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翌日、三樹が目を覚ますと、隣にいたはずの和泉やさくらはいなくなっていた。
枕元に置いておいたスマホの画面を開く。九時すぎていた。画面の上部に、新着のメッセージを知らせるマークがついていた。寝ぼけていた三樹の胸が、急に活気づいてきた。急いでアプリを立ち上げて確認する。メッセージは桐生からだった。良かった、返信が来た。
つい先ほど着信したばかりだった。
「おはよう。楽しかったみたいで良かったね。新しい洋服も、今度ぜひ見せてね」
さすがに下着を買ったことは伝えていない。それでは、まるで肉食系ではないか。
三樹は嬉しさのあまり、布団の上に飛び起きた。そして、「おはよう」のスタンプを送った。既読になった。さらに、何回もミスをしながら急いで文面を入力して送信した。
「ちょっと夜更かししちゃいました。そちらも楽しんでますか?」
こちらも既読の表示が出て、にこにこ顔のスタンプが送られてきた。桐生も友達と楽しく過ごしているようだ。三樹の心はすっかり晴れあがっていた。
キッチンのほうから物音がしている。三樹が起き上がってキッチンに行くと、和泉が朝食の支度をしており、その横でさくらが感心したような顔をして覗きこんでいる。
「あ、おはよう」
さくらが振り返って笑顔になった。
「おはようございます」
和泉が顔をあげてメガネを直す。
「おはよう」
三樹も元気に答えた。しかし、語尾があくびになってしまった。ひどい寝不足だった。
昨夜、桐生にメッセージを送ったあと、三樹はうまく寝つけなかった。目をつむったまま、いつまでも寝返りを打っていた。
頭の中に、いろんなことが次々に浮かんできた。お互いに「好き」とか「付き合おう」とかは言っていない。でも、世の中のカップルの全てが「好きです、付き合って下さい」から交際を始めている訳ではないはずだ。
ほんとうに男友達と一緒なのだろうか。そんな考えが浮かんで、いやな気持になった。どうして、彼のことを信じられないんだろう。他の誰かと一緒にいるなんて、ありえない。彼が自分を騙すなんて、絶対にない。彼は、自分のことを、とても大切にしてくれる。裏切るような人ではない。
水沢とゴルフに行く約束は、どうなっているんだろう。男友達と言っておきながら、実は水沢と約束しているのではないだろうか。何気なく聞けば良かった。いや、やっぱり聞くのはおかしい。
考えまいとしても、勝手にいろんな考えや不安が湧き上がってきた。桐生はステキな男性だ。そう思っているのは、自分だけではない。
学生時代に付き合っていた男は、別に好きな人ができて別れを切り出してきた。ひどい終わり方だった。
「お前といると息がつまりそうになるんだ」
みたいなことを言われた。三樹は呆然とし、それから感情をむき出しにして叫んだ。
「ふざけないでよっ!」
冗談じゃない。こちらを不安にさせていたのは貴様だ。メールを送っても、ろくに返信もくれない。電話にも出てくれない。一緒にいたいと言っても、都合が悪いと言って部屋に上げてくれなかった。こちらがどんなに寂しい思いをしてもお構いなしだ。それなのに、浮気をして、それを正当化して、さらに三樹に落ち度があったみたいな言い方をした。
悔しくて、悲しくて、気持ちがおさまらず、三樹は宿さんに泣きついた。宿さんも、男のことを怒ってくれた。彼女の言葉がどれほどに慰めてくれたかしれない。
(いったい、なんなの?)
男心ってほんとうに意味不明。身勝手で、ガキ。
でも、桐生はそんな子供とは違うはず。もっと大人だ。自分をないがしろになんかしない。自分に言い聞かせてみるものの、メッセージが読まれず、返信も来ないと無性に不安になってしまう。
相手には相手の都合がある?そんなことは頭では分かっている。でも、今は自分が恋人なのだから、自分を最優先にしてもらいたい。自分も相手を最優先にする。会えないなら電話がほしい。話せないなら、せめてメールがほしかった。それで完全に安心するかと言えばそうでもない。不安は拭い去ることはできない。
面倒くさい女だ。
ずっと悶々としていた。だんだんウトウトしてきて、寝たり起きたりを繰り返しているうちに、気が付いた時には朝になっていた。どれだけの睡眠が得られたかは分からない。足りていないことだけは確かだ。
でも、桐生からは、ちゃんと返信があった。桐生は、過去に付き合ったダメな男とは違うのだ。
「顔洗っておいでよ。その辺にあるの、適当に使っていいからね!」
さくらが朝から元気に言い、三樹はおとなしくそれに従うことにした。さくらの部屋の洗面台には、使ったこともない洗顔料が置いてある。見るからに高価そうだ。さくらは化粧品メーカーに勤務している。だから、これもメーカーのものだった。
開けてみるといい匂いがする。デパートの化粧品売り場で嗅ぐような匂いだ。三樹はほんの少しそれを手に取り、丁寧に泡立てて頬にのせた。ふんわりと柔らかく、キメの細かい泡だ。頬にのせると香りに包まれ、うっとりしてしまう。その後、丁寧にぬるま湯で流した。最後に、冷水で肌をしめる。柔らかいタオルで拭いたあと、頬に触れてみる。いつになく、肌がしっとりしているのを感じた。それに、鏡に映っている自分の顔も、いつもよりも明るく見える。寝不足のせいで、目の下にクマができているのは仕方がないとして。
三樹が顔を洗い終えて戻ると、朝食ができあがっていた。トマトの赤が鮮やかなサラダと具だくさんのスープ、それにバターロールがある。パンのこうばしい匂いがする。グレープフルーツも置いてあって、いかにも新鮮そうに輝いている。
「三樹ちゃん、何飲む?低脂肪牛乳と、オレンジジュースならすぐ出せるよ」
さくらが冷蔵庫の前に立っていた。
「コーヒーも、もうすぐできますよ」
和泉がうつむいたまま言った。手にポットを持っている。丁寧にじっくりとコーヒーを淹れている。すぐに、香ばしい匂いが漂ってきた。なんとも優雅なモーニングだ。
「コーヒーにする。あと、お水もらっていい?」
「どうぞ」
さくらは冷蔵庫を開けながら答えた。自分の飲む分の低脂肪牛乳をグラスに注いでいる。三樹もグラスをとると水を注いだ。
「コーヒーはテーブルのほうに、まとめて運びますので」
今朝の和泉は、まるでカフェ店員のように爽やかだった。三樹とさくらはテーブルに座って待つことにした。
「今日は?このあとどうするの?」
さくらがグラスを手に取って聞いた。あれだけ飲んだのに、顔がむくんでいない。まるで魔法のようだ。おそらく、誰よりも早くに起きて、むくみを取るために顔面マッサージなどをしたのだ、と想像がつく。寝不足ではないのか。どこからパワーが出てくるのだろう。
「とくに予定はないけど」
三樹も水を飲みながら答える。
「え?デートとかは?」
「ないない!戻ってくるの、今日の夜になるって言ってたし……」
「その後は?」
「いやぁ……」
「もっと頑張りなよっ!」
さくらがグラスをいじりながら唇を尖らせる。
「ごめん……」
三樹がしゅんとなる。
「まぁまぁ、人には人のペースというものがありますから」
和泉がコーヒーを注ぎながら静かに言った。さくらは一瞬だけ不服そうにしたが、すぐに気を取り直して三樹のほうに向きなおった。
「じゃ、先週は会ってたの?」
「先週も、先約があって……」
「えー?何それ!」
またしても、さくらに責められそうになるので、三樹は先手を打って言い訳をした。
「でもそれは、私と付き合い始める前から入れてた予定だったから、しょうがないんだよ!」
「そっかぁ」
そこへ、和泉が盆にのせたコーヒーを運んできた。その動作も堂に入っていて、ほんとうに店員みたいだ。いつでもカフェを開業できそうである。白いシャツの袖をまくって、ギャルソンエプロンをしたら様になりそうだ。きっと、男性よりも女性客にモテるだろう。
「さくらさんは、これから何かご予定があるんでしたね?」
和泉が聞く。
「聞きたい?」
さくらが小首を傾げた。
「たいして聞きたくもありませんが。さ、冷めないうちにどうぞ」
和泉は両手を合わせて「いただきます」と言うと、スープカップに手を伸ばした。一口味わい、納得したように頷いている。
「またまたぁ!」
さくらは今日も元気だ。
「今日はね、昼から舞台を観に行くんだよ。池袋。高校のときに演劇部に入ってた友達が劇団に入ったの。今日が最終日なんだって」
「えぇと……、それ何時からなんですか?」
「え?何時からだったっけ」
「私に聞かれても困りますよ」
「だよねぇ。うーん、忘れちゃったぁ。チケットを観たら分かるんだけど。でも、大丈夫だよ。昼過ぎとかだったはずだから。っていうか、観てもよく分かんないし!」
ふたりの会話を、三樹はバターロールをもくもくとかじりながら聞いていた。軽くトーストしてあるらしく、ほのかに温かかった。甘みのある味わいと、こうばしい香りが広がって心がほっこりする。
寝不足のせいで食欲はないと思ったが、スープはちょうど良い薄味で胃にやさしく、小さく刻んだキノコやジャガイモなども食べやすかった。サラダはみずみずしく、ドレッシングがよくなじんでいた。
朝食のあと、さくらが支度を終えるまで、三樹と和泉はテレビを見ながら、とりとめのないお喋りをしていた。基本的に三樹が話し、和泉が聞き役になる。時に、すごく的確な言葉を挟んでくる。はっきりとものを言うが、相手を傷つけまいという配慮が感じられる。和泉と話していると、心が落ち着く。ちょっとした不安や心配事も、大丈夫な気がしてくる。
そのうちに、
「お待たせー」
と言って、さくらが出てきた。
エンパイアラインのシンプルなワンピースを着ている。バストの豊かな彼女は、洋服を間違えると太って見えてしまうことが悩みだった。三樹からしたら羨ましい悩みだ。ドレスは彼女に似合っていた。
すると、三樹と和泉が頼みもしないのに、さくらはくるっと回った。さらに、澄ました笑みを浮かべて、スカートのすそをつまんで膝を曲げた。みなさま、ごきげんよう、みたいな感じである。
見ていたふたりは、一瞬きょとんとしてから笑った。さくらもニコニコと満足そうだ。メイクも完ぺきだった。さすがだ。
マンションを出た三人は、そのまま下北沢駅へ向かった。さくらは上りホームに行き、三樹と和泉は下りホームに向かった。すると、折よく急行の小田原行きが入ってきた。
日曜日の昼前、下り電車はそれほど混んでおらず、三樹と和泉は並んで腰かけた。電車が走り出すと、すぐに心地よい揺れが眠気を誘った。姿勢正しく座ったまま、和泉は黙っている。三樹は、引きずり込まれるようにして眠りに落ちた。
女子会はこれにてお開き!
まったりと、それぞれの休日にすすむのだった……




