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「それ、ほんとうですか?」
和泉の声にも、わずかに力が入っていた。
「ほんとだよ。だって、その名刺、こっそり一枚もらってきたから」
と、名刺を指でもてあそびながら、さくらが答える。マジメそうなのは名前だけだな……などと考えながら。
「え?勝手にもらってきたんですか?」
和泉の声に、さくらは一瞬ひるんだ。
「大丈夫だよ!だって、ほら仕事用の名刺だよ?もともと、人にあげるために持ってたんだから!」
「いや、そういう問題ではないと思いますが……」
「だって、もう、貰っちゃったし!」
「ですよね……。でもまあ、今回のような状況では、証拠としていただいておいたということで。それも正しい判断だったのではないかと思いますが……」
「さすがに、パスケースを持ってくるのはまずいから、劇場の人に渡してきちゃったけど……」
さくらは、しばらく名刺をつついていたが、ふと思い出して手を止めた。
「ねえ、いずみん。このことさ、三樹ちゃん知ってたのかな?」
「彼氏さんが、既婚者だということですか?」
「うん……」
さくらの声のトーンが下がる。
さすがに、いつものようなご機嫌なテンションではいかないらしい。和泉も、こういう状況というのは、どちらかというと苦手な部類だった。三樹が、桐生という男と、どこまで進んでいるのかは分からない。分からないけれど、三樹という人物のこれまでの行動や、行動をともにしてきた自分の直感を、いったん信じてみることにした。
「ね」と、さくらが言い、
「おそらく」と、和泉が言った。同時だった。
「先にどうぞ」
和泉が言う。
「ううん。あたしのは大したことじゃないから、いずみん、先に言って」
さくらが譲る。和泉は少し考えるような間をおいてから、
「おそらく、知らないんだと思います」
と、低いトーンで言った。
「三樹さんは、なんというか、ツメの甘いところがありますから。それに、少々舞い上がっていたようですし」
「うん、そうだね。三樹ちゃんって、しっかりしているようで、どこか天然っていうか……。それに、少々じゃなかったよ。だいぶ、舞い上がってたから」
ふたりして言うことが厳しい。
「たぶん、三樹さんの中で、指輪をしていないイコール独身だったんでしょう。それに、今回の彼氏のようなタイプの男性でしたら、どちらかというと、既婚であることを、なるべく相手に気が付かれないようにふるまうでしょうし」
「いずみん、なんだか詳しいね」
「いえ、私の知識は推理小説で読みかじった程度のものですから。さくらさんほどではありませんよ」
「それ、どういう意味よ。さすがに、あたしも不倫だけはないんですけど」
さくらの声が低くなる。
「すみません。言い過ぎました」
また、ふたりの間に沈黙が漂った。今度はさくらがそれを破る。
「ね、そんなことより。三樹ちゃんに言う?」
「そ、そうですね」
さくらが急に話題を戻したため、和泉は一瞬、ついて来られなくなった。
「はい、そのことについてなんですが……」
和泉は、そのあとの言葉が出てこなかった。デリケートな問題につき、慎重に行動をしなくてはいけない、ということは分かるのだが、具体的にどうしたら良いのかが思いつかない。
「どうしよう。ねえ、いずみん!」
さくらが落ちつかない。
「あの三樹ちゃんが、知らないうちに不倫してたことになっちゃうよ?絶対にそういうことする子じゃないのに!こうしてる間にも、もし二人で会ったりしてたら……。あぁ、もう!あたし、どうしよう……。そうだ、すぐにでも知らせてあげなくちゃ!あたし、今から電話するよ!」
「ちょ、ちょっと待って!」
珍しく和泉が声を裏返らせた。
「どうして?だって、このままじゃ……」
さくらが苛立っている。
「落ち着いてください」
和泉の声のトーンが下がった。
「え?でも……」
「たとえ、あの三樹さんでも、急にそんなことを言われて、冷静にものを考えられると思いますか?彼女は、ほんとうに久しぶりに恋人ができたと思って、今まさに幸せの絶頂にいるんですよ」
「それはそうだけど……でも!そんな呑気なことを言ってる場合じゃなくない?もしも、このままふたりの関係が進んじゃったら、取り返しがつかなくなっちゃうんだよ!?だってほら、今は不倫相手も慰謝料を請求されたりするんだよ?三樹ちゃんは、騙されてるのに!そんなのって、おかしいじゃん!ダメだよ、絶対!あぁもう、三樹ちゃんに教えてあげなくちゃ……」
さくらが電話を切りそうになる。
OLレンジャー仲間のため、電話で作戦会議をする、さくらと和泉。
話がまとまる気配がないが、大丈夫なのだろうか……。




