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ドキン!
三樹の心臓が大きく跳ねた。
そんな彼女に向かって桐生が近づいてくる。
「町田主任、おはようございます」
などと言いながら、爽やかな笑顔で。
その後ろ姿を、なんとも言えない目つきで水沢が見つめている、ように見える。それに気が付いた三樹は、内心でガッツポーズを決めた。
なんだか勝ったような気がする。なんの勝利なのかは分からないが。
「おはようございます」
三樹も、冷静を装って、大人の微笑で答える。つもりだが、頬がどうしても強張りそうになる。
「改めて、よろしくお願いします」
桐生がこの上ない爽やかな笑顔で言った。きゅっと口角があがって、自然に微笑みがこぼれ出すようだ。
(どうして、こんな会社で働いているんだろう。普通に俳優とかになれるよね?)
(いや、むしろ芸能界に入らずに、この会社に就職することを選んでくれてありがとう)
(さあ、ハグしてあげよう。……って、できるわけない!止まれ!妄想止まれ!)
「こちらこそ、よろしくお願いします」
頭の中に次々に沸いて出てくる妄想をストップさせ、三樹も答える。
離れたところから水沢が見ている。
(おあいにく様。お嬢ちゃんは、そっちで飴でもしゃぶってなさい。なんてね)
「あれ?そのネックレス」
と、桐生が言った。
「昨日は付けていませんでしたね?」
「え?何か変ですか?」
三樹は慌てた。
久しぶりにアクセサリーを身に着けたので、コーディネートがいまいちだったか。急に色気づいたりすると、こういうことに陥るのだ。恥ずかしくなった。顔が熱い。
三樹が、気にしてネックレスをいじっていると、桐生がにこやかに言った。
「良いと思いますよ。とっても似合っています。お洒落ですね」
この一言で、三樹の世界が、とたんにパァァ……と明るくなる。
大輪のカサブランカに、ピンク色のバラ、黄色いフリージア、かすみそう……溢れこぼれん程に咲き乱れ、ふんぷんたる甘い香りをまき散らしている……。
黄色に水色に桃色……鮮やかな羽根に覆われた色とりどりの小鳥たちが、愛らしい声でさえずりながら飛び交っている……。
まばゆいばかりのスワロフスキー的なきらめきが、それらの美しいものたちを彩り輝かせている!
真っ白な翼の生えた天使が数人、無邪気に微笑みながらホバリングしている。ひとりは手に小さな弓矢、ひとりは小さなハープを持って。
しつこいようだが、ウィンドチャイムがキラキラキラキラキラ……と、ときめきを具現化したような音を立てている……。
(なんてステキな世界。ファンタスティック)
ほんとうは小躍りしたいぐらい嬉しいのだが、小さな咳払いの後で、微笑を浮かべて答える。
「ありがとうございます。たまには、いいかな、と思って」
大人の男女の会話を、小娘の水沢杏が妬ましそうに見ている。というふうに、三樹には見えている。
(あなたには、こういうやり取りは、とうてい、できないでしょうね。ふ……ふんっ!)
そんなことを思うと、水沢の顔が嫉妬にゆがんだかのようにすら見えた。そんな女たちの内心の駆け引きなどを知る由もない桐生は、いたって普通に仕事の話などを始めている。
背の高い彼を見上げる、このシチュエーションがステキすぎる。斜め下から見る、シャープな彼のあごのライン。耳を撫でていく彼の優しい声と、それらの言葉を発する彼の魅惑的な唇。
(あぁ、甘すぎる)
桐生は背が高く、すらっとしているが、それだけではなくて肩幅があるし、よく見ると胸板も厚そうだ。そんなことに気付くと、胸が高鳴る。
(何か部活でもやってたんですか?なんて聞いてみたりして?)
説明的な話をするときに、軽いゼスチャーが入る。彼の大きな手のひら、傷ひとつない長い指。
(頬ずりしたい!……いや、できないんだけどね)
そばに立っているだけで、三樹の胸はときめいて仕方がなかった。ドッキドキである。すっかり干上がっていたダムに、めぐみの雨が降ってきたような感じである。
干物女に潤いがもたらされ始めたのだ。
桐生の言葉は、いちいちいい香りがするようだった。ミントのように爽やかでありながら、大人の落ち着きをも兼ね備えた、やわらかな、ほんの少しだけ甘くスパイシーな香り。
(あぁ、たまらん……)
いっそ、目を閉じて、桐生の世界にどっぷりとひたりたい気にすらなる。少女マンガのワンシーンのように。キラキラの世界に。思わず、どんなキスなんだろうと想像したくなる。とたんに恥ずかしくなってしまう。
これからの仕事が楽しみでしかなかった。小売店側のどんな注文にも、笑顔で対応ができる気しかしない。いや、むしろ笑顔が三割増しぐらいだ。
(よっしゃ、来い!バッチ来い!こっちは恋だ!なーんちゃってー。ばーかばーか。道端に転がっている空き缶、思い切り蹴飛ばしちゃうぞ?)
妄想OL本領発揮か!




