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「はいっ!」
水沢が、今日イチ……いや、入社して以来、一番の良い返事をした。
三樹はもう、ショックのあまり、足元から崩れ落ちそうになっていた。
いや、イメージの中では、とっくに奈落の底に落ちている。あるいは、不思議の国のアリスがウサギを追いかけて落ちた穴みたいに。落ちても、落ちても、底にたどり着かない……。
(帰りたい……おうちに帰りたい……)
そんな三樹を現実に引き戻したのは、桐生の言葉だった。
「……って呼ぶのは、もうちょっと仲良くなってからにしようかな」
(え?)
三樹の表情が、パァァッと明るくなった。今日イチのイキイキとした表情だろう。
「えぇー……」
水沢がガッカリしている。
(ざまあみろ!)
三樹は心の中でガッツポーズを決めた。
でも、すぐに、あるひとつの可能性に気がついてしまい、複雑な気持ちになった。
(もうちょっと仲良くなってから……?)
(つまり、もうちょっと、仲良くなる可能性があるってこと……?)
仕事上の必要性とはいえ、桐生は水沢とも連絡先を交換している。グループLINE以外でやり取りをされたら、その内容を知る由もない。
三樹の胸がざわついた。
「そうですか。遠慮深いんですね」
水沢が唇をとがらせた。
「でも、大人って感じ」
その語尾に、ハートマークがついたような気がする。それも、特大サイズのやつが。それがもし風船だったら、カールじいさんみたいに飛ぶかもしれない。
三樹は唇を噛みしめる。
悔しいが、可愛さで水沢にかなう訳がない。いや、これまでの人生で、可愛さで誰かに勝った、と思うことがあっただろうか。
(ない!即答できる!)
なんだか、やりきれない思いがこみ上げる。三樹はメニューに専念することにした。
「主任、もう決めましたか?」
水沢がメニューを覗き込んできた。
(なんだそりゃ!こっちはメニュー決め担当かよ!)
「水沢さんが決めて!……いいですよね?」
ヒガシ君を経由して、桐生へと笑顔を向ける。桐生が微笑んで頷く。
それだけ……それだけでもう!羽根の生えた天使が数人、横笛を吹きながら、その辺を楽しげに飛びまわり出す。
あははは……あははは……きらきらきらきら……うふふ、うふふふ……。
「良いんですかぁ?でもでもぉ、こんなにたくさんあると迷っちゃいますね!あ、これ、超おいしそう!あーでも、これもいいかもー!」
随所に上目づかい、唇に人差し指を当ててみたり、小首を傾げてみたり、あれしたり、これしたり、女の子らしいポーズのデパート状態だ。女子力の玉手箱や。
長年培われてきたそれに、昨日今日の付け焼刃で敵う訳がない。
「そうだね、迷うね」
三樹は答えながら、何気なく桐生を見た。
桐生はもう一冊のメニューを手に取り、それをヒガシ君に渡していたところだった。
その後、お冷のグラスを手に取ろうとして、三樹の視線に気が付いたらしく、笑顔を返してきた。
三樹の、重く沈みかけていた気持ちが、ふっと軽くなる。
「サラダとか頼んで、みんなで分けません?あっ!ピザも超おいしそう!どれか注文して、みんなで分けません?」
キャラキャラとメニューを見ているだけと見せかけ、ふいに水沢が言った。自分ひとり分のメニューを決めようとしていた三樹は、はっと我に返った。
「そ、そうだね。いいんじゃない?」
と、辛うじて笑顔で答える。たぶん、できていたはずだ。
そんな三樹の心境を知らない水沢が、みんなで食べるピザやサラダを選ぼうとしている。
いや、決して選んではいない。
「おいしそう」「これも食べたい」「迷う」「決められない」を連呼しているだけだ。心の中の実況中継がひたすらに続いている。
(こいつに任せていたら、いつまで経っても決まんないって!)
仕方なく、三樹は横から口を挟むことにした。彼女の実況中継に合わせて、解説を挟んでいく、みたいなテンポだ。
「それも良いね。でも、こっちのほうがいろいろ入ってるよ?おいしそうじゃない?」とか、
「こっちのほうがボリュームがありそう。みんなで分けるのに良いんじゃない?」とか、そんな感じで。
(結局、こうやって水沢の世話を焼いてる自分……。仕事の時と、変わらないよぉ……。やれやれ)
「やべ!どれもうまそうっすね!うわー迷う!あーでも、やっぱりナポリタンかなー」
「お!良いね!東北沢君」
「ですよね!実は僕、子供のころからナポリタンが大好きなんですよ!ナポリタン注文して良いですか?町田主任、いいですか?」
ヒガシ君の急な振りに、びっくりする三樹。とっさに笑顔を作って答える。
「どうぞ」
ヒガシ君の顔がパァッと明るくなる。
「よしっ!」
と、ガッツポーズすら決める始末だった。
「なんか、ヒガシ先輩って子供みたい」
水沢がメニューから顔を上げて、ちょっと冷やかな目をした。
「はぁ?」
ヒガシ君が、ぽかんと口を開けた。そうかと思えば、唇をとがらせて言い返した。
「水沢さんにだけは、言われたくないなぁ」
水沢は、何も答えずにメニューに目を戻した。
「主任、じゃあ、ピザはこれにして……」
「無視かっ!」
ヒガシ君が声を上げる。
水沢は、また顔を上げると、今度は不敵に微笑んだ。ヒガシ君が、再びポカンとなり、桐生が笑い出した。水沢も桐生と一緒になって笑っている。
そんな雰囲気の中で、三樹も笑うしかない。
その笑い声が、からからと胸の中に乾いた響きをたてるのだった。
(はぁ~あ。やっていられない)
結局、ピザとパスタを二種類ずつ、それにサラダを頼むことにした。三樹は、それで足りるか不安だったが、水沢が、
「あたしぃ、あんまり、いっぱい食べないし、ちょっとで良いんです」
と言うので、止めた。
ここで大食いがバレても、なんだか、つまらない。
やっと始まるディナー……?




