第八十四話
璋子は東山の麓の邸にいた。
淡い灯りにつつまれた一室。祇園女御の華やいだ容姿を、いっそうひきたたせている。ゆったりと腰をおろしくつろいでいる白河院は、なんと幼く見えることか。
『お養父さま・・・』
璋子は、呼んだ。
白河院が手招きをしている。ああ。今、参ります。すぐにおそばへ―――・・・
伸ばした手は白河院に届くことなく、しかし、誰とも知れぬ人の温もりがつかみ取るように感じられた。
「ああ、女院!」
まるで水の中で聞いているかのように、その声は不明瞭であった。おのれの顔を心配そうにのぞきこんでいる、この誠実な女房の目は涙に濡れ赤く腫れていた。
「堀河」と呼ぼうとしたが声を出すちからはなく、ただ、笑って見せた。そうすることで彼女の心に溢れている鉛を取り除いてやりたいと思ったのだが、口の端すら動いてはいなかったであろう。
璋子は手の指先を動かした。力強く握り返してくれた―――西行殿・・・
男の顔は疲労と憂悶のため暗く翳っていた。以前より日に焼け黒くなった肌、少々伸びすぎている髭、埃にまみれた法衣。彼を呼び戻したのは堀河であろう。足のおもむくままの行脚である。探し出すのに苦労したであろう。そして、彼はここまで戻ってくることに―――。
「西行殿・・・。わが標となってくれますか?西土へおもむくときの―――・・・」
「わたくしを悲しませることを言わないで。愛する人」
璋子はにこりと笑った。消えゆく花のようだった。彼女の瞳が、また虚ろになった。
「門院様っ」
西行と堀河が同時に叫んだ。昨夜から死んだように眠り続けていた璋子は、今やっと、その意識を取り戻したのだ。彼女にはもはや、自身の意識を拘束しておくだけの体力はない。次に昏睡したとき、それは永久の眠りにつくときなのだ。
西行と堀河の声を頭の片隅で聞きながら、璋子はこれまでにない心地よさが体をつつんでいくのを感じていた。それは、波間をたゆたう感覚に似ていた。
何人にも冒涜されることのない安らぎが彼女のもとを訪れようとしている。
顕仁よ。あなたの命をこの手に抱いたあの時のことを、わたしは忘れはしません。でも、あなたがわたしの、この消えゆこうとしている魂を見おろすことは、たぶんないでしょう。それでも、わたしにはわかるのです。わたしが死んだとき、あなたが悲しむということが。昔から優しい子だったから。可愛い子よ。わたしの可愛い顕仁。
璋子の眼に涙がたたえられていた。人生において蓄積されてきた、ありとあらゆる想いがどっと流れ出した。残ったのは虚無でしかなかった。
璋子の唇が開き、ゆっくりと動いた。
「門院様・・・」
西行には彼女の声は聞こえなかった。しかし、愛する者の名を呼んだことはわかった。
あなた様は最初から母だった。ゆえに、わたくしはあなた様に惹かれたのです―――
「もう、問うてもあなた様はお答えにならない。吹きわたる風とて、散ってしまった花の行方は知らないというのに・・・」