3
忘れもしないあの日。それは、とても大切な、営業の日でした……(ナレーション町田三樹)。
事前準備も万端に整え、のしかかるプレッシャーと、その上を行く不安とを、なんとかやり過ごしながら、三樹はその日を迎えようとしていました。
不安の要素はただひとつ世間知らずな後輩OLの存在に外なりませんでした。粗相をする予感しかないのです。
そして迎えた当日の朝、1通のメールが来ました。件名は、ありませんでした。送信者は「水沢さん」でした。
(どうせ大した要件じゃないだろう……寝坊したとか……まったく、しょうもな……)
とかなんとか思ってメールを開いたら、とんでもない内容だったのです……。
軽めに言って、時が止まりました。
「具合がわるいので今日わ休みます」
(え!?なんの!?なんの具合が悪いの!?……おつむ!?)
(いやいや、仕事を休むってのにメールで済ます!?)
頭の中でいろんな疑問が飛び交います。疑問の渋滞です。落ち着け、落ち着け自分。そう言い聞かせながら、三樹は電話を手にしました。
(出ない)
呼び出し音を鳴らし続けました。何度も、何度も鳴らしました。この時の三樹は決意していました。
(出るまで鳴らす)
電話を持つ、三樹の手が震えているのは、ふつふつと込み上げる怒りを堪えているからなのでした。
(ここで切ったら負け……!)
三樹がそう思った時、「もしもし?」と水沢の声が聞こえました。それはそれは、寝起きみたいな声でした。
三樹の中で、何かが音を立ててキレました。それは、かつての人たちが「堪忍袋の緒」と名付けたものだったのです。
十代の三樹なら怒鳴っていたでしょう。しかし今の彼女はアラサー。立派な大人です。
「おはようございます。メール見ました」
そう言った、彼女の声は、ひどく落ち着いているように聞こえました。
「あっそうですか」
水沢のノーテンキなお答え。さすがの三樹も息をのみました。そうしなければ、ぶちキレてしまいそうだったからです。
再び、落ち着いた声で問いかける彼女。
「具合わるいって風邪?」
「あっ、はい。たぶん」
「たぶん!?」
さすがの三樹も、この時ばかりは声が裏返りました。
(心頭滅却、火もまた涼し……)
三樹は目を閉じ、深呼吸をしました。
「杏?」
なんということでしょう。電話越しに、ふいに聞こえてきたのは、水沢を呼ぶ男の声でした。
「誰に電話してんの?」
「あー会社の人」
水沢のお答えまでがハッキリと聞こえました。それは普段の彼女と変わらないトーン……体調が悪くて会社を休もうとしている人の声には聞こえませんでした。
最近のスマホのマイクは高性能……。長年にわたって培われた日本の技術バンザイ。しかし今はまったくの逆効果でした。
(どういうこと!?誰!?たしか一人暮らしだったよね!?)
(クソが。いや、お言葉が汚いわ、ダメダメ、女子力が下がっちゃうわよ。あー、クソ。思い出しただけで胸が悪くなる)
とりあえず、電話で少々きつめに言いました。社会人として、もっと責任感を持ってもらわなければいけないという先輩としての言葉でした。
翌日、何事もなかったように出社してきた水沢に、念のため、もう一度ちゃんと言いました。のらくらとした水沢の受け答えに、のれんに腕押しの感じしかありませんでした。
それでも、水沢が仮病を使って会社を休むことはなくなりました。ですから、一定の効果はあったと言えるのかもしれません……。(ナレーションここまで)
(一応、言っただけの意味はあったらしい……)
三樹は自分に言い聞かせた。
(そうでもしなくちゃ、やってられないっての!……あーもう、今すぐにでも飲みたい!)
当の水沢は、相変わらず男ウケだけの女だ。彼女に声をかけられて笑顔にならない男は、どうやら存在しないらしい。
それに、仕事は結婚するまでのつなぎだと思っている感じがすごい。でも、あいつならそれも可能だ。なんたって彼氏がいるのだから。大学のサークルで知り合って、ずっと付き合っているらしい。
この情報は、ヒガシ君から聞いたものだ。彼の苗字は東北沢なのだが、言いにくいので入社当時から「ヒガシ君」と呼ばれている。入社三年めで、まだまだ初々しさが残っている。三樹からしたら、ひたすらに可愛い後輩だった。彼の笑顔に癒される。
水沢は、ヒガシ君の後輩にあたるので、プライベートの話もするらしかった。たしか、水沢の彼が、今は何をしているとか、そういう話も聞かされたような気がしたが、あまりにも興味がなさすぎて、右のお耳から左のお耳へと、見事にスルーしてしまった。
(ちきしょう。かわいい女め。かわいいだけの女め)
うまく言えないが、「女の子」を享受しているというか、謳歌しているというか。
(なんて羨ましいんだ。羨ましいと感じちゃう自分がイヤ)
ジレンマを酒で流す、三樹はアラサー。彼氏なし。