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市内の多くの小学校は十月第一土曜日に運動会が行われる。大東小学校もその例に漏れず、運動会が終わるまでの二週間、運動会準備のためグランド使用禁止期間になっていた。
そのため、僕が次に大東SCを訪れたのは、十月中旬の火曜日だった。本来火曜日は、スポーツクラブのサッカーチームでコーチをする日だったが、迷わず大東SCを選んだ。家から近かったからだ。
午後四時から始まる練習のため、大東小学校の駐車場に到着し車外に出ると、昼間と異なり太陽が斜めから陽を放っていた。グランドは周囲の高い建物の陰となり、空の青さが際立っている。
そんなグランドに足を踏み入れた僕の目には、唖然とする光景が飛び込んできた。
たった一度だけ、半年前に見学したチームとはあまりにもかけ離れた光景。一言でいえば、すべてが正反対。学年別に完全に区画された敷地はあの日と同じだったが、その中のあちらこちらで子ども同士のけんかが勃発し、必ず誰かが泣いている。そして、監視役の二名、お当番ママがその子どものケアに当たる。
学年間は、互いに敵視しあっていて、「仲良く」とか「協力」なんていう言葉は存在していない。どんなにひいき目に見ても、とてもチームなんて呼べる状態ではない。ここに集まっている子どもたちは練習をするために来ているのではなく遊びに来ているのだ。
なぜこんな無法地帯になってしまっているのか。
「コーチが一人もいない!」
これが理由のすべてだった。この日、ようやくあの違和感が解消された。
「コーチが全然いないというのは、平日いないということだったのか」
他のコーチは全員会社勤めだ。平日にコーチはできない。考えてみれば当然の結果が目の前に広がっているわけだ。
あとで知ったことだが、上級学年を担当するコーチは練習ノートを作成し、メニューを書き込んで練習の指示をしていたらしいが、その指示通りに練習をしている子は皆無だった。とにかく、遊んでいるかけんかしているかのどちらかだったのだから。
どうにかしなければと思ったが、何をどう手を付ければいいのか見当もつかない。それほど腐敗していた。
とりあえず、このグランドにいる二年生から六年生六十人の名前を覚えないと、子どもたちを呼ぶこともできない。自慢ではないが、人の名前を覚えることが苦手極まりない僕は、コーチの名前も担当するはずの五年生たちの名前も全く覚えていない。
だから、平日初日の今日は、五年生の名前を覚えることと、五年生の子どもたちがどの程度の技術を持っているのかをみることを目標にすることにした。
さっそくパス練習をさせてみて、すぐに分かったこと。
『技術なんて全くない。村山公園組とレベルは同じ』
それは五年生に限ったことではなかった。どの学年を見ても遊びのレベルで、しかもしつけが全くできていないことも全学年の共通事項だった。
五年生たちは当然のように僕を馬鹿にしてきた。しかし、媚びを売るような僕ではない。今まで、大手学習塾で三百人以上、スポーツクラブで五十人以上、公園組で百人以上、大里小のかずくんサッカーで五十人以上を相手にしてきた経験上、媚びていいことは何もない。
やっていいことといけないことを教えるためには、毅然とした態度で臨まなければならない。ただし、その根底には信頼関係による絆がないと、子どもたちの心に響かず、真の教育には結びつかない。
案の定、五年生たちの人間性改善教育は一筋縄ではいかなかった。すんなりうまくいくのは、まだまだまっさらな部分の多い素直な下級生たちだった。
一年生は休日しか練習に参加できないため、一番下は二年生だったが二年生やその一つ上の三年生はとても人懐こく、練習を見てあげるとみんな目を輝かせて僕についてきた。
一方、四年生チームはシビアな目で僕を観察していた。子どもらしさのないインテリ気取りの子どもの集団というのが四年生チームに対する僕の第一印象だった。
そして、一番目つきが鋭かったのが六年生チームだった。
コート外の片隅でミニゲームを楽しむ二年生と三年生。その小さなコート脇で元気なプレーを見ていると、そのコートを堂々と横断していく六年生が数人いたので、「オイッ!」と僕がその六年生たちをにらみつけると、六年生たちも「なんか文句あんのかよ!」といいたげな表情で去っていった。ここが弥勒寺公園だったら中学生が乱入してきた時のように「ちょっと待てよ、コラッ!」と一触即発だったがグッと耐えた。
「チーム全体のことを考えたら、ここでバトルをするのは得策ではない。五年生以下の子に危害を加えられたらまずい」
そう直感したのだ。この一件により、六年生の面倒を一切見る気が失せた。それを知ってか知らずか、その後、六年生担当コーチが平日練習に来るようになったので、五年生以下だけを見ていけばいいという大義名分が自然と手に入った。
「これで五年生以下だけで団結させても文句は言われないな。よし、平日練習改革をして大東SCを村山公園のようにしていこう」
そう思い、監督にも他のコーチにも相談することなく、勝手に進めていくことにした。このころすでに僕が平日練習にかかわるようになって一か月以上が経過しており、僕と五年生以下の子どもたちとの信頼関係もできていたし、平日練習に口出ししてくるコーチも皆無だったからだ。
四年生のインテリ軍団のキャプテンが僕のところに笑顔一つ見せずにやってきた半月前。
「コーチ、ちょっといいですか。僕たちもゴールを使って練習したいんですけど」
このクレームを次の日曜日練習の時に監督のところへ持っていき、監督の方針を聞いた。
「ゴールや広い場所は上級生が使うのが当然だと思うんだよね。四年生たちも上になったら使えるようになるんだから」
部活動の考えそのものなので理解できなくもない。僕の学生時代もまさにそうだった。先輩だから後輩だからとスポ根そのものの嫌な思い出。水を飲むことも許されず、ずっと走らされたりうさぎ跳びをさせられた苦い思い出。今を生きる子どもたちに合う合わない以前に、僕自身がスポ根精神にうんざりだった。
そのため、監督に相談しておきながら四年生の意見を尊重することに決めた。その結果、平日改革のひとつとして、ゴールは五年生と四年生が時間を折半し、二年生と三年生は合同でミニゲームを行い、協力し合う気持ちを育てていくことにした。
平日午後六時前に行われる体操も五年生以下だけで集まってするようにし、五年生チームのキャプテンがみんなを率いた。
このように、ひとつひとつ改革に着手すると同時に、スポーツクラブの練習に顔を出すことはなくなった。
こうして子どもたちの環境改善を日々試行錯誤する中、僕は大手学習塾を退職した。サービス残業を当然と考える教室長と、仕事は時間内に終わらせるのが当然と考える僕との間の亀裂が要因だったが、僕を慕ってくれていた多くの生徒たちを裏切る結果となり、また僕が辞めたことで退塾していった六名もの生徒には本当に申し訳なさでいっぱいだった。
僕の収入は、新たに立ち上げた私塾のみとなった。この私塾には公園組、かずくんサッカー組が集まっており、どうにか生活していけた。
だからといって、僕の財布は薄っぺらいままだった。公園組の子どもたちと休日のたびに出かけては大枚をはたき、長期休暇には破格の費用でTDLや遊園地に連れていき、子どもたちの誕生日に至ってはゲーム本体やJユニフォームなどを贈り大盤振る舞いをしていた。
とにかく、子どもたちに喜んでもらいたい。笑顔でいさせたい。この想いは、子どもたちにいろいろな経験をさせてあげたいという思考にもつながり、貴重な体験ができるような企画を考え実行していた。
例えば、地図を頼りに子どもたち同士で相談しながら乗る電車から歩く方向まで決めて目的地を目指す探検隊、フリーマーケット、プロ野球始球式参加、ラジオ番組のクイズコーナーへの参加など、あげたらきりがない。
それらの費用もすべて負担していたのだから、貯金額ゼロなのは当然の結果だった。




