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下北沢のさくらのマンションでのお泊り飲み会の翌日。町田駅で三樹と別れたあと、まっすぐに自分の部屋に帰ってきた和泉は、そのままベッドに倒れ込んだ。久しぶりのレンジャー仲間との部屋飲みで夜更かしをしてしまったあと、電車に揺られて帰ってきたせいだ。ほんとうに、日本の電車の揺れというのは眠気を誘う。
その後、眠ったり起きたりを繰り返し、なんとも贅沢な休日を過ごしていた。たまに飲み物をとりにキッチンに行ったりする他は、ずっと横になっていた。横になったまま、さくらや三樹やことを考えていた。
(三樹さんのことですから、この先もとんとん拍子に進むとは思えませんね……。何か、私で手伝えることがあるんでしょうか。こと恋愛についてアドバイスできることがあるとは思えませんが、応援したり励ましたり……ぐらいならできそうですね!あと、恋煩いなどすると食欲がなくなってしまうそうですから、ご飯を作って食べさせてあげても良いかもしれません)
納得して、ひとりでうんうんと頷く。
(さくらさん、寝不足で観劇なんて大丈夫なんでしょうか。きっと、居眠りをされていることでしょうね。あるいは、あの可愛いお顔でイビキなんか……)
さくらは久しぶりの観劇とかで、お洒落をして出かけて行った。そう思うと、和泉はひとりでクスクス笑ってしまった。そんなことをしているうちに、また薄っすらと眠気がさしてきて、すぅっと意識が遠のいた。心地のいい微睡みの時間だった。
そんな時、遠くからスマートホンのバイブの音が聞こえてきて、和泉は目をハッと覚ました。メガネを探し、スマホを探し、画面を見ると、さくらからの着信だった。朝まで一緒にいたのに、何事でしょうか……と思いながら電話に出る。
「もしもし?」
「あ!いずみん?もー、何してたの?あたし、何回も電話したんだよ?」
さくらが興奮気味にまくし立てた。
「あ、すみません。寝ていました」
和泉が答えると、さくらはまた、
「もー!」
と、声をあげた。
「あらあら、牛さん……」
などと、和泉がとぼけたことを言いかけた時、
「そんなことより、あたしね!大変なものを見ちゃったんだけど!」
と、さくらの声が一段と大きくなった。和泉の耳がキーンとなった。
和泉は、いったんスマートホンを耳から遠ざけ、メガネをかけ直した。相手は電話口なので、眼鏡がずれようが、頭に乗っかっていようが、まったく問題のないことなのだが、これは和泉の気分の問題だった。
その間も、スマートホンからは、
「ねぇ!いずみん、聞いてるの?ねぇ!もしもし?もしもーし!あれぇ変だなぁ」
と、さくらの声が聞こえ続けていた。和泉は一呼吸、大きく吸い込んでから、
「さくらさん」
と、はっきりと言った。
「あ?もしもし?なんだ、もー、いずみん、聞こえてるなら返事してよー!」
「さくらさん」
「はいはい、なに?」
「とりあえず、いったん深呼吸しましょう。はい、大きく吸ってー吐いて―」
和泉の言葉の通り、さくらが深呼吸をしているのが聞こえてきた。これで、多少は落ち着いてくれるだろうと考えながら、和泉は話をすすめてみることにした。
「そんなに凄かったんですか?お友達の舞台……」
「え?舞台?あぁ、……舞台ね」
さくらの歯切れが悪い。まさか、本当に眠ってしまっていたのかと思い、和泉は笑うのを堪えた。
「うーん。……そうだよね、あたし舞台を観に行ったんだよねぇ」
さくらの言葉に、和泉は耐えられなくなって吹き出した。
「ちょっと、どうして笑うの?」
さくらが、いぶかしそうに聞いた。
「だって……」
和泉が笑ながら答える。
「さくらさん、劇場で居眠りしてるかな……と想像していたら、案の定、だったので……」
和泉の声が裏返った。
「ねぇ、あたしがいつ居眠りしたなんて言った?」
さくらが抗議の声を上げた。
「おや?居眠りしなかったんですか?それは失礼しました」
和泉が落ちついたトーンで答えると、さくらは少し間を置いてから言った。
「だって、しょうがなかったんだもん……。内容がなんていうか、哲学的?っていうか……難しすぎてよく分かんなかったし、いい感じの音楽がさ、流れてたんだもん……」
と、気まずそうに。和泉はまた、吹き出してしまった。
「もう!笑いすぎだよ!いずみん!」
「だって……。さくらさん、可愛すぎですよ。大丈夫ですか?イビキは、かかなかったですか?」
「え?イビキ?」
さくらが不安そうな声になった。
「たぶん、それは大丈夫だと思うんだけど……大丈夫だったかな?」
「それは、私に聞かれても分かりませんよ!」
「あー!だよね!」
さくらも電話口で笑い出した。
そうして、ひとしきり笑い合ったあと、
(でも、さすがにそれだけを伝えるために電話をしてきたとも思えません)
と、和泉の目が光った。
「さくらさん」
「ん?なに?」
「要件はそれだけだったんですか?」
「あ!そうだった!」
再び、さくらの声が大きくなった。
「この話をしようと思って電話したんじゃなかった!もー、いずみんが余計なこと言うからー、話がそれちゃったじゃん!」
和泉の耳がキーンとなる。
「それは大変失礼しました」
和泉は冷静に謝りながら、はたして自分のせいだったのかと首を傾げた。五分五分かなという気もする。
「いいよいいよ、全然オッケー」
あっけらかんとして、さくらが続ける。
「っていうか、あたし、今日、池袋の劇場に行ったでしょ?」
「はい」
「お芝居が始まるまで時間があったから、カフェでご飯食べてたの。それが超おいしくて!」
「ほらほら、また話が逸れますよ?」
「もう!いずみん、なんか、小姑みたいだよ?」
「はいはい、小姑でも何でもいいですから、先をどうぞ?」
「もー……」
さくらはひとりでブツブツ言い、和泉はひたすら待った。
「聞いてるの?」
さくらが疑いの声を上げ、
「聞いてますよ」
和泉はすぐに答えたが、完全にひとり言だと思って聞き流していた。
「なら良いけど。でね、ご飯食べながら、なんとなーく外を見てたらね、通ったの。窓の外を!」
「誰が?」
「誰だと思う?」
「分かりませんよ、さくらさんの元カレですか?」
「もう!そんなんで、いちいち電話するわけないでしょ!?そうじゃなくて、三樹ちゃんの彼氏!……」
「え?まさか」
「そう!まさかと思うでしょう?あたしも、最初は人違いかなって思ったけど……」
「いやいや、さすがに、それは人違いじゃありませんか?だって、三樹さんの彼氏さんは、昨日からお友達と箱根に行っているはずですからね」
「人違いなんかしないもん。あたし、イケメンの顔なら一回で覚えられるんだからね!」
さくらが自信たっぷりに言う。すごい特技だと、和泉は素直に感心した。イケメンだけをピンポイントで覚えられるというところが。そして、どのあたりからイケメンという認識になるのか、ぜひとも検証してみたいとも思った。
「て言うか!それだけじゃなかったの!」
さくらの声が、ますます大きくなる。和泉は、さすがにスマホを少し耳から離した。
「でね、でね。その後ね。LINEとかしながら、のんびりご飯食べてたの。そしたら、知らないうちに時間が経ってて、開演の時間ギリギリになってたの!ほんとビックリした!で、急いでお会計して、ダッシュでお店を出たのね」
ダッシュで劇場に向かったさくらが見たものとは……?




