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ほんとうに、夢のようなシチュエーションである。
(何これ何これ……。何これ!)
(どういうこと?なんで?これ?罠?)
幸福慣れしていない三樹の頭の中は、今、妄想の洪水が発生している。
(ふたりきり……、手が触れそうな距離……。握れる……!手をつなげる距離……!)
ふと見上げる、すぐそこに、桐生のきりっとした横顔がある。胸が高鳴る。占いが導いているような気がする。
「気になる相手との急接近」……そして、「突然のキス」……。
(はぁ~ん!)
突然に思い出して恥ずかしくなり、三樹は桐生の顔さえも見られなくなってしまった。顔から火が出そうだ。ボウボウだ。
(まさか今日?今日キス?)
(え?やばい!……ムリ!ムリムリ!)
(リップクリーム!ブレスケア!いや違……落ち着け自分!)
頭の中が、ぐるぐるになる。息がつまりそうだ。
(さっきのパスタに、ニンニクは入っていた?)
(でもな、みんなでシェアして食べたし……)
(いや……!実際のところ……、いざとなったら何もできないんだよなぁ~!)
たしかに邪魔者はいなくなった。一対一、サッカーのペナルティキックと同じである。
ただ、チャンスに弱い三樹は、いつもシュートを外してきた。ゴールポストにすら当たらなかった。
地下鉄のホームから、JRのホームに向かいながらも、三樹は緊張してしまい喋れなかった。頭の中に言葉が浮かんでくるのだが、口の外に出ない。
言葉はどんどん溜まって行って、やがて渦を巻きだした。
(でも、でも!黙っていたら、楽しくないのかと思われちゃう!)
(そんなんじゃないのに!)
もう、ぐちゃぐちゃだ。
(落ち着け。深呼吸だ)
目の前にはゴールと、ゴールキーパーがいるだけではないか。邪魔なディフェンダーはもう帰ったのだ。
(でも、やっぱりダメェ……)
言葉を発しようとすると頬がひきつる。声がつまる。
「久しぶりにパスタなんか食べたなぁ」
唐突に、桐生が言った。
「え?そうなんですか?」
三樹が驚いて振り返る。お洒落な桐生は、いつだってイタリアンとか、フレンチとか、和でも割烹ダイニングみたいなところに行っている印象だった。
「意外?僕、実は吉牛とか大好きなんですよ。安いし、うまい」
桐生は、気取っているふうでもなく、ただ自然に、にこにこしながら喋っている。
「そうなんですか!?」
三樹も、だんだんと緊張がほぐれてきた。
「そんなに驚くことかな」
少しおどけたように、桐生が振り返った。
「あ、すみません……」
三樹が慌てて謝ると、桐生は小さく吹き出し、それから朗らかに笑った。
三樹は嬉しいような、恥ずかしいような、くすぐったい気持ちになった。
先ほど、三樹の胸に湧き上がっていた不安の雲は、今はなりを潜めている。
「水沢さんて、若いよね」
ふいに桐生が言った。
急に、あの女の名を出すとは、どういうことなんだろう。三樹の胸に、もくもくと、再びの雲が湧き上がってきた。
「はぁ……」と、曖昧な返事しかできない。
「ゴルフかぁ……、しばらくスポーツなんかしていないしな……。僕に、できるかなぁ」
「大丈夫ですよ!」
思わず、心の中で思っていることと、逆のことを答えてしまう。
(バカ!バカバカ!わたしのバカ!)
三樹の心の中では、スポットライトを真上から浴びながら、小さな三樹が地面を拳で殴りつけている。
ただ、桐生が嬉しそうな顔をしているので、三樹も嬉しい気持ちになった。
「町田主任は、何か趣味はあるんですか?」
「え?」
三樹は困った。
趣味といえる趣味はない。映画を観たりもするが、それが大好き!という訳でもない。スクリーンで観なくても、DVDで良いや、というレベルだ。カフェでぼんやりすることも多い。それは趣味と言って良いのだろうか。
「町田主任も、一緒にゴルフを始めたらいかがですか?」
桐生が言った。
その提案は素晴らしく思えたが、水沢の土俵に上がる気にはなれない。
「私、運動音痴なんです」
三樹が俯いて答えると、桐生は朗らかに笑った。
どうなる2人の距離……!




