第八話
「家貞、家貞」
邸の主、祇園女御の声であった。
簀子の上を歩いてきた女御の着物は、目にも鮮やかな紫苑色の袿であった。
「家貞。ちと、話しがあるのじゃが」
檜扇で口元をかくし、女御は言った。
家貞は「はっ」と言うと、その場に膝をついた。
「千早丸」
女御は少年へと視線を移した。
「あちらへ行っていなさい」
少年は息をはずませていたが、不服そうに返事をすると、向こうの方へと駆けていった。
「ほんとに。誰に似たのか、あんなわんぱく者で。そなたが毎日来てくれて助かります。わたくしたちでは千早は手におえなくて」
女御はほほほと笑った。
「たいした和子様にございます。剣の上達の早いことといったら」
「家貞」
女御の真剣な表情に、家貞は笑いをおさめた。
「そなたの主人はなぜ一度も自分から顔を見せに来ない?こちらから来いと言えば来るものの、千早とは口もきかぬ。それでも父親かえ?千早がかわいそうであろう」
父親、と自然に発音するのに、女御は少し苦労した。
「仰せ、承りました。主にしかと申しておきまする」
「頼みましたよ」
一礼し、その場を退がる家貞の背中を見送りながら、女御は溜息した。
―――備前守・・・
彼女は憎々しげにつぶやいた。
忠盛は伯耆守としての任期を終えたあと、越前、備前と続けてその国の長官に任じられた。
そして、院の昇殿も許されるようになった。
越前、備前ともに大国だ。その国守ともなれば、懐に入る富は莫大であろう。
子ども一人引き取ってめんどうを見るくらい、たやすいことであろうに。
子にかまう暇など、ないとでも言いたいのか。
彼女は、妹の声を聞いたような気がした。
「愛されて・・・」
影はたしかに言っていた。
愛されて幸せだったと。
愛した女が産んだ子ではないか。
「もしや」
女御の心臓が、ばくんと脈打った。
気づいて、いるというのか?
わが子ではないことを。
血の繋がりなど皆無であることを。
「それでも・・・」
それでも、女御は忠盛に父としての情を求めずにはいられなかった。
妹の遺言を果たさなければならない。
影自身、子の父が白河の法皇であると自覚していたかは定かではない。
今となっては、聞いて確かめることなど叶わぬのだ。
しかし、事実はどうあれ、影は忠盛を選んだのだ。
子の父親たる人物は、武士・忠盛であると―――。
女御も、千早丸が法皇の御落胤と後ろ指をさされ、いらぬいざこざに巻き込まれることは避けたかった。
彼女は母として、少年の幸せを願っていたのだ。