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最終章 睡蓮の『灯』り

  1.


 師走の真っ只中、笹葉由佳里ささのは ゆかりはいつものように仕込みをしていた。毎年この時期が来ることはわかっているがそれでも手がしびれる。真っ赤になった手を少しでも早く暖めたい。

 店の厨房は空気まで凍結しているのではないかというくらい静かだ。黙々と作業に没頭していると父親の顔が浮かんでは消える。後少しで開放されると思うと、心が自然と浮き立っていく。しかしもう一人の自分がこの計画を止めようともいっている。

 本当にこのまま計画を進めていいのだろうか。毎日心の中で争いが起きておりすでに身も心も荒廃しかけている。

 半年掛けた準備はもうすぐ実行の時を向かえようとしていた。雪花せつかと二人で綿密に計画を立てたつもりだ。できる限りミスがないように頭も振り絞った。

 いけないことだと頭では理解している。何度も諦めようとした、自分が間違えているのではないかと悩んだ。

 しかし母親と葛藤の末に決めた答えだ。

 仙一郎せんいちろうの考えはやはり常軌を逸している。自分が彼を止めなくてはならない。

 ……おじいちゃん、ごめんなさい。

 ビニールハウスにある睡蓮を思いながら今は亡き祖父に謝罪する。一蓮托生という言葉を教えてくれた彼に、申し訳が立たない。

 だがこれは必ず実行しなくてはならない。

 それが旅館のため、まして別府のためになるのだから―――。


  2.


 楓の葉で出来た絨毯じゅうたんが街から消えた後、光り輝くイルミネーションが街を照らし始めていた。

 リリーは暖房の温度を上げた後、プリンスオブウェールズの葉を熱い湯で浸していた。寒い時はこの茶葉が暖まるのだ。二人分のカップに紅茶を注ぎテーブルに置いた。

「桃子ちゃんはいつから自炊してるの?」

 リリーは赤く染まった鍋を片付けながら訊いた。白菜がたっぷり入ったキムチ鍋を完食した所だ。最近は役割分担が決まり自分が片付けで桃子が料理という感じになっている。

「お母さんがいつも家にいたので一緒に手伝ってたら自然とですね。女は料理できないと駄目だよっていつも口癖のようにいわれていました」

「やっぱり自炊できるのっていいよね」

 リリーは紅茶を口に含みながら溜息をついた。

 桃子が旅行から帰って来てからというもの、全く自炊をしていない。椿がいなければ料理をしたいという意欲が涌かない。

「いきなりどうしたんですか?」

「実はね……」

 桃子がいなかった時に椿に味噌汁を振舞ったことを伝えた。

「ええっ? 私ですらリリーさんの味噌汁飲んだことないのに。で、どうだったんですか?」

「多分満足してくれたと思うんだけどね。おいしいおいしいっていいながら、鍋ごと飲んじゃった。三日分作ったんだけどね」

「ほほぅ」桃子はニヤニヤとした表情を見せながら流し目を送る。

「いやいや。桃子ちゃんがね、いなかったからちょっと試しにやってみようって思ったらね、作りすぎちゃって……本の通り作れば私にも作れるかなって思ってね。桃子ちゃんが作ってくれるものには敵わないけど」

「ふーん、そうなんですね」

「なに、その相槌」

 威嚇するように目を尖らすが、彼女はびくともせず軽口を叩く。

「いえいえ。別に疑っているわけではないんですよ。ただ本の通り作ったのなら、作りすぎることもないと思うんですけど」

 頬が自然と紅潮していく。しかしここで引いては彼女の思う壺だ。

「初めてだったから色々と挑戦してみたかったのよ。味付けとかさ。それで春花さんを呼んだわけ、別に他意はないんだからね」

「そうですか。それで次も誰かのために料理が作りたいというわけですね」

「べ、別に誰かのためじゃないわ。自分のためよ」リリーは大きく首を振った。「明後日から久しぶりの連休だしさ、料理の練習をしたいの。それで今度は何を作ったらいいかなって思って相談してるのよ」

 目の前にある紅茶を啜る。だが味が全くわからない。

「今の時期だったら鍋でいいんじゃないですかね? 安いし暖まるし簡単だし。それに」

「それに?」

「人数が増えても困りません」

 桃子は誰も座っていない椅子に視線をやっている。

「桃子ちゃん、私は別に……」

「私は水炊きがいいです」

 リリーが告げる前に桃子ははっきりとした口調でいった。

「水炊き? 鍋の中で沸騰しているのは水じゃないの?」

「ええっと……」桃子は困惑しながら視線を外している。「水炊きっていうのはですね、調味料をいれないで鳥なんかをそのまま茹でてダシを取る鍋のことです」

「そうなんだ」

「ちなみに店長は味噌鍋の方が好きみたいですけど」彼女はそういって無邪気に微笑んだ。

「別に春花さんのために作るわけじゃないからね、料理がしたいだけだからさ」

「店長は関係ないんですか? 味噌鍋じゃなくてもいいんですか?」桃子は再度上目遣いで尋ねてくる。

「も、もちろんよ」

「……そうですか」

 一時の沈黙があった後、桃子はリリーが淹れた紅茶に手を伸ばした。

「まあ水炊きにした後、味噌鍋に変えることもできるんですけどね」

「えっ? そんなこともできるの?」

 つい顔がにやけてしまい口を押さえたが駄目だった。彼女がその表情を逃すわけがない。

「もちろんです。手順は水炊きの要領に後から味噌を加えるだけなので簡単ですよ」

「……そっか」リリーは大きく頷いた。これなら椿も誘うことができる。「じゃあ桃子ちゃんが食べたい水炊きにしよう」

「そうと決まれば明日も鍋ですね」桃子は勢いをつけるように一気に紅茶を飲み干した。「先にいっておきますが、明日は私休みなので人を呼ばれるのであれば先に連絡しておいた方がいいですよ」

 彼女の挑発的な瞳が光る。その笑みの裏には小悪魔が踊っているのだろう。一体桃子には何手先まで読まれているのだろうか。

 しかし、とリリーは思った。料理も作ってないのに誘うのは無謀ではないだろうか。

 策を練らねば。でもどうすれば?

 桃子経由で誘ってもらえないかと考えていたのだが、それはたった今打ち砕かれた。ストレートに電話で誘うのがいいだろうか。しかし断られたら一気に作る気力がなくなってしまう。

 考え抜いた結果、先に鍋の作り方を下調べしてから明日連絡をするということで落ち着いた。

 早速インターネットで水炊きの作り方を調べる。作り方をまとめ材料を書き留めた後、桃子の目を盗んで味噌鍋の作り方を詳しくメモした。


  3.


 ……今日は鍋が美味しいだろう。

 リリーは仕事を終えた後、コートを羽織りなおして椿の店に向かっていた。

 思わず手に力が入る。考えた結果、材料を買う途中に偶然椿の店を通りかかったという設定にしている。

 ……大丈夫、一度誘っているのだ。

 拳を固め彼の店を覗く、どうやら中にいるようだ。この間の椿の評価を考えれば成功するだろうと期待に胸を膨らませる。

 店に入ると彼は大きなアレンジメントを作っていた。白色のカサブランカ達が凛々しく折り重なって立ち尽くしており、見るだけで優雅な気持ちになる。その下には可愛いらしくも気品がある胡蝶蘭が飛び交っていた。

「こんにちは、素敵なアレンジメントですね」

「ありがとうございます、こんばんは」椿はリリーの顔を見て答えた。「開店祝いのお花を頼まれまして、これから搬入に向かうんです。これを届けたら終わりなんですけどね。冬月さんは仕事帰りですか?」

 ……よし、ここでいうしかない。

 リリーは心臓の高鳴りを抑え呟くようにいった。

「そうです。実はですね、今日家で鍋をすることになったんです」

「それはいいですね。今日は寒いし暖まりますね」

「それでよかったら春花さんもどうかなって、思ったんですけど……どうでしょうか?」

 ……静まれ、心臓。

 胸を抑えながら彼を見る。心臓の鼓動がロックバンドのドラムのように激しく高鳴っている。できることなら早くこの高鳴りを止めたい。

「へ?」

 椿の顔には疑問しか浮かんでいなかった。

 ……唐突過ぎただろうか。

 自分の一言で沈黙が流れていく、このままでは変な誤解を与えてしまいそうだ。彼女は咄嗟に桃子をダシにすることにした。

「この間、桃子ちゃんの手助けをしてくれたじゃないですか。あれから桃子ちゃん、凄く元気になったんです。なのでそのお礼にご飯をご馳走させて頂けたら、と」

「ああ、そういうことですか」椿は納得がいった顔になった。「それなら遠慮なく頂こうかな、鍋は大人数で食べた方が美味しいですもんね」

 ……よくやった、自分。

 思わず心の中でガッツポーズをする。せっかくなら二人の時に誘えばよかった、などと変な後悔まで沸いてきてしまう。

「ええ、是非来てください。実は今日の料理、私が作るんですよっ」

 これでどうだ、といわんばかりに勢いをつけていった。前回の味噌汁の件もありその味付けには保証付きのはずだ。

「えっ? 桃子ちゃんではなくて?」

 途端に椿の声が小さくなった。

「はい、私が作ります」

「おおおっ、そ、それは楽しみです……。とっても……」

 椿の声は激しく揺れていた。きっと歓喜に身を震わせているに違いない。

「前回春花さんに食べてもらったおかげで自信がついたんです」

「そ、そそ、そうですか……。それで今日は何鍋に?」

「……みず、いえ、み、味噌鍋です。実は私が食べたいといったら桃子ちゃんが教えてくれるというので」

「そっかー桃子ちゃんがっ」椿の表情にぱっと色がついた。「それは美味しいでしょうね」

「大丈夫です、私が全て取り仕切るので春花さんは食べるだけです。きっと春花さんの舌を満足させてみせますよ」

「え、えええっ、それはもう是非楽しみにしておきます……」

 よし、とりあえず第一関門は突破したようだ。後は料理を作るだけでいい。

「じゃあ二十時くらいでよろしいですか?」

「そうですね、それではまた。何か持っていくものはありますか?」

「いえ、特にありません。全てお任せください」

「わかりましたっ。是非お願いしますっ!」椿は気合が入った声で叫び頭を下げてきた。

 ……こうなったら失敗は許されない。

 彼と同じように心の中で気合を入れる。椿の食欲を満たすために全身全霊を掛けて鍋に向かわなければならない。腕によりをかけなければ。

 深呼吸を二回して車に戻る。家に帰るまでに口元の緩みを止めなければならないためだ。この表情のまま家に帰れば桃子に間違いなくばれてしまうだろう。

 何より椿が来る経緯を今から考えなければならないのだ。それはさも偶然に起こったもので決して自分の意志ではなかったことにしなければならない。そして彼が来た所で鍋は味噌鍋になっていなければならない。

 ……うーん、どうすれば上手くいくのだろう?

 こんな複雑な設定をどうやって伝えればいいのだろうか。相手は桃子だ。すでにばれているも同然、明らかに分が悪い。

 様々な思惑が飛び交う中、彼女は顔を引き締めて鏡をチェックした。だがその緩みはまだ収まりそうにない。椿と一緒に食事ができるというだけで心臓は高鳴っている。

 それはしばらく時間を置かなければ帰れないことを意味していた。


  4.


 煮立ったスープに人参、椎茸を投げ込んだ。肉団子を丸めてスープに浮かせる。少し時間を置いてから豚肉とねぎを入れ蓋をした。その手際のよさに椿は目を丸くしているようだ。

 自分では何も準備できていなかったが、桃子の魔法により鍋を自分で作っているかのように錯覚できる。

「うわぁ、美味しそう」

 椿がよだれを垂らして待っている。彼が来る前に隠蔽工作をしなければならなかったのだがこれには失敗してしまった。桃子に偶然彼を誘ったこともいえなかったし、彼には味噌鍋をするといっている。最初に水炊きを作って怪しまれないだろうか。

「冬月さん、本当に料理できるんですね。見直しました」

「もちろんです、後はもう食べるだけですから。ちゃんと後で味噌鍋にしますからね」

 桃子に心の中で謝りながらも彼に焦点を合わせる。ここまできてしまったのだ、もう後は実行に移すのみしかない。

 時間を見計らって蓋を恐る恐るあけてみた。そこには色鮮やかな水炊きが出来上がっていた。

「わぁーおいしそうだなぁ、ねえ、店長」感嘆の声を上げる桃子。

「うん。これならお隣さんに……」椿は口をぱっくりとあけている。

「お隣さんに?」

「お隣さんに内緒で頂きたいです!」

 意味はわからないが、よっぽどお腹が空いたということだろう。

「春花さん、注ぎますよ」小皿に取り入れて椿に促した。彼の顔はなぜか青ざめている。

「え、僕からですかっ?」

「もちろん、お客さんなんですから」

「では……頂きますっ」

 彼は気合を入れて目をつぶりながら一気に飲み込んだ。きっと舌で吟味しているのだろう。

「これは……」

「これは?」喉がごくりと鳴る。緊張の一瞬だ。

「美味しいですっ」椿は満面の笑みを見せて食らいついている。「こんなに美味しい鍋は初めてだっ。まだまだいけるぞ、これは。次、お願いしますっ」

「もちろんですよ、はいどうぞ」彼のいっている意味はよくわからないが、おかわりの催促をされるのは嬉しい。

「はい、次は桃子ちゃんどうぞ」

「はーい、ありがとうございます」

 桃子はゆっくり味わいながら食べている。その姿は小姑のようだ。「うん、美味しいですよ。さすがリリーさん」

「そう? よかった」

 若干ばつが悪いが、自分の小皿に取り入れ冷ましながらネギを口に運んだ。

 うまい。思わず叫びたくなるくらい美味だった。スープの素でこんなにおいしい味が出せるものなのだろうか。しつこくなくそれでいて具材によく絡んでいる。

「あ、ほんとにおいしい。スープがいいですね。これなら何杯でもいける気がします」椿はさらにおかわりをした。これで三杯目だ。今度はゆっくりと噛み締めながら食べている。

「これならって、この間もたくさん食べてたじゃないですかっ」

「あ、そうでした。あははっ」

 どうやら水炊きは大成功らしい。緊迫した空気が徐々に和らいでいく。

「どうします? そろそろ味噌鍋にしましょうか?」

 リリーの提案に二人とも首を縦に振る。

 桃子が準備してくれていた味噌の皿が目に入った。後はスープに味噌を溶かすだけとメモ用紙に書いてある。

 よし、最後の仕上げだ。彼の大好物の味噌鍋に仕上げてみせる。

 リリーは皿に手を掛け味噌を豪快に鍋の中に投入した。

「あっ」

 桃子が口をぽかんとあけている。彼女の手には味噌を溶かす道具があった。

 そういえば……。

 下半身から徐々に寒気がくる。味噌汁を作った時にあの道具を使ったはずだ。このまま投入しても溶けるわけがない。

 桃子の愕然とした顔に冷気を感じる。間違いなく後で説教を喰らうだろう。だがそれよりも今はこの問題をどう対処するかだ。味噌の塊は鍋の中で勢いよくぷかぷかと浮かんでいる。

 ……さて、どうしよう?

 リリーは席について頭を捻ったが何も思いつかなかった。

 しばらくの沈黙の後、椿が口をひらいた。

「味噌鍋って味噌を浮かせながら食べるものなんですか?」

 椿は不思議そうな顔で鍋を見つめている。

「実はそうなんですよ。ね、リリーさん?」

 桃子の表情は揺らいでいなかった。どうやらこれで乗り切るしかないと覚悟を決めたようだ。

「実は……そうなんです。好きな具材を味噌に付けながら食べるのが本場の食べ方なんですよ」

 どこかでそういう食べ方をしていればいいな、と関係ないことが頭に浮かんだ。

「そうだったんですか、いやあ、知らなかったです。それじゃあ味噌を、こうやって付けてと」椿は気にせず椎茸を味噌につけながら口に入れた。

「うまいっ!」

 椿は大きく唸った。彼からは何かを発明したような光さえ感じられる。

 自分で犯したミスだったが笑いを堪えることができない。箸を置いて口元を抑える。誰だってあんな無邪気な顔で叫ばれたら笑ってしまうだろう。

 桃子の様子を伺うと彼女も両手で口元を抑えていた。

 二人はその後、顔を見合わせて声を出さずに笑い合った。


  5.


 無事に食事を終え、椿の満足そうな顔を見ると、リリーの心は急速に満たされていった。

「ご馳走様でした、とってもおいしかったです」

「それはよかったです」いつもよりも一段高い音が出てしまう。その声に自分でもびっくりしてしまい顔が火照ってしまう。

「店長、こんなに料理が上手な人はいませんよ?」横から桃子が牽制する。

「ほんとだね。いやー冬月さんの料理は最高でした」

「そこまで褒めてもらうことでもないですよ」心の中では大きく勝利の余韻を噛み締めている。

「ああ、そういえば……」桃子が思い出したかのように話を切り出した。「この間、実家に帰った時にお隣さんからですね。別府の旅館の宿泊券を貰ったんです。なんとペアです」

「へぇ、よかったじゃない。ちょうど寒くなってきたし、友達と行って来たら?」

「それも考えたんですが……」桃子は人差し指を左右に揺らしていった。「せっかくですから、三人で行きませんか?」

「え? 三人で?」

「そうです。三人で、です」桃子はきっぱりといった。「最初は屋久島に一緒に行く計画だったじゃないですか。私が風邪を引いたから悪いんですけど、やっぱりみんなで行きたいんです」

 確かに温泉なら悪くない。だが椿はどうなのだろう?

 彼の表情を見ると若干陰りがあったように感じた。やはり秋桜美あさみのことが気に掛かるのだろうか。

「店長、何か都合が悪いんですか?」

「いや、そういう訳じゃないんだけどね」

 桃子はリリーの方をじっと見ている。きっと椿をけしかけろといっているのだろう。

 だがそれはできない、彼が拒む理由がわかっているからだ。今日一緒に食事を取れただけで満足だ。

「店長。この旅館、行ったことあります?」

 桃子は彼の前に勢いよくチケットを近づける。近すぎて逆に見えないのではないかと心配してしまうくらいにだ。

「え、まさか滝坊の九州支部の人がやっている旅館なの?」

「滝坊?」リリーは椿に訊いた。

「ええ、生け花の流派の一つです。この流派があったからこそ、今の生け花はあったともいわれるんです」

「ここに行けば?」桃子は椿を誘導するかのように声を高らかに上げていった。

「滝坊の生け花が直接見れる」

「そうでーす」桃子の甲高い声が部屋一杯に広がる。

「……桃子ちゃん」椿が椅子から立ち上がり地面に座り頭を下げた。「生意気いってすいませんでした。是非、行かせて下さい」

 ……花馬鹿、ここに極まり。

 リリーは先ほどまで渋っていた彼に同情した。椿にとって生け花は勉強の一つなのだろう、ここまで真剣な表情を見たのは初めてかもしれない。

「じゃあ、これで決まりですね」桃子はポンと手を叩いた。

 強引過ぎていい気持ちではないが、椿と一緒に行く旅行は魅力的だ。彼と旅行に行く機会などこれ以上ないかもしれない。

 だが……反論せずにはいられない。

「お店は大丈夫なんですか? 今はもう十二月ですしお休みはとれるんです?」

 椿に訊いたが桃子の方がこっちを向いた。そんなことをいっては水の泡になると威嚇しているようだ。

 だけど今の気持ちで椿と一緒に旅行に行くのはやっぱり躊躇ってしまう。抑えていた歯車が動き出しそうになるからだ。 

「そうですね。今ならまだ暇なんで行けるんですが、これから先のクリスマス、年末なんかは無理だと思います」

 先ほどの淡い期待が一瞬にして沈んでいく。やっぱり今はまだ距離があった方がいい。

 それに自分の休みは不定期だ。泊まりの予定を立てることはできても実行することは難しい。

「桃子ちゃん、やっぱり友達と行ってきなよ。私の休みも合わないかもしれないしさ」

 自分の願望を述べてしまう。そっちの方が潔く諦められる。できればこのままこの話は流れて欲しい。

「店長、今は暇な時期なんですよね?」リリーの言葉を遮るように桃子は券を見て告げた。

「うん、今日だってほとんど花が出なかったよ。お祝いの生花スタンドだけだったしさ」椿は紅茶を啜りながらいった。「そういえば無料チケットだったら期限があるんじゃないかな。何か書いてない?」

「そうみたいです」彼女は無表情のまま呟いた。「しかもこれ指定日が決まっているみたいですね……」

「そうなんだ。もしかして期限過ぎてた?」

「いえ……」

 桃子はチケットを表にしていった。

「明日みたいです」

 

  6.

 

「えっ、明日追加ですか?」

「ああ、別に問題ないだろう。一つ部屋はあいていたんだから」仙一郎せんいちろうは何事もないかのようにいう。

「困ります。明日はあなたのお客さんのために万全を尽くしてきたのよ。一人加わるだけで配膳の量だって変わるし。サービスの質だって……」

「何をいってるんだ、お前は」仙一郎は顔をしかめた。「一人追加になっただけだろう。それくらいの変更で何を騒いでいるんだ」

「今から変更できないの? 私が直接電話するから」

「できるわけがないだろうっ」彼はテーブルを叩いて唸った。「今から断わる方が旅館のイメージダウンに繋がるだろう。それくらいお前にはわからないのか?」

「わかっています。でも明日のお客様のサービスの質を……」

「うるさいっ。俺が社長だ。俺が決めたことにとやかくいうな」

 雪花は(せつか)黙るしかなかった。仙一郎がこういった手前変更することはない。

「じゃあ、料理長にも宜しくいっておいてくれ」

 そういって仙一郎は大股で受付から出て行こうとした。だが途中で足を止めこちらを振り返った。

「前にもいったが明日は風呂を改築する。きちんとしたもてなしを心がけろよ」

 雪花の中で張っていた最後の糸がぷつんと切れる。私の最も思い出のある場所を彼は壊すといったのだ。それも伝統を失墜させるような西洋風に変えられてしまう。

 ……もうこれで私を縛るものはなくなった。

 雪花は戸惑っていた心を引き締めた。明日の計画はやはり実行に移さなくてはならないらしい。

 しかしまずいことになった、とも思った。今まで電話の応対をしたことがない彼のおかげで計画が大幅に狂ってしまったのだ。このままでは由佳里と築き上げてきたものが台無しになってしまう。

 部屋が空いていたのは人数調整するためだ。そのために明日の客は全て優待券を持った客しか入れないというのに。

 頭を捻るが、いい方法が浮かばない。今から追加で材料を注文したら足がついてしまう。つまり刑事の目をごまかせなくなるということだ。全ての料理の量を平等に分けることなどできるのだろうか。

 料理室に向かい由佳里に相談すると、彼女も狼狽を隠せないでいる。

「お母さん。どうするの? 高知産の野菜だってあるし、今から注文しても間に合わない。やっぱり諦めた方がいいんじゃ……」

「それはできないわ」雪花は大きく首を振った。「これ以上あの人に任せていたら全てを壊されてしまう。何としてでもあの人を止めないと……」

「でもあのにらだけはこれ以上増やせないよ。人数分だけ準備していたんだから」

「そうよね……」

 そういって雪花の頭に一つの閃きが生まれた。

 仕方がない、こうなれば奥の手を使うしかない――。


  7.

 

 九州高速道を用いて約二時間。リリー達は予めコピーして置いた地図を頼りに大分の旅館を捜していた。標識を辿り走行すると崖の上に大きな旅館が見えた。

「あれですね」車の中で桃子が大声を出して指差している。「うわぁ本当に旅館って感じの建物ですね」

「何か期待しちゃうなぁ」椿も楽しそうに胸を高鳴らせている。「どんな生け花が見られるんだろう、楽しみだなぁ」

 ……久しぶりの連休に、まさか三人で旅行とは。

 リリーは現状を理解できぬまま旅館に入った。楽しいことだと心ではわかっているのに体がついていかない。

 老舗旅館『一蓮』は白を貴重とした建物だった。大分年期が入っているが心を落ち着かせる空気を纏っている。

 中に入ると畳が床一面に隙間なく埋め込まれていた。どうやらすべて畳で出来ているらしい。

「いい所ですねぇ」桃子が辺りを見回している。

 中を覗き込むと和を感じさせるものが到る所で発見された。穏やかな光を放っている灯籠、木で作られているふくろうの置物、床の間にある生け花。足を踏み入れるだけでも心が静まっていく。早速署名をし一人分の料金と二枚のチケットを渡した。

「中は相当広いですね。この旅館」桃子は落ち着くことができずに館内を詮索し始めている。

「うん、凄い広いね……」

 自分の心もこの空間に囚われ始めている。想像以上の和の空間は逆に日本ではなく別の世界にいるように錯覚させられる。

 まるでお伽話の世界のようだ。

 椿が生け花の前で写真を構えていた。リリーも見たことがある花だ。

「これ、水仙ですよね?」

「そうですよ」椿はシャッターを切った後カメラを納めていった。「水仙の一種生けです。これは滝坊の独特な生け方なんですよ。葉を四枚と花を一つでセットしたものを三つ、縦のラインに生けるんです」

 椿の解説がさらに詳しくなる。一種生けというのは名の通り、水仙だけで生ける方法のことをいうらしい。

 彼は剣山の方を指した。

「水仙は球根植物ですから、袴といって葉と花を束ねるものがあるんですよ。これを生けた方はきちんと袴を使ってます。これが中々手間が掛かる作業なんです」

「でもこれを使わないと生けられないんですよね?」

 椿は指を振った。

「簡単に止める方法として輪ゴムやテープで止める人もいるんです。もちろんそれが見えては興が削がれるので見えないように工夫しますがね」

「なるほど。ということはきちんとした生け方をされているんですね」

 リリーは一つのセットになった葉の枚数を数えた。しかしどう数えても二枚ずつしか入っていない。残りの六枚の葉はどこにいったのだろう。

 それに袴がある部分にきちんと詰め物までしてある。葉が二枚足りないためその分を補っているのだろう。なぜ葉を足さなかったのだろうか。

 しかし椿はそこを指摘せず、少し離れてしばらく眺めていた。もしかするとセオリー通りに生けるのではなく人によって自分の型というものがあるのかもしれない。

 手続きが終わり従業員が部屋まで付き添ってくれることになった。泊まる部屋は二階だ。エレベーターの前に行くとドアにも豪華な装飾が施されていた。朱色をベースにした扉に金粉が塗してある。とても綺麗な配色だ。

 エレベーターに乗り込むと床の感触が柔らかかった。エレベーターの床にも畳が敷かれている。

「凄いですね、この旅館。本当に和一色ですね」リリーは近くにいる従業員に話しかけた。

「そうですね、うちの旅館はそれが売りでして」従業員は丁寧な口調で頷いている。「外にあるビニールハウスには睡蓮も咲いてますよ。今の時期に見れるのは嬉しいと好評を頂いています」

「そうなんですね、それは楽しみです」椿は微笑んでいう。「そういえば、生花は誰が生けているんです? とても素晴らしかったので是非お話を訊きたいなと思っているんですが」

「ありがとうございます。女将が毎日生けています。今日の花は水仙の一種生けでございます」

 椿は嬉しそうに頷いた。自分の目から見ても素晴らしいものだったと思う。はたして彼にはどのように見えていたのだろう。

「やはり本家だと違いますね。本当に素晴らしい生け方でした」

「ありがとうございます」従業員の頭の角度がさらに下がる。「女将にも是非伝えておきます。食事は皆様コースとなっておりますので七時半にロビーに来てください。それまでお風呂はいかがですか? 当店では檜風呂となっており露天もありますよ。一階のフロントを左に曲がった所にあります」

「そういえば別府には温泉カルテというものがありますよね?」桃子が口を開いた。どうやら温泉の成分が表札に掲げてあるらしい。

「ええ、ございます」従業員は静かに頷いた。「大浴場は単純温泉となっておりますので中性で入りやすいものになっています。どの年代にも好評頂いてますよ」

「よかったぁ」桃子はほっと胸を撫で下ろしている。「塩が入っている温泉とかあんまり好きじゃないんですよね。肌が痛くなっちゃいますし長湯できなくなりますし。部屋についたらお風呂に行きましょ、リリーさん」

 エレベーターから降り二つの部屋に向かった。鍵を貰い椿とは別々の部屋に入る。二百一号室にリリーと桃子、二百二号室が椿の部屋だ。

「リリーさん、お風呂で話したいことがあります」部屋に荷物を降ろした後、桃子は真剣な表情でいった。「大事な話ですけど、いいでしょうか?」

「うん、もちろん」

 頷くが、何の話かはまだわからない。彼女は秋に父親の建てた室生寺に行ったとは聞いていたが、大まかな話しか聞いていない。

 ……もしかすると、心の整理がついたのかな。

 春の事件を思い出し、リリーは気を引き締めた。どちらの話だとしても、きちんと聞かなければならないだろう。

 ……もしかして、家を出るのだろうか。

 バスタオルを握り桃子の顔を伺う。だがいつも明るい彼女に笑顔はなかった。


  8.

 

 露天から景色を眺めると、辺り一面から煙が上がっているのが見えた。別府の街の代名詞ともいえるこの景色はやはり目を見張るものがある。お湯はぬるま湯で心地よく外の景色を楽しむにはちょうどいい。

「気持ちいいですね。本当に来てよかったぁ」桃子は羽を休めるように深々と湯に浸かっている。

「うん。仕事の疲れが飛んじゃうね」

 湯で顔を洗う。椿への苦い思いが胸を燻っているが湯の中に流してしまおう。休みを取ったことは変わらない。楽しまなければ損だ。

 その前に、彼女の話をきちんと聞かなければならない。

「リリーさん、ありがとうございます」

 桃子の方に振り返ると彼女は真剣な眼差しで自分の方を凝視していた。

「どうしたの? いきなり」

「きちんとした挨拶がしたかったんです」桃子は背筋を伸ばしながらいった。「リリーさんがいなかったら私、絶対途中で挫けていたと思います。リリーさんがいてくれたから今の私があるんです」

「大袈裟ね。私は何もしてないわ」リリーは手を小さく振った。「全て桃子ちゃんの意思でやったことじゃない。お父さんの建物だってお母さんとの思い出だって、全て桃子ちゃんが向き合ったから得られたものなのよ」

「そうかもしれません。でも……」

 桃子は俯いてすすり泣きを始めた。彼女が自分の目の前で泣くことに戸惑いを覚える。今まで、我慢してきただけなのだと納得する。

 桃子の頭を優しく撫でていく。彼女の涙が温泉の湯に落ち、波紋が広がっていく。

「すいません、泣いちゃって……きちんと話をしなければ、と思っていたのですが、少しの間だけ、こうしてていいですか」

 無言で頷くと、彼女はそのまま声を殺して泣き始めた。リリーはそのまま彼女の体を抱きしめた。

 彼女は強いのではない、と思った。九ヶ月の時を経てやっと現実を受け入れることができるようになったのだ。受け入れるだけの精神力をやっと彼女は取り戻せたのだろう。

 ……やはり殺人では何も解決しない。

 心を引き締めて桃子をぎゅっと強く抱きしめる。刑事としてただ当たり前の事象として納得していたが、犯人が見つかっても事件は終わらない。そのために、被害を最小限にするために私がいる。

 彼女のためにも、自分のためにも―――。

「ありがとう、私も桃子ちゃんには感謝しているのよ」リリーは彼女の目を手で拭いながらいった。「私の方が得られたものがあるの、屋久島に行ったのだってそう。桃子ちゃんが行こうっていわなかったら、私も絶対行ってなかったし、お母さんの写真だって手に入らなかった。本当にありがとう」

 屋久島で出会った花。全てはそこから連鎖していった。あの花に出会ったからこそ昔のトラウマが徐々に消えていったのだ。彼女がいたから母親と向き合うことができた、まだ全てではないけど、このまま時間が経てばきっといい思い出に昇華できる、そんな感じがするのだ。

「ごめんなさい、私が泣いたからですよね……」

 桃子の手が自分の瞼を優しく触れる。

 いつの間にか貰い泣きをしていたらしい。

「リリーさんは格好よくて強いですけど、本当に優しい人です。リリーさんに出会えて、本当によかった」

 彼女の言葉に、再び涙が溢れる。

 嬉しいが、ちゃんと確かめなければいけないことがある。

「桃子ちゃん、まさか……家を出るとか、考えてないよね?」

「実は、考えていたんですが……」桃子は目を伏せながらいう。「もう少しだけ、いさせてくれませんか? リリーさんがよければですけど」

「……よかった」肩の力を抜いて頷く。「もちろんいいわよ。私もあなたがいてくれたおかげで、助かってるんだから」


 ……全ては彼女と出会ってからだ。


 心の中でまだ桜が咲いていなかった春を想像する。桃子と出会ってからのこの一年、本当にたくさん学ぶことがあった。

 感情を恐れていた自分は、ガラス玉を外すことができなかった。それでも彼女と出会い、自分の心にあるトラウマに負けまいと努力した結果、彼女を救うことができた。

 それだけは自分自身で誇れることだ。

 感情の液体が溢れたせいで、精神的に脆くなってしまった部分もある。でもその分、大切なことを知ることができた。

 それは人の気持ちは変えられるということ。

「そういえば、リリーさんのお父さんも建築家だとききましたが、どこにいるのですか?」

「イギリスに本社があるみたいだけど、海外を飛び回っているみたいよ」

 ……父親は今、どんな気持ちで仕事に望んでいるのだろう。

 ストックは百合が亡くなってから刑事を止め不変の数字を追いかける仕事に就いた。冬に戻るといっていたので、すでに日本にいるのかもしれない。

 彼が刑事を止めたことに対する疑問が長年あった。だが今ではその思いがわかる気がする。

「写真っていいよね、一瞬の輝きを閉じ込めておけるから」

 春に出会ったサクラと椿を思い出しながら述べる。彼の言葉は自分の心を未だ掴んでいる、あの言葉から自分のガラス玉は緩んでいったのだ。

「そうですね」桃子は小さく微笑む。「店長が撮った写真も魅力的でした。同じ場所でも、人によって視点が違うから新しい発見がありますし」

 彼女の発言に大きく頷く。同じ場所でも人の視点によって写真は構図を変える。そこには身長の高低差も含まれており、母親の写真の中に未だ、違和感が残るものがある。

「なんだか最近、店長と仲良しになりましたね」

「そうね。二人だけでもよかったんだけど、やっぱり人数が多い方が楽しいよね」

「……まったく。本当に素直じゃないんだから、リリーさんは」

「……ん? 私はこれでも素直になった方よ」

 桃子の言葉が聞こえていないように振る舞う。

 椿には自分にない魅力がたくさんある。しかし秋桜美の話を嬉しそうにする彼を見るとどうしても尻込みしてしまう。ましてやその彼女は存在しない。

 死人は無敵だ。今の椿は決して朽ちることのない彼女に思いを馳せるだけで満足しているのだろう。

 彼女に敵う存在はこの世にはいないのだから―――。

「桃子ちゃん、私は別にそういう気持ちじゃないの」気がつくと胸の中で燻っていた思いを吐露していた。「春花さんと話すと新しい発見がいっぱいあるし勉強になるし。友達としていいなと思ってるだけだよ。一緒にいて楽しいし気を使わなくていいしね。それに……」

「わかってます。別に他意はないんでしょう?」桃子は笑いを堪えるようにしてリリーの真似をした。「本当に純粋ですよね、リリーさんは。仕事の時はびしっと決めてくれるのに、全然反論になってないですよ」

 風呂の中にいるのに顔だけがやけに熱い。桃子にはきっと自分の気持ちはバレているのだろう。だがこの思いを彼女に話してしまうと、それこそ止めることができなくなってしまう。

 椿のことを思うと、理論と感情の違いなど考えている自分が馬鹿らしく思えてしまうのだ。ただ彼を目で追いたくなるし、彼のことが知りたくて近づいてしまう。それは彼を苦しませることになるとわかっているのに……。

 ……考えても仕方ない、心を静めよう。

 桃子からの視線から逃れ、彼女は遠くにある山を眺めながら日が沈むのを待つことにした。


  9.


 風呂から上がった後、椿と待ち合わせをし夕食のテーブルに向かった。まだ夕食の時間には遠く三人で近くの土産コーナーを物色することにする。

「あ、リリーさん見て下さい、熱帯魚が泳いでますよ」

 桃子の視線の先にはディズニーで有名になった熱帯魚が光を浴びてスイスイと泳いでいた。これだけ和で統一されていた空間だけに違和感を覚えてしまう。

 食事処を一瞥すると、受付のあるロビーは全て和の様式をとっているのに対し食事を取るテーブルは洋の形式をとっている。名称もレストランルームとなっており新品同様の看板が光っている。無駄に大きい椅子が部屋に溶け込めていないように感じる。

 突如、流暢な英語が聴こえてきた。その口調からしてイギリス英語のようだ。リリーはそちらの方に耳を傾けた。

 そこには体格のいい外国人と恰幅のいい日本人が豪勢に話をしていた。後ろ姿しか見えないが、どちらもきっちりとしたスーツ姿だ。ビジネスの関係だということは一目瞭然だろう。

 懸命に英語で説明していることから察するに日本人が接待をしていると考えられる。スリッパにしても同じ客同士のはずなのに外国人の方が綺麗なものを履いているからだ。

 スーツの日本人はどうやらここに何度も泊まったことがあるらしく、よく鶴の間を使用しているとのことだった。

 彼の説明が聞こえる。鶴の間というのはここの旅館で一番いい部屋で三種類の貸切風呂を使用できるらしい。その貸切風呂は単純温泉、炭酸物泉、塩化物泉の三つの順で楽しめるらしく外国人が満足することは間違いないと熱く語っている。彼もその話を聞いて楽しみにしているようだ、声を高らかに上げて笑っている。

 その笑い声を聞いてリリーは耳を疑った。特徴のある笑い方だった。彼の顔を見てリリーは驚愕した。

「お父さんっ」

 その声に反応するように外国人の男がこちらに振り返った。

 父のストックがそこにいた。

「おお、リリー。久しぶりだね。どうしてこんな所に」

 声のトーンは高いが、淡々とした口調は相変わらずで英語のままだった。目つきは鋭く、親子なのによそよそしい感じを受ける。

「友達と温泉旅行に来ているんです。日本に戻ってきてるのなら連絡を下さいよ」

 リリーも英語で返すと、彼はほっと息をついて謝った。

「申し訳ない、今日着いたばかりだったんだ。連絡のしようがなかった。許してくれ」

 ストックは大袈裟な手振りでリリーに謝罪している。その様子を見て恰幅のいい男もこちらを見つめてきた。その目には好奇の色が滲んでいる。

「……娘さんですか?」

「そうだ。こんな所で出会えるなんて本当に素晴らしい偶然だ」

 ……そんな気持ちなんてないくせに。

 リリーは心の中で毒気ついた。だが家賃を払っていない自分がそんなことをいえる立場にはない。

「私もです。元気にされているようで何よりです」

 椿と桃子も気づいたようで、二人の視線はリリーとストックの間で右往左往していた。桃子がたまらず声を掛けてくる。

「リリーさんのお父さんですか?」

 桃子はストックの写真を見たことがある。しかしそれは二十年くらい前の写真だ。今の父親に面影はない。

「そうよ。あれが私のお父さん」

「これがお前のお友達かね? 英語も話せない友人を持っているのか。学力のかけらさえ感じないな」

 ストックは英語を止めず彼らを卑下し冷たい視線を寄せた。もちろん彼は日本語も話すことはできるが、自分の立場が上の場合、英語でしか話さない。父はそういう人種だ。

「ここは日本です。英語が話せなくても暮らしていけます」

「相変わらず考えが狭いな」ストックは鼻で笑いながら続ける。「そんな友人と温泉に来て何を話すというのかね、それでお前に何のプラスになる?」

「友人を侮辱するのは止めて下さい。この方達は私の大切な友人です」

「大切という意味をわかっているのか? 何のきっかけで付き合うようになったのか知らないが、今すぐ切った方がいい」

「あなたにわかるはずがない。今の言葉、撤回して下さい」

 気がつけば、反抗の態度を表していた。それに気づいたのか恰幅のいい男がまあまあと仲裁に入ってくる。

「今から食事をするというのに苛立っては不味くなりますよ。ここはどうか私に免じて怒りを納めてください。今宵は楽しい席にしましょうよ。お、やっと準備が出来上がったようです。ささ、私達は先に行きましょう」

「……ああ」

 ストックは苦い顔を作ったままリリーに背を向けテーブルに向かった。

 ……ざまあみろ。

 舌を出して抗議する。初めて父親に抵抗したためか今までにない感情が湧き上がってくる。怒りの感情が抜け胸の中がすっと落ち着いていく。

「お待たせしました。それではどうぞ、席の方にお座りください」従業員の呼びかけでぞろぞろと宿泊客がテーブルのあるロビーへと赴いている。

 怒りを静めるため深呼吸をする。せっかく三人で楽しい一時を過ごしに来たのに台無しだ。

 二人の顔を覗くと、呆気に取られたのか何の表情もなかった。リリーはもう一つ大きな溜息をついた後、無理やり笑顔を作り彼らをテーブルへと導くことにした。


  10.


「料理長、指示をお願いします」

「あ、はい。すぐ行きます」

 由佳里の手は震えていた。厨房が寒いからではない、これからの出来事を考えると体の底から震えがくるのだ。この震えはしばらく続くだろう。止まる日がいつ来るのかわからない。もしかすると永久にこないかもしれない。

 ……けど、覚悟はできている。

 再び震える手をぎゅっと握る。仙一郎だけでなく追加の客にも同じことをしなくてはいけないのだ。それが間違っているということをわかっていてもやらなければならない。

 彼に害がないとしても自分の心はズタズタに引き裂かれるだろう。料理長としてのプライドが地に落ちるのだ。

 ……それでも私はやり遂げなければならない。

 どうせ、このままでは旅館に未来はないのだ。それにこれは一人で決めたことじゃない。大丈夫、計画は必ず成功する。

 班長のウェイターが料理室に入って来た。

 ……時間だ。

 由佳里は帯を結び直しいつもの手順で料理を並べ始めた。

 雪花から聞いた所に寄ると、今日はついに貸切風呂を改築するとのことだった。それが済めばついに大浴場だろう。

 そうなればうちの旅館は確実に崩壊する。長年親しんできたお客を裏切ることになる。

 全ては父親、いや仙一郎が悪いのだ。

 彼を止めるためにしなければならない。それが最悪、彼の命を奪うことになったとしても―――。

 ……これで、旅館が救われるのなら。

 彼女は料理に間違いがないか確認を取った。その料理がレストランルームに運ばれるのをしばし眺める。どうやら順調にいっているようだ。後は黙って母親を信じるだけだ。

 彼女は踵を返し厨房に戻ることにした。手の震えはやはり最後まで止まらなかった。

 

  11.

 

「何だかこの椅子、座りにくいですね」

「……そうね」

 桃子の呟きにリリーも頷く。

 きっとこれは父が取り寄せたものなのだろう。明らかに日本人の体型に合わせていないものだ。

 夕食は和食のコースとなっていた。野菜を中心とした合計八種もの料理が順番に出て来るようだ。テーブルと食事のバランスが合っていないように感じるが、文句をいっても仕方がない。

「じゃあ食前酒で、これで乾杯しましょうか」

 初めに出て来た食前酒で乾杯した後、次々と料理が運ばれてきた。山菜ごはん、野菜付きしゃぶしゃぶ、赤だしの味噌汁、茶碗蒸し、鰤の照り焼きがテーブルに並んでいく。量もちょうどよさそうで、とても美味しそうだ。

 食前酒を飲んだ後、メニュー表を見た。ユウヒの生ビールと瓶ビールが飲めるとのことだ。三人はとりあえずユウヒの生ビールを頼むことにした。

「どれも美味しいですね」桃子は次々に料理を口に運びながらいった。

「うん、薄味で食べやすいね」

 味付けはさっぱりしていた。だがどの料理にもこだわりが感じら、今までに食べたことがない新鮮さを兼ね備えていた。

「どうですか、春花さん?」

「んん? 何がですか?」

 椿の方を見ると明らかに変貌を遂げていた。顔は赤く箸が全然進んでいない。その上、生ビールに手をつけていないのだ。まさか彼は食前酒で酔っ払ったのだろうか。

「あー体が熱いなぁ。脳みそがとろけるー」

 酒に弱いとはいえ食前酒は僅か50cc程度だ。まさかこの量で酔っ払ったのだろうか。

「春花さん、酔っ払うの早すぎですよ」

「すいません、頭がふらふらするんです」彼の目は中まで充血している。「温泉に浸かりすぎたからかなぁ」

「大丈夫ですか?」

「うーん、それもわかりません。酔っ払ってるからかなぁ、味が全くわからない。この山菜ごはん、お酒の味がしません?」

「何いってるんですか。お酒なんて入ってませんよ。普通の山菜ごはんです。ねえ、桃子ちゃん?」

「そうですよ。店長は本当にお酒が弱いんだから」

 桃子はご飯の味付けよりも焼酎に夢中になっていた。芋焼酎をロックで呷っている。

「そうかなぁ、おかしいなぁ。それにこの韮、匂いが全くしないんですよ」椿はしゃぶしゃぶについていた韮を捕まえては湯に浸し豚肉と合わせてほおばっている。

「そんなことないと思いますけど」リリーも箸でつまんで匂いを嗅いでみるが韮独特の匂いがした。どうやら彼は完全に出来上がっているらしい。

「そうなんですか。私もう食べちゃってわからないですけど、あはは」桃子はすでに出されている料理を食べ終えており焼酎のおかわりをお願いしている。

 二人とも開始早々、泥酔している。一人は食前酒で酔っ払ってしまったが……。

「まったくもう、二人ともしっかりしてよ」

 二人の前で溜息をついて見せるが、内心は嬉しい。椿と桃子の酔っ払った顔を見るのは久しぶりだからだ。この二人が落ち着いている様子を見ると純粋に楽しいと思えてくる。この感覚は嫌いじゃない。

「店長、ほんとお酒弱いんですね。まだ夜は始まったばかりですよ」

 桃子はグラスを一気に飲み干していう。すでに焼酎をロックで三杯飲んでいる。だが顔色は白いままだ。

 彼女が居候するにあたって一番驚いたのが飲酒の量だ。普段は遠慮しているようだが、飲む時の量は凄まじかった。

「こう、旅に来るとお酒が美味しいですね。どんどん進みますよ」

 椿とは対照的に湯水のように酒を浴びている桃子は誰よりも男らしかった。

 ……あちらはどうなっているのだろう。

 ストックの方を目の端で眺めてみる。父親に合わせて焼肉をとっており、豪快に晩酌をしているようだ。瓶ビールを頼んでいるらしくテーブルの上には瓶の山が出来ている。その後に椿のしまらない顔を見ると溜息をつかざるを得なかった。

 次の料理は手打ち蕎麦だった。薬味を入れつゆにそばを浸し啜る。これも美味しい、柔らかく舌触りがよく少量で胃の負担にはならない。きっと今日の料理人は綿密な計算を元にして料理を作っているのだろう。

 最後にと、ウェイターの言葉と共にほうれん草のババロアが置かれた。どうやら締めのデザートらしい。ぷるんとした食感で料理の締めにふさわしく口の中をまろやかにし落ち着かせてくれる。

「何だか野菜尽くしだったわね」リリーは口元を綺麗に拭きスプーンを置いた。

「本当ですね。どれも手が込んでて美味しかったです」桃子もご満悦の表情だ、こちらは芋焼酎のおかげかもしれないが。

「……ああ、もう満足です……」

 椿を見ると骨が抜けたようにだらしない姿になっていた。しかし顔を真っ赤にしながらもきちんと料理をたいらげている。他のテーブルを見ると皆、満足そうに完食していた。

 

   12.


「いやあ、美味しかったです。また来ます」

「ありがとうございます、こちらこそ、またよろしくお願いします」

 ……よかった、今日の客は満足してくれているようだ。

 エレベーター前で雪花は食事を終えた宿泊客を出迎えていた。今日の料理の評判もよく、客は皆満足そうな顔を浮かべている。

 その中に仙一郎と接待客のストックを見かけた。二人に声を掛けると、ストックが勢いよく手を握ってきた。

「女将さん、今回はどれもパーフェクトでした」

「それはよかったです」

 ……それはそうだろう。

 表の顔を隠し裏だけで彼に毒づく。それもそのはずだ、食事処は全て彼が設計したからだ。自分の体型に合わせれば満足するに決まっている。料理に関しても彼ら二人だけ別のメニューにしたことが気にいったらしい。前回の反省を踏まえ洋食をメインにしたことが成功に繋がった。

 雪花は軽く笑みを浮かべゆっくりとお辞儀をした。側にいる仙一郎に声を掛ける。

「今からお風呂が待ってることは伝えてくれました?」

「もちろん伝えてある。それも楽しみにしているみたいだ。ちゃんと準備はできているんだろうな」

「もちろんです。お二人で入るんですよね?」

「そのつもりだ。今日来たのも貸切風呂を改築するためだからだな。たくさん話を訊かなければならない」

 ……やはりそこまで話が進んでいるのか。

 雪花はなるべく無表情を装うようにして微笑んだ。

「そうですか。どうぞごゆっくり」

 エレベーターのボタンを押し内心の揺れを見せまいと姿勢を正す。今日の私の一つ一つの行動によって別府の未来が変わるといっても過言ではないのだ。

 エレベーターに二人を誘導し再び深く頭を下げる。彼に対する贖罪も含めてだ。

 振り返ってロビーの方に目を向けると、若い女性が二名、男性が一名横一列に並んでこちらにやってきた。

「食事とっても美味しかったです。ごちそうさまでした」

 ミディアムヘアーの女性が声を掛けてきた。細身で身長が高く、姿勢がとても綺麗だ。日本人離れした顔つきだが流暢な日本語を話している。

「ありがとうございます。お連れの方は大分酔っ払っているみたいですが、大丈夫ですか?」

 連れの背が高い男性はできあがっているのか、顔が真っ赤になっていた。フラフラしながら男が口を開けた。

「いーえ。まだ僕はシラフですよ。ところであなたが女将さんですか?」

「ええ、そうですが」

 ……何か問題があったのだろうか。

 そう思った時、雪花は今日追加になった客がこの人物だったということを思い出した。思わず身が引き締まっていく。

「水仙の生け花、とても綺麗でした。確かあなたが生けられたと聞いたんですが」

「はい、わたしが生けました」足の方からガタガタと震え上がる。決してこの客にだけは弱い態度で出てはいけない。「お花に目が行くというのは趣味でやられているんです?」

 男はかぶりを振った。

「本業で花屋をしています」

 客に仕事を訊くのはご法度だ。雪花は大きく頭を下げた。

「そうでしたか、申し訳ありません。余計なことを申しました」

「いえいえ、お気になさらず」男の眼が急に鋭くなる。「さすが滝坊の家元が生けられているのだなと感服しました。水仙らしい可憐な表情が見事に表現されています。ここの旅館に来れてよかったです」

「家元といっても私は九州の人間ですが……ありがとうございます」

 花屋といっても生け花に興味を持つ人は少ない。この人は本当に花が好きなんだろうと雪花は思った。

「僕も習っているんですが、あのように生かすのはまだまだできないと思います」

「御自分でされているんですね。私もまだまだ未熟ですが、そういって貰えると嬉しいです」

 姿勢のいい女性も真剣な表情で話を訊いている。きっと連れも花屋なのだろう。

「お花はどちらから入荷したんです?」

「実は庭で栽培しているものを使っているんです。景観を損ねない程度に」

「なるほど。市場で卸されているものよりは自然な生え方をしていると思ったんですよ。道理で趣き深いわけだ」

「さすが店長、そこまで見てるんですね」連れのもう一人の女が頷いた。

「うん、葉の自然な曲がり方をうまく生けてあるからね。毎日綺麗に生けようとしていないとあの味は出せない。本当に素晴らしいと思うよ」

「いえ、そこまでいわれる程の腕は持ち合わせていませんよ」雪花は謙遜したが、自分の仕事を褒められるのはやはり嬉しかった。

「でも気持ちがしっかり入っているのは見た目でもわかりますよ。その着物、凄く似合っています」姿勢のいい女性が声を上げた。

 雪花は鏡に映った自分を眺めた。今日の着物は南天が入ったものだ。何となく選んだのだが季節感のあるものをとっていた。

「まあ、そんな所まで見て頂けるなんて。本当にありがとうございます」

 エレベーターが到着したようだ。三人を見送った後、再び雪花はお辞儀をした。追加の客におかしな点は見当たらなかった。酔っ払っているが、体に以上があったわけではないようだ。

 ……しかしこれからが正念場だろう。

 腹を括りながら彼女は、億劫な気持ちを振り切って貸切風呂に向かうことにした。


  13.


「よーし飲むぞぉー」

「そのいきです、店長。今夜はいくとこまでいきましょー」

 椿が枯れた声で叫び、桃子が彼を支えながらいっている。これではどちらが店長なのかわからない。

 結局桃子は焼酎を一本開けて、椿は生ビールを一杯だけ飲んだ。二人は肩を酌み交わしながら歩いている。身長差があり過ぎてお互いうまく組み合っていないため、桃子が椿を支援している形になっている。

 二人の提案で飲み直そうということになっていたが、それはできないと思った。自分の中で引っ掛かっている部分があるからだ。それを確かめなければ悠長にお酒など飲めない。

「桃子ちゃん、ちょっと湯冷めしちゃったから、もう一度、お風呂入ってくるわね」

「大丈夫ですか?」桃子は不安そうな顔でリリーを見上げている。

「うん。ちょっと入ったら暖まるから。全然心配するようなことじゃないよ」

「いえ、そっちじゃありませんよ」桃子がリリーの耳元で囁いてきた。「いいんですか? 今日訊かないと教えてくれませんよ? 多分起きていられるのは一時間くらいだと思いますが」

 京都での墓参りについてだろう。確かにそれを聞くのが怖くて彼を避けてる所もあるが、理由はそれだけではない。

「大丈夫。すぐ戻るから。二人とも気にせず楽しんでてね」

「わかりました。じゃあ、店長買い出しに行きましょう」

「よーし、飲むぞー、潰れるまで飲むぞー」

 そんなことをいわなくても潰れる寸前だ、彼の状態はすでにタイタニック号が流氷に激突した境遇にある。だがその言葉が桃子の導火線を点けたようだ。 

「店長、その言葉を待ってました。今日は夜通しですよ」

 椿の顔が若干歪んだが仕方ない。彼が悪いのだ。

「それじゃあちょっと買出しに行ってきますね」

 桃子は椿の腕を掴み強引にエレベーターに乗り込んだ。

 リリーは二人を見送り大きく溜息をついた。とりあえず一階に向かうしかない。風呂に入る準備をしエレベーターを待つ。

 鈍色に染まった空から粉雪が降っていた。それを眺めていると窓に自分の顔が浮かんだのが見えた。

 その次には再び溜息をついている自分の姿が映った。


  14.


 ……これで全部ね。

 雪花は受付で姿勢を正しながら腕時計を見た。全ての客が食事処から立ち去ったので、後はゆっくりできそうだ。

 ……もう、後20分以内には降りてくるだろう。

 仙一郎のことだ、今日は体調が優れないことがわかっても必ず風呂に入りに来るだろう。

 膝が震えて止まらない。姿勢を正そうとするがすぐに歪んでしまう。しかし由佳里のためにも今日一日の辛抱だ。今までの我慢に比べたらなんてことはない。

 エレベーターの起動音がする、誰か降りてくるようだ。降りてきた人物は先ほどの姿勢がいい女性だった。着替えなどを準備してることから大浴場に行くつもりなのだろう。

 しかし彼女は酔っ払っているのか鶴の間専用の貸切風呂の方に向かっていった。慌てて女の元に向かう。

「すいません、こちらは一般のお客様では入れないんですよ」

「そうなんですか?」女は自分の頭を掻きながらいった。「ごめんなさい、温泉の成分だけでも見ていいでしょうか。別府には温泉カルテというものがあると聞いていまして、こちらのお風呂はまた違うのかなと思ってですね」

「そうですか。もちろんご覧になることはできます。ここから少し距離がありますが、よろしいですか?」

 女は頷いて前に進み始めた。その後ろ姿をゆっくりと追う。

 ……嫌な予感がする。

 雪花は彼女の様子を見て不安に思った。先ほどまで姿勢を正していた彼女が陰気な雰囲気を纏い、前かがみになっているからだ。酔っ払っているようにも見えないが、最悪、どこかで眠りこけたら計画が破綻してしまう。

 女は暖簾の前に表示されてある温泉カルテを見つめ始めた。その目つきは先ほどとは違い真剣そのものだった。

「こちらにある露天風呂は掛け流しなんですね。なるほど……」女は口元に手を当て考え事をしているような素振りを見せる。

「ここには三つの温泉があるんです」雪花は慌てて説明に入った。「一つはお客様と同じ大浴場にある単純温泉です。二つ目は炭酸カルシウムが含まれている炭酸物泉、最後は血行の巡りをよくする塩化物泉に入ることができるようになっています」

「詳しい説明、ありがとうございます。そこまでおわかりなら、旦那さんがお風呂に入るのは危険だと思うのですが?」

「な、何をおっしゃっているのです?」

 どうして、という言葉は飲み込む。女はまっすぐにこちらを向いて雪花の目をみつめていた。その様子はまさしく自分の心を全て見抜いているようにも見える。

「あなたにはこれから起こることがわかっているはずでしょう。先にいっておきますが私は酔っていません。ちょっとお酒を飲んだのは確かですが」女は表情を変えずに答えた。

「これから起こること、というのはどういったことでしょうか?」

 冷静にいったつもりだったが、声は震えている。この女は何かに気づいている。それがなぜわかったのか、いや、何がわかっているのかすら読めない。女の言葉を待つ他ない。

 女は背筋を伸ばして一つ溜息をつい後、口火を切った。

「わかりました、とぼけるおつもりなんですね。よっぽどの考えがあるのでしょう。しかし殺人に花を使うことは許せません。特にあなたのように花に精通している人がすることではないと思います」

 雪花は愕然とした。まさか本当に見抜かれているとは思わなかった。

 女の表情はさらに険しくなっていた。怒りに満ちている瞳が自分の背筋を凍らせる。まだきちんと立っていられることが不思議なくらいだ。

「おっしゃる意味が……わかりません。私が何かお客様に対して、その、粗相をしてしまったのでしょうか?」

 もはや自分でも何をいってるいるのかわからなかった。体中の震えが止まらない。しかしここで屈したら終わりだ、女にそれが伝わらないようにすることに集中しなければ。

「時間がなさそうなので、簡潔に説明しましょう。話をするまではないと思ったんですが、このままでは人の命に関わりますからね」

 ごくんと喉が鳴る。女の顔を黙って見つめることしかできない。

「今日の宿泊は優待券を持った方だけのようですね。つまり人数調整ができるということを表しています。なぜ今日のような平日にしたのでしょうか? それは鶴の間に泊まるお客さんに合わせたからです」

 女は唇を舐めて続けた。

「お客さんは外国人の方でしょう。その案内役にあなたの旦那さんがなっているんじゃないですか」

「ちょっと待って下さい。宿泊券はたまたま空いていた日程をとって提供しただけです。それになぜ鶴の間のお客さんが私の旦那だと?」

 どうせばれることだと雪花は思った。しかしそういった雰囲気は全く見せていないはず、どこで気づいたのだろうか。

「確かに日付のことは推測です。しかしあの人はあなたの旦那でしょう。もしくはそれに近い人だと思います。エレベーターを待っている間あなた達は三人で会話をしていましたが、それはお客さんに対してのものではなかった。その距離はかなり近い人物に対してのものでした」

 ……そんな所を見られていたなんて。

 心の中で溜息が漏れる。仙一郎と話している時、ストックがいたので日本語がわかるはずがないと思い取り繕わずいつもの会話をしたのだ。

 しかし彼女には会話は聞こえていないはず。旦那と見抜く術はない。

「それだけではありません。彼のスリッパだけなぜ普通のスリッパだったんです? 隣の方は立派なスリッパだったのですが」

「あれはお客様が自ら選んだんです」

 仙一郎はいつも通り仕事で使うスリッパを履いていた。それは接待しているという気持ちから上等な物を使うのを避けたのかもしれない。

「なら、なぜ止めなかったんですか?」

「お客様の希望が第一だからです」

「そうですか。ではきちんとお伝えした方がよさそうですね」女の言葉はいやに軽かった。どうやら次の手もあるようだ。

「夕食時のビールの銘柄について尋ねましょう。どうしてあのテーブルだけ違う銘柄が置いてあったのですか?」

「それはお客様が事前に仰っていたからです」

「ではなぜ一番最後に注文したテーブルが一番早く注文が来ていたのでしょうか?」

 雪花は唇を噛んだ。うちの従業員は一般の客よりも、社長である仙一郎に気を使ったのだろう。それは仙一郎の気が短いからに他ならない。もちろんこれだけでは仙一郎が社長ということはわからないが、恐らく他の特徴も見抜いているだろう。

 雪花は観念して頭を下げた。

「申し訳ありません、鶴の間の方は私の旦那で間違いありません。従業員が泊まるということがお客様にわかってしまうと、よくないものだと思い隠しました。今日は接待に使うということで鶴の間を空けておりました」

「やはりそうでしたか」女は頷いたが眉間に皺はよったままだった。「では続けさせて頂きます。今日、接待があることがわかっていたあなたと料理人はある仕掛けを施しましたね? 料理人は旦那さんの食べ物に水仙の葉を、あなたは三つの温泉の一つに細工をしています」

 寒い中、額から汗が流れてくる。しかし手で拭うことはできない。雪花は黙って女の言葉を待った。

「水仙の葉に毒があることはもちろん知っていますよね。毎年水仙の葉を韮と間違えて食べる事件が続発しています。ただ葉にはそれほど毒はありません。せいぜい嘔吐するくらいでしょう」

 雪花は反論した。

「水仙の葉をお客様に出したというんですか? それはいいがかりです」

「いえ、全ての人物に出したとはいっていませんよ」女はかぶりを振った。「私の連れとあなたの旦那さんだけです。今頃旦那さんは部屋で食べたものは吐き出しているでしょう。外国人のお皿には入っていなかったと思います。彼は韮が大嫌いですから」

 なぜストックの好き嫌いまで知っているのだろうか。理解ができなかったが雪花は女を睨んだ。「仮にそうだとすると、なぜあなたのお連れ様は大丈夫だったんです?」

「それは食べ方に違いがあったからです。水仙の毒はリコリンといって水に溶ける水溶性です。前もって水に浸して毒を抜いてもいたんでしょうが、連れの分は鍋に入れて食べるものでした。ところがあなたの旦那は火で炙っただけ。リコリンは熱に強いんです。彼の水仙の葉には毒が残る。それを食べると胃の中のものを出すことになります」

 女は激しい口調で続けた。

「なぜこんなことをしたのか? それは吐き出さないと都合が悪いものがあったからでしょう。彼は心臓を患っており食後にその常備薬を飲んでいるのではないでしょうか? その薬を吐き出させるため、または飲ませないためでしょう」

 頭が今にも割れそうに響く。なぜこんなにことごとく当てられるのだろうか。まさか花屋といっていたことも嘘なのか。

「そこまで仰るのなら、証拠は……あるんですか。営業妨害になりますよ」 

「はっきりいいましょう、今はありません。胃の中を検査をすれば出てくるでしょうが、その頃には間に合いません」

「いいがかりじゃないですか、すいませんがお引取りを」

「しかし根拠はありますよ」女はひるまず話を進め始めた。「水仙の生け花、本当に綺麗でした。葉が二枚程欠けていたとしても不自然ではありませんでした」

 目眩がして倒れこみたくなる。女の方こそ生け花を習っていたのだと思った。

「水仙の基本的な生け方は四枚の葉に一本の花を添えるみたいですね。あなたが生けた一セットには葉が二枚しか入っていませんでした。つまり三セット、六枚の葉が通常より少ないんです。今日の一食分は三枚程度でしょう。つまり二食分は水仙の葉が出された計算になります」

 女のいっていることは正しいし、これは罠だと雪花は思った。しかしいわなければならないことがある。

「庭にはたくさん水仙が生えています。四枚入れることは可能です。今日の気分で葉を二枚にしたんですよ」

「ええ、そう言い逃れできることも了承済みです。これは希望的観測からものをいっていますから」女は口元を緩めた。「水仙を生ける時には袴を履かせず輪ゴムで止めることもできるみたいですね。あなたはわざわざ袴を履かせて開いた空間に詰め物までしてます。なぜそこまで丁寧な仕事をするのか? それはあなたが花を愛しているからです。必要以上に水仙を切り取りたくなかったからではないでしょうか」

 胸に鋭利なものが刺さったように感じる。その刃は突き刺すだけでなく心を破壊するように抉り取るようだ。

 女がいった通り、必要以上に花を無駄にしたくないという気持ちが働いたからだ。雪花にはそれだけ花に対する思いがあった。できれば使いたくない奥の手だった。

 なぜ女はそこまで人の感情が汲み取れるのだろう。もちろん今訊くことはできない。

「露天風呂に外国人と一緒に入ることも予想していましたね。だからこそ彼が苦しい状態になっても必ずお風呂に来ることはわかっていた。しかし薬の効果がない状態でお風呂に入るのはまずいと思います。特に血行をよくし心臓に負担をかけるような温泉に浸かるのは大変危険です」

 ……もう、何をいっても駄目だろう。

 雪花は今にも折れんとする膝を手で抑えた。この花屋と思っていた女は間違いなく頭の切れる刑事だ。これだけの手順を即座に見抜ける人物は素人ではない。まして花に精通しているとなるとお手上げだ。

 無駄だとわかっているが苦し紛れに一言だけでも反論しなければならない。娘のためにも、この旅館のためにも。

「仮にあなたの話が本当だとしても、温泉に浸かったからといって死ぬことはないと思います。旦那は薬を飲まなくてもよく温泉に浸かっていましたから」

「ええ、私も最初はそこまで考えていませんでした。しかし推測を続けるにしたがって最悪のケースが過ぎったんです。もしこれをすれば死に繋がるのではないかという考えがあります」

「推測でしょうが、どうぞいってください。それでお客様の気が晴れるのなら聞きましょう」

「ではお話させて貰います。温泉の中で高濃度のお酒を飲めばどうなるでしょうか? ご主人は先程大分飲まれていたようですが、これ以上飲んだらどうなると思います? その準備がされているようだったら間違いなく殺意があるとみていいと思います」

「どうして……そんな考えが」雪花は膝を下ろし座り込みながらいった。

「実は最近、友人と鍋をやったんです」女は恥ずかしそうに頭を掻いて答える。「最初水炊きを食べていましたが味噌鍋に変える手筈を整えていました。しかし友人がそこに味噌を溶かさず丸ごと投入したんです」

 水炊き? 味噌鍋?

 何をいっているのかわからない。まして何をいおうとしているのかなど全くわからない。

「つ、つまりです。溶かす成分自体を高濃度のまま体内に摂取したらこの事件は起きると推測しました。温泉の中で飲むお酒は美味しいでしょうから」

 呆然とする他ない。そんな食べ方は聞いたことがないが、露天風呂に浮かんでいるお盆は隠しようがない。

 その上の熱燗には高濃度の焼酎が入っている―――。

「仮にそうだとしても……」

 途中まで口にしたが観念した。この人物はもうわかっているのだ。それを確認するために来たのだから。温泉は掛け流しで仮に毒が入っていたとしても流せることはわかっているのだろう。

 だから彼女は先手を打ってきたのだ。

「あなたの心はすでに枯れています、自首して下さい」女は屈みこみ雪花の肩を揺らしてきた。「理由はどうあれこのままでは本当に取り返しがつかないことになりますよ。早く旦那さんを止めないと」

「私がいってもあの人を止めることはできないですよ……」雪花は蚊が鳴くような声でぼそぼそと呟いた。「私のいうことなんて今まで聞いた試しがないですから。それに今日は接待で泊まっているんです。止めようがありません」

「何故あなたのような人が殺人を犯そうとしたのですか。生け花を見てとても素晴らしい人だと思いました。着物も季節に合ったものを着ていますし、使命を全うされていると思うんですが」

 雪花は返す言葉がなかった。ただ一つだけいわなくてはならない。

「……仰る通りです。私は使命を全うするために全力を尽くしてきました。ですが全てを犠牲にしてでも旦那を止めなくてはならなかったんです」

「しかし殺人で解決する道なんてありませんっ」女は感情を吐き出すようにいった。「……あなたは知らないんです。残されたものがどれだけ重荷を背負うことになるか……。あなただけじゃない、この旅館、いえ、別府温泉のイメージまでもが大きく変わるんですよ」

「もちろん覚悟の上です。だからこうするしかなかったんです……わかっていてやったんです、私は……私の旅館を守るために」

「わかっている? 何が? あなたは全然わかってないっ」

 女は激しく叫んだ。先ほどの冷静さはもはやなくなり、彼女の瞳は熱く燃え滾っていた。


  15.


「あなたは短絡的な道に逃げただけです。一番楽な方法を選んだだけだ。あなたは戦わず現実から目を背けている」

 女は上目遣いで雪花を睨んだ。眉が異常な程上がっており、瞳孔はこれ以上ないくらい開いている。彼女の息遣いがこちらに掛かるくらいに近い。怒りを帯びている彼女はなぜか涙を流しながら続けた。

「あなたには……子供がいますか? もしいるのならその子は一生消えることのない傷を背負わされるんです。その傷はどんなことがあっても消えません。時間が経っても、どんな言葉を貰っても、死ぬまで続いていくんです。あなたが思っている以上に人というのは色々な人と繋がっているんです。その全ての人を巻き込むことを本当に理解しているといっているのですか」

 女の感情が雪花に襲い掛かる。彼女にある感情は熱を含んだ憤りだけだった。

「私も刑事になるまではわかりませんでした。いえ、刑事になって捜査をしていても気づいていませんでした」

 女はかみ締めるようにいった。

「今年の春、私は一つの事件を担当しその解決に向かいました。加害者を捕まえたからといって事件は終わりません。被害者もそれで救われるわけではありません。お互いが様々な葛藤に苦しみ、後悔し、心を削られていきます」

 彼女は涙を含めながら続ける。

「私の心も枯れていました。それでも人は生きていかねばなりません。一方的に人の命を奪うことはどんな理由があってもやってはいけないことです」

 彼女の怒りは本心からきている、と雪花は思った。仕事で現場を目の当たりにしただけではここまでいえるはずがない。単純に殺人を止めさせるための説得ではないのだ。

「あなたはまだ話し合うことができます。それがどんなに難しいことだとしても自分の意思を相手に伝え続けていかねばなりません。お互いが納得できる道を模索しなければならないのです」

 ……なぜだろう、心が軽くなっていく。

 雪花は冷静さを取り戻し、自分の犯行がいかに稚拙なものか理解できるようになっていった。彼女の言葉は正論だが、心に響くものがある。

 この人になら本心を伝えてもいいかもしれない。

「……旦那はこの旅館を壊そうとしているんです」

「壊すというのは? 物理的にということではないですよね?」

「ええ。父から授かったこの旅館を改築していってるんです。ご存知の通り、和から洋にです」

「……なるほど」女は困惑の表情を作りながらも頷いた。「あなたにとってこの旅館は本当に大切なものなんですね。私も同じような経験をしたことがありますから、全部とはいえませんがなんとなく理解できます」

 ……そうなのだ、この旅館は私の全てだ。

 彼女に心の声を漏らした途端、心臓の血が沸騰しそうになった。枯れかかっていた心に一瞬で火がついてしまう。自分が生きてきた証を壊されることが何より辛いのだ。彼に対する怒りがひしひしと湧き上がってくる。

「だから彼を止めたかったんです。うちは老舗の旅館です、うちに来たお客様が幻滅するともうここには来てくれないかもしれない。別府は観光地です、お客様があってこそこの地は成り立っているんです」

 女と話をしていて雪花は自分の方が矛盾していることに気づいた。半年も前から計画していたがここで仙一郎をうまく殺した所でその先があるはずがない。自分はその後どうするつもりだったのだろう。

「あのイギリス人……接待している方が改築をしているんですね?」

「ええ、そうです。二人で温泉に浸かりながら、貸切風呂の改築の話をするつもりみたいです」

 女は何かを考えるように押し黙った。神妙な面持ちで眉間に皺を寄せている。

「入浴の時間は?」

「もうすぐ来ると思います。ですが三番目のお風呂の湯は抜いておきます。今さら謝ってもしょうがないでしょうが、どうかしていました。すいません」

「いえ、少し待って下さい」

 遠くから男の声がした。さきほど女と連れ立っていた背の高い男だった。

「僕に考えがあります。その三番目のお風呂は抜かなくていいかもしれません」

「春花さん、どうしてここに?」女は困惑しながら呟いている。

「実は桃子ちゃんのお酒に付き合いきれなくて……。夜風に当たっていたら叫び声が聞こえてきたんです。すいませんが話は全て聞かさせて貰いました」

「こちらこそすいません。多分それ、私の声です」女は恥ずかしそうに俯いている。「でもどうしてお風呂を抜かなくていいんです? たとえお酒を飲まなくても心臓に負担が掛かるお湯に浸かれば……」

「もちろん死にませんし、接待も成功できます」男は口元を緩めたままだ。柔らかい笑みを維持している。「ただし時間が必要です。冬月さん、お願いです。僕に三十分だけ時間を頂けませんか?」

「……わかりました」女は表情を変えずに答えた。「春花さんがそういうということは何か案があるんですね。なるべく多くの時間を稼いできましょう」

 そういって彼女は受付の方に足を進めた。目に強い光が宿っている。その光は確固たる意志を持っているようだった。

 ……仮に彼女が時間稼ぎをした所で何になるのだろう。

 雪花はうなだれたまま考えた。彼らはすでに三つの風呂があることを知っている。最後の一つだけ入らないわけがない。

「主人は三つのお風呂があることを連れの方に話しています。いまさら二つにしても……」

「いいえ、あなたの腕ならできますよ」男は軽快に答えた。

「私の腕で?」

「ええ、あなたなら三つの温泉を楽しませることができます。必ずです」

 男は静かに説明を始めた。それを聞いて自分にも一筋の光が見え始める。彼の作戦なら自分にもできるかもしれない。

 この人物は本当に花屋なのだろう、そう思わせるものがこの計画にはあった。後は彼女に掛かっている、本当に時間稼ぎができれば成功するかもしれない。

「すいません。話は変わりますが、食前酒に何か仕掛けをしていませんよね? 頭がガンガンするんですが」

「ええ、全くありません」雪花はきっぱりと否定した。「お客様がお酒に大変弱いだけだと思います」


  16.


……体が、きつい。

 仙一郎は浴衣に着替え風呂に入る準備をしていた。はっきりいって体調は悪い、先ほど食べたものを吐き出して来た所だ。もちろん持病の薬を飲んでも胃を痛めるだけだろうし、飲むわけにはいかない。

 しかし今日は入らない訳にはいかないのだ。今日のために半年間、有名な建築家を接待してきたのだから。

 ……今日だけは、なんとしてでも入らなければ。

 気合を入れ直していると電話の音が鳴った。

「社長、大変申し訳ありません。専用露天風呂の準備はできていたのですが、女将が接待を成功させるために工夫をしたいとのことで。すいませんが後三十分お時間を頂けないでしょうか」

「何だと? さっきは準備はできているといっていたのに、後三十分も待てだと? 待てるわけがないだろうっ。女将はどこに行った?」

 怒りをぶつけるように従業員に対していうとおそるおそる謝ってきた。

「すいません、露天風呂の部屋にいるそうです」

「俺の面目を潰す気か? もういい、部屋に来るように伝えろっ」

「……しかし、接待を成功させるためとのことです。申し訳ありませんが、お待ち下さい」

「接待を成功させるため? 俺のやり方では成功しないというのか? あいつに余計なことをさせるなっ」

 ノックの音が聞こえる。ストックが来たようだ。

「わかったな? 余計な真似はするなと伝えておけっ」仙一郎はそのまま投げるように受話器を叩き込みドアを開けた。

「仙一郎さん、そろそろお風呂に行きましょうか」

「そうですね、すぐ準備します」

 部屋を出るとストックが待ち構えていた。腕時計を仕切りに眺めている。どうやら待たせたことに苛立っているようだ。

「申し訳ありません。お待たせしました、では行きましょう」

 ストックの機嫌を損ねないように早足で歩く。彼も時間にはうるさいタイプだ。常に気を張っていないと商談を失敗させる恐れがある。

 彼を温泉へと誘導していると、先ほどロビーにいた女がエレベーター前で息を切らせながら立ち尽くしていた。

「リリー、どうしたんだ?」ストックが声を上げる。

「お父さん、今すぐお話があります。少し時間を下さい」

「何をいっている。俺は遊びで来ているんじゃない。ビジネスだ」時間が惜しいというようにストックは腕時計を何度も叩いた。

「もちろんわかっています。しかし今、報告しないといけないことがあります」

「何だ、要点だけをいえ」

「この花をご存知ですか」女は携帯に映った写真を見せた。

「知らん。これが何だというんだ」

「屋久島に咲く花です」女は携帯を閉じていった。「お母さんが撮った写真にこれが映っていたんです」

「それが何だ、それを俺に伝えて何になる?」

「私は今までお母さんが撮った写真に興味を持てませんでした。それはあなたの教えです。数字だけを追いかけることが私の使命だと思い、がむしゃらに前だけを見ていました」

「それは間違っていない。現にお前は刑事として身を立てているだろう? 刑事は感情では動かない。証拠で動くんだ。そこには数字がものをいう。0のものでは何も証明することはできない」

「いえ、それは違います」女はきっぱりといった。「0のものにこそ本質がありました。数字で表せないものにこそ人は動かされるんです」

「0のもの? 何だ、それは」

「感情です」女は力強く答えた。彼女の瞳はまっすぐに彼を捉えている。「確かに刑事には物的証拠を押さえる力が必要です。ですがその証拠を得るためには人の感情を読み取らねばなりません。感情を読み取ることができて初めて刑事になれるのだと私は知りました」

「下らない」ストックは反吐が出そうだというくらいに女を睨み付けた。「感情こそ不必要なものだ。数字には徹底した論理が詰め込まれている。だからこそ人を納得させる力がある。感情だけで動いている奴ほどろくな仕事をしない」

「母もですか? お母さんもそうだといいたいんですか」

「そうだ」ストックは大きく答えた。「百合は自分の感情だけで仕事をしていた。だから曖昧な自然という題材に身を委ねていたんだ」

「じゃあ、何故母と一緒になったんですか?」

「それこそビジネスだ。俺の力になると思っていたからだ」

 女は怒りを身に纏った。だが声には冷静さが含まれていた。

「それも違いますよね。母の写真を探していて気づいたことがありました。お父さん、あなたがお母さんを山に連れ出していた」

「何を……いっている?」ストックの表情が陰る。今まで英語で話していた彼は急に日本語を使い始めた。

「百合に無理やり連れて行かれただけだ。俺の意思じゃない」

「ではなぜ一人でお父さんが屋久島に行っている写真があるんですか? その日付はお母さんが行ったものよりも前でした」

「俺じゃない。全部、百合の写真だっ」

「隠さなくてもわかります」女は肩の力を落として続けた。「私は屋久島に行った時、背の高い男性といったんです。家にあった写真は二つのパターンがありました。一つはお母さんが撮ったもの。もう一つは彼と同じような構図です」

 女は熱を持ちながらまっすぐにストックを睨んだ。

「写真を撮ることが趣味だったあなたならわかりますよね? 写真を撮る時には必ず身長差が出るんです。お母さんの身長では撮れない写真が山ほどありました。また視点が違うものも多くあります」

 ストックは唇を震わせ動揺していた。急激に勢いを失っていくのがわかる。

「私だってお母さんが遭難事故で亡くなったことは辛かったんです。ですがお父さんだってそうだったんでしょう? だからあなたは仕事から逃げた。感情を読み取らなければいけない刑事から逃げたんです」

「……」

 ストックは完全に押し黙っている。彼女に向ける視線すらない。

「感情を封印したのは私達、二人ともです。お父さんの方も辛い思いをしたんだと知った時、私はどうしても話がしたくなりました」

「止めてくれ。俺の過去を穿ほじくり返さないでくれっ」

「止めません」彼女は彼に寄り添うようにいう。「お父さんとちゃんと向き合いたいから、私は思いをぶつけます」

 一瞬の間、沈黙が訪れる。しかし口火を切ったのはまたしても娘の方だった。

「お父さんの生き方が悪いとは思っていません。それも一つの道だと思っています」

 娘は大きく息を吸い込んで父親を見た。

「ただ、私は、お父さんと同じような境遇にありながら逃げずに立ち向かっている人達を知っています。その方達は亡くなった方のことを忘れようともしていないですし、現実を受け止めています。それがどれだけ辛いことか私にはわかるんです」

 ストックは硬直したままだった。だが何かを観念したかのように穏やかな表情に変わっていた。

「私も逃げたくない、そう思いました。お母さんの感情がもっと知りたいから、来年もまたあの島に行こうと思っています」

 ストックはひざまづいた。その目には涙が溢れていた。

 女は腰を降ろして彼に手を差し伸べた。

「今度は一緒に行きましょう。お父さんにも必ずお母さんの声が聞こえるはずです。家族の血は決して消えることはないのですから」

 ストックは女の手を掴まずそのままうな垂れた。

 女は腕時計を眺めて背を向けた。

「以上です。どうぞ、ゆっくり温泉に浸かって考えて下さい。特に三番目のお風呂がお勧めですよ」


  17.

 

 ストックと共にエレベーターで降り、露天の部屋へ移動した。すると雪花と浴衣を着た背の高い男が露天の部屋から荷物を持って出てきた。

「申し訳ありません、長らくお待たせしました」手に持った黒いビニール袋を置いて雪花は頭を下げた。

「……お前、わかっているんだろうな。俺の顔を潰しやがって」

「お叱りは後でいくらでも受けます」

「わかっているのならいい。早くどけっ」

 雪花を払いのけ戸を開ける。脱衣所を見渡したが変わりはない。

 何も変わっていないじゃないか。あいつは何をしたんだ? それになんだあの男は?

 ストックと一緒に脱衣所で服を脱ぎ、第一の湯・檜風呂の部屋に入った。早速かけ湯をして大きな風呂に二人で浸かる。

「いやーいいですな、とても気持ちいい」

 仙一郎は機嫌を伺うようにいったが、ストックの顔には何の表情もなかった。そのまま慌てて説明に入る。

「ここは檜で作っているんですよ、檜独特の清々しい香りを味わってもらいたくて作りました。反対側に大浴場があるんですがそこも檜で作っています。ですがストックさんのお好きなように変えて貰って結構です」

 タオルを頭に乗せ次の部屋を覗いた。湯の煙でぼやけているが第二の湯・樽湯にも変化は見られないようだ。

 会話がなく重々しい。仙一郎はゴマをするように笑みを浮かべて続けた。

「次は一人用のお風呂です。うちでは樽湯と読んでいるんですがね。ですがストックさんのデザインで作られている風呂の方が高級感がありお客さんを呼べると思います。どうぞ意見があればなんなりといってください」

 ストックはああ、と声を漏らしただけで目には光はなかった。無表情ながらも左の風呂の樽湯に向かう。合わせて仙一郎も右の風呂に入った。

 第二の風呂場には工夫を凝らした形跡がないだけでなく、樽湯の量が半分くらいしか入ってなかった。

 ……ただ単に準備を怠っただけなのか?

 仙一郎は雪花に怒りをぶつけたくなった。徐々に湯の量は増えているがこのままでは湯冷めしそうだ。

「この風呂は炭酸が気持ちいいんです。どうですか? 旅の疲れが癒えるでしょう。半分にしてあったのも半身浴をするためです。ゆっくりと長く浸かれますからね」

 無理やり言い訳を並べ立てたが、ストックは引きつった表情で苦笑いした。彼の表情を見て自分の体調が悪いことにも気づく。やはり薬を飲んでおくべきだった。

 しかし、と仙一郎は首を振った。ここで風呂から出れば接待は間違いなく失敗する。成功させるために最後の風呂に浸からなければいけない。

「ここからこの扉を開けるとですね、最後の露天風呂が見えるんですよ」仙一郎は目の前に見える木で出来た扉を指差した。「私がこちらの扉を開けるので、ストックさんはそちらの扉をお願いします」

 ストックは返事もなく左側の扉を開け始めたが、途中で手が止まった。扉の奥の光景に目を奪われているようだ。その光景を見ながらストックは感嘆の声を漏らした。

「ストックさん?」思わず仙一郎は尋ねた。

「す、すばらしい……」

 ストックに視線をやると目に光が戻っていた。

 ……どうしたのだろう、そんなに露天が気にいったのだろうか。

 仙一郎も右側の扉を開けてみた。そこには今までに見たことがない風景があった。思わず声を失った。

 ……なんだこれは。どうなっているのだ?

 ここは本当に俺の旅館なのか?


  18.


 雪花は左手の時計を覗き込んだ。風呂に浸かってからあの二人は一時間以上も経っている。

 ……仙一郎は大丈夫だろうか、やはり倒れているのではないか。

 さっきは殺しの手口を考えて体が震えていたのに今度は生かす手口を考えて震えている。このままでは頭がおかしくなりそうだ。

 二人の姿を確認し、近くに寄るとストックが声を上げた。

「勉強になりました、ありがとうございます」ストックは流暢な日本語で頭を下げて来た。

「え?」

「大変いい風呂でした。日本のお風呂の素晴らしさに心を打たれました」

「いえ、そんな。喜んで頂けてこちらこそ嬉しいです」

 彼の心境に戸惑う。ストックが日本語を喋れることなど知らなかった、まして感謝されるとは思ってもいなかった。

 仙一郎の様子を見るとどうやら体に異常はないらしい。ほっと吐息が漏れる。

「……よかったよ」仙一郎はぼそっと呟いた。

「えっ? 今なんと、いいました?」雪花は自分の耳を疑った。

「よかったといったんだ、お前の用意した風呂がな」

 仙一郎は澄んだ目をしていた。しかし照れ隠しなのか言葉はぶっきら棒だ。

「正直に思ったことをいう。日本には日本のやり方が一番だ。今回の話はなしにして貰う」

「え? 本当ですか?」

 ストックは何もいわずに一人でエレベーターに乗った。そのまま彼に礼をすると二人だけになった。

「またここに来たい、そう思わせるものが欲しかった……」仙一郎は思いを打ち明けるようにゆっくりといった。「俺はここにはないオリジナルを求めていた。だが本当に必要なものは目の前にあったんだな……」

 ……やっとわかってくれたんだ。

 雪花の目から溢れてきた涙が零れ落ちた。涙は止まらず着物の袖が滲む。

「ありがとうございます。私も、もっと、頑張りますから」

「いいや、礼をいうのはこっちの方だ。俺が悪かったよ」彼は頭を掻きながらいう。「やっと気づいたよ。こんな所に大理石で出来た噴水なんかあってもおかしいことに」

 緊張していた糸がぽつりと切れる。仙一郎は眉間に皺を寄せて口元を抑えていた、それは彼がはにかんだ笑顔を見せた合図だった。その光景が懐かしく、付き合い始めた頃の記憶が蘇っていく。

 経営は確かに厳しい。しかし今の仙一郎を見ているともう一度一緒に頑張ろうと思える。別府にはやっぱり別府の温泉が一番なのだ。日本には日本のいい所がある。それを伝えることが私達の使命なのだ。

 雪花は今日が新しい再出発の日になるんだなと心の底から感じ彼にそっと身を寄せた。


  19.


 次の日、リリーは頭痛で目が覚めた。どうやら酔っ払ったまま寝ていたらしい。慌てて鏡を見ると目が腫れている。

 ……そうだった。

 小さく溜息をつき、昨日の夜を思い出す。あれから桃子の自棄酒に付き合い、椿がすぐに潰れたため自分が付き合うはめになったのだ。その彼女は自分の布団を半分以上占めながらぐっすりと眠っている。

 桃子を起こし朝食に行く準備をする。彼女も大分飲んだみたいでアルコールの匂いを漂わせている。

 二人で念入りに歯磨きをした後、ロビーに向かうと薄暗い中、椿が待っていた。待合室の水槽の光が弱いように感じる。

「春花さん、体調よさそうですね」

「ええ。そういう冬月さんは大分悪そうですね。大丈夫ですか?」

 あなたが早く潰れたから身代わりになったのよ、そういいたかったが、頭に響きそうだったので止めておいた。

 朝はバイキング形式になっており、和食、洋食のどちらも好きなものを選ぶことができた。トレーに紅茶とヨーグルトだけを載せテーブルに着く。

「昨日のリリーさん、店長がいないことに腹を立てて大変だったんですよ」

「桃子ちゃん何をいってるの?」腫れた目で牽制する。「いつもと変わらない状態で飲んでいたので退屈だっただけですよ」

「私も危うく潰れる所でした……」桃子はこめかみを抑えながら低く唸っている。

「どんな飲み方してたんです? 桃子ちゃんが潰れるって……」椿は目を丸くしている。

「瓶ごと……」

「普通ですよ、普通」リリーは笑いながら桃子の口元を抑えた。

「……瓶ごと飲むのが普通なんですね、冬月さん実は強いんじゃ」

「いえいえ、そうではなく……」慌てて弁解しようとした所に女将が突然口を挟んだ。

「すいません、ちょっとよろしいですか?」

 その視線はリリーに対して向けられていた。

「……何でしょう?」

「もしよかったら今夜、鶴の間にお泊りになりませんか? 都合が合えばですが」

「それは……」今夜は泊まることはできない。明日からは通常の業務に戻るのだ。椿達にしても同じだ。

「他のお客様が急遽キャンセルされたんです。それでどうかと思いまして」

 キャンセルしたというのはおそらくストックだろう。彼もリリー達と同じ部屋で朝食を食べていた。その雰囲気は昨日の殺伐とした雰囲気とは程遠く和やかなムードだった。女将の旦那もにこやかだった。やはり椿の案が成功したのだろう。

「せめてお風呂だけでもどうでしょう。貸切ですので、ゆっくりできると思います。よかったら、ですが」

 女将は慎ましくいった。桃子がいる手前、大きくはでられないようだ。どうやら彼女は昨日の恩返しに鶴の間を使って欲しいらしい。

「そうですね、せっかくですし。皆で朝風呂を頂きませんか?」椿は女将の好意に甘えるようだ。

「やったぁ、私も一度いってみたかったんですよ。貸切風呂」桃子も嬉しそうにはしゃいでいる。

「じゃあお風呂だけお願いします」

 彼らが賛成するのであれば自分も乗らないわけにはいかない。それに第三の風呂がどうなったのかは気になる。

 ストックを再び見る。彼の顔には邪気がなく純粋に食事を楽しんでいるように見えた。

 一体、彼を変えるほどの風呂とはどんなものなのだろう。

 

  20.


 リリーと桃子は早速着替えとタオルを持ち一階に向かった。朝風呂に貸切とは贅沢なものだ。椿を待つためフロントで待機しているが未だ来ない。

 ……ん、そういえば。

 リリーの頭にふと疑問がよぎる。貸切風呂というのは男湯と女湯があるのだろうか。

 ……いや、あるはずがない。

 このままでは椿と混浴になってしまう。女将を探そうとロビーに向かおうとすると、桃子が宥めるようにいった。

「いいじゃないですか。二つ目の温泉では二つの樽湯があるんですから一人ずつ専用の温泉があるんですよ」

「えっ? 二つしかないよ、足りてないよ」

「大丈夫ですよ、お客さんの体なら見せても恥ずかしくないですから」女将が目の前を通りながらいう。

「そ、そういう問題じゃないですよ」

 こんなひどい状態で椿に裸を見せられるわけがない。しかもこのままでは桃子と共に見せることになるのだ。彼女の胸にちらりと視線をやる。私のサイズではとても太刀打ちできない。

「桃子ちゃんはいいの? 男の人とお風呂入って」

「え、別にいいじゃないですか。店長なら大丈夫ですよ。変なことにはならないです」

「でも……」桃子の胸に再び目をやる。やはり分が悪い。

「店長と一緒にお風呂入る機会なんて滅多にないですよ。あ、そうだ。私、最初は大浴場に行ってきます。後で露天風呂に入ろっと」

 桃子は独り言をいいながら大浴場の方に曲がろうとした。

「えっ? ちょ、ちょっと、二人で入れってこと?」

 リリーは必死に抑えようとするが桃子は止まらなかった。

「いーえ、そうはいってませんよ。ただ私は気が変わったので先に大浴場に行ってきます」桃子はニヤニヤしながらスリッパの音をぺたぺたと立てながら進んだ。

「あ、ちょっと、桃子ちゃん」リリーの叫びを無視し桃子は闇の中に消えていった。大浴場の方に向かおうとすると女将に肩を掴まれた。

「大丈夫ですよ、きっとお客様は満足すると思います」

「ええっ? それ以前に私達、そんな関係じゃないんですよ。ただの友達なんです」

「だったら友達からレベルアップしたらいいじゃないですか」

「そ、そんな。いきなり、そんなこといわれても……」

 リリーがあたふたしていると椿が降りてきた。

「お待たせしました。あれ、桃子ちゃんは?」

「連れの方は別府の景色をもう一度みたいといって大浴場に行かれましたよ」女将が答えた。

「あ、春花さん。なんか浴場は一つしかなくて……」

「ああ、そういえば……」椿は口をつぐんだ。

「それでですね……いいにくいんですが」

「そうですね、僕も大浴場の方に……」

「もうっ。じれったい」女将が一喝した。「何をいってるんですかお二人は。仲良く二人で行ってきたらいいんです」

 女将に引きずられ貸切風呂に向かわされると、亭主が玄関から登場した。

「お、露天風呂に行かれるんですか。そいつはいい、是非満足できると思いますよ」

「あ、お帰りなさい。お客様は?」女将が振り向く。

「ストックさんは帰ったよ。どうやら立ち寄る場所ができたらしい」

「えっ、もう帰ったんですか?」

 リリーは女将に掴まれながらいった。彼の答えを聞いていないのに、まさか実の娘を置いて逃げたのだろうか。

「たった今ね。そうそう、これをあなたにと……」亭主はリリーに封筒を渡してきた。

「何でしょう、これは?」

「風呂に入った後にでも読んで下さい。それよりお嬢さん、是非早く入った方がいい。今までに味わったことがない温泉を味わうことができますよ」

「え、でも」

 仙一郎はリリーの言葉を無視して続けた。

「温泉っていうのは心まで洗うことができるんだ。この別府の町はね……」

「さあさあ、お二人方、案内しますよ。こちらへどうぞ」女将がさらに仙一郎の言葉を無視した。「旦那の話を聞いていたら日が暮れますよ、さあさあっ」

 彼女の勢いに押されリリーは離れにある貸切風呂に一人で突っ込まれた。

 ……しょうがない、こうなればヤケだ。

 リリーは全ての衣類を脱いで脱衣篭の中に放り込んだ。椿に見られないよう籠の上に小さいタオルをそっと敷いて置く。体にバスタオルを巻いて風呂の戸を開けた。

「お嬢さん、入りましたね。それじゃ彼氏さんを投入しますよっ」

 ドスンという鈍い音が聞こえる。

「それじゃ、ごゆっくりっ」

 その次にはバタンという戸の閉まる音が鳴った。

 ……と、とりあえず、浸からなければ。

 足早に風呂に潜り込む。本来ならタオルを巻いて入るのはご法度だ、しかし今日はそんなことはいっていられない。

 心臓はすでに大きく唸っている、湯船が心臓の鼓動で波紋を広げるのではないかというくらいに。

「冬月さーん」椿の声が響く。

「は、はいっ」

「やっぱり僕、大浴場に行って来ますよ」椿は申し訳なさそうにいった。「今は一つ目のお風呂に入っているんですよね?」

「は、はい」

「三つ目のお風呂の感想、聞かせて下さいね」

 心の中で葛藤が生まれる。昨日椿が細工をした風呂を楽しんだのは亭主とストックだけ。当然彼も楽しみにしていたのだろう。

 リリーは体に巻いたバスタオルを眺めた。大丈夫だ、次の温泉は樽湯だし別に見られることはない。

「あ、あの」蚊も鳴かないくらい小さい声が浴場に広がった。

「はい?」

「……いい、ですよ」

「えっ?」

「ちゃんとタオル巻いてますし大丈夫です。春花さんも楽しみにしていたと思いますし」

「いいんですか?」

 ……勢いだけじゃない。

 心構えはもうすでにできている。後は、彼にきちんと伝えたいことだけを述べるだけ。

「……大丈夫、です」


  21.


「……そうですか、それじゃ入りますよ」椿が服を脱ぐ音が聞こえる。

 リリーは自分の頬を触った。火傷しそうなくらい熱くなっている。もちろんこれは風呂に浸かっているからではない。

 どうやら服を脱ぎ終えたようだ、彼が扉を掴んでいる姿が見える。

「実はですね。リリーさんとこのお風呂に入りたかったんですよ」

「へっ?」

「いえ、決していやらしい意味ではありませんよ。ただどういった感想が貰えるかなと思って」

 何について? とリリーは答えようとしたが口が動かなかった。そのまま押し黙る形になる。

「入りますよ」

「ど、どうぞ」

 ……落ち着け、落ち着くんだ。

 呼吸を整え無理やりいい聞かせる。しかし彼のタオル一枚姿を見た瞬間、再び動悸が走る。

「……ここに入っていいですか?」

「ど、どうぞ」リリーは直視できず顔を背けたまま答えた。二人分の重みでお湯が溢れていく。水音が流れると共に自分のの心にも激しい波が襲う。

「ふー、やっぱり冬は温泉ですね」

「春花さん、私、次のお風呂いっときますね」

「はーい」椿は首を回しながら答えた。

 目の前にある扉を開け樽湯に入った。一人用の風呂に浸かると身を守る鎧を装着したようで心の底からほっと吐息が漏れる。炭酸の泡が体をほぐしてくれるようだ。

「僕も、そっちいっていいですか?」

「も、もちろんですよ」

 リリーが答えると、彼はゆっくりと反対側の樽湯に浸かった。

「いい湯だなぁ。冬月さん、本当にありがとうございます」椿は頭にタオルを載せながらいった。「冬月さんが事件を見抜いたからこんないい温泉に入れたんです。僕の貧しい給料じゃこんないいお風呂には入れないですからね」

「いいえ、そんなことないです。春花さんが助けてくれたからですよ」

「いいえ、やっぱりそれは違いますよ」椿は真面目な顔で答える。「冬月さんが今回の事件を公にしなかったからだと思います。警察官としての立場を振りかざさなかった。だからこの旅館はきっと再生しますよ」

「正直、その件についてはまだ迷っています……」リリーは目を伏せて静かに続けた。「今回の私の判断は決して正しいものではありません。警察官という立場から見れば間違いなく失格です。でも……」

「でも?」

「私はあの人にかけてみたくなったんです」正直に思ったことを告げる。「罪を犯そうとしたことは一生消えません。ですが人の心は枯れても再び芽が出ます。あの人ならきっと立派な花を咲かせることができるのではないかと思ったのです。もちろん私は裁判官のような立場にはありませんから、私が決める資格なんて元々ないんですが」

 この問題に正解はないし、不正解もない。心の葛藤は今でも自分の胸の中でうごめいている。

「大丈夫、冬月さんの対処がベストだったと思いますよ」

「そうでしょうか」

「そうですよ」

 椿にそういわれると安心する。肩の力を抜くと、彼の心に触れた気がした。

 ……次は私の番かな。

 リリーは心を決めて尋ねてみた。

「……あ、あの。一つ尋ねても?」

「ええ、何でしょう?」

「お、大阪は……どうでした?」

「ああ、とってもいい所でしたよ」

「いえ、そうではなくて……」再び体中が熱くなっていく。「お墓参りはきちんとできました?」

「ええ、おかげさまで。二回目のお墓参りで時間に余裕があったのでついでにお寺巡りができました」

「法隆寺に行かれたんですよね? 桃子ちゃんにちょっとだけ聞きました」

「そうなんです」椿はゆっくりと頷いた。「法隆寺はですね、元々妻の好きな所だったんです。何回か行ったことがあったんですけど、やっぱりいい所でした」

「たとえば……どんなところがですか?」

「そうですね……。今の世界は当たり前じゃないってことを感じとれた所ですかね」椿は穏やかな口調で続ける。「今こうやって僕達が存在しているのは当たり前じゃないんです。僕にはもちろん両親がいて冬月さんにもいて。その連鎖があるから僕達はこうしてこの場で話すことができています。これって当たり前なんですけど、当たり前じゃないんです。偶然の重なりなんです」

「そういわれると、凄い偶然が重なっていますよね」

 確かに、とリリーは思った。最初に彼と出会った時点で一緒に風呂に入ることになるとは想像もできない。こういった未来も偶然の重なりからだろう。

「法隆寺も同じで僕達の中では当たり前に存在してます。学校で習いますし名前を聞けば何となく想像はつきます」椿は熱を込めて答える。「でもお寺だって生き物なんです。何もしないで維持しているわけじゃありません。そこには昔の宮大工から今の宮大工への連鎖があるんです。だからこそ今の法隆寺は現代に残ることができているんです」

 椿のいいたいことはわかる。存在しているから当たり前のように思ってしまうだけで、全ての五重塔が法隆寺のように現代に存在しているわけではない。あり続けることで当たり前だと錯覚してしまうのだ。

「妻はそれを知っていたんです、僕と出会う前から。純粋に一本の檜から心を読み取るようにして建物と会話していました。今になって僕は彼女の気持ちを知ることができたんです」

 ……やっぱり彼女には勝てない。

 椿の妻を想像しいいようのない焦燥感を覚える。彼の心の中では未だ彼女が大きく占められているのだ。予想はしていたが、まさかここまでとは……。

「そうですか……」

 リリーはうな垂れて樽の中で身を丸めた。しばらく沈黙が続き湯の中の泡がモクモクと音をたてるだけになった。

 泡の音が突如消えた。その時、椿はぼそりと呟いた。

「……冬月さんと一緒に見たかったなあ」

「えっ?」

「屋久島に行った時のこと、覚えてます? 倒木から生えた小さい花を見て喜んでたじゃないですか。そんな冬月さんを見てこの人はほんとに純粋なんだなと思ったんです」

「ああ、あの時はですね、なんか、その、偶然というか……」

「偶然じゃないですよ」椿は微笑んでいった。「冬月さんが真剣に縄文杉に取り組んだからです。自然と向き合うことができたから、出会えたんだと思いますよ」

 ……ああ、そうだった。

 一瞬の時が過ぎた後、心が震えていることを実感した。これはいつもの心臓の高揚とは違うものだと理解できる。椿に褒められると言葉では表せない感情が波となりとめどなく溢れてきてしまうのだ。

 それは彼に認められたという安楽の感情だ。

 ……ここで自分の過去を伝えてもいいだろうか。

 揺れからくる波紋はやがて激しく高ぶる荒波となっていく。彼に今の気持ちを正直に伝えて、自分の気持ちを知って欲しい。

「……今度は私の話をしてもいいですか?」リリーは椿を見つめていった。

「ええ、もちろん。聞かせて下さい」

 ……よし、きちんと告げよう。

 リリーは深呼吸をして続けた。


  22.


「……屋久島で母が亡くなってからです。父は苦しみから逃れるように仕事に打ち込みました。やがて暖かい家庭は崩れ母が好きだった庭の花は全て枯れました」

 辛い過去だ。だけど自然と言葉は出てくる。今までプライドの塊だった自分がこんな泣き言がいえるようなっているのは椿だからだ。

「花のように弱いままでは生きていけない、そう思いました。信じられるものは目に見える数字だけ。私はそれから感情を抑え結果だけを追い求めました」

 父の教え。自分にそう言い訳をして数字に逃げてきた。

 だけど、もう逃げない。逃げたくない。

「数字を追い求めた結果、私はいつの間にか花を遠ざけるようになっていました。数字にできない感情を持っても何の特にもならない。春花さんと出会う前は本気でそう思っていました」

 だけど、あなたが――。

「この一年で、たくさんのことを教えて貰いました。春には花に一瞬の輝きがあること、夏には心を奮わせる花があること、秋には……冷えた紅茶がまずいこと」

「えっ?」

「と、ともかくですね。色々なことを教えて貰ったんです」

「は、はい」

 リリーは空咳をし続けた。

「花にはたくさんの魅力があるのに私は目を伏せていました。でもこれからはもっと色んな花を知りたいと思ってます」

 ……あなたと、一緒に。

 リリーが微笑みかけると椿もにっこりと笑ってくれた。

「僕はただのきっかけです。冬月さんが自ら選んだことですよ。そういえば……冬の花の魅力は伝えていませんでしたね?」

「冬の花、ですか?」

 椿の口元がにやっと緩んだ。

「ええ。僕が左の扉を開けるので右の扉をリリーさんが開けてください」

 この奥に花などないはず。あるのは露天風呂だけだ。

 しかし椿はリリーの手を握り扉の方へと促した。

「さあ、一緒に」

 二人は同時に扉を掴み同じタイミングで開放した。


  23.


「こ、これは……」

 リリーは目の前の風景を見て思わず息を呑んだ。

「綺麗……」

 雪が降り積もった真っ白な景色の中、睡蓮の花が淡い光を灯していた。

「凄い……。このお風呂を亭主が入らないようにするため鑑賞用に変えたんですね」

 温泉の中には絶妙なバランスで花が配置されておりひとつずつの睡蓮が輝いていた。

 椿は頬を掻きながら答えた。

「リリーさんが時間を稼いでくれたからです。それがなければできませんでした」

「そんなことないですよ。この発想は誰もが思いつきません」

しかし、とリリーは疑問を持った。

「睡蓮が浮かんでいる温泉は塩分が含まれているので枯れてしまうのではないですか?」

「そのまま塩を残したら確かにまずいですね。でも今入っている樽湯の温泉は炭酸カルシウムが溶け込んでいますから、これに溶かしたんです」

「なるほど、温泉の成分を混ぜ合わせて中和したんですね」

「そういうことです」椿はゆっくりと頷いた。「本来ならそういう方法をとりたくなかったんですが、あまりにも時間がなかったので。今は単純温泉を使って貰ってますよ」

 天井には眩いライトが点いている。きっと水槽にあったものを取ってきたのだろう。

「本当にいいですね、温泉に浸かりながらこんな光景が見れるなんて……」

 リリーは顔を洗いもう一度眺めた。まるでモネの絵画の中に入ったようだ。温泉が池となり睡蓮の花が気持ちよさそうに伸びている。その色使いが自分の心を穏やかで暖かい気持ちにしてくれる。

 目を閉じると瞳の奥から懐かしい光景が浮かび上がってきた。庭で戯れている母親の百合の姿だった。暗い闇に光が差し込むように一筋のスポットが彼女に当たる。

 

「リリー、こっちにいらっしゃい」

 気がつくと、目の前にはいつもの庭があった。百合はお気に入りの水玉のワンピースを着ており、右手には新しい苗を左手にはスコップを握っていた。

 ……仕方がない、手伝ってあげよう。

 二人は暑い日差しの中スコップで苗が植えられるだけのスペースを掘った。苗を優しく置いて丈夫に育ちますようにとおまじないをしながら土を被せる。

 毎回のことだが母親は花の名前を教えてくれない。どんな花が咲くか自分でも訊かずに花屋さんから仕入れるらしい。

 黄色の花が咲くか、紫の花が咲くか、いや、ピンクだ。暇な時はだいたいこの話題だった。花が咲かずに野菜が育った時もある。その時には二人して笑った。

 季節を巡る毎に庭の色は豊かになっていった。冬にはほとんど枯れてしまうが、春がくるための準備をしているのだと考えると気持ちは沈まなかった。

「今年も春が来るまでお預けだね」

 百合はそういうと紅茶のパックに温かいミルクを注いでくれた。

 冬の楽しみ、ミルク紅茶の出番だ。普通のミルクティーはお湯に浸したパックにミルクを少量入れるが、これはミルクそのものにパックを入れて暖めるのだ。家族一同この飲み物の虜になっていた。

 幼いリリーは父に反発してミルク紅茶の中にレモンのスライスを入れたりした。どんな味になるか試したかったのだ。だがストックは肩を竦めながらも叱りはしなかった。

「何でも挑戦してみるといい」そういってリリーの頭を優しく撫でてくれた。

 本当に暖かい家庭だった―――。

 

 目を開けると、炭酸の音がやんわりと聞こえてきた。妄想は泡と一緒に消えていく。

 ストックはこの景色を眺めながら風呂に浸かったのだ。彼の笑顔が蘇り、心が和らいでいく。あの笑顔はきっとこの景色を眺めたからに違いない。

「綺麗ですね」

「ええ、本当に」

 ……当たり前は当たり前じゃない。

 椿の言葉と共に、心が軽くなっていく。今まで数字以外のものが怖かった。それは確定していないものに触れることを恐れていたからだ。

 しかし今ならはっきりいえる。絶対なんてものは存在しない。生があれば死がある。楽しいことがあれば悲しいことがある。出会いがあるから別れがある。当たり前のことだ。そんな当たり前のことから逃げていたのだ、自分は――。

 ……今のこの気持ちは、当たり前じゃない。

 目を閉じて胸の内に燻っている思いを確かめる。彼に対しての思いは確定している。これはもう変えることはできない。

 ……この気持ちの先を知ってもいいのだろうか。

 両手を重ね再び自分の心に問う。きっと彼には届かないだろう。それでも自分の思いを知って欲しい。秋桜美のことを思っていたとしても、私はこの胸の高鳴りを表現せずにはいられない。

 本日二回目の告白だ。

「……春花さん、伝えたいことがあります」リリーは睡蓮の花を見つめながらいった。「これからも、春花さんと色んな所に行きたいです。もっと春花さんのことが知りたいんです」

「それは……」椿が急に真剣な表情になった。

「そういうことです」視線を逸らさずにいう。

 一時の間が空いた後、椿は重々しく口を開いた。

「……僕も同じ気持ちですよ」

 ……えっ、まさか、ということは。

 耳を疑いながら彼の声を待つ。お湯に浸かりすぎて鼓膜がおかしくなったのだろうか。

「……これからもよろしくお願いしますね、お友達として」

 ぱりっと何かが崩れる音が聞こえた。一世一代の告白はどうやらなかったことになるようだ。彼がこれほど無神経だとは……。

 ……それでも、伝えてよかった。

 いえたことに意義がある、と彼女は思った。今回の気持ちは彼と付き合いたいというものではなく、ただ純粋に時間を共有したいという気持ちからだったのだ。桃子に話せばきっと詰めが甘いといわれるだろう、だが今回はこれでいい。

「はい、こちらこそ。これからもいいお友達でいましょうね」

 

  24.


 大晦日。

 リリーは椿の店を訪ねていた。彼の店はいつもより薄暗い、きっと店自体は閉めているのだろう。

 扉をコンコンと叩くと、椿が顔を見せた。

「どうぞ」

 彼に案内され店を一瞥する。商品の花はほとんどなくなっており閑散としている。何でも今日でやっと仕事納めとのことだ。

「後一人、お客さんが来たら終わりなんですけどね」

 椿は椅子に座り直してテーブルを指差した。どうやら桃子はもう帰っているらしい。

「何でも今日が誕生日の方に送るみたいですよ」

 テーブルの上には白薔薇をメインに緑のヒペリカムの実、淡いモスグリーンのトルコキキョウ、アクセントにオリーブが入っている花束が載っていた。

「それは大変な日に生まれましたね」

「ですね。ああ、まだ冬月さんにお渡しする分が出来ていなかったんですよ」

 リリーは慌ててかぶりを振った。

「いいですよ、残りものを譲ってもらうということだったので」

「そうはいってもです。お客さんには違いありません」

 椿はキーパーの中から花を取り出し始めた。今日から三日間店を閉めるため、商品に使えなくなる花を譲ってもらいに来たのだ。

「あ、そうそう。春花さんにお土産があります」

 そっとクロヤの紙袋を差し出す。彼はその紙袋を見て嬉しそうに微笑んだ。

「クロヤの袋、ということは餡パンですか?」

「食べて見たらわかりますよ」

 椿は袋から取り出しぱくりとかぶりついた。「ん、これは肉まん?」

「そう、冬限定クロヤの肉まんパンです。韮がたっぷりと効いているやつを選びました。春花さんは旅館で食べれなかったみたいですから」

「いや、あの時は酔っ払っていて、匂いがわか……」

「っていますよ。水仙の葉が二枚しかなかったことは」リリーは椿の唇を指で塞いだ。

「そうでしたか、さすが冬月さん。勘が鋭い」椿は溜息をついて降参のポーズをとった。

 しかしまだ彼の表情には余裕がある。それがなぜか腹立たしい。

「春花さんは知っていたんですよね? 私が女将さんと話をする前から……」椿の上に座り込み首に手を回す。彼はたじろいで手の置き場に困っているようだが知ったことではない。「さも途中から入ってきたようにしてましたが、私が行かなければあなたが行くつもりだった。違いますか?」

「なぜ、そう思ったんです?」

 ……また惚ける気か。

 リリーは首に回した手をそのまま絞める形にした。

「簡単です。温泉カルテを見ていないあなたが三番目の温泉が塩化物泉だと知ることはできないからです。私が行く前にあなたは貸切風呂を観察していた。違いますか?」

「……残念ながら違います。僕は冬月さんのお父さんと社長さんの会話からそれを知りました」

「ということは……春花さん、英語、話せるんです?」

「少しだけなら、ですが」椿は二本の指を細めていった。「格好よかったですよ、冬月さん。大切な人を侮辱するな、なんて案外熱い所があるんですね」

 体全身が熱を帯びる。すでに火の車状態だ。

「味噌鍋にしても、そうです。まさか友人のせいにするなんてらしくないですよ。正直な方だと思っていたのに、残念です」

「春花さん、最初から知っていて食べてたんですね?」

「ええ。僕は冬月さんみたいな人を苛めるのが結構好きなんです」

 彼の笑顔に自分の心が脅える。体中が熱を帯び、煙を噴き出していく。主導権を握ったと思って彼の上に座った自分がひどく惨めだ。

「やめて、それ以上いわないで下さい」

「……時計ですよ」

「え? 何がです?」

「その、女将さんをなぜ疑ったのかという話です」

 ……ああその話か。

 すでに頭の中から飛んでいたが催促することにした。

「あれだけ和装が似合う人です。あの人に腕時計は似合わない。本来着物には時計などのアクセサリーは不必要なものですからね。身につけておくにしても着物の中に隠せる懐中時計など、一目に触れないものを用意すべきです」

 彼の言葉に思わず息を呑む。では最初に女将に会った時点で何らかの疑いを持っていたのだろうか。

「最初から女将さんを疑っていたんですか? 時計を身につけているだけで?」

「まさか。それだけで殺人をするとは思ってませんよ」椿は首を振った。「冬月さんの様子に気づいたからです」

「私の様子?」

「ええ、いつもの刑事の眼になっていましたよ」

 大きく溜息をつかざるを得ない。酔っ払っていた椿にさえ自分の様子がわかったのだ。どれだけ顔に表情が出ていたというのだ。

 ……でも、ちょっとだけ……嬉しい。

「……春花さん」リリーは再び椿の首に腕を絡めていう。「これは罰で上げる予定でしたけど……ご褒美で上げます」

 そっと顔を近づけ唇を重ねようとすると、突然ドアが開いた。どうやらお客が来たようだ。彼から慌てて飛び降り一歩退くと、l彼は顔を真っ赤にし万歳したままだった。

「あら、お邪魔でしたか?」

 綺麗に着飾った女性が申し訳なさそうにドアを少しだけ開けてこちらを眺める。

「とんでもございません。ご、ご来店誠にありがとうございます」椿は座ったまま頭を下げている。

「春花さん、その挨拶はお店が違いますよ」

 黒髪の女性は小さく笑って花束を見た。「まあ、とっても綺麗。オリーブを入れて下さったんですね」

「ええ、今日が誕生日だと聞いてちょうど庭に生えていたのでアクセントで入れてみました。メッセージカードはひいらぎでよかったですか」

「ええ、そうです。ありがとうございます。あの人もきっと喜んでくれますわ」

 勘定を済ませお客が笑顔で店を出ていく。彼を見ると、思考回路がまだ止まっているように見えた。

「お、終わりましたね」

「そ、そうですね」

 椿はぎこちない動きをしながらも戸締りに入り、自分もそれに合わせて片付けを手伝う。

「お客さん、嬉しそうでしたね」

「そ、そうですね、やっぱり喜んで貰えたら嬉しいですよ」

 椿はテーブルを閉じたり開いたりしながら答えた。

「何をしてるんですか?」リリーは目を細めていった。「続き、して欲しいんですか?」

「いえ、そうじゃないんですけど……」彼の頬はさらに高潮した。

 ……少し攻めすぎたかもしれない。

 だが惚け続けた彼の方が悪いのだ。これからは迷わず彼の心を手に入れるまでアプローチを続けるつもりだ。

 店の片付けも終わりに近づいていた。最後に『瞬花終灯』と書かれた暖簾を納めてリリーは呟いた。

「今頃ですけど、お店の名前の意味がやっとわかりましたよ、春花さん」

「といいますと?」

 一瞬、間を置いて椿の瞳を見つめていう。

「『花』は一『瞬』で『終』わるけど心を『灯』す、という意味なんですね」

「……その通りです、冬月さん」

 そういった後、椿は優しく微笑んだ。その笑顔を見て自分の心も満たされていく。

 ……あなたと出会えて本当によかった。

 リリーは心の底からそう思った。素直になるということがこんなに素晴らしいことだなんて思いもしなかった。

 この感情は椿が教えてくれたのだ。彼の純粋な心が自分のガラス玉を溶かしてくれた。

 不意にこの一年間が走馬灯のように過ぎていく。『春』にサクラの一瞬の輝きを見た時には『喜』びで胸が溢れ、『夏』に花火の閃きを見た時には椿の天然過ぎる言動に『怒』りを覚え、『秋』に秋桜美の話を聞いている時には、いいようのない『哀』しみを感じた。

 でも『冬』にはまた新たな感情を一つ覚えた。それは好きな人と一緒にいると『楽』しくて心がほっとすることだ。

 目を閉じれば母親が愛した庭が蘇った。そこには小さくなったガラス玉が落ちており父親の姿が映っていた。


 ――リリー、俺は一足先に行っている。今すぐにでも彼女の声を聞きたいんだ。


 ガラス玉は、『喜怒哀楽』の感情で包まれた液体を吸い込んで苔を生やしていた。屋久島で見た苔のようにふんわりと全てを包み込んでいる。


 ――俺は感情を押し殺すことで百合の存在を掻き消していた。そうしなければ俺自身を保てなかったからだ。本当にすまない。お前の心の声を聞いて様々な感情が生き返ったよ。


 『春夏秋冬』を経て、たっぷりと光を受けた苔から、今、一つの花が閃いた。コスモスのように憂いを秘めながらも終わることのない連鎖を受け継いでいる。

 

 ――お前が見せてくれた花は季節を通した中でも一番好きな花だった。俺と百合の中でな。お前も好きになってくれて嬉しい。

 だから俺は今から行ってくるよ、百合が好きだったあの場所へ。今の季節にしか咲かないあの花を見に行ってくる。


 その花は眩いばかりの光を放ち始めた。沈んだ心の底まで全てを照らす光だ。睡蓮の花のように暖かい灯火を点けている。


 ――ありがとう、リリー。帰って来たら再び報告をさせて貰う。

 その時は熱い『ミルク紅茶』を飲みながら語り合おう。


 目を開くと、椿が一輪の花を持って佇んでいた。


 その花は線香『花』火のように淡く光りながら、サクラのように一『瞬』の輝きを放っている。

 気がつけばリリーの心の中にも、ツバキの花と同じように暖かい光が『灯』っていた。



『終』わり 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

この話は私が自分の花屋を開こうと店名を考えていた時に思いついたものです。

プロフィールにも書きましたが、私は花が好きです。仏事に使われる菊の花も好きですし、百合や薔薇のように可憐な花、チューリップやスイートピーのような季節の花、鈴蘭や霞草ように小さい花、全て好きです。

仕事でどんなに辛いことがあっても、花屋を辞めることはできないだろうなと確信があります。

だからこそ私は自分なりに花のよさをアピールしていきたいと思っております。

なぜそこまで熱意があるかというと、それはガーベラのようなメジャーな花を知らないで花屋に飛び込んだ私だからこそ、味わえた感動があったからです。


ここまで読んで下さったあなた、本当にありがとうございます。感謝の言葉しか思いつきませんが、私の思いが少しでも伝わっていればいいなと思ってます。

もしよろしければですが、感想と評価を頂けたら嬉しいです。次回作の励みになります。

必ず読ませて頂きますし、返信可能なことならば必ず返信させて頂きます。


※ログインしないと感想が送れない、とのことでメールアドレスを載せておきます。よろしくお願いします。

nyamu104@gmail.com


もしまた私の別の作品を読んで頂く機会があれば、またお時間を下さい。次はもっとあなたを楽しませられるよう一生懸命、努力致します。

それではまたお会いしましょう、本当にありがとうございました!


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