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走れおじい

作者: 真門 悠

 おじいはボケていた。必ず、かの邪知暴虐じゃちぼうぎゃくの看護師に意見を述べねばならぬと決意した。

 おじいには、昨晩の夕飯が解らぬ。おじいは、村の老人である。田畑を耕し、米を育てて元気に暮して来た。けれども病気に関しては、人一倍に鈍感であった。

 きょう未明、おじいは軽トラックで村を出発し、野を超え山越え、十里離れたこの中心市街地にやってきた。

 おじいは、女房と、二十四の内気な娘と三人暮らしだ。

 この娘は、東京の或る健気な青年を、近々、花婿として迎える事になっていた。結婚式も間近なのである。今宵は、おじいの家に花婿を招き、小さな宴を開く事になっていた。

 おじいはそれ故、披露宴に来ていく衣装やら、今夜のご馳走やらを買いに、はるばる市街地までやってきたのだ。

 

 おじいには竹馬の友があった。芹野せりのである。今はこの市街地でカフェを経営している。その友を、久々に訪ねてみようと思いついた。

 もう何年も逢っていないのだから、訪ねて行くのが楽しみである。芹野のカフェを目指し歩き始めた。

 しかし、歩けど歩けど、芹野のカフェは全く見つからぬ。そうして延々とカフェを探し歩いている内、おじいは、ここに来た本来の目的を忘れた。

 なぜ自分が、市街地に来ているのか、どこへ向かって歩いているのかも解らぬ。

 そうしてとうとう、日も落ちかけ、街は徐々に薄暗くなり始めた。

 のんきなおじいもだんだん不安になってきた。とりあえず一度、家に帰ろうと考え、軽トラックを停めたコンビニの駐車場へ歩を進めた。


 コンビニは、あった。けれども、軽トラックが見つからぬ。それどころか、日中は確かにあったはずの駐車場も、丸ごとそこから無くなっていた。

 おじいは、コンビニの前で屯う若い衆をつかまえて、昼に来た時には確かにここに駐車場があった筈だが、と質問した。若い衆は首を傾げて何も答えなかった。

 しばらくすると、そのコンビニの店員がやってきた。おじいは、今度はもっと語勢を強くして質問した。店員もまた首を傾げて、何も答えられなかった。 

 おじいは両手で店員のからだをゆすぶって質問を重ねた。店員は、わずかに震える低声でこう言った。


「警察を、呼びますよ」

「なぜ呼ぶのだ」

「貴方の言動がおかしいからです。この店には、元から駐車場なんてありません」

「驚いた。では俺はどこに車を停めたのだ」

「分りかねます」


 おじいは混乱した。では、一体ここはどこなのだ。

 おじいは納得できなかった。ここに駐車場が無いのはおかしい、俺の車をどこにやった、と店員に怒鳴り散らした。

 店員は慌てふためき、若い衆は、落ち着いてくださいとおじいを宥めた。おじいはそれでも顔を真っ赤にして怒鳴り続け、その後、急に咳き込み始めた。大丈夫かと心配そうに若い衆はおじいの背中をさすった。

 それでも咳は治まらず、やがておじいは苦しそうに胸を押さえながらその場に倒れ込み、そのまま意識を失った。



 おじいが目を覚ますと、そこは病床であった。

 おじいの腕からは、細い透明のチューブが伸びており、その先は点滴薬の入った袋につながれていた。自分が何故ここにいるのか、おじいには解らなかった。

しばらくすると、おじいを囲っていた薄桃色のカーテンの隙間から白衣の女が現れた。彼女は、おじいが目を覚ましたことを確認すると、柔らかく微笑んだ。


「目を覚ましましたか。調子はどうです? どこか痛いところはありませんか?」


 おじいは、頭が少し痛むと答えた。白衣の女は、愛らしい微笑を湛えながら、おじいの頭や、瞳孔やら心拍を手際よく確認し、あとで先生が来ますので。と言い残して、そのまま去っていた。

 女が去った後では、病室内はしんと静まり返り、おじいは心細く感じた。目を閉じると、若き日の女房の姿がおぼろげに瞼の裏に映し出された。おじいはそれに安心して、また眠りに就いた。


 結局おじいは、検査入院という形で、しばらく様子を見ることに決まった。

 明くる日の朝、面談の客があると、おじいの病室に三人の者がやってきた。おじいは、ぼんやりと病室の天井を見続けていた。しばらくすると、一人の見慣れない老婆が、おじいの枕元にやってきて、顔を覗き込み、声を掛けた。


「あなた、体調は大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫です。なんとか」

「どこも痛まない? お腹は空いていない?」

「ええ、ええ。大丈夫です。お気遣いなく」


 老婆はそれを聞くと、口元を抑えて、可笑しそうにくつくつと笑った。


「ねえ、あなた、どうしてそんなにかしこまっているのかしら。敬語を使うなんて、可笑しいわ」


 おじいは、その言葉の意味が良く分からなかったが、優しそうに笑う老婆の姿をみて、つられて微笑み返した。


「ほら、和美と宗一君も、心配してお見舞いに来てくれたのよ」


 老婆がそう言って、おじいの傍を離れると、今度は若い男と、女の顔がおじいの顔を覗き込んだ。


「お義父さん、お久しぶりです。宗一です。体調は大丈夫ですか」


 おとうさん。その言葉におじいは違和感を覚えた。彼は一体誰なのか、おじいには解らなかった。


「君は、誰だったかな」


 おじいが正直にそう答えると、男は少し寂しそうな顔をした。

 

「お父さん、宗一君よ。解らない? 私の旦那さん」


 今度は隣の若い女性が、心配そうな声音で訊ねた。おじいは、その女の顔には見覚えがあった。それは、昨晩、おじいが夢に見た女性の姿であった。


「やあ、タエさん。君も来てくれたのか。心配をかけたようで、悪かったね」


 おじいがそう答えると、彼女は噴き出した。


「お父さん、私は和美! タエさんはこっち」


 そう言って、彼女は老婆の方を指さした。老婆は寂しそうに笑って、それから静かに俯いた。


「ねえお父さん、私のこと分かる?」

「タエさんじゃ、ないのか」


 おじいは混乱した。彼女がタエでなければ誰であるのか、あの老婆は、青年は、誰であるのか、全くもって検討が付かぬ。

 彼らは、何とかしておじいに自分たちのことを思い出してもらおうと、あらゆる手段で説得を試みたが、とうとうおじいは何も思い出さなかった。

 そうして、日が暮れ始め、窓の外が薄暗くなった頃、彼らはまた寂しそうな笑顔を湛え、また来るからねと言い残し、病室を後にした。

 おじいは、寂しかった。



 それからの、おじいの生活は大変であった。

 まず、脳内の写真を撮らせて欲しいと、正気とは思えぬ事を頼まれ、小さな寝台に無理やり寝かされ、機械仕掛けの白い筒の中を、何度も行ったり来たりした。

 血もたくさん採られた。おじいは、自分の血を見るのが苦手である。それ故に、毎回おじいの血を吸い取りに来る中年の看護師を心から憎んだ。

 この看護師の悪行はこれに終わらぬ。彼女は、おじいに飯を与えなかった。

 おじいは毎日毎日、その中年の看護師にご飯を下さいと頼んだ。しかし、看護師はいつも呆れたように笑い、「先ほど食べたじゃないですか」と答えるのだ。


 おじいは激怒した。「呆れた看護師だ。任せておけぬ」

 おじいは、頑固な男であった。点滴を、さしたままで、のそのそ正面玄関へ向かって行った。

 たちまち彼は、巡回の看護師に捕まった。調べられて、おじいの懐から小銭とタクシー券が出てきたので、騒ぎが大きくなってしまった。

 おじいは、例の中年の看護師の前に引き出された。

 

「こんな時間に、どこへ行くつもりだったのですか?」


 中年の看護師は静かに、けれども威厳を以って問い詰めた。

「家に帰って、飯を食うのだ」とおじいは悪びれずに答えた。


「またですか?」看護師は、困り顔で笑った。

「記憶にないかもしれませんが、毎日ご飯は食べておられますよ。今晩は、焼き魚。昨日の晩はほうれん草と豚肉のソテー。ちゃんと食べています」


「食べていない!」と、おじいはいきり立って反駁はんばくした。

「人の心を疑うのは最も恥ずべき悪徳だ。君は、患者の忠誠さえ疑っている」

「疑うも何も、本当のことでございます。その証拠に毎日お手洗いに行かれているでしょう」

 おじいは、ぐぬぬと呻き、黙り込んだ。

 おじいは、毎日快便であった。

 

「入院生活が辛いのも分かりますが、今は我慢してください。私も、患者様が元気になるのを祈って、毎日働いているのです」


 そう言って、看護師は自分のポケットの中から小さなクッキーを一つ取りだし、おじいにそっと手渡した。


「誰にも言ってはいけません。このような事は、本当は許されないのですから」


 おじいは、ありがとう。と呟き、そのクッキーを受け取ってその場でむしゃむしゃと食べた。

 看護師は、空になったクッキーの包みを受け取り、おやすみなさいと言った。

 おじいも、おやすみと言って、自分のベッドで横になった。


 それから五日が過ぎた。

 これまでの間、例の老婆と、タエに似た女性は、おじいの元へ毎日見舞いに来てくれた。青年の姿も、たまに見かけた。

 おじいは、彼女たちが自分と近しい存在であるのだろうという事を察し始めていた。具体的に、どのような間柄なのかはよく解らぬままであったが、それでも、彼女らとの面会は、この心細い入院生活の小さな楽しみとなって、おじいを支えていたのであった。


 ある日、彼女らとは別の来客があった。

 背の高い、おじいと同い年ぐらいの男で、その堀の深い顔を見たとき、おじいは大変に感激した。


「おい芹野せりの、芹野じゃないか!」

「やあ、久しぶり。調子はどうだい?」


 芹野は、意外そうな顔をしながら、ゆっくりとおじいの元へやってきた。


「僕のことを、覚えているのかい? 聞いていたよりもずっと元気そうで安心したよ。てっきり僕のことも忘れているかと思った」

「君を忘れる? そんなことはあり得ないさ。ほら、そこに座り給え。話をしようじゃないか」


 おじいは、ベッドの下から面会者用の椅子を引き出し、そこに芹野を座らせた。彼は、久々の芹野との再会に浮かれていたのだ。

 芹野もまた、元気そうにしている友の姿を見て、ほっと胸を撫でおろした。


「すまないね。もう少し早くお見舞いに来たかったんだけども、なかなか忙しくてね」

 

 芹野は申し訳なさそうにおじいに頭を下げた。


「いや、いや。そんなことは気にするな。俺は君が来てくれただけで嬉しいのだ。どうだい、仕事の調子は。商社マンは大変だろう」


 おじいがそう答えると、芹野は目を瞬かせて恐る恐る答えた。

 

「いや、商社の仕事はずっと昔に辞めて、今は街でカフェをやっているよ。君も何度か来てくれただろう」

「あれ、そうだったかな」


 おじいは、恥ずかしそうに笑った。芹野も、寂しそうに微笑んだ。


「君が、うちのカフェの近くのコンビニで倒れたと聞いていたから、てっきりあの日、君は僕に会いに来ていたのでは思っていたのだけれど」

「そうか、そうだったか。しかし、正直に言って、俺がここに来るまでの経緯は全く思い出せないのだ。でも君の言うことが本当なら、俺はきっとその日、君の所へ行こうとしていたんだろう。いや、そうに違いない」


 おじいがそう言うと、芹野は照れ臭そうに笑った。


「でも、よく考えれば、君が僕のところに来るときは、いつも前日に連絡をくれたよね。あの日は何の連絡もなかったし、何か別の用事があったんじゃないかな?」

「別の用事……」


 おじいはそう呟くと、一瞬、脳内に毎度面会に来てくれる彼女らの顔が浮かんだ。頭の奥がぴりぴりと痛み、その都度、また何かを思い出しそうになる。

 あの日、芹野のカフェの近くで、俺は倒れた。芹野に会うのとは別の用事で、俺は街に出ていたのだ。その用事は、恐らく。

 記憶の波にもまれるように、何かを思い出しては、また沈んでいく。芹野は、急に黙りこくったおじいを心配して声を掛けたが、それでもおじいは、目をぎゅっと瞑り、記憶の荒波にもまれ続けた。

 そうして、はたと顔を上げ、おじいは芹野に問うた。


「なあ、今日は何月の何日だ?」

 芹野は手元の携帯でカレンダー機能を起動し、答えた。

「六月の、七日だな」

 おじいはそれを聞くと自分の鞄から手帳を取り出し、震える手で六月の予定表を開いて、七日の枠を指さした。そこには、和美、宗一君結婚式と書かれていた。

 その瞬間、記憶の波から一つの会話が浮かび上がった。――なあ、和美。どうして梅雨の時期なんかに式を挙げるのだ? ――知らないの? お父さん。六月の結婚式は。


「ジューンブライド」


 瞬間、おじいの中で全てが合点した。あの老婆は、女性は、私の家族だったのだ。そうして今日、あの青年も私の家族になる。鼻の奥がつんと痛み、わずかに視界が霞んだ。

 こうしては居られぬ。早く娘たちのところへ向かわねば。

 おじいはベッドから立ち上がり、腕の点滴針を躊躇なく引っこ抜いた。芹野は突然の出来事に驚き、おじいを制止させようとした。おちつけ、おちつけと何度も叫んだ。

 おじいは、息を切らしながら、静かに芹野と向かい合い、言った。

 

「俺は今から、式場へ行かねばならぬ、娘の門出を祝いたいのだ。しかし、私はこの通り、この病院から出てはいけない身である。なあ、芹野。十八時までで良い。十八時の検査まで、私はここを留守にする。君は、私の不在を誤魔化し続けてはくれまいか。あの中年の看護師さえ誤魔化せれば何とかなるのだ。頼む。夕刻まで、きっと」


 おじいはこれを一口に芹野にまくし立て、病室から走り去った。梅雨の昼、曇天の空である。

 芹野は何が何やらわからず、その場でただ茫然と立ち尽くしていた。

 おじいはエレベーターを待つ時間も惜しんで、階段を駆け下り、一目散に正面玄関を突破した。ついで、院内のバス停に並ぶ人々を押し分けかき分け、その奥にあるタクシー乗り場へ駆け込んだ。

 懐からタクシー券を取りだし、適当なタクシーに乗り込み、手帳の下に書かれてある住所を運転手に突きつけた。


「ここの式場へ向かうのだ。なるべく早く、最速で」


 タクシーは低いエンジン音を轟かせ、病院を後にした。

 国道に出ると、タクシーは法定速度をしっかり守り、安全運転で走行した。

 おじいは仕切りに、速くしろ、急げ、そら抜かせと、運転手を煽りに煽ったが、堅実なタクシードライバーは全く聞く耳を持たず、病院から二時間ほどかけて、ようやく目的地に到着した。

 もう日が傾き始めている。おじいは、タクシーが式場の駐車場に止まるなり、すぐさまタクシー券の束を丸ごと運転席に放り投げ、自動で開くはずのドアを、手動でもって乱暴に開け放った。

 パタパタと病院のスリッパを鳴らしながら、チャペルの正面扉まで一目散に掛け走る。

 途中、後ろから、タクシー運転手が何かを叫んでいるのが聞こえたが、今のおじいにはそんなものに構っている暇など無かった。

 やっとの思いで、チャペル正面の大扉にたどり着くと、扉の向こうから神父の誓いの言葉が聞こえてきた。よかった。どうやら間に合ったらしい。おじいは、ひと思いに大扉を押し開けた。


「ちょっと待ったあ!」


 おじいの声は、チャペルの隅々まで響き渡り、式場にいた全員が、おじいの方を振り返った。場は静まり返り、ただ、驚愕と好奇に満ちた無数の瞳が、病床から這い出てきたままの老人に、釘付けになっていた。

 おじいは、今しがた接吻をする直前で固まっている新郎新婦の元へ、またパタパタと音を立てながら走り寄っていった。

 和美と宗一は、おじいの姿を確認するなり、「おとうさん!」とほぼ同時に声を上げた。神父は目を点にして固まった。式場は騒然とした。

 おじいは、和美のドレス姿を見て、綺麗だ。と微笑んだ。宗一のタキシード姿を見て、良く似合っていると肩を叩いた。二人は困惑しながらも嬉しそうに口元を緩めた。

 

「おめでとう。俺は病院から抜け出してきたのだ。これからすぐに、戻らねばならない。俺は、今は、正気だ。和美のことも、タエのことも、宗一君のことも理解している。だから、二人の門出を祝いたくて、俺は抜け出してきたのだ」


 式場はさらにざわめいた。これは珍しいと、夢中で写真を撮る者、こういう演出なのだろうと無理矢理納得する者。様々な思惑が、式場内を満たしていた。


「和美、もうお前には、優しい亭主があるのだから決して寂しいことは無い。お前の父の、一番嫌いなことは、嘘をつくことと、飯が食えぬことだ。分かったね? 亭主との間に、どんな嘘もついてはならぬ。君はタエに似て可愛いのだから、きっと良い妻になるさ」

 

 花嫁は、困惑気味に頷いた。おじいは、それから花婿の肩を叩いて、「頑張り給え」と言った。花婿は物足りなそうにして、頷いた。

 おじいは笑って来場者たちにも会釈して、宴席から立ち去り、チャペルの外へ出ようとした。


「ちょっとあなた、どうやって戻るつもりですか!」


 客席から、タエの声が聞こえた。おじいは振り返り満面の笑みで、タクシーで帰ると答え、その場からパタパタと走り去った。

 しばらくして、式場はどっと沸いた。なぜか、拍手と歓声も聞こえた。おじいはそれで満足すると、タクシーを探しにまた走り始めた。


 タクシーは、探すまでもなく教会の駐車場に、来たままの形で止まっていた。

 おじいは感激して、運転席に手を振った。運転手は恨めしそうに、おじいを睨んだ。

 

「お客さん、困りますよ。これ、期限切れのチケットじゃないですか」

「あれ、そうであったか。それはすまなかった。金ならある。だから早く病院に戻ってくれ。友を待たせてあるのだ」


 運転手は疑わし気におじいを見ていたが、執拗に急かされたため、やむなくおじいを乗せて、元来た道を戻り始めた。

 日はいよいよ沈み始めた。おじいは、運転手を急かした。


「ああ、もう日が沈む。間に合わない、もっと飛ばしてくれ」

「いや、お客さん。まだ日は沈みませんよ」

「ちょうど今頃、芹野せりのは看護師にいじめられている事だろう。ああ、友よ、君は待っていてくれた。よく俺を信じてくれた」

「お客さん、もうすぐ着くから」


 その後も運転手は何度も、もうすぐ着くと繰り返したが、一向に病院にたどり着く気配はなかった。病院前の国道は渋滞していたのだ。

 おじいは、空を仰いだ。西の空は燃えるように赤く、斜陽は赤い光を、木々の葉に投じ葉も枝も燃えるばかりに輝いている。

 十八時の検査まで、まだ間がある。俺を待つ友があるのだ。

 おじいは、今度は財布の中の小銭と札をすべて運転席に投げつけ、ドアを開け放ち、国道沿いの歩道をまっすぐに走り始めた。また後ろから運転手の叫び声が聞こえたが、おじいは聞こえぬ振りをした。

 待っていろ友よ、俺は君を裏切らぬ。俺は信じられている。俺は、信頼に報いなくてはならぬ。今はただその一事だ。走れ!おじい。


 道行く人を押しのけ、驚愕させ、赤信号を渡りクラクションを鳴らされ、猫を蹴飛ばし、少しずつ沈んでいく太陽の、十倍も速く走った。

 病院の正面玄関にたどり着き、息をつく間もなく、おじいは自分の病室まで急いだ。

 おじいは、今はもう裸足で、ぺたぺたと廊下を走った。風態なんかはどうでもよい。おじいは、一秒でも早く芹野の元へと急いだ。

 やっとの思いで、自分の病室を目前にすると、その前には何人かの看護師が集まっていて、中からは中年看護師の声が聞こえてきた。

 

「いつからいなくなったのです! あの方は、今は安静にしていなければならないのに」

「大丈夫です、十八時までには必ず帰ると彼は言っていました。きっとすぐに帰ってくる筈です」

「そういう問題ではありません!」


 ああ、芹野。芹野が、俺の為に怒鳴られている。おじいは病室に飛び込み、声を発した。

 

「俺はここにいる!」

 

 看護師達は、どよめいた。帰ってきた。ボロボロじゃない。なにがあった。と口々に呟いた。

 おじいは、目に涙を浮かべて言った。

 

「芹野、俺を殴れ。力いっぱい殴れ。俺は、己のわがままの為に、皆に迷惑をかけた。君が殴ってくれなければ、俺は、あの二人に、父親として顔向けできぬ」


 芹野は、急なおじいの登場にうろたえながらも、おじいの背中をさすり、「もういい、今はとにかく休もう」と言った。

 おじいはそれでも、殴れ、殴れと繰り返した。芹野はとても居たたまれなくなった。

 騒ぎを聞きつけた、隣の病室の少女が、スリッパを持って、おじいに手渡した。

 おじいはまごついた。芹野が、おじいの足を見言った。


「君、裸足じゃないか。そんなにボロボロになって。この子は心配してスリッパを届けてくれたんだ。はやく履きなよ」


 そういって、芹野はとても悲しくなった。おじいは、真新しいスリッパを履いて、少女の頭を撫で、悲しそうに笑った。

 その夜、おじいの病室に、タエと和美と宗一が集まり、小さな宴が開かれた。

 その姿は、紛れもなく、家族の姿であった。

 読んで頂き、ありがとうございます。

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[良い点] すごく笑える!と思っていたら突然涙腺に刺激が… 切ないような、ほっこりするような気持ちにさせてもらいました。ありがとうございます
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