第百二十一話
習慣とは一度染みつくとなかなか治らないものらしく、頼長はまるで何かを警戒するかのように目を覚まさなければならなかった。未明の紫がひんやりと眼にすべり込んできた。濡れた土と若草の匂い。彼は恋しく思う男を見おろした。
目をつむっているその様は幼気な少年と言っても通る顔だ。だが頼長は、この男がもはや昔年の少年でないことを知っていた。かつての彼は今よりもっと向こう見ずで無垢だった。
頼長はもっとも恐れていた感情が狭い胸のうちで荒れ狂っているのを、独り感じていた。満たされることのないという恐怖。安らぎを知らぬ専愛・・・専愛などと。この男を体よく利用しているだけかもしれぬのに。
「あなたはいつ何時でも考え込んでしまわれる」
義賢は頼長を抱き寄せると、包帯の上から彼の手に口づけをした。頼長は彼にそうされただけで、傷の痛みなど忘れてしまいそうになった。
藍色が西天に濃縮されはじめた。雲が染まり、地が濡れ光る。彼らはこの館内の何よりも誰よりも早く起きて出発しなければならなかった。
ああ、夜空はなんと弱々しいものなのだろう。彼方の黎明によってすでに焼け爛れている。
頼長は昨夜おのれが乗ってきた馬を探したが見当たらなかった。もしかしたら、瑠璃が来たのかもしれない。
義賢が馬上から手をさしのべた。栗毛の馬の燃えるたてがみ。手綱を引く男の逞しい腕。
頼長は彼の手を取った。
力強く軽やかに銅色の駿馬が大地をゆく。
義賢は少し驚いていた。たおやかなこのお方が、あれほどすんなりと馬上の人になるなんて。
朝の風は冷たく肌寒いほどだ。頼長は悲しくなった。この馬が駄馬ならよかったのに。
「おまえは、おのれの兄の任国を侵すことができるのか?」
義賢は、とんでもないと言うように首を振った。
「俺が下るのは上野の南。だが、隣国の武蔵では所領をめぐり抗争が続いているらしい。しかも、その一方は長兄の息子と手を組んでいる」
東国には彼ら源氏一族のつてが多少なりとも残っているのかもしれない。しかし、その土地土着の勢力と対抗するのはなみたいていのことではないはずだ。頼長は絶望的な溜息をついた。義賢は官職には就いていない。関東へ移住し、心おきなく領土拡大に精をだすことだろう。
「すぐに、あなたのもとへ戻ってくる」
そう言った義賢に、頼長は軽やかな笑みを加えながら「斧の柄も朽ちてしまおうな」と言った。そうして男の腕をすり抜けるようにして馬をおりた。
義賢は一瞬だけ驚いた顔をしたが、主の手をとり、もう一度だけ慈しむようにそこへ口づけし、名残惜しそうに手を離した。
頼長は男を仰ぎ見た。彼の微笑は夜明けの白い空に、ゆっくりと溶けだしていった。