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「急に言われても困るかぁ……」
ぽつりと桐生が言った。
「ま、気が向いたら……」
「大丈夫ですっ!」
かぶせ気味に、三樹が答えた。というか、つまっていた言葉が、やっと飛び出たのだ。
そのため、タイミングがあまりにも微妙になった。
桐生がぽかんとする。
それから、少し間があって、桐生がまた笑った。すごく楽しそうだ。目尻に笑いじわ、それもまた魅力的……。
三樹は心臓をドキドキ言わせながら、その顔を見つめた。
でも、目が合いそうになると、慌ててそらした。何回でも、キスのイメージが頭をよぎってしまい、どうしようもない。
「良かった」と、微笑んで桐生が言う。
「はい……」と、三樹が答える。
間もなく電車が入ってきて、乗客たちはどやどやと乗り込んでいく。
「小田急線て、ほんと混むよね」
桐生が言い、
「ほかに路線がないからじゃないですか?」
と、三樹が答える。
この電車が混むのは仕方がない。乗り込む時に、三樹は覚悟をしていた。
むしろ、ぎゅうぎゅうの満員電車で桐生と密着してしまったらと、そっちのほうが心配だった。
(どうにかなりそう……)
(いや、どうもできないけど……)
(汗臭かったらどうしよう……)
(さっきの料理にニンニクは入っていなかったっけ。確認したぁい!)
頭の中で思いがぐるんぐるん。
でも、気が付くと、心配するほどのこともなかった。
むしろ、いつもよりも、自分の周りに空間が多いような気がする。
(あれれ?意外と空いているのかしら?)
まわりを見ると、やはりそれなりに混んでいる。
「お互い、この電車で通勤するのは大変ですね」
桐生の声がすぐ側から聞こえた。
(まさか……)
三樹の胸がどうしようもなく、ときめいた。ときめいて苦しいぐらいだ。
今、自分の周囲にスペースがあるのは、桐生のおかげだった……!
彼が、三樹に苦しい思いをさせまいとして、男らしく盾になってくれているのだ。
(なんということだ、ますます惚れてまうやろ……!?)
新百合ヶ丘駅で、桐生は電車を降りた。
(あぁ……、もう着いちゃった……)
桐生がいなくなったスペースが寒いような気すらした。
少しの照れくさい間をおいてから、電車のドアが閉じた。三樹が顔を上げると、桐生と目があった。
おずおずと手を振ると、振り替えしてきた。桐生の柔らかな笑顔が、三樹の心をほぐす。
やがて電車が走り出した。
桐生は、いつまでもホームに立って見送っていた。
三樹は、胸の中が温かくなるのを感じた。どうやら、すっかり好きになってしまったらしい。
三樹はスマホを取りだし、桐生の連絡先を表示した。こじらせ独女の頭の中は、白馬に乗って登場した王子様のことでいっぱいになっていた。少女マンガのヒロインにでもなったつもりか。
(すぐにでも、彼にメッセージを送りたい)
(でも、何を送ったらいいか分からない)
「今日は楽しかったですね」
「明日もがんばりましょうね」
(そんな何気ないメッセージを送ってみようか)
(いや待てよ、そんなことを、わざわざ送るのも変な気がする)
(じゃあ、どうする?なんて送る?……)
夢中でスマホを見つめ、本文を書いては、やっぱり違う気がして消し、また書いては、これもなんだかわざとらしくないかと心配になって消し、を繰り返した。
そのたびに、スマホの画面に字が出たり消えたりを繰り返していた。
そうこうしているうちに、
「次は海老名~」
と、車内アナウンスが言った。
(うそっ!)
大慌てで周りを見る。知らないうちに、乗客は、かなり減っていた。窓ガラスに自分が映っている。ようやく、彼女は現実に帰ってきた。
本来降りるはずだった町田駅と、その次の相模大野駅さえも乗り過ごしていた。
この電車は急行なので、相模大野を出ると、間の三駅をすっ飛ばして、海老名駅まで止まらなかった。
小田急線は、町田駅を出るとすぐ相模原市に入り、座間市を通ってからの海老名市である。つまり、すっかり浮かれてのぼせている間に、かなり越えてきてしまったということだ。
三樹は海老名駅で電車を飛び下りると、大急ぎで上りホームに向かった。恥ずかしいやら、ばかばかしいやら。
でも、桐生にメッセージを送る、いい口実ができたような気もした。笑い話として提供できる。
どういう反応が来るか、心配な部分はあるけれども、あの桐生なら、つっけんどんにはしないだろう。
「お疲れ様です。うっかり海老名まで来ちゃいました」
と、震える指でメッセージを送信した。
すると、思ったよりも早く返信が来た。
「お疲れ様です。寝ちゃった?(笑)」
「起きていたはずなんですが……(笑)」
「次は新宿まで行かないように気を付けてね」
「気を付けます」
三樹は舞い上がりそうになるのを押さえながら、手汗をにじませながらメッセージを送信した。
頭の中がボウッとした。
次のメッセージが来るのをじっと待った。心臓がドキドキと早鐘のように打った。
桐生から「グッジョブ」の意味のスタンプが送られてきた。
三樹は和みながら、しばらくスマホを眺め、そして仕舞った。
そして気づく。なんだか静かだ。
違和感を覚えると、いつの間にか、電車が止まっていた。目の前で、音を立ててドアが開く。そのドアの向こうには、見慣れたホーム。
(降りなきゃヤバい!)
三樹は慌てて電車を降りた。その直後、三樹の背後でドアが閉まった。
(危なかった……)
走り出した電車を横目に、三樹は胸を撫で下ろした。
またしても、知らないうちに相模大野駅を通り越して、町田駅に戻ってきていたのだ。
決して瞬間移動をしたわけではない。ただ単に、メッセージに夢中で、まわりが見えなくなっていたのだ。
危うく、先ほど桐生と別れたばかりの新百合ヶ丘まで戻るところだった。
(それはそれで、面白いかもしれない……)
改札に向かいながら、三樹はニヤニヤ笑いを噛み殺していた。
これはもしや……大人の恋の始まりの予感!?




