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母の思いと、三樹の思い。
二個目の菓子をとり、三樹はもくもくと食べ続けた。急須の中が空になってしまったので、湯を入れるためにテーブルを離れる。
それなのに、ふたりはずっと、三樹の結婚についての話をしている。また戻ってきて、湯呑に茶を注いだ。両親の湯呑にも茶を注いでやると、その時ばかりは「ありがとう」と礼を言うのだが、また元の話に戻ってしまう。
三樹はうんざりしてきた。たしかに、付き合っている人はいなかった。社内で良いなと思う人は、たいがい結婚していた。三樹は年上が好みなので、同期や後輩には目がいかないせいもあった。
だからと言って、流行の婚活を始めるのは早いと思っていた。なんとなく、焦っていると思われたくなかったのだ。町コンや鉄コンなどの〇〇コンにも、すすんで出るような勇気がなかった。
辛うじて参加するのが、知り合いが招集をかけてくれる合コンだけだ。ただ、そこで何らかの実りがあれば、こういうことにはなっていない。街中を歩いていてもナンパもされない。逆ナンなど、天と地がひっくり返ってもできない。
そんな勇気があったなら、恋愛を片思いだけで終わらせることもなかったのだ。
「今は仕事が忙しいから」
そういって、三樹はお茶を飲んだ。菓子がつっかえそうだった。
とにかく、仕事が忙しいと言えば、母もこれ以上は言わないだろうと思った。仕事とは、いかにも都合のいい言い訳である。
現実には、そうはいかなかった。
「え?何か役付きにでもなったの?」と、母が聞いてきた。
「一応、主任だけど……」三樹は少し口をとがらせる。
「ふぅ~ん。主任ね……」
母が、三樹をまじまじと眺めた。その視線に耐えられなくなって、三樹は菓子を見つめる。かじりかけの菓子。かじりかけにすら、なっていない自分の恋愛。
「仕事してたって、結婚してる子はしてるじゃない」
「それは……」
返す言葉もありません。ほんとうに、その通り、ごもっともですとしか言いようがありませんから。身近なところでいうと、妹がいい例である。結婚どころか、働きながら子供を育てている。いろんな意味で、三樹の先輩になってしまった。
「三樹、子供の頃に言ってたじゃない、大きくなったらママになるんだって。お母さんみたいになりたいって。名前まで考えてたじゃないの。男の子だったらケンちゃんで女の子だったら……あれ?なんだったかしら」
(今度は情に訴える作戦ですか……)
そうは思っても、この言葉は胸に響いた。だからこそ、今、最も言ってほしくなかった言葉だった。今の三樹にとって、もっとも欲しいのは心が穏やかになる静けさだった。草むらで、しきりに鳴いている鈴虫の声だけを聴いていたい。
母は真顔で言い続けた。
「結婚が遅くなれば、子供ができるのだって遅くなるよ。ぐずぐずしてると、大変だよ。子育ては体力がいるからね」
母の言葉のひとつひとつが重い。現実というパンチが、ボディにズシン、ズシンと、めり込んでくる。ぐは……!三樹は菓子を食べながら、ゆるんだ腹をなんとなく触った。
「それとも、もう諦めちゃったの?」
母が言い、三樹の中で何かがブツンと切れた。さすがに諦めるような年齢には達していないという自負ぐらいはあった。
三樹は、お菓子をテーブルに置くと言った。
「うるさいな!大丈夫だよ。結婚ぐらいできるよ!」
目に力をこめて、三樹は母親の目をにらんだ。母は、まったくひるまない。涼し気な表情で、(はたして、そうかしら?)と、目で言うのが分かった。
「今、決めた!」三樹は、バンとテーブルに手をついて立ち上がった。「三十までに結婚するから!」
「へー、楽しみにしてるよ」
母がにやりと笑った。
三樹は、思わず口を押さえたが、遅かった。今の自分は孫悟空だった。お釈迦様の手のひらの上で踊らされていたにすぎない。あぁ昔の人はうまいことを言ったものだ。そうだ、そうだよ。こぼれたミルクはコップに戻らないし、覆水は盆に返らないよ。
もし、三樹の願いが何でもひとつ、叶えられるとしたら、たった数分を巻き戻して「三十までに結婚するから」という言葉を無かったことにするだろう。
そして、これこそが、和泉が言ったところの「お母様との約束」と言うやつである。ちなみに、三樹は今アラサーの二十九歳。タイムリミットまで一年もなかった。
こうして後がなくなったのであった……。




