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朝礼がお開きになった後も、三樹の動悸は収まらなかった。
(どうして、あんなに目が合っちゃったんだろう?……)
男性が自分に見とれるなど、想像したこともない三樹だった。
(もしかして、顔になにか付いていたとか?)
急に心配になって顔を撫でまわし、スマートホンのインカメラすらも駆動してみた。どうも、何かが付いているわけではなさそうだった。ほっと一安心した。
(もしかして、私のことを……見たの?……)
想像しただけで、胸が高鳴る。
(ないない!自意識過剰……!でも……でもな……)
今朝の占いが三樹の背中を押してくる。
「桐生さん、超かっこいいー!」
三樹の思いなど知る由もなく、水沢がキャッキャとはしゃいでいる。
「あたし結婚したぁい!あたしがぁ、もしも、結婚したらぁ、桐生杏!……キャハッ!ちょっと可愛くないですか?芸能人ぽいっていうか」
水沢の無神経さに三樹はイラっとしたが、ふと想像してしまった。
(もし、結婚して苗字が変わったら、桐生三樹……)
「ま、ムリだね」
ヒガシ君が、キッパリと言ったので、三樹はビックリした。まるで、心の中の妄想を否定されたみたいなタイミングだった。
「えー?なんでですか?」
水沢の不服そうな声がしたので、三樹は、自分の心の中を覗かれた訳ではないことが分かり安心した。
(ヒガシ君が心の読めるエスパーだったら、もっと営業成績が良いはずよね)
などと、余計なことを考えたりもした。
なおも、ヒガシ君と水沢のやり取りは続いていた。
「どう考えたってムリでしょ」
「だから、なんでなんですか?」
「そんなこと自分で考えろよ~。はいはい、仕事仕事」
「えー?」
「えーじゃありません」
「はーい」
結局、水沢はいつも通りだった。フグみたいに膨れた顔をしてデスクに戻っていく。ヒガシ君もだ。そんなふたりのやり取りに、三樹はツッコミを入れる気にもならなかった。
仕方がないのだ。
三樹の目は、移動日の初日らしく、あちこち忙しなく歩き回っている桐生を追っていた。誰かと話している桐生、デスクに座りかけて、やっぱりやめた桐生、スマホを見てすぐに閉じる桐生。しかし、彼が顔をあげると、三樹は目をそらしてしまった。目が合ったら動揺を隠す自信がない。
そして、頭の中には煩悩が渦巻いていた。
少女マンガのような出会い……突然のキス……。キラキラの世界……100万本の薔薇の花……。
(白い鳩は結婚の象徴でもある)
占いの言葉が三樹の脳裏によみがえる。
(もし結婚したら……桐生三樹……)
すっかりと鼻の下が伸びてしまっている。それどころか、もはや鼻血でもたらしそうな勢いだ。もしそうなったら、少女漫画の中でもレアなタイプのギャグマンガになってしまうが。
デスクに置いていた仕事用のスマートホンが振動し始めた。取引先の電話番号が表示されているので、急いで電話に出た。
「どーも、ナノカドーの新田ですぅ」
と、聞き慣れた呑気そうな男性の声が聞こえてきた。
「町田さん、いま大丈夫ですか?」
さすがに移動初日のイケメンを見るのに忙しいとは言えないので、「大丈夫ですよ」と答える。
「実は今度のイベントの件で……」
三樹は、スマートホンを肩に挟んで話を聞きながら、慣れた手つきでパソコンのウィンドウを開いた。店舗の担当のキャラクターにもよるが、だいたいワガママを言ってくる。新入社員で営業部に配属になった時には、分からないことだらけで一生懸命にやるしかなかったが、幸いにして、そこまでアクの強い担当になることがなくて助かってもいた。それも、三樹が新人だったからの話で、今はそうも言っていられない。言葉を選ぶなら、ユニークなキャラクターの担当に当たることが増えてきた。
この新田という男性も、気分の良い時はほんとうに良い人なのだが、予算達成が厳しいだとか、催事が重なって忙しいだとか、いろんな条件が重なってくると気難しくて面倒な人になっていく。シンプルにキャパオーバーを起こしているのだ。ある意味で、分かりやすいと言えば、分かりやすい人だ。今日の電話は、前者のようだった。
電話は無事に終わり、三樹はほっと一息ついた。なんとなく顔を上げると、桐生がすっと目をそらしたようだった。
(ま、気のせいか……)
そう自分に言い聞かせながら、仕事に戻っていった。そうかと思えば、ふいに自分の髪の傷みが気になった。さらに、今日の服装についても、これで良かったのだろうかと気になり始める。
(こんなことだと分かってたら、もっとマシなの着てきたのに!)
とかなんとか、急に三樹の中の女子が顔を出す。
「町田主任」
ヒガシ君が呼んだ。
三樹は上の空で、「はい」と言ったような、言っていないような。インナーのシャツに、しょう油か何かによるほんの小さなシミを見つけてしまい、愕然としていたところだったのだ。当のヒガシ君は、そんなことに気が付く様子もなく言った。
「――おかしくないですか?」
一昔前の衛星中継ぐらいの間があいてから、三樹が聞き返した。
「は?え?何?ごめん」
「このネクタイ、買ったばっかりで……」
ヒガシ君がネクタイの結び目をいじりながら言った。
「今日、初めて、しめてみたんですけど、大丈夫ですか?おかしくないですか?」
爽やかなブルーの水玉模様のネクタイで、ヒガシ君らしい若々しいチョイスである。入社三年めでも、まだコーディネートには悩むものなのだろうか。そう思うと、ちょっと微笑ましくなった。
「どうして、私に聞くの?男性社員の先輩に聞いた方が良いんじゃない?」
「いや、あの……。なんか、いつ聞いても、良いねって言ってくれるんですけど……SNSのリアクションみたいに……」
ヒガシ君が、ぽりぽりと頭を掻きながら、小さな声になった。その様子を想像して、三樹は笑いそうになった。
すると、ヒガシ君は、少々照れたような微笑になって、
「うまく言えないんですけど、その……、女性の意見も聞きたいなあって。水沢さんじゃ、あんまり、ちゃんと言ってくれなさそうだし。なので、町田主任に見てもらいたくて……」
「私もファッションにはそんなに詳しくないのよ?お洒落ってわけでもないし……参考になるか分からないわよ」
「ぜんぜん!それでいいです!」
ヒガシ君が一生懸命なので、三樹は微笑ましい気持ちになった。分からないなりにも、きちんと見なくちゃ……と、三樹がヒガシ君のネクタイを見ると、さすがに少し緊張したような表情になる。それがまた、初々しい感じがして可愛い。
「いいと思うわよ。ヒガシ君らしいっていうか、うまく言えないんだけど、爽やかな感じもするし、私は似合ってると思うわ」
「ありがとうございます」
ヒガシ君は、安心したような、ほわっとした笑顔になった。
ふと、視線を感じて顔を上げると、今度はしっかりと桐生と目が合った。一瞬で、三樹はテンパる。
「町田主任?」
ヒガシ君がまた呼んだ。三樹の顔を覗き込むようにして、
「どっか具合でも悪いんですか?なんか、ぼおっとしてますけど」
ほんとうに心配しているようである。
ヒガシ君は心底から、掛け値なく、やさしい子だ。この心根の美しい後輩を見て、ようやく三樹は我に返った。
「ぜんぜん?どっこも悪くないわよ!」
とっさにテンションのシフトを切り替える。
「さ、今日も頑張るわよ!」
切り替えすぎた。
振り返ったとたんに、太ももをデスクの角にぶつけた。
ゴツッと良い音が出た。
(くぅ~!地味に痛い……。後から後から、じわじわと来るぅ……)
「だ、大丈夫ですか?」
またしてもヒガシ君に心配をされている。
「大丈夫、大丈夫……」
笑顔に無理がある。涙目だ。
それでも、いつまでも立ち話をしている訳にはいかないので、ヒガシ君を仕事に戻らせた。やや心配そうな顔ながらも、ヒガシ君は自分のデスクに向かった。
三樹も仕事に入ろうと思ったが、急に気になって振り返った。そこに、桐生の姿はなかった。
(へんな姿を見られなくて良かった……)




