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ポッポたちの卒団後、任されたのは新六年生と新五年生の合体チーム。去年のポッポチームと異なる点が二つ。
一つは、去年度の反省に基づき、五年生チームを分割しなかったこと。もう一つは、僕が新六年生チームの学年監督にあたるヘッドコーチとなり、総指揮権を与えられたことだ。
新六年生チームのメンバーの半分とは、去年一年間行動を共にしてきた。そして残り半分の六年生と五年生は去年、サーファー大口ヘッドコーチの指導で活動してきた。
そんな経緯から、僕と大口コーチの二人が中心となり、一年間活動をしていくこととなった。
大口コーチとは、かかわる学年が離れていたこともあり、今まであまり話をしてこなかったので、大口コーチについてあまり詳しくは知らなかったが、同じチームを率いることになり、会話の中からいろいろなことが分かってきた。
大口コーチ自身には、サッカープレー経験はないとのことだったが、サッカーの知識が豊富なのは、息子の入団をきっかけに始めたコーチ業のために、サッカーについてものすごく勉強したそうだ。また、チーム運営面では監督助手という肩書きながら、まとめる力のない監督に代わってコーチの配置から練習試合の調整まで一手に引き受け、相手チームの人たちに顔を売り、練習試合に読んでもらえるように裏でかなりの努力をしていることも知った。
さらに大口コーチは、大東SC内に大東SCフットサルチームを創設し、コーチやママさんたちが所属することとなった。五十代のおじさんの下心は見え見えだが、それを隠すためか、コーチ陣はほぼ問答無用で大口フットサルに入団させられており、僕も初年度には20番をもらい、翌年からは、僕の代名詞の11番を付けることになる。
今年の六年生チームにヤッちゃんという丸顔坊主頭で背の小さな子がいる。三人兄弟の末っ子なだけあって負けん気が強い。しかし、それは兄弟関係から生まれたものではなく遺伝だった。父母は町内会のまとめ役をしており、大東SCでは、父が団長、母が副団長をしていた。
ヤッちゃんの兄が、僕をスカウトした金田さんの息子やヨッコラと同じ学年だったことで、僕は大東SCに足を踏み入れてからずっと、ヤッちゃんパパとママにはお世話になっている。
とくに、ヤッちゃんママは圧倒的に精力的でパワフルな人だった。声も大きく一見大雑把に見えるが、実は曲がったことが大嫌いで、人のためになることには献身的で、気は心という、古来の日本人が持っていた奥ゆかしさを兼ね備えているヤッちゃんママ。自分のアドレスに‘アニマル’という語を使用する、まさにアニマルママ。僕は初対面のころから、芸能人のユーとダブって見えていた。
そんなヤッちゃんママたちと藤村監督は、やや折り合いが悪いようで、僕はもちろんヤッちゃんママ派だったこともあり、それが僕と監督の関係にも影響していた。
去年から、ヤッちゃんやその友達が村山公園に参加するようになり、その情報が藤村監督の耳に入ったらしく、監督から直接、「チーム以外でチームの特定の子と交流するのは控えてほしい」と言われたことがあった。この話をヤッちゃんママに伝えると、直接監督と話し合ってくれ、今まで通りヤッちゃんたちは公園組として活動できることになったのだが、監督にとって僕が決定的に目の上のコブになった出来事だったに違いない。
このように、ずっとヤッちゃんママに支えられてきたのに、そのヤッちゃんママを敵に回しかねない出来事が起こってしまう。
少年サッカーでの年度スタートは、卒団式後の三月中旬なのだが、六年生チームは新人戦が始まる二月下旬からスタートする。
そして、三月になるとチームから市のトレセン(市内選抜チーム、市代表)のセレクションに参加する子を選ばないといけないのだが、僕がその事実を知ったのはセレクションが終わった四月だった。そのことを知るきっかけとなったのは、ヤッちゃんママからの電話だった。
「ついさっき、他のチームのママからトレセンの話を聞いたんですが、そのママに、なんで大東SCは誰もセレクションに参加しなかったのって言われたんです。どうなってるんですか」
「僕自身、トレセンの話を全く聞いていないので分かりません。今すぐ大口コーチに確認してみますので、ちょっと待っててもらえますか。すみません」
携帯電話を素早く操作し、大口コーチを呼び出す。すると、大口コーチから予想外の言葉が出てきた。
「どうせ、セレクションに出たって誰も受からないよ。それに、トレセンのコーチから、セレクションに受かる素質のない子がたくさん参加してきて大変だから、できるだけ人数を減らすように言われたんだよね」
「六年生の親たちは、かなり怒っています。どうすればいいですか」
「まず、きちんとしておいたほうがいいのは根回しってこと。事前に親たちにアプローチして、話が大きくなる前に決着させておいたほうがいい。今回の件は、成島さんがトレセンを知らなかったんだから、どうしようもなかったと思うけど。俺のほうからヤッちゃんママに電話しておくから、気にしなくていいよ。とにかく、俺が成島さんを守るから、気軽な気持ちで好きにやってよ」
大口コーチに励まされた僕に、ヤッちゃんママから再度連絡が入ったのは一時間ほど経ってからだった。
その内容は、一方的な愚痴だった。
「私たちの学年は、去年一年間、上と下に分割されて結局一度も五年生単独チームで試合をさせてもらえませんでした。今年は小学校最後の一年なのに、トレセンにも参加させてもらえませんでした。私たちだって正直受かるなんて思っていませんよ。でも、参加するだけでも学べることがあると思うし、実際に参加した子の親たちは参加して勉強になったって言っていました。そのチャンスすら与えてもらえないなんて。ヤッちゃんたちの学年を夢も希望もない学年って言いますけど、そんな学年にしたのは一体だれなんでしょうね」
「夢も希望もない学年ってどういう意味ですか」
「そのままの意味なんじゃないですか。大口コーチに言われました」
大口コーチは、僕との電話の後すぐにヤッちゃんママと話をしたのだ。しかし、その場で解決どころか喧嘩別れをし、再び僕のところへ電話がきたというわけか。
こうして、六年生ママたちとのギクシャクを残したまま、四月の公式戦へ突入することになった。
少年サッカーの練習試合は、コーチの顔の広さと試合数が比例する。
大東SCのホームグランドである小学校校庭は、少年野球チームが二チーム、ママさんソフトボールチームと時間を分け合って使用している。さらに土曜日は第二、第四土曜日しか使用許可されておらず、極めて使用時時間が制限されている。そのため、ホームゲームを企画することはほぼ不可能で、他チームに誘われないと試合ができない環境だった。
大口コーチは、大東SCの子どもたちにできるだけ試合をさせてあげたいとの思いから、手下の大川コーチとともに他チームコーチとの飲み会に参加するなどして練習試合を取ってきていた。
ポッポの学年が卒団して間もなく、村山公園の隣にあり、卒団生の半数が進学する村山中学校サッカー部顧問を囲む飲み会が企画され、大口コーチとともに僕も顔を売るために参加することになった。
飲み会会場に赴くと、公園組の真吾が在籍していた村山キックス監督が目に入った。
村山キックスは、村山公園組の子たちが多く在籍してきたチームで、歴代活躍する子の大半は公園組の子どもたちだった。
監督が教えたことのない華麗なプレーをその子どもたちがすると、「まだお前には早い」と制止するほど子どももチームも支配する独裁者だった。
僕はその監督から「余計なことを教える厄介者」とみられており、完全に反目の関係になっていた。
だから、この飲み会の間、この監督とは一言も言葉を交わさなかったが、色黒の釜本といった風体の中、手の指が何本かないことにゾッとしたが、その風体とは裏腹に酒を一滴も飲めないことに意外性を感じた。
しばらくすると、僕の目の前の席にFC深谷の監督が座った。僕は今日、僕より一回り上に見えるこの監督と話をするためにここに来たといっても過言ではない。というのも、FC深谷は、去年度の六年生が当たり年で、市内大会をすべて制覇する快挙を成し遂げた。そのチームの指導者と話をして、できるだけ大東SCの子どもたちに還元したいと思って、この飲み会に参加することにしたのだ。さっそく監督と会話をした。
「この一年間、深谷の独り舞台って感じでしたよね」
「そうだね。あの子たちが一年生の時からずっと指導してきたからね」
「何か指導のコツってあるんですか」
「試合の時のメンバーは、まずベンチの子から出す。その子がいい動きをしていれば、後半もそのまま使ってあげればいい。もし疲れちゃったら、後半からは控えていた強い子を出せばいい」
すでに酔われていたためか、あまり的を射た答えではなかったが、その後の話もまとめると、「小さなころから手塩にかけて育てていれば、いい線いくんだよ」という話だった。
このFC深谷に在籍していたFあきとも、真吾とともに村山中学校に進学することになる。
ちなみにこの会合から三年後、村山中学校サッカー部は全国大会に勝ち進み、福島Jビレッジで決勝トーナメントを戦うという快挙を成し遂げることになる。
大口コーチは、僕を一人前のコーチにするために、いろいろなことを伝授してくれた。
ある日、練習試合のために遠征し、会場に着くとすぐに大口コーチに呼ばれた。
「ちょっと来てごらん。もうほかのチームが試合してるでしょ。これをよく見ておくんだよ。どんなチームなのか、何番の子を抑えるべきかを事前にチェックしておくと、うちの試合の時に役立つんだよ」
「なるほど。それで、大口コーチはいつもすぐにグランドに足を運ぶんですね」
「そういうこと~」
「でも、あの8番の子を止められる子は、うちにはいない気がするんですが」
「そうだね、うちはコマ不足。ハッハッハッハ」
コマ不足というフレーズは大口コーチの口癖だ。ついでに、もう一つ口癖がある。
「六年生のキャプテンをソウタにしようと思うんですけど」
「おまかせ~。俺もソウタしかいないと思ってたからいいんじゃない?」
「試合のメンバーはこれでいいですか」
「おまかせ~」
おまかせ~も口癖だった。しかし、僕の意見を最大限尊重してくれている裏返しでもあった。
また、僕の指導を尊重するためであろう、僕と大口コーチの住み分けもきちんとできていた。
平日練習は、僕しかコーチがいないので住み分けもなにもなかったが、日曜日は、練習開始の午前七時半からの三十分間は、大口コーチによる技術指導。別名、大口スペシャル。八時からの二時間は、僕による戦術フォーメーション指導となっていた。
だから、日曜日の僕は八時までにグランドに到着すればよかった。ヘッドコーチなんだから大口コーチの技術指導にも参加すべきだと思い、自主的に参加するようになったのは、しばらく経ってからだった。
「子どもたちの集中力はせいぜい十五分だから、十五分で一つのメニューを考えないといけない」
この大口コーチの教えを実践してみると、確かに子どもたちの集中力が上がるのが分かった。大口コーチによる大口スペシャルも毎回二つのメニューを十五分ずつで構成されていた。ただし、いつも見本を示すのはいつも五年生の竜彦だった。竜彦は確かにボールの扱い方がひときわ上手で、大口コーチのお気に入りだった。そもそも、竜彦は三兄弟の真ん中で、兄、弟も大東SCに在籍しており、竜彦パパはコーチとして、竜彦ママは副団長および大口フットサルメンバーとして君臨する、まさに大東依存家族なのだ。大口コーチと竜彦ファミリーは家族ぐるみなのもうなずける。
大口コーチの技術指導は一年間続けられたが、試合での成果はまるで出なかった。その理由を考えることなしに子どもたちや僕の成長はないと感じていた。
しかし、このヤッちゃんチームと竜彦チームの合体チームを一年間率いる中で、いろいろな試合を体験し。様々なことを学習することができた。
例えば、五月に行われた全日本選手権トーナメント。キャプテンソウタが引き当てたチームは、大口コーチによると県内一、二を争う強豪とのこと。大東SCのような弱小チームでは練習試合すら応じてもらえず、市内中位チームのコーチが言うには、「うちでも0‐10ぐらいにされる」とのことだった。
しかし、前向きな大口コーチは、そんなチームと試合ができるだけでも良い経験になると言っていた。
さて、試合当日。キックオフのホイッスルが響くと同時に、大東ゴールに襲い掛かる強豪チーム。グランドの半分しか使っていない両チーム。一分に一回は大東ゴールバーにボールが当たる音が響き渡る。
ところが、二十分の爆撃を受けた結果、スコアレスドローでのハーフタイムとなった。
笑顔でベンチに戻ってくる大東SCの子どもたち。疲れた表情で戻っていく強豪チームの子どもたち。
子どもたちの輪に入っているコーチも対照的だった。向こうのコーチは大激怒。雑魚相手に一点も取れないのだから当然だ。僕は大東SCの子どもたちを笑顔で褒めたたえていた。
そんな僕の気の緩みはすぐに子どもたちに感染した。
その結果、後半開始一分で失点を許す。前半、あれだけの爆撃を阻止してきた五年生キーパーのありえないキャッチミスだった。
最終的に0-5で負けた。心から気を引き締め続ける大切さを学べたゲームだった。
もう一つ学べたゲームが、六月の前期リーグ戦。
ベンチに座る控え選手を必ず出場させるという暗黙ルールがある少年団チームでは、ベンチの子をどのタイミングでどのポジションに入れるかが悩みの種となる。
その日の試合も後半となり、時計とにらめっこをしていると、前半出場を終え、後半ずっと僕の隣に座っていた五年生の子が、ベンチに座る六年生を指さしながら、「コーチ、こいつ右サイドで使ったらいいかもよ。練習の時からそう思ってたんだけど」と言ってきた。
その意見を採用し、実際にその六年生を入れてみたら、今までにない活発な動きを見せ、チームの勝利に貢献する大活躍を見せた。
この時、強く思った。‘チームはコーチたち大人のものではなく、子どもたちのものだ。ポジションだって子どもたちのもの。これからは子どもたちの意見を尊重しながらチーム運営をしていこう’と。
大東SCは、毎年七月に山中湖において二泊三日の合宿を行う。三年生から六年生までの子どもたちとコーチ陣、その両方のお世話係としてのお当番ママさんたち百名近くが集う大イベントだ。
僕は大東SCコーチ四年目にして初めて合宿に参加することになった。ヘッドコーチという立場上、逃げられなくなってしまったからだ。
合宿初日の金曜日、朝七時に市役所前に集合し、朝八時に大型バスに乗り込む。
バスには子どもたちのほか、ママさん二名、僕ともう一人コーチが乗り、ほかのママさんたちは車で現地に向かう。ほかのコーチたちは仕事が終わり次第、やはり車で向かう。
山中湖畔での昼食後、早速グランドへ。合宿所所有のこのグランドは、少年用サッカーコート一面のみで、それ以外はすべてテニスコートになっていた。周囲は山に囲まれていて、霧だか雲だか言い表せない白いものでグランドが包まれることもあった。
一般的な少年団の合宿のように遊びの要素は全くなく、サッカーのための合宿というのが大東SCの特徴だった。同時期に近くで合宿をしている少年チームと練習試合をするために合宿に来ているともいえた。
練習、食事を終え子どもたちの消灯時間が過ぎたころ、続々とコーチが到着し宴会が始まる。三年生担当コーチで川崎麻世似の藪口コーチが「うちの鬼ババァが~」と、奥さんの悪口をマシントークし始めるころ、宴会は最高潮になる。
僕は煙草を吸わないこともあり煙草のにおいが大嫌いだったので、宴会はそこそこにコーチ部屋に戻ったが、そこも煙草のにおいがひどく、困った僕は子どもたちの部屋にある押し入れの中で寝ることにした。
しかし、真下で行われている宴会の騒音が子どもたちの部屋にまで響き渡り、とても寝られる環境ではない。その結果、寝付けない子が出てきて、「寝られない」「帰りたい」と泣き出す始末。お当番ママたちは下のコーチたちの面倒と上の泣き出す子たちの面倒でてんやわんやだ。
そんな迷惑を気にすることのできない大人たちは、午前二時半まで騒ぎ続け、僕が寝られたのはそれからだった。
起床時間の一時間前である午前五時。早く目覚めた子どもたちがほかの部屋を侵略しようと活動を開始する。
そういえば、昨日の夜も当然のように枕投げが行われ、部屋中子どもたちが大暴れ。ほこりが充満し、せき込む子が続出。それでも注意しない大人たち。僕の見ていないところでママさんたちが注意していたのかもしれないけれど、それなら聞く耳を持つ子がいなかったということだ。
ずっと繰り返されてきた伝統。それは大東SCの大人たちには子どもたちへの教育力が欠如したまま今に至るという事実の裏返しに他ならなかった。
僕がいる部屋にも‘侵入者’が数人現れた。しかし、まさか押し入れにコーチがいるとは思っていなかったのだろう、「うるせぇ!」と言うとそそくさと退散していった。僕のいる部屋だけはまた平穏が訪れた。
朝六時半になると、歩いて一分の山中湖畔まで出かけて、全学年でラジオ体操をする。この近隣は合宿所だらけなので、テニスサークルと思しき大学生たちも広場に集まりラジオ体操をする。そういうチームが持参したラジカセの音に耳を傾けながら大東SCも体操をするのだ。
晴れていれば湖の正面に雄大な富士山が見える立地なのだが、朝は雲が多くほぼ見えることはない。それでも、湖を背にしてみんなで記念撮影をするのが監督のルーティーンだった。
六年生キャプテンであり、大東SC主将でもあるソウタ。だから、選んだ僕にもチームに対しての責任がある。
そんなソウタが九月に入り明らかに変わってきた。その理由が反抗期にあるのか、夏休みに何かあったのかは分からない。僕に対してはいつも通り素直であったが、下級生に対してわがままを押し通したり、からかったりする様子が目に付くようになってきたのだ。試合中、相手チームに対して敵意をむき出しにすることも多くなった。
十月下旬の後期リーグ戦でのこと。いつものように、僕のキャプテンマークをソウタの腕に巻いてあげる。大東SCがチームとして所有しているボロボロのキャプテンマークを使用してもよかったが、ヘッドコーチになるのを機に自費でキャプテンマークを購入し、それを使用することにした。
コーチになって初めて指名したキャプテンソウタはやっぱり特別でかわいがっていたんだと思う。細い腕を差し出すソウタにキャプテンマークを巻いてあげ、僕の魂を注入する儀式を毎回行っていた。
ソウタを先頭に一列に並び、相手と礼をしてからキックオフ。
その日の相手チームとのレベルは互角だったが、ピッチ上でソウタと競り合う相手は技術が高く、かわされ続けていた。その時、ソウタがとった行動、それは‘抱え投げ’だった。
センターサークルというリングで低姿勢を取り、背中を向ける相手を自分の背後に投げつけたのだった。「わっ、投げた!」という思いと同時にグランドの空気が凍った。風も鳥もすべてのものが一瞬動きを止めたようだった。
レフリーが慌てて笛を吹いてファールを取った。レスリングだったらこちらにポイントだったのは間違いない。しかし、当然のことながら相手ボールとなる。
ここで、僕はすかさずレフリーを呼び、ソウタをベンチに下げた。ソウタを下げることで劣勢に立たされるのは容易に想像がついたが、僕にはそんな試合の勝敗なんかどうでもよかった。
ベンチに戻ったソウタは汗を流しながら、堂々とした態度で自分のジャグで水分補給をしている。
「おい、お前なんで下げられたか分かってるな?」
ソウタは水を飲んでいるフリをして無言を貫く。
「あんなプレーして勝って嬉しいか?それにもし相手に大けがでもさせたらどうするつもりだ?」
ベンチにいる控えの子どもたち、大口コーチや五年生のお父さんコーチはグランドを見つめ続けている。
「レフリーはイエローカードもレッドカードも出さなかったけど、俺の中では一発レッドだ。次またこういうことがあったら、すぐレッドだ。覚えておけ!」
ソウタの卒団式まで四か月あまり。それまでにこの負けず嫌いをいい方向に持っていかないといけないと強く感じる試合となった。
そんなソウタがまたやらかした。十一月の平日練習後、いつも通りソウタを中心に体操をした後、グランドに向かって整列をし「礼!」をする際、ソウタが下級生のボールを奪い取り、遠くへ蹴り飛ばすのを目撃した。そのボールを下級生が取りに行こうとするのを僕は制止した。
「ソウタ!お前、今何やった?ふざけたことしてんじゃねーぞ!ボール早く取ってこい!早く行け!」
ボールを取ってきたソウタは涙ぐみながらボールを下級生に返した。
「ソウタ!ちょっと来い!」
陽がすっかり沈み青黒い空の下、明るい一角があった。一階の教職員室の明かりが漏れているその場所にソウタを呼んだ。
「お前、このチームのキャプテンだろ?それなのに何やってんだよ!」
ソウタは泣きじゃくりながら何か言おうとしていた。でも言葉にならない。僕はずっと声量をマックスにしていたため、何事かと先生方が覗いていた。
でも、そんなことを気にしている場合ではない。この教育のチャンスを逃すわけにはいかないと思ったからだ。もし逃してしまったら、今までの大東SCと何ら変わらず、理想とする村山公園のようになれない。
「いいかソウタ。お前はこのチームのキャプテンなんだ。みんなの見本になるように行動しなくちゃダメなんだ。悪さをしている子をお前が注意する立場にならないといけない。ソウタならできると信じて俺はソウタをキャプテンに指名したんだ。これからはちゃんとキャプテンとしての自覚をもってやってほしい」
この日以来、チームメンバーに対しての悪さはしなくなった。他チームの相手に対しては、足を引っかけてやろうとスライディングを試みたり、足を狙ったりすることがあった。もちろん一発レッドカードとしてすぐにベンチに戻し、指導を続けた。
年が明け、いよいよ卒団の日が近づいてきた。いろいろあったこの学年。五年生の時の‘分裂’、トレセン不参加、ママさんたちとの確執。
卒団する十人の六年生たちに何か記念になるものをサプライズで用意したいなと思い、いろいろ考えた結果、僕が一番尊敬する日本の至宝プレーヤー、カズさんの本をプレゼントすることにした。新刊の発売日が卒団式の十日前だったので、どの書店も一、二冊しかおいていないこの本を十冊集めるのは大変だった。でも、ここまではどのコーチにもできること。サプライズではない。
いよいよ、三月中旬の日曜日、卒団式当日となった。
例年通り、六年生vs他学年の試合の後、体育館前に移動して式が始まった。そして例年通り、監督が泣きながら祝辞を述べている。今年はそれを見て僕も一瞬泣きそうになった。いろいろなことがあったからだろうか。責任あるヘッドコーチの立場だったから思い入れが深かったのだろうか。
涙をこらえるため、六年生たちの対面で座っている下級生たちを見ながら自分に言い聞かせた。
「俺はこれからもこの子たちを見ていかなくちゃいけないんだ。春休みに入ったら新一年生の担当が決まっているんだ。こんなところで泣いている場合ではない」
いよいよ僕が話をする順番が回ってきた。手に紙袋を提げながら六年生たちの前に立った。
「いろいろ話したけど、最後にみんなに記念品を渡したいと思います」
そういって袋から本を一冊取り出す。
「この本はカズが最近出した本です。これをカズのところに持っていって、直接サインを入れてもらってきました!」
オーッ!とどよめいたのはママさんやコーチ陣、つまり大人たちだった。目の前の六年生たちはカズに会いに行った経験を持つ子もいて、事前にカズのサインが欲しいか聞いて回ったため、それほどどよめかなかった。
このサインは練習場に行って直接書いてもらった。
「カズさん、すみません。僕は少年サッカーのコーチをしているんですが、今年卒団する子どもたちにカズさんの本をプレゼントしたいと思いまして、これ全部にサインをしてほしいんですが」
「あんまり時間ないんだよね~」
そう言われはしたが、サングラス姿のカズさんの表情はいつも通り穏やかだった。
宛名については、「勘弁して~」と断られてしまったが、最初の一冊だけ宛名を入れてくれた。
そこには「ソウタさんへ」と記されていた。キャプテンだけ超特別な本となった。
卒団式の後、食事会などの行事も終え、最後の舞台は大型カラオケ店だった。
僕は本来、子どもたちルームに入るのだが、この日はママさんルームにも出入りすることになった。ママさんたちはスマップ世代のため、ママたちはスマップをどんどん選曲する。そしてそれを中居正広と同級生だった僕が歌うのだった。
その翌日の春期講習からヤッちゃん、拳など三名がうちの塾生となった。
「いよいよ来週の日曜日から新一年生担当か。大口コーチに、下の学年から育てるとおもしろいからと勧められてやることになったけど、初めてだから分からないことばっかりだろうな。今までやってきた経験や失敗を生かして、子どもたちと一緒に成長していこう」
改めてそう決意して、日曜日を待つのだった。




