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ふいに、耳の奥に、あのさわやかな声がよみがえってくる。
「町田主任」
と、彼が呼ぶ……。
(やだもー!彼とか言って、彼とか言って!三樹のせっかちさん!てへっ!)
アホだ。もう手の施しようがない。お釈迦様でも草津の湯でも治せないやつだ、これは。
こじらせ独女の心の中にひそんでいた乙女が炸裂しまくっている。
しかも、「三樹」とか呼ばれたんならまだしも、「町田主任」だ。すごく普通の、会社での間柄だ。
(でも違う、違うの!)
桐生に呼ばれるのと、ほかの人に呼ばれるのとでは、天と地との差だ。
あの声で呼ばれるから良いのだ。あの唇からこぼれる、彼の声だから、良いのだ……。
(そうね、ヒガシ君は爽やかで可愛いので、あれはあれで良いか……)
(それ以外の人から呼ばれても、はいはいって感じ。はいはい)
(とくに水沢とかね、ほんと……)
そう思うと、あの甘ったるい喋り方が耳によみがえって、気分が台無しになる。
(あーもう、今はそんなことを思い出してる場合じゃないのよ!)
心の中のクイックルワイパーで水沢を除去した。さっさっ。
そして、また、にやにやしながらハーブティーを飲もうとカップを口につけた。
空気しか入ってこなかった。
ひとりで勝手に、きゃっきゃきゃっきゃ盛り上がりながら、がぶがぶ飲んでいたので、知らぬ間に飲み干してしまっていたらしい。
せっかくの女子力高めの飲み物だったのに、もっと静かにゆったりと味わえば良かったのに……。
まるで宿さんと飲むビールみたいになってしまったじゃないか。どんな味だったか、香りだったか、ひとつも記憶に残っていない!
残念すぎる!
仕方がない、人はそう簡単には変われないのだ。ちょっとずつ、ちょっとずつ、変わって行こうとすることに意味があるのよ……なんて、自分を許せるのは大人の証拠。
腕時計を見ると、美容室を予約した時間が近づいていた。
最後に水を飲んで、席をたった。可愛い女性店員にお会計をしてもらうと、店の外に出た。
狭い空を見上げて、深呼吸をした。
(これから自分はちょっとだけ変わるんだ!)
そして、歩き出す。
ようやくゴールが見えてきた?




