君がいた場所
雪の降る町の空気は澄んでいる。何者をも寄せ付けないような、余所者は排除されてしまうような、静けさが漂っている。私はその静けさが嫌いじゃない。れっきとした余所者だからだろうか。ここには溶け込めないことを、細胞レベルで感じているからだろうか。
ポツリポツリと適当な間隔で建っている日本家屋。そういえば彼は、こういうのが好みなのだったっけ。そう、都会には無いものが。
雨を含んだ雪は重い。一歩踏みしめるだけでも、普段通りの歩行のようにはいかない。ここで転んでしまったら、誰か助けてくれるのだろうか。都会の人間は他人に無関心というけれど、閉鎖的な田舎暮らしというものは、それ以上に冷たさが増すような気がする。そう思うのは私だけだろうか。都会人の、偏見だろうか。
等間隔に置いてある街灯はいかにも頼りない。人工的な明かりが極端に少なくて、果たして人が住んでいるのかと、失礼なことを考えてしまう。でも確かに、住んでいる。彼はこういう所を求めていたから。彼の部屋に、ここの地図が載っていたから。行くまでの電車の時間などが調べられていたから。だから彼はここにいる。
「お姉ちゃん。誰?」
赤いランドセルの女の子。私を見て、目を大きく見開いている。知らない人がいることに、ここまで驚けるものなのだろうか。
「ここの人じゃ、ないよね」
方言じゃないだけありがたい。それでもどこかイントネーションは聞き慣れないものだった。でも、聞き取れないわけではない。
「違うよ。ここの人じゃない」
「何しに来たの。こんなところ」
「人探し」
「ふーん」
女の子は、人探しに興味があるのかないのか、私をじっと見つめる。そこには好奇心は見られない。むしろ不思議がっているような、簡単な問題に答えられない同級生を見るような、目をしている。
「人探しなんて簡単だよ」
女の子は、今度ははっきりとつまらなそうに一息に言った。
「最近、お兄さんがここに来た。ここに住みたいんだって。最近の若いのは分からんってじいちゃんが言ってた」
そうか。私はここに来て思い至る。閉鎖的な、余所者を寄せ付けない町特有の、自然と芽生えるような結束力を。
「そのお兄さん、どこにいるか知ってる」
好奇心が萎んだ女の子は、それでも指し示してくれた。
「ここをまっすぐ。左手の家。見るからにボロいから、分かると思うよ」
女の子が離れて行く。挨拶も無しに。じゃあね、と手を振ることもなく。きっと私も、彼が女の子のおじいちゃんに思われたように、変人だと思われたのかもしれない。あの女の子は、家に帰ってから、おじいちゃんに話すかもしれない。最近の若いのって、ホントに分からないね、と。
言われた通りに道を進んだところに、家はあった。見るからにボロいと女の子は言っていたけれど、それは手入れがされていないというだけで、今にも崩れそうだとか、大きな欠陥を抱えている建物ではなかった。外壁の色はくすみ、それも雪の白さによってより際立つ。その目立ち方が、劣化を印象付けているのかもしれない。でも、人は住めそうだ。そして女の子の言う通りなら、人は住んでいる。彼が、住んでいる。
呼び鈴は見当たらない。私は玄関扉を叩いた。すみません、誰かいませんか。
ほどなくして中から声がする。はーい。聞き覚えのある声に安堵を覚え、戸が開くのを待つ。
「どちらさまで」
彼は私を見とめると、そこで言葉を詰まらせてしまった。
「久しぶり」
彼は数秒のフリーズの後、軽やかに言った。
「うん。久しぶり」
「中、入ってもいい」
「う、うん。どうぞどうぞ」
彼の後をついて歩く。床板は靴下を履いていても寒さが染みてくる。スリッパは無いのか、と聞こうとしてやめた。勝手に同棲を解消してこんなところにくる男だ。スリッパなんて気遣いを、持っているわけがない。
「まあ適当に座ってよ」
部屋は綺麗に整頓されている。こたつ布団が、私を誘惑して来たので、なんの遠慮もなく暖をとることにした。
「いいよね。コタツ」
「そうなんだよ。いいよな。コタツ」
半年ぶりに会う彼は、何も変わっていなかった。驚くほどに、なんにも。
「ここはさ。いいんだよ」
何も訪ねていないのに、彼は言う。
「自然がいいというわけじゃないよ。ただ、なんていうか、人がいない。ごちゃごちゃしてないそういうのがさ、いいんだ」
「うん。そっちの方が合ってそう」
営業回りをしていた彼。いつも疲労困憊という様子で、昼もなく夜もなく働いていた彼。決して要領がいいとは言えないから、上司にこき使われ、部下にバカにされ、それでも必死に、あくせくしていた、彼。
そんな彼に私は何もしなかった。同じ会社にいながら、何もしなかった。ただ、見ているだけだった。
「こういうのをさ、憧れていたんだよ。君としては、逃げた男、になるんだろうな」
まあ、逃げたというよりは、消えた男だ。ある日、帰ってこなくなって、会社にも来なくなって、それで、実家にも帰っていなくて。
「自殺したんじゃないか、とか一時騒いでいる人がいたよ」
「うん。それも考えた」
彼はまたしても軽やかに言う。自分の言葉に重みは無いんだとばかりに、解放されたように、彼の言葉は軽やかになっていた。
「でもね。違うかなって思ったんだよ。なんかさ」
「違うって、何が」
「だって僕、死に場所を求めていたわけじゃなかったし」
「生きてた場所から逃げたのに? それは逆を言えば、死に場所を求めていたんじゃないの?」
「うわ。手厳しい質問だ」
彼はカラカラと笑った。初めて見る笑い方だった。
「えっとまあ、なんて言うかさ。逃げたよ。逃げたけどさ。振り返ったわけじゃないからさ」
「どう言う意味?」
「その、なんて言うかさ」
コタツの中で足を組み替える彼。そのモゾモゾした動きが、妙に愛らしいと思った。
「過去には逃げなかったんだよ。過去には。そう、僕は、前を向いて逃げた。未来に逃げたんだよ」
「それって」
「それって?」
「とてもあなたらしい気がする」
逃げた彼。前を向いて逃げた彼。要領が悪くて上司にこき使われ、部下にバカにされ、それでも後ろを振り返らなかった彼。未来に逃げた彼。
そんな彼を、私はまた、愛したいと思った。
「逃げたのは正解。でも、私を捨てたのは不正解」
「捨てたつもりは無かったよ」
「じゃあ、どういうつもりならあったのよ」
ちょぴっとだけ責める口調になってしまう。でもそれは仕方のないことだ。捨てられたと思った女の気持ちを、彼が分かる事は二度と無いだろうから。
「ちゃんと迎えに行くつもりだったよ。僕の気持ちが落ち着いたら」
「今は落ち着いてないの」
「びっくりしてるからね。そりゃあ落ち着かない」
そう言って彼は笑う。カラカラと。
「でも、悪い気はしない。まったく」
「それならよろしい」
私もコタツの中の足を組み替える。彼も同じく組み替えようとしていて、コタツ布団が盛大にモゾモゾする。カラカラと、モゾモゾがあれば、ああやれるな、と私は思った。
「私もここに住んでいい」
「もちろん。同棲生活の再開だ」
「うん。再始動だね。新しいスタートだ」
澄んだ空気に混じる笑みは、雪と合わさって静かな彩りを一面に降らせる。その純白に嫌気が差すくらいに、私はここに住み着きたいと思った。彼と、一緒に。