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あの時、さくらはお気に入りのハイヒールで走っていた。シックな黒色だが、華奢なヒールの上に、同じ色合いのレースとリボンがあしらってあった。つまり、開演ギリギリの劇場にダッシュするには、不向きな足元だったと言える。
それでも、さくらはバッグをつかんで走った。気持ちは走っていたけれど、そうそうテンポよく走れるものでもない。休日の池袋は人が多くて、なかなかスムーズには進めないからだ。さくらの中に、もどかしさが蓄積していく。ようやく最後の人ごみを抜け、大急ぎで建物に飛び込んだ。そんな彼女の鼻先に、いきなり黒い影が現れた。ご存じの通り、さくらはオシャレに特化した、機能的ではない靴を履いていた。そのため、とっさに避けることができなかった。
正面から誰かにぶつかった。
「きゃっ!」
さくらが悲鳴を上げて思わずよろめくと、たちまちにその腕をつかまれた。力強い大きな指が、さくらの細い腕に食い込む。と思うと、さっと助け起こされた。ふんわりと爽やかな香水の匂いがした。
「大丈夫ですか?」
と、高いところから声がかけられた。思わずキュンとしてしまうような、落ち着いた男性の声だった。
「ごめんなさい、あたし、慌てて」
さくらは大慌てで頭を下げた。
「そんなに謝らないで」
男性の声が柔らかく答える。
「それより、とっさに腕を強くつかんでしまって。痛くなかったですか?」
さくらは、先ほどつかまれた腕を撫でた。うっすらと跡がついている。
「あ、ごめんなさい」
と、今度は男性が謝った。
「いえ、全然。大丈夫です。こんなところで走っちゃったのがいけないんです。ほんとうに、ごめんなさい」
さくらは、さらに、ぺこりと頭を下げた。
「とんでもない。僕のほうこそ、不注意でした。急に電話がかかって来て、そっちに気を取られてしまっていて」
彼の手元を見ると、確かにスマートホンを持っていた。
「でも、不注意だったのは、あたし……」
ここで、ようやく、さくらは初めて相手の顔を見た。そして、思わず相手の顔を見つめてしまった。もともと大きい彼女の目がさらに大きくなり、驚きのあまり潤んだ。
(うそでしょ……?)
そこにいたのは、先ほどカフェの前を通ったあの男性だった。見れば見るほど、疑いの余地もなくなってくる。昨日、三樹が照れながら見せてくれた、あのスマホ写真の男性だった。名前を桐生といったはずだ。さくらには、イケメンの顔と名前をしっかり覚えられるという特技があった。間違いないはずだ。
でも、まさか、こんなところで会うなんて。さくらは驚きすぎて、言葉を失ってしまった。
「何か?」
と、桐生が少し首をかしげた。こんなちょっとした仕草も様になっている。
「あ、いえ、何でもありません」
さくらはハッと我に返り、少し遅れて微笑み返した。桐生は、さくらと視線を合わせたあと、少し真面目な目になって言った。
「もしかして、こちらの舞台をご覧になるんですか?」
「あ、はい。これから受付で……」
すると、桐生はジャケットの袖を少しもちあげ、さりげなく腕時計を見た。一瞬、キラリと光ったそれは、さくらも見覚えのある高級な海外ブランドのものだった。(良いもの持ってるぅ)と、さくらは心の中で感嘆した。ちょっと表情に出てしまったかもしれない。
「じゃあ、少し急がないといけないですね。間もなく開演ですから」
桐生の一言で、さくらも状況を思い出した。
「あ、ありがとうございます。急がなくちゃ……」
「でも、お気をつけて」
桐生が魅力的に微笑み、さくらも持ち前のスマイルでそれに応え、
「はい、ありがとうございます……」
その時だった。
「あなた!何してるの?もう始まっちゃうわよ!」
と、少し離れたところから女の声がした。その声に反応して振り返ったのは、こともあろうに、さくらの目の前に立っていた桐生だった。
「ごめん!ちょっと、うっかりして、この人とぶつかっちゃって……。今行くよ!」
と、少し慌てたように答えている。
「もう、何してるのよ……」
女性がいそいそと近づいてくる。片方の肩を隠すように、長く美しい髪がさらりと降りている。シンプルなベージュのワンピースが、彼女の恵まれたスタイルを美しく際立たせていた。ちょっと見覚えのあるデザインではあったけれど。
女性が桐生の隣まで来ると、照れくさそうに彼は言った。
「こちら、僕の妻です」
(はい、妻確定!)さくらの心の中で、小さな彼女が頭を抱えた。
桐生から紹介を受けた彼女は、さくらをまっすぐに見て、
「申し訳ありません。お怪我はありませんか?」
と、気づかうように言った。
「いえ、あの。ご主人は悪くないんです。あたしが慌てて走っていたせいで。こちらこそ、ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
さくらは動揺をなんとか隠し、ぺこりと頭をさげた。
「いいえ」
と、桐生の妻は優しく言い、眩しいばかりの笑顔を見せた。おそらく玉のような赤ん坊として生まれ、キラキラと可愛らしい少女時代を過ごし、順当に美しい女性へと成長し、そして桐生のような男性と恋に落ちて結ばれた。そういう人生が垣間見えるような、ゆるぎない笑顔だった。小娘はお呼びじゃないのよと、その頬に書いてあるのを、さくらは気にしないことにした。
「じゃ、失礼します。楽しんで」
桐生はそう言い、妻を連れ立って歩いて行った。彼の腕に、さりげなく腕を絡める妻は、もう後ろを振り返りもしなかった。
(何これ、最悪……)
さくらは心の中で呟いた。
さくらの頭に、楽しそうな、否、ものすごく浮かれ切った三樹の顔が浮かんだ。思春期の少女みたいに真っ赤になって、とても嬉しそうだった。さくらは、とっさにスマホを手に取った。今すぐに、ここで見たものを三樹に伝えるべきなのか、だとしたらなんて言う?
そんな彼女の耳に、
「間もなく、開演のお時間です……」
と、アナウンスが聞こえてきた。
(あ、いけない!)
さくらは、ふたたび受け付けに急ごうとした。そのつま先に何かが当たった。拾ってみると、それは茶色い革のパスケースだった。銀座の一等地に店を構えている高級ブランドのものだ。キレイな白い紙きれが入っているのも見えた。名刺かもしれない。
(え?何これ……もう!急がなきゃいけないのに……)
とはいえ、気が付かなかったことには、できなかった。さくらはパスケースを拾い上げ、ちらりと見えた名刺らしいものを一枚、引っ張り出してみた。
三樹の勤め先と同じ会社名が入っており、大きく「桐生修一」と書かれていた。それと同じものが、まだ何枚も入っていた。同じ名刺をそんなにまとめて受け取ることはないから、つまり、このパスケースは桐生のものということで間違いないだろう。
イケメンを覚えることについて、さくらは自信があったけれど、その裏付けをとったことになる。
さらに小さな写真が入っていることに気が付いた。ケースを閉じている時には見えないサイドのポケットに入っていたのだ。映っているのは、先ほど見かけた桐生の妻と、娘だろう。嬉しそうな顔で頬を寄せ合っている。美人の母親とイケメンの父親の間に生まれた、かわいい女の子という感じだ。
桐生はとっくにホールの中へ入ってしまっていた。さくらはパスケースを持ったまま受付へと急いだ。
(最悪!ゲス不倫男!でもイケメンだった……!でもクズ!)
休日の劇場で出会ったのは、三樹の恋人……。
しかも、彼は妻をつれて観劇にきていた!
桐生がゲス不倫男だと気が付いた、さくらは……。




