ってきた。
「聞いてください!ヒガシ先輩がパワハラしてくるんですぅ!」
「ちょっと待ってよ!先に言ってきたのはそっちだろ?」
東北沢まで、桐生の側に走り寄ってきた。
「違うんですよ!水沢さんが埼玉には百貨店がないでしょって言うから……」
「えー?埼玉にあるんですか?」
「だから、さっきから、あるって言ってるだろ!そごうとか、高島屋とか……!」
(しょうもな!)
桐生は天を仰ぎたくなった。このバカみたいなやり取りに、三樹は月曜日の朝から付き合わされていたらしい。そう思って三樹の方を見ると、彼女はびっくりしたように目を見開いた。そうかと思えば、頬を真っ赤にして、慌てて目を逸らしている。この期に及んで、まだそのような初心な反応をするのが、桐生には面白くて仕方がなかった。次のステージに進んだら、彼女はどんな顔を見せてくれるのだろう。
そうこうしているうちに、朝礼が始まってしまった。三樹にお土産を渡す隙がないまま、いつもの月曜日の仕事が始まっていく。桐生が自分のデスクに戻るや、目の前の固定電話が鳴った。桐生が受話器をとって名乗ると、
「おはようございますぅ」
と、可愛らしい声が言った。
「あ、おはよう」
桐生も爽やかに答える。
「桐生さんあてに、お客様がいらっしゃってます」
「お客?用件は聞いた?」
「それが、約束しているので、お会いしたら分かりますということで……」
「約束?してたっけな。ちなみに、どんな人?」
「お若い女性の方がお二人です……」
「わかった、とりあえず行くよ」
「はい、そのようにお伝えいたします」
(若い女性なら大歓迎)
桐生は急ぎ足でエレベーターに乗った。シャツやネクタイに乱れがないかを確かめ、さっとヘアスタイルも整える。
(どうせ、保険の勧誘か何かだろうけど、お茶ぐらいは……)
桐生は颯爽と受付に現れた。彼の姿に気が付いた受付の女性が、にっこりと満開の笑顔になった。長い黒髪をアップにした、はっきりとした顔立ちの美人である。頬が艶めいて、瞳も輝いていた。桐生もにっこりと笑顔で返し、受付に少し乗り出して聞いた。
「お客様は?」
「あちらです」
振り返ると、見慣れない女性が二人立っていた。いや、ひとりはどこかで見たことがあるような気がする。桐生は、記憶の中のリストを引っ張り出して、大急ぎでページをめくった。
そうだ、池袋の劇場でぶつかった魅力的な女の子だ。桐生が落としたパスケースを拾ってくれたのも、きっと彼女だろう。入れておいた名刺が1枚減っていたのが気になったが、そうか彼女が持って帰ったのか。こうして、さっそく翌日に会いに来るとは、なんという積極的な攻めの姿勢。
(あの時は妻が一緒だったから、話をする暇もなくて惜しいことをしたと思っていたけど、生保レディだったのかな……)
「お待たせしました」
と、笑顔で挨拶をすると、向こうも笑顔で応えた。観劇用のおめかししたスタイルも魅力的だったが、オフィスカジュアルで目の前に立っている彼女も、また雰囲気が変わって素敵だった。隣に立っている背の高い女性は、正反対にクールでとっつきにくい印象がある。ふたりでペアを組んでいるのだとしたら、でこぼこな印象だった。
「ご用件は何でしょうか」
桐生が聞くと、
「率直に申し上げます。あなたが急に人事異動になった本当の理由と関係した話です」
と、クール系が言った。もちろん、和泉である。桐生は表情を曇らせる。
「何のことでしょうか」
「ここで、具体的に申し上げた方がよろしいのでしょうか」
和泉の声が大きくなる。
「こちらの部署に異動する前にご関係のあった……」
「ちょ、ちょっと……!」
桐生が両手を広げて、目を見開いた。
「急に大声を出さないでください」
周囲を見渡すが、この3人を気にして見ている人はいないようだった。ただ、受付の女性とは目が合ったので、笑顔で軽く会釈を交わした。
「ビックリするじゃないですか」
桐生が視線を和泉に戻して抗議すると、和泉は口元を少しだけ持ち上げた。
「それなのに、あなたという人は、ちっとも凝りておられない」
和泉がにらみを利かせる。桐生は、隣に立っている魅惑的な女性(もちろん、さくらだ)を見た。そして、彼女とは、まだ何も始まっていないと思った。それだけではない。現時点で、誰かにとやかく言われなければいけないような関係を持っている相手はいなかった。
「おかしなことを仰る人だ。懲りずに、僕が何をしたと仰るんです?」
と、桐生が澄まして答える。
「言っても分からないようです」
和泉が言うと、隣ですでに変身完了したOLさくらが頷いた。
「もう!恋愛体質のダメなイケメンには、お仕置きしなくちゃね!」
さくらが両手をピストルの形にして、胸の前でフレームの形にした。いつになく怖い顔で叫ぶ。
「期限切れ定期☆ハイパー!」
すると、静かだったロビーが消え、桐生の周囲に、殺人的に混み合った通勤ラッシュ時の駅の構内が現れた。まるで、近隣の駅で重大なトラブルがあって、振り替え輸送が発生したみたいな、尋常ではない混み具合である。たくさんの人が移動する、あの落ち着かない空気と、騒々しさが桐生を包み込んだ。
(何が、どうなった?)
さすがの桐生も、すっかりうろたえてしまった。その肩に、無遠慮にぶつかっていく人物がいる。いわゆる「ぶつかりオジサン」だった。
「ジャマ!」
後ろから誰かの声がしたが、桐生は人波の真っただ中から逃げ出すことができない。
桐生は、いつの間にか、手にパスケースを持っていることに気が付いた。とにかく、これで改札を通るしかないようだ。押し寄せる人の波に押されるようにして、桐生は改札に向かった。腑に落ちなかったが仕方がない。
桐生が定期券を改札にかざした。その瞬間――。
「ピンポン!」
ものすごい勢いでフラップドアが閉まり、急に足止めをくらった桐生は前のめりになった。
目の前にデジタルの文字が表示される。
「恋愛体質男が、通勤ラッシュ時の改札に引っかかった!」
(恋愛体質男……僕が?)
無情な女の声が響き渡った。
「この定期券は期限切れです!」
目の前に「桐生(恋愛体質男)」と書かれたデジタル文字が表示される。そして、何やら横向きの棒グラフのようなもの。今は「MAX」と表示されていた。ロールプレイングゲームの画面表示で見たことがあるような世界だった。
いきなり、桐生の背中に、勢いよくぶつかって来たものがいる。聞こえよがしの舌打ちをして、「何してんだ」と不機嫌そうにつぶやいた声から推測するに、いい年をしたオジサンらしかった。桐生はフラップドアとオジサンのサンドイッチになった不快な痛みと、どうしようもない恥ずかしさを覚えた。
すると、不思議なことに、先ほど表示されたグラフのようなものが、少し短くなったようだった。気のせいだろうか?などと考えていた時だ。
どこからともなく、怪しげなBGMが流れてきた。
「ストレス課長が現れた」
ストレス課長の攻撃力は8。
桐生の目の前に、もわもわとした光が出現し、その中から、眉間に深いシワをきざんだ神経質そうなやせ形のサラリーマンが現れた。背の高い桐生からは、そのサラリーマンの頭頂が薄くなり、地肌が透けているのが見えた。額から頭皮にかけて、テカテカと光っている。
彼こそが「ストレス課長」だった。
「『ストレス課長』とは、社内では上司からぎゅうぎゅうに押さえつけられ、言い訳ばかりで動かない部下からぐいぐいと足を引っ張られ、家庭では掃除をする妻に追い立てられ、年頃の娘からは邪険にされ、ストレスを満タンにため込んだ中年の中間管理職である」
デジタル文字の説明が現れ、桐生は一瞬、哀愁を感じてしまった。
「ちっとも口を利いてくれない娘が、久しぶりに何か話しかけてきたと思ったら、
『お父さんマジ臭い。ねぇ、お母さぁん!お父さんの洗濯物と一緒に洗わないでって言ってるじゃん!』
という内容だった」
つまり、その日頃のストレスを、「期限切れ定期」の技を受けた相手に向かって、全身全霊でぶつけてくる、という設定のキャラクターである。
そんなストレス課長だったが、桐生が引っかかっている改札にズカズカとやってきて、手にしたICカードをタッチした。もちろん、反応するはずがない。
すると、もう一度タッチした。反応するはずもないのに。
さらに力を強めてタッチした。
死んだ魚のような目をして、定期を何回もバンバンと改札に叩きつけ続ける。怖い。でも、桐生はフラップドアに阻まれて逃げられない。
そのうちに、
「なんだ、こんな忙しいときにジャマなんだよ。チャージぐらいしとけよ、ガキじゃあるまい。いい年して情けねぇなぁ……」
などと、ネチネチ言い出した。
「な、その言い方はなんだよ!失礼じゃないか!」
一方のストレス課長は、桐生の言葉にまったく動じない。それどころか、じっとりと陰湿な目で睨み返してきた。目から暗黒の鈍い光線が出て、周囲の覇気を吸い取ってしまいそうだ。
桐生の前にあったライフ表示が、今、明らかに短くなった。
「恋愛体質男が、恐怖ダメージを受けた」
恋愛体質男のライフが8減った。
「恋愛体質男がプライドを傷つけられた」
恋愛体質男のライフが8減った。
(なんなんだよ、これは……)
桐生がイラつき、さらにライフが少し減った。改札からは出られないし、どうしろって言うのだ。
その時だった。
さらに、おどろおどろしいBGMが流れ始めた。その中に、なんとなく聞いたことのあるメロディが含まれている。有名なクラシック音楽で、この曲が好きだと言っていた人物がひとり、桐生の脳裏に浮かびあがる。なんだか、いやな緊張感が漂い、桐生は思わず唾を飲み込んだ。
直後、目の前に表示された言葉に、桐生は言葉をなくした。彼の予感は的中したのだ。
「恋愛体質男の妻が現れた」
妻の攻撃力は無限大。
(無限大?怖っ!いやでも、実際そうかも……!)
すると、桐生が引っかかっている改札の目の前に、軽やかな足取りで妻が現れた。どこかに行こうとして、改札に引っかかっている夫の存在に気が付いたらしい。心なしか、彼女の表情が曇ったような気がした。
桐生の妻は、昨日、劇場に行った時と同じワンピースを着て、美しく完ぺきなメイクを施してあった。そのワンピースは、新宿の百貨店で購入したと言っていたものだ。つまり、どこかに出かける時の「よそ行き」だった。桐生は胸騒ぎを覚えた。
「珍しいね。そんなところで何してるの?」
桐生が微笑んで声をかけるが、桐生の妻は何も言わない。
ただ、改札に引っかかっている夫を、冷やかな目で見つめている。桐生が急に人事異動になった時にも、ほんの一瞬、こんな目をしたのを桐生は見逃さなかった。桐生は、気が付かなかった振りをしたが、彼女のこういう表情が得意ではなかった。
心の奥底で、軽蔑し、諦めている目――。彼女はどこまで把握しているのだろう。
桐生の背中に冷や汗が流れてきた。
「恋愛体質男がプレッシャーダメージを受けた」
恋愛体質男のライフが8減った。
さらに、畳み掛けるようにしてBGMが流れた。桐生は心臓がつぶれそうになった。次はいったい何が出てくるというのだろう。そう思った矢先、こちらも何か聞き覚えのあるメロディが顔を出す。流行のアイドルソングだと気が付いた時には、この曲の振り付けを練習している愛しい顔が思い浮かんだ。そして、案の定――。
「恋愛体質男の娘が現れた」
娘の攻撃力は宇宙規模。
(確かに!仰る通りに宇宙規模ですよ……)
桐生は泣きたくなった。目の中に入れても痛くないほどに可愛い娘。彼女の言動は、妻のそれとは違う意味で重い。
娘は、母の隣に寄り添った。ご近所がうらやむ、美人親子である。娘は母の顔を見、それから父の姿を見た。彼女も、口を真一文字に結んだまま、何も言わない。気のせいか、その瞳に涙が浮かんでいるように見えた。
(どうして――)
桐生は息をのむ。まさか、彼女たちは知ってしまった?その可能性が、特に娘の涙が、桐生の胸をしめつけた。
桐生のライフが、また少し減った。
(そんな、まさか……)
桐生は脂汗をかきながら、救いを求めるように妻を見た。妻は、すっと桐生から視線を外した。あなたに差し伸べる救いの手はない、そういう態度だった。
妻が口を開いた。桐生に向かってではない。娘に向かってだった。それはまるでスローモーションのように見えた。
聞きなれた妻の声が、桐生の耳の鼓膜に強く響いた。
「ねえ、ママとパパ、どっちかと暮らすことになったら、どっちが良い?」
娘の表情が、目が、揺らぐ。
「やめてくれ!」
桐生は必死になって叫んだ。
「僕の天使に、そんな残酷なことを言わせないでくれ!」
だが、彼の言葉は彼女たちに聞こえていないようだった。何の反応も示さない。まったくの無視だ。
桐生は惨めな気持ちになって涙ぐんだ。
やがて、娘が、母に向かって口を開いた。
「ママ、わたしね……」
「やめてくれ!その先は、言わないでくれぇ!」
桐生は喉がつぶれるほどに声をふりしぼって叫んだ。
目の前に表示されていたライフが、加速したように減っていく。桐生のダメージの種類を解説する言葉も、次々に現れて消えていく。ものすごいスピードだ。
これが、無限大の攻撃力を持つ妻と、宇宙規模の計り知れない威力を持つ娘との合わせ技だった。
恋愛体質男のライフがゼロになった。それと同時に、喧噪に包まれた駅の風景は消え去った。でも、まだ完全に会社のロビーに戻って来てはいなかった。
「恋愛体質男!」
鋭い声が響き、桐生はのろのろと声のする方を見た。うすいピンク色のコスチュームを着た女性と、オレンジ色のパンツスタイルの女性が、背中合わせのポーズで立って桐生を睨んでいる。
「すぐに、町田さんから離れなさい!これ以上、彼女にちょっかいを出すことは許しません!」
OLオレンジが声高に言った。
「さもなくば、可愛いお嬢さんのセリフの続きを、リアルに聞く羽目になりますよ!」
その手に、何やらカードのようなものがきらめいている。
桐生が力をふりしぼって何かを言い返そうとすると、OLオレンジが素早いモーションでそれを放った。カードは鋭い風切音とともに桐生の目の前をかすめた。足元に髪がパラパラと落ちる。
「ひっ」
と、桐生が息をのんだ。
「今度は、その自慢のお顔に傷をつけることもできますよ」
桐生は「やめて!」と叫んで、その場にへたり込んだ。自慢の顔に傷をつけられるのは、彼にとって耐えられることではなかった。
「確認になりますが」と、OLオレンジは眼鏡をなおしながら冷淡に言った。「今後いっさい、町田さんにちょっかいを出さないで頂きます。懲りずに彼女を泣かせるようなことをしたら、もっとひどい目にあいますよ」
「そのときは手加減しないから!」
かわりばんこに、レンジャーのふたりが言い募る。
「そのときには、もっと具体的にあなたの人生に傷がつくこともしかねません」
OLオレンジがすごんだ。
「え……?」
桐生は怯えるような目でOLオレンジを見た。
「実は私、友人はそれほど多くないんですが、特殊な仕事についてまして。ひとりは弁護士、もう1人は探偵なんですよ。そういう訳で、こちらには、いつでも具体的に動ける準備は整っているということ、お忘れなく」
その表情は、嘘を言っているようには見えない。
「分かりました……」
桐生は、すっかり青ざめて、弱々しく言った。そこへ、OLオレンジが、具体的な指示を耳打ちする。三樹にこう言って、もう二度と二人きりで会うことはないと伝えろ、と。
「ちゃんとお芝居できるかどうか、みてるからね!」
OLさくらがポーズをとって言う。その隣に、OLオレンジも大急ぎで戻り、ポーズを決めた。
「分かりました!」
桐生が言うと、二人の姿は消えた。桐生もロビーに戻っていた。
「桐生さん、大丈夫ですか?お客様はもうお帰りになったんですか?」
受付の女の子が言う。きれいな彼女の顔が、今はちがって見える。桐生は真っ青な顔のまま、彼女に向かって言った。
「ごめん!やっぱりムリだ!この間の約束、なかったことにしてください!」
「は?」
受付嬢が驚き、みるみるうちに般若のような表情になった。桐生はぞっとした。
桐生は震えあがって自分の部署に駆け戻った。レンジャーの声が耳の奥に残っている。何があるか分かったものではない。
桐生が突然に別れを切り出した訳……。
それは、OLレンジャー仲間の三樹を助けるための作戦だった!
そうと知らない三樹の明日はどうなる!?




