51
三樹を残して、時が止まる。まわりの音が遠ざかる。
ただ、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえてくる。1秒が1分に感じられた。
三樹はただ、桐生が何と答えるのか、それだけが気になった。祈るような気持ちだった。
桐生はパスタを食べている。しかし3人の視線が自分に注がれていることに気がついたらしく、その手を止め、言った。
「え?何の話をしてたんだっけ?」
この言葉で、場の空気が一気に和んだ。
「もうっ!聞いてなかったんですか?」
水沢が声を上げる。向こうのテーブルの客が思わず振り返ったぐらいに。
「ごめんごめん、水沢さん」
桐生が笑顔で謝る。
(こんな女に謝らなくて良いのに)
三樹の心の中では、小さな彼女がぶつくさと文句を言いながら、落っこちていた小石を蹴っ飛ばした。
「だからぁ!」
水沢が、また声を上げる。
「水沢さん、声でかいよ」
すかさずヒガシ君が言い、水沢はとっさに周囲を見渡した。それから、照れたような笑いを浮かべた。それだって計算なのだ。
それが証拠に、別のテーブルに座っていた、わりとハンサムなビジネスマン二人連れが、水沢のことを見て微笑んでいるではないか。
それを、シラッとした目で観察する三樹。そんな彼女を現実に引き戻すのは、ここでも、やはり、水沢の発言だった。
「桐生さんは、杏ちゃんて呼んでいいんですよ。もう、仲良くなったじゃありませんか!」
「まだ、早いと思うなぁ」
桐生が思わせぶりな言い方をする。
三樹の胸は、ただもうザワついて仕方がない。
ただ、「東北沢君」はさすがに言いにくかったらしく、こちらはいつの間にか「ヒガシ君」になった。
このことで、さらに水沢が「杏ちゃんて呼んで」攻撃を仕掛けてきた。
(しつこいんだよ!)
三樹の心の中の、着物の袖で顔を隠した彼女が、すり足でやって来る。舞台は能楽堂だ。横手には鳴り物を担当するもの、謡を担当するものが、厳粛な空気を身にまとって佇んでいる。
尺八に鼓、各種の鳴り物が小気味よいテンポを刻む。謡い手が声を張り上げ、
「ぃよ~お!」
ドンと足を踏み鳴らして、怒りに燃える般若の面が顔を出した。もう止まらない。怒りノンストップ。能楽のあの独特な節回しで、
「しつこいぞ黙れ小娘、その口にチャックをいたせ永久にこの視界より消え去れ二度と戻るな」
「いよ~!」
「あのぉ、桐生さんてぇ」
と、水沢が言った。三樹が現実に帰ってくる。
しかし、水沢のこのフレーズを、この食事会の間だけで何回、聞いたことだろう。そのたびに、三樹の胸はざわついた。
「お休みの日とか、何してるんですか?」
これは三樹も気になった。思わず聞く気まんまんになってしまった。
「うーん……、普通だと思うよ」
桐生が考えながら答える。
「普通って?」
水沢が、さらに突っ込んで聞く。
「いやぁ、特別なことはしていないよ。ヒガシ君は何してるの?」
桐生が隣でパスタを頬張っているヒガシ君に振った。
奇しくも、この時の三樹と水沢の心の中で、似たようなキャラクターが、同じセリフを吐いていた。
(お前は黙っとけ!)
もちろん、お互いに知る由もない。
「僕、実はピアノ弾けるんですよ」
ヒガシ君が珍しく得意げな顔になった。
「実は家にピアノがあるんです。いやいや、グランドピアノじゃないですよ。あんなもん置けるような、でっかい家じゃないし。お袋がピアノの先生なんです。で、幼稚園の頃から普通にやらされてて。だから、今は、休みのときとかは、たまに大学んときに組んでたメンバーと一緒にスタジオ行ったりするかな」
と、尋ねられてもいないことまで、すらすらと、そしてドヤ顔で。
「え?何が弾けるの?」
桐生が聞く。そんな彼の視線を気にした女子ふたりも、興味あるっぽい表情で聞いている。
「高校までは、もっぱらクラシックだったんですけど……あ、『エリーゼのために』とか、『別れの曲』とか、いろいろですね。誰でも知っていそうなやつです。でも、大学の頃からはジャズですね」
「え?ジャズ?」
「いや、たいしたことないっすよ」
ヒガシ君が頭をかき、本格的に照れている。
「入学したばっかの頃に、構内をブラブラしてたらジャズ研の人に勧誘されて、何にも考えずに入っちゃったんですよ。だって、その先輩、めちゃくちゃクールでカッコよかったから」
「いやいや、すごいよ。かっこいいじゃない。どんな曲をやれるの?」
桐生にのせられて、ヒガシ君はまんざらでもなさそうだ。
(いや興味ねぇ~)
三樹と水沢の心の中で、フィット感強めのTシャツにダメージジーンズのパンク・ボーイが、ちびた煙草を吸いながら吐き捨てる。
「そうだなぁ……、皆さんが知ってそうなところでいうと、『テイク・ファイブ』とかかな……。ドラマとかでも流れてますよね」
「えー?うっそぉ~。全然似合わな~い」
ここぞとばかりに水沢がちゃちゃを入れた。どうやら、口を挟むタイミングを虎視眈々と狙っていたらしい。
「それって、どういう意味だよっ!」
水沢の冷やかしに、ヒガシ君がムキになって応戦している。
「ジャズピアノか……。なんだか、ヒガシ君て、かっこいいんだな」
桐生が目を細める。
「いや、そんなことないですよ。なんか恥ずかしいな」
ヒガシ君が大いに照れて、頭を掻いている。
「良いなー、ヒガシ君はステキな趣味があって。僕はダメだな。無趣味だから……」
桐生がしみじみと言った。
「え?じゃあじゃあ!」
間髪を入れずに、水沢が口を挟んだ。
「今度のお休みに、あたしと一緒にゴルフ行きましょうよ。趣味なんて、これから作ったら良いんです!」
誰にも言葉を挟む隙を与えない、すごいスピードだった。まるで、テニスのリターンエースみたいだ。
「ゴルフかぁ……。良いなぁ、歩き回っているだけでも運動になりそうだしね。あれ?もしかして、水沢さんが教えてくれるの?」
桐生の言葉が、三樹の胸に突き刺さる。
三樹の心の中に、大きく不気味な洋館が現れる。外は嵐が吹き荒れ、雷鳴が轟き、稲光が空を切り裂き、突然の停電により明かりが落ちる。電話も通じない。絶望しかない。だって……!隣の部屋には見た目が子供の名探偵と、祖父が有名な高校生探偵がいるんだもの!事件が起きない訳ないじゃない!
そんな心境だった。
「はい、もちろんです!あたし、小学生のころからパパと一緒に回ってたんで。今も、すごーく、たまにですけど行きますよ」
「じゃ、今の仕事が落ち着いたら、ほんとうに教えてもらおうかな」
桐生の言葉に、三樹の心がズタズタになる。
美容室に行って、せっかく変わったと思ったのに。女子力をアップさせたのに。
まさか、あの水沢と、こんなところで、こんなふうに差を付けられるなんて、思ってもいなかった。
ゴルフは無理だ。やったこともないし、道具をそろえるのも、大変なお金がかかる……。
思わぬ展開に、三樹の心は……。




