第三十四話
「待賢門院様は、また寺籠にございますか」
赤の唐衣に金の胡蝶紋が映えて。
たっぷりとうねる黒髪は閨の闇のよう。
院のお召しがなくなって久しいこの身と、寵愛を一身にあつめるこの女と・・・
白河院が生きていた頃はと、昔をなつかしむ気持ちすらおきぬ。
若さとともに、心までもが衰えてしまったのだろうか。
「二宮と三宮の供養のため、仁和寺へ参ります」
扇の陰で女院は小さく、溜息した。
数多くの女房を侍らせて華々しく廊を行く年若い女御。
院に愛されているというだけで、これほどまでに美しく尊大になれるのか。
―――世の人はわたしを何と噂するであろう
女院は袖で顔をおおった。
たった一人の女房を共に、女院は廊を渡りおえていった。
「あのお方が待賢門院様。噂にたがわずお美しいこと!」
「人もあそこまで美しくなられては、嫦娥も雲から出られますまい」
「いかに仙女をあざむけたとて、院の寵愛を失うようでは意味がない」
ふり返る女房たちに、女御得子は冷ややかな声を浴びせた。
待賢門院璋子―――
わが皇子躰仁のためにも、おのれ自身のためにも、かの女を院の前から完全に消さなくては・・・
土御門殿において行われた躰仁親王践祚の儀―――
「践祚」とは祚、つまり天子の位を践むことであり、この儀式に際して皇位の証である天叢雲剣・八尺瓊勾玉の渡御が行われる。
譲位する顕仁は二十二歳。
受禅する躰仁は二歳。
幼帝を擁することによって治天の君たり得る院にとって、成人した天皇の政治介入は危惧そのものであった。
現に、鳥羽院と顕仁の政における対立は激しさを増していた。
「現神と大八洲國の知る所、倭根子天皇が詔旨読まし御命を勅す。親王・諸王・諸臣・百官、天下公民ここに宣するを衆聞せよ。朕、薄徳を以て皇太弟と定めたる躰仁親王に万機を授け・・・」
ふと、顕仁は顔を上げた。
聞き間違いではなかろうか。
彼は無意識のうちに立ち上がっていた。
あたりがざわめく。
不審の目が、こちらに集まる。
「それは・・・それは間違いではないのか?なぜ、躰仁が皇太子ではなく、皇太弟なのだ」
「おそれながら・・・」
大夫も困惑した顔で言った。
「これは院より発せられたもの。間違いではございませぬ」
顕仁は気が遠のくのを感じた。
側近くに列していた頼長は、かすかに眉をひそめた。
なんということだ。
御上はこれで、政治的権力をまったく喪失してしまわれたのだ。
二間ほど先の関白を見やる。
その表情に、さしたる変化はなかった。
はははっ、と顕仁が突然笑いだした。
「御上がご乱心なされたっ!」
抑えようとする廷臣たちを振りきり、顕仁は両手で顔をおおった。
「ああっ。院よ・・・父上・・・!何故これほどまでに、わたしを忌み嫌われるのか」