第三章 楓の『終』幕
1.
サクラの青々とした葉が色鮮やかな臙脂色に変わった季節に、リリーは先週買った鉢物に水をやっていた。桃子に注文したクワズイモの葉だ。
もののけの森に車で登る途中自然に生えていたこの葉っぱにリリーは心を奪われた。地面からひょっこりと出ている根が丸みを帯びていて可愛らしい。熱帯系の植物なのであまり水を必要とせず彼女にも管理がしやすいものだ。
ドアの鍵が開く音がした、桃子が帰ってきたのだろう。玄関に向かうと買い物袋を置いて肩の力を抜く彼女の姿が見えた。
最近の夜ご飯は桃子にまかせっきりになっていた。彼女が作る料理は種類も豊富でなおかつ味もいいからだ。
「おかえりなさい、今日のご飯は何かな?」
桃子に尋ねると彼女はマフラーを外しコートを合わせて掛けた。
「ただいまです、今日は唐揚げにしようと思って鶏肉を多めに買ってきました」
「そっか、それは楽しみね」
ビニール袋に入った食材を台所まで運ぶ。彼女にいわれるがままに動き料理を作った後、テーブルの上に並べた。
テーブルの上には白ご飯、豆腐の味噌汁、鳥の唐揚げ、レタスとトマトの野菜サラダが乗っている。ほとんどが彼女の手料理だ。
「いただきます」
手始めに唐揚げにかぶりついた。冷凍食品とは違い中までしっかり揚げられており美味しい。今まで外食がほとんどだったが、桃子が家に来て以来彼女の手料理を満喫していた。
「どうですか?」
「うん、美味しいよ。桃子ちゃんの料理を食べていたら仕事の疲れが飛んじゃうね」
「それはよかった」彼女は満面の笑みを零した。「足りなかったらどんどんいって下さい。おかわりはたくさんあります」
「ありがとう」唐揚げを堪能した後、味噌汁を啜る。ほどよい塩加減が絶妙だ。
「リリーさん、実はお願いがあるんです」桃子は親指を擦り合わせながら上目遣いにリリーを見てきた。「ちょっとこの写真を見て欲しいんですけど」
写真を手に取って眺める。大分古く汚れていて詳しいことはわからないが、何かの建築物だということはわかる。
「うーん、なんだろうね。どうしたの、この写真?」
「この間、実家に帰って荷物の整理をしていたら、出てきたんです。お母さんが昔書いていた日記の中に挟まっていました」
「そっか。今日してたマフラーも実家から持って帰ってきたのね?」
桃子はびっくりしたように口を開けている。
「さすが、リリーさん。伊達に刑事をしていませんね」
「誰が見てもわかるわよ。桃の花が入ったマフラーなんて中々売ってないだろうし」
「それもそうですね」桃子はぽんと手を叩いて一人で納得した。「実はこの写真、父が関わった建物だと思ってます」
桃子の父親・楓は大工だ。リリーは綾梅の事件の時に調べたことを思い出した。彼は二十年程前に突如失踪していたのだ。
「父がどこにいるのか全く知りません。不自然かもしれませんが、私はお父さんの写真すら見たことがないんです」
改めて桃子の家に行った時のことを思い返す。確かに楓の写真は見当たらなかった。それどころか男の匂いがするものは全くなかったような気がする。
確かに不自然だ。全く父親の痕跡がないのはおかしい。事件の時には文字でしか彼の存在を確認していない。
「そうね。私もその点には疑問を持ったわ」
……母親のことについて調べたいのかしら。
心まで回復したかわからないが、頭で理解できるようにはなったのかもしれない。父親の存在を確かめようとしているのだろうか。
「桃子ちゃんはこの建物の場所を探そうと思ってるの?」
「……正直迷っています。私には一度も父と会った記憶がないんです。今更建物を探すのもどうかとも思ってるんです」
……ここは何といって答えるべきか。
一緒に暮らしているとはいえ家族の問題だ。こればっかりは思いつきで述べることはできない。
だが自分の父親も建築家だ。今はイギリスで一流の建築家として名を売っている。今の自分なら彼の作ったものも冷静に見ることができるかもしれない。
「確かに……それは迷うわね」
「そうなんです、リリーさんならどうするかなと思ってですね」
……自分だったら、迷わずに行くだろう。
もしこれが母親が関わっている写真なら必ず突き止めるだろう。現に休みの日には母親が撮っていた写真の整理をしている所だ。
しかしそれは母親が好きだったからに他ならない。会ったこともない肉親を調べるというのはまた別の話だ。
その時、頭に一つ案が浮かんだ。だが提案していいかどうかわからない。ひょっとすると再び彼女を傷つけることになるかもしれない。
「リリーさん、今、何か思いつきましたね、遠慮しないでいって下さい」自分の表情を見抜いたのか桃子は真剣な目で訴えている。
ここは正直に答えた方がいい。
「私が桃子ちゃんの立場なら、蘇鉄さんに一度訊いてみるかな。それで関係なさそうなら諦めもつくし。関係があればその時にまた考えるかな」
「なるほど、やっぱりそれが一番ですよね……。実は私もそう思っていた所なんです」桃子はぼそりと呟くようにいった。そして懇願するような目つきでリリーに迫った。「リリーさんに時間がある時でいいんです。私と一緒に蘇鉄さんの所に行ってくれませんか?」
「え? 私も?」
「駄目ですか?」桃子は今にも泣きそうな顔で見つめてくる。
事件が終わったとはいえ蘇鉄の顔を見るのは忍びない。自分の捜査で息子を刑務所に送ったのだ。
だが彼女の方が心配なのは変わりない。
「もちろん、いいわよ」
リリーが余裕の表情を見せると、桃子は胸を撫で下ろすように吐息をついた。
「ありがとうございます、一人じゃ途中で逃げちゃいそうな気がして……踏ん切りがつかなかったんです」
「そっか……、そうだよね……。じゃあ一緒に行こう」
2.
「こんばんは。お久しぶりです」
「久しぶりってほどでもないけどな。それで話っていうのはなんだい」
テーブルの上にはティーカップがすでに三つあった。しかし彼のものには少し残っている。蘇鉄は一人で飲んだのかなと疑問に思っていると、彼が唐突に口を開いた。
「君達が来る前に来客があってね。それで俺はその前のカップを使わせて貰ってる」
そういって蘇鉄は二人のカップに紅茶を継ぎ足した。
「そうでしたか。すいません、お忙しい中……」
「いや忙しくなんてないよ。大丈夫、まあ座ってくれ」
彼に会うのは綾梅の初盆以来だ。以前会った時よりは蘇鉄の顔色はよさそうだった。
桃子が蘇鉄に写真を見せると懐かしむように顔を綻ばせた。
「これは楓が作った建物じゃないのか? 確か五重塔と呼ばれる仏教の建築物だと思うぜ」
「やっぱりそうなんですね。この写真、お母さんのノートに挟まっていたんです」
「ああ、そうか……」彼は頭を下げた。「そうだよな、本当に辛い思いばかりさせてすまない」
「いいえ、蘇鉄さんが悪いわけじゃないです。どうか頭を上げてください。謝って貰いたくて来たわけではないので」
「そういって貰えるのはありがたいんだけどな。やっぱり俺の教育が悪かったんだと思ってる。しかし今日はそんな話をしに来てるわけじゃなかったんだよな」
蘇鉄の声は太いようで細かった。きっとこうやって桃子に顔を合わせるだけで神経が削られていくのだろう。
桃子にしても同じだろう。蘇鉄が無関係とはいえ嫌でも皐月を連想するに違いない。
部屋の空気が重く話が円滑に進まなかった。リリーは新たな風を入れる気持ちで話題を変えた。
「そういえば、蘇鉄さん煙草を止めたんですか? 灰皿がないみたいですけど」
「実はな、酒と煙草を一緒に止めたんだ。こんな話をしてもしょうがないだろうけどさ、俺もそれくらいは罰を受けようと思ってね」
桃子にそんな話をしなくても、と舌打ちしそうになったが彼女の様子を見ると問題なさそうだった。彼女の手は震えているが顔の表情は変わらない。
「私はもう大丈夫ですので、遠慮しなくていいです。その五重塔というのはどこにあるかご存知ですか?」
蘇鉄は頭を抱えるようにかぶりを振った。
「本当にすまない、その場所はわからないんだ。最後に楓と話した時は京都にいたみたいだった。京都で修行をしている話をしてくれたんだ。ただ宮大工っていう職業は一つの建物で飯が食えるわけじゃないから、転勤が多いって話でね」
「宮大工? 普通の大工とは違うのですか?」
リリーの問いに蘇鉄は勢いよく答える。
「宮大工っていうのは寺専門を修復する大工のことだ。修復する建物が決まれば五年から十年、その近くで暮らしながら仕事をするらしい。だからこの建物を突き止めれば探すのは楽になるな」
僅かな希望が沸いてほっと胸を撫で下ろす。桃子の顔にもぱっと明かりが点いている。
「写真の方は私が何とか調べてみます。もう一つお願いしていいですか?」
「もちろんだ。俺にできることなら何でもいってくれ」
「お父さんの写真を見せて貰えませんか? 不思議に思うでしょうけど、私、今までお父さんの写真を見たことがないんです」
蘇鉄は驚いた表情を浮かべながら、アルバムを持ってきた。
「俺が持っている中では、これしかないが見てくれ」
蘇鉄が取り出した写真には四人が写っていた。左から蘇鉄、桜、楓、綾梅の順だ。そこには背の高い男性が腕を組み満開の笑顔を見せていた。体は細いが華奢な感じが全くしない。カモシカのようにすらっとした人物だ。
「中々男前だろ? あいつは昔からモテてたんだ」
「確かに格好良いですね」
桃子はじっとその写真に釘付けになっていた。無理もない、初めて父親の写真を見たのだ。
写真の中では蘇鉄も笑っていた。今と変わらず短髪でさっぱりした印象だ。だが今では年齢以上に陰りがあった。それは事件によって纏った闇のせいだろう。
「ありがとうございました。リリーさん、夜遅いし帰りましょうか」
「そうね。では夏鳥さん失礼します」
「おう。こちらこそ来てくれてありがとう」
蘇鉄の家を出て車を発進させた。皐月の元いたアパートの前を通った方が早いが敢えて遠回りすることにした。助手席の窓には目頭を抑えている桃子の姿が映っているからだ。
……殺人事件というのは本当に終わりのない迷路の中にいるのだな。
ガラス越しに桃子を見るとそう思わずにはいられなかった。
3.
……さすがにマフラーだけじゃ、この冬は越せない。
桃子はマフラーを掛け直し実家に戻った。今日は衣替えのための荷物整理だ。ダンボールにあった冬物を厳選し一階へと降ろす。お気に入りの服を眺めるだけで一昔前の光景が蘇ってきそうだ。
しかし今では実家の風景が別世界のように覚える。リリーの家に長居しているため、生活環境が変わったと実感してしまう。
自分の部屋に入ると、今まで当たり前だったものが遠い過去のものになっていた。毎月集めていた雑誌も三月で止まっており、爽やかな匂いがする香水も今の時期には合わない。荷物を取り出してこの部屋から出ると、二度と戻って来れなくなるようだ。
……父親の部屋の鍵を開けてみよう。
階段を降りて和室の中を捜索する。畳はすでに変えられており全ての畳からイ草の香りが充満していた。綾梅が貴重品を管理している箪笥の扉を開けると、そこには茶色の鍵が入っていた。確かこの鍵で綾梅は閉めていたはず。
父親の部屋に戻り鍵穴に通し部屋の扉を開けた。
……思ったより狭いわね。
部屋の中は畳四枚が入るくらいで窓もなく倉庫のようだった。中には埃も溜まっておらず空気以外、何も詰まっていなかった。
……本当に何もなかったんだ。
愕然とし思考が停止する。やはり会ったことがない父親に期待していたのだ。きっと父親は自分に何かを残してくれている、その何かが愛情の証になり自分を安心させてくれる。
この部屋があったからこそ今まで父親のことを考えなくてすんだのだと彼女は思った。気になった時にこの部屋に入ればいいと思っていた。
しかし何もない。父親という存在が自分にはいないことを改めて証明されてしまった。
……ここにあったものはお母さんが処分したの? 何もかも?
処分する理由がない。綾梅は他の男の話をしなかったからだ。もし楓のことを忘れて再婚しようというのならわかるが、今までにそんな形跡は見当たらなかった。
……やはり蘇鉄さんなのかな?
桃子は先日会った蘇鉄の顔を思い出した。あの悲愴めいた顔は自分に対してではなく綾梅に対してのものなのか。だが仮に付き合っていたとしてもお互い知っている友達だ。処分する程のことじゃない。
……わからない、どうして何もないの?
不意にこの家に住んでいた事自体が怖くなる。自分の知らない存在がこの家を建てたのだ。それに他にも疑問はある。この家は築二十年になるが、まだ若かった二人がどうしてこんな立派な家を建てることができたのだろうか。
……どうして、お母さん。何もわからないよ。
思わず涙がこぼれそうになる。こんなにも母親の存在が自分の中に占めていたとは想像していなかった。ただそこにいる、というだけの存在がこんなにも大切だったなんて思わなかった。
…もう自分には家族の絆はないのだな。
切り取られた心には、ぽっかりと穴が空いていた。心自体が綻びているのだと認めざるおえなかった。
リリーの家へ戻り心を落ち着かせようとするが、不安に覆われた心は戻らない。今まで自分は逃げていただけなのだ。母親の死からもこれからの生活にしても。リリーの優しさに甘えているだけだった。
このまま彼女に縋って生きていていいのだろうか、リリーがもし結婚したら自分はどうすればいいのだろうか。
……このままでは駄目になる、ちゃんと動かないと。
夏に皐月に会いにいったように、再び動く時が来ている。やはり父親が何をしていたのかを知らなければならない。自分はどうやって生まれたのか、そして父親は自分のことをどう思っていたのか。
綾梅と蘇鉄が付き合っていたかどうかというよりも、楓のことが純粋に気になり始めていた。彼の写真を見てから自分の胸が騒ぐのだ。生きているのなら、一目でいいから会いたいと。
……お母さんの愛情はわかる。でもお父さんは?
そっと首に巻いてあるマフラーに手を差し伸べた。このマフラーは小学生の時に、綾梅にだだをこねて作って貰ったマフラーだ。大分痛んでいるが丁寧に扱ってきたことでまだ十分に使える。
無性に母親の声が聞きたくなった。しかしそれはできない、永久に。それでも彼女の声が聞きたい。
……そうだ、日記。
桃子は引き出しにしまってある日記を取り出した。この日記には楓の写真だけでなく綾梅の気持ちも綴られているはずだ。
桃子は埃被った日記を捲ることにした。
4.
「ついに今日、家が完成しました。まさかこの年で自分と同じ年のローンを背負うことになるとは考えたこともありませんでした。だけど楓と二人で決めたことです。そこで今日から日記を書いてみようと思います。思ったことを淡々と書いていけばきっと日記になるでしょう」
そんな書き方をしていたら小学生の日記になっちゃうよ。桃子は心の中でつっこみをいれながらパラパラと捲っていった。綾梅の字を見ると母親の存在が浮かび上がるようで安心した。
彼女は母親の存在を噛み締めるように続きを読んだ。
「ついに今日、楓が京都に出張する日です。国宝を手掛けると調子にのっていましたが、今度の仕事は四年滞在しないといけないみたいです。あいつは本当に約束を守れるのでしょうかね。今から心配しています。
あんたが帰って来る頃には他の男と住んでいてやろうかと企んでいますが、残念ながら今の所そういった相手はいません。ばっちり気合を入れて頑張って来て下さい」
そんな気なんてなかったくせに。いつもの親子のやりとりが蘇る。何だか時が舞い戻るような感じだ。
父親は確かに存在した。それだけで桃子の心は落ち着いていく。楓は京都に四年いると書かれてある。なら間違いなく写真は京都にある建物だろう。やはりこの写真は楓が送ったのだろうか?
「桃子が誕生して一ヶ月経ちました。夜鳴きが激しくて毎日が睡眠不足です。とてもじゃないけど習字の教室などできません。当分は楓の少ない仕送りに期待しましょう。
楓がいたらきっと桃子の寝顔をじっと眺めているでしょう。泣いている時は見向きもしなかった癖に。×××な楓が目に浮かびます。あんなやつでもいないとやっぱり寂しいです」
綾梅が自分のことを書いてくれているだけで嬉しかった。何かあるたびに夜泣きがうるさかったといって桃子のことを苛めてきたが、今となってはいい思い出だった。
文章が消えている部分があったが、特に問題はなさそうだ。桃子は次のページを捲ることにした。
「今日、一通の手紙が届き写真が入っていました。手掛けていた塔が完成したのかな? それにしても早いです。四年といっていたのに二年しか経っていません。
桃子の顔が恋しくなって別の塔の写真を送ってきたのかな? 仕事を終えてなかったらしっかり戸締りして出迎えてあげようと思ってます」
母親のきついジョークが桃子の胸に染みわたった。綾梅は桃子に対しても結構きつい口調だったが、あれは自分に対しての戒めでもあったのだ。
綾梅は書を出展する時、凄い気迫で何日も和室に引きこもっていた。納得がいかないものを木の籠に丸めて捨てたと思ったら、またそこから引っ張り出して吟味する。
ゴミ箱の周りには小学校のクス玉入れのように丸まった紙が転がっていた。そうなったら何か店屋物を頼めという合図だった。
小さい頃は色々と頼んでいたが、中学、高校に上がるにつれて桃子自らが料理を覚えていった。綾梅は紫蘇の葉を巻いたカツが好きだった。その中に梅干の身を擦り込んで揚げたものを作った時には泣いて喜ばれどんな時でも必ず食べてくれた。
……あの頃にはもう戻れない。
たまりに溜まった思いが再び自分の胸に押し寄せてくる。ここで泣いてはこれ以上日記が読めない。気を引き締めページを捲らなければ。
「今日、桜が遊びに来てくれました。寝たきりが続いていたので会えたのは本当に嬉しかった。前もって作っていたざぼんの砂糖漬けを出すと、毎日食べている桃子の方がたくさん食べていました。顔から火が出るとはこのことをいうんでしょう。
楓の話をすると、さすがに何かあったのではないかという話になりました。確かに今のままじゃいけない気がします。この写真を頼りに探してみようかな。しかし桃子がつけた墨で塔のほとんどが見えません。
消印は京都になっていたので、間違いないと思いますが。
悪戯好きなのは父親にそっくりです。楓が帰ってきたら、二人まとめて矯正するしかなさそうです」
改めて写真に目をやる。この写真は自分が汚したのか。記憶を辿ると一つの映像が浮かんできた。
綾梅はこの写真を見ながら泣いていたのだ。その時に桃子は写真が悪いのだと思って彼女の筆で無茶苦茶に塗りたくったのだ。
綾梅はいつものように激しく叱りはしなかったが、この後じっと写真を眺めていた。目に焼き付けるように、じっと……。
ざぼんの砂糖漬けは綾梅の得意料理の一つだった。秋になると、一本の木からドッチボールくらいの大きな実がなる。実の皮を剥いて砂糖漬けにするのだ。毎年あくを抜くのが桃子の担当だった。ほんのりと苦味がありその後の甘さが堪らない。桃子にもこの時の記憶がある。
桜の顔が思い浮かんだ。ガラスの陶器のように細く、美しく、儚さを秘めた優しい人だった。桃子に対しても優しい衣で包むように接してくれた。来る時はいつも植物図鑑を持って来てくれて桃子はそれを楽しみにしていた。
母親から習字の宿題を出された時には、こっそり図鑑に逃げていたものだ。この時から桃子は花の種類の多さ、花の形の違い、同じ花でもたくさんの色があることを知った。毎日、本をめくれば新しい花に出会える、その喜びに浸っていた。
しかしそれは長くは続かなかった。桜は元々体が弱く家に来る回数が減っていった。彼女が家に来なくなり、しばらく経ってから亡くなったことを知った。綾梅と蘇鉄が血眼になって庭の手入れをしている時期だった。
この時に初めて人は死ぬということを知ったのかもしれない。いつも笑顔で頭を撫でてくれる桜が亡くなった、という事実は到底受け入れられなかった。次は自分が死ぬんじゃないかと想像するだけで怖くて一人で寝付くことができなかった。この夜は綾梅の布団に潜り込んで彼女の両足に体を挟んで貰って布団の中でまるまって寝た記憶がある。
棺の中に花で囲まれた桜を見て恐怖が安らぎに変わっていた。花に囲まれて穏やかな笑顔を浮かべていた彼女はいつも通りだった。死んでも花に囲まれるのなら大丈夫だと安心した。
この時には将来の仕事がすでに決まっていた。
日記はここで終わっていた。その後、何枚か破りとられた跡があったが、今となってはわかるはずもない。二十年以上前の日記だからだ。とても残っているとは思えない。
様々な謎が脳裏に浮かぶ。楓はなぜ連絡をよこさなかったのか? なぜ宛先を書かずに写真だけを送ったのか? なぜ楓は帰って来なかったのか?
綾梅は結局楓の元に辿り着けたのだろうか? 今となってはその手がかりはない。
考えた結果、桃子自身が京都に行くことを決めた。自分なりに決着をつけなくてはいけない。そして楓の消息を確かめなくてはならない。
とりあえず今の時点でできることは写真の場所を調べることだ。蘇鉄がいうには宮大工はその周辺で暮らして塔の修復に当たるといっていた。まずこの塔の場所がわからなければ楓を探すことは不可能に近い。
しかし五重塔といっても無数にある。どうやって調べたらいいのだろうか。そう思った時に桃子の頭に一つ、閃いたことがあった。綾梅の日記では国宝と書いてあったのだ。これなら大分絞れるのではないだろうか。
携帯のインターネットで「京都」「五重塔」「国宝」で検索した。二件ヒットした。それは「東寺」「海住山寺」という寺だ。
二つの塔の画像を見比べてみた。どちらも青々とした木に囲まれている写真でかなりの迫力がある。東寺の五重塔は木を剥き出しにした感じで重々しく長い歴史を感じさせた。代わって海住山寺の五重塔は朱色に染まっていてグリーンとの対比が綺麗だった。
楓の写真の塔には朱色が微かに残っている。
……これだ、海住山寺だ。
桃子は思わずガッツポーズをとった。母親の日記とも辻褄があう。
心の中でほつれていた糸が徐々に動き始めていた。
5.
蘇鉄の家に行ってから一週間後、リリーは再び桃子と晩御飯を食べていた。最近残業がないため、彼女とゆっくり過ごすことができているが、彼女の方は何かせわしなく動いている。
「リリーさん、お話があります」桃子は味噌汁を注ぎながらいった。「実は来週に京都に行ってみようと思っているんです。やっぱりこのままでは納得がいかなくて」
「……そっか」リリーは受け取った味噌汁を啜りながら頷いた。「手がかりを得たのね。どれくらい行くの?」
「二泊三日で行こうと思ってます。実はインターネットで検索して場所が特定できたんです」
「えっ、ほんとに? よかったね」
「実はお母さんの日記に国宝を扱っていたということが書いてあったんです。それで検索した所、京都には二つの国宝の塔があるんです。東寺と海住山寺というものです。お父さんが関わったのは海住山寺という五重塔だとわかりました」
「そっか、凄いね。桃子ちゃん」
「いいえ、そんなことないですよ」
そうはいうが彼女の顔には満面の笑みがある。
「それでですね、一日目に海住山寺。二日目にもう一つの五重塔、東寺。三日目に清水寺の紅葉を見に行こうと思ってます」
五重塔の写真を改めて眺める。ほとんどが真っ黒に塗り潰されているが、その中に見覚えがある花があった。四十九日の時、桃子の家でみたサツキに似た花がちらほら咲いている。
「ついでに紅葉も見てくるのね。羨ましいなあ」
……今度は嘘じゃない、本当の気持ちだ。
屋久島の時は気のない返事をしてしまったが今では本当に行ってみたいと思っている。
「この間休みをとってもらったのでこれ以上迷惑は掛けれません。リリーさんのように記念に残る写真を撮ってきますよ。なので、三日間は家事ができないんですが……大丈夫ですかね?」
「桃子ちゃんの手料理が食べられないのは残念だけど、我慢するよ。連休貰えたの?」
椿の店は桃子と二人っきりだ。桃子が休むとなれば椿一人で店を回すということになる。
「それが貰えたんですよ。何でも店長も出かける用事があるみたいなので」
「三日間も?」
「日数はわかりませんけど。……店長のことが気になるんです?」桃子の目がいやらしい形に変わる。
リリーは目を背けて肉じゃがに箸を伸ばした。
「いや、別にそういうわけじゃないけど。ただそんなに休んでお花は大丈夫かなって思っただけ」
「確かに三日間も休むんだったら、考えないといけませんね」
「そうそう、そういう時ってどうするんだろうってふと思っただけよ。別に他意はないわ」
桃子は溜息をつきながら味噌汁を啜っている。「……まったく素直じゃないなぁ」
「何が?」
「いえいえ、こっちの話です」
桃子はおいしそうに唐揚げを口に入れて箸を置いた。冷蔵庫から冷えた果物を取り出してくる。
「デザートにざぼんの砂糖漬けはいかがですか? この間実家に戻ったらざぼんの実がなっていたんです。これ、よくお母さんが作ってくれたんですよ」
「うん、頂こうかしら」
砂糖がまぶしてある果物を手に取ってみた。みかんのような柑橘系の匂いがする。
「ちょっと苦味があるんですけど、癖があって嵌りますよ」
一口サイズのものを素手で掴み口に放り込む。桃子のいう通り少し苦味があるが、ほどよい苦さでちょうどいい。その後にくる甘さがまた癖になりそうだ。
「おいしいね、これ」
「喜んでもらえてよかったです。毎年これをお母さんと一緒に食べてました」
桃子は懐かしむように何度も口に運んでいた。きっと母親の味付けを思い出しているのだろう。その光景になんともいえない哀愁を覚える。
……やはり彼女の方が芯が強い。
最近になってようやく母親の荷物を整理できるようになったのに彼女はすでに前を見ている。
……どうか桃子ちゃんの旅が上手くいきますように。
彼女はそう願いながら桃子の手料理をいつもより噛み締めて食べることにした。
6.
「こんにちは、ちょっと近くまで寄ったので差し入れを持ってきました」
リリーが椿の店をノックすると、彼は立ち上がり快く迎えてくれた。
「こんにちは、冬月さん。わざわざありがとうございます」
椿に紙袋を受け渡すと、奥に入るよう促される。紙袋を見てどこの店のものかわかったらしい、顔が綻んでいる。
「ちょうどお茶してた時だったんですよ、嬉しいなぁ。さあどうぞ、冬月さんも座って」
桃子は席を立ち、リリーの椅子を持って来てからお茶を入れ始める。
「餡パンですか? リリーさん、お気に入りになっちゃいましたね」
「そうなのよ。あそこのはいくらでも入りそう」
事実、ここに来る前に二つの餡パンを平らげているのだが、椿の前でいえるわけがない。店員に薦められて買い過ぎたということもある。
「はい、お茶どうぞ」
椅子を勧められ座りながらお茶を飲む。お腹が出っ張りすぎて飲むことですらきつい。
椿と桃子は袋を開けて餡パンにかぶり付いていた。二人とも美味しそうに食べている。
「後一個ありますけど、冬月さんどうぞ食べてください」
「いえいえ。私は大丈夫ですよ、春花さんこそ食べちゃってください」
これ以上は無理だ、とテレパシーを送ると、桃子は不安そうな顔をした。
「リリーさん、どうしたんですか? 餡パンには目がないのにお腹の調子でも悪いんですか?」
お腹の調子はすごぶるいいとはいえず、おすそ分けは二つにすればよかったと後悔する。結局三個目を食べた彼女は苦しくて動けずそのまま少し雑談に加わることになった。
「そういえば春花さん、来週出かけるって聞いたんですけど、どちらに出かけるんです?」
椿は目を合わせず頬を掻いている。視線は右往左往している。
「ああ、特に用事っていう、よ、用事ではないんですけど」
「えっ? そんなに挙動不審にならなくても・もしよかったらでいいんですよ」
慌ててフォローしたが遅かった。桃子がすでに椿の姿を捉えている。
「店長、嘘つくの苦手ですもんね。怪しいお店にでも行くんですか?」
「いやいや、そんなんじゃないよ。ちょっとね。二日だけなんだけど僕が行かないといけなくてね」
「ふうん。遠距離の彼女でもできたんですか?」
桃子の目線はなぜかリリーの方に移っている。
「相手ができたらちゃんと桃子ちゃんには報告するっていってあるじゃないか」
「そうですか。よかったですね、リリーさん」桃子は前のめりになっていた体を戻し緑茶をずずっと啜っている。
……なんで私が喜ばないといけないのよ。
心の中で突っ込むが、内心はほっとしている自分がいる。
「そういえば店長、去年もこの時期にお休みとりましたね、毎年行ってるんですか?」
「そうだね、毎年行こうと思ってるよ」
「恒例行事みたいですね? そういえば去年もたくさんコスモスの花を仕入れてましたね? それと関係しているんです?」
桃子の目つきが鋭い。何か怪しい匂いを嗅ぎ分けている警察犬のようだ。
コスモスという言葉が心に反応する。
「そうそう、それだよ。毎年の恒例行事」そういって椿は落ち着きを取り戻した。「そういうわけで桃子ちゃんもゆっくり楽しんできてね。屋久島に行けなかったんだしさ、その分満喫してきたらいいよ」
「……店長、怪しいなぁ」
「そんなことないよ。そういえば桃子ちゃんはどこに行くの?」
「店長が隠すので私も隠しますっ」
桃子はムキになってハムスターのように顔を膨らませた。その姿も愛らしい。
突然ドアの開く音が聞こえた。どうやら客が来たようだ。
……そろそろお暇しなければ。
彼女は一礼して膨らんだ下腹部を押さえながら早々に立ち去ることにした。
7.
「それじゃリリーさん行って来ますね」
「うん、行ってらっしゃい。気をつけてね」
三人で雑談を交わして一週間後、桃子は予定どおりに京都に向かった。新幹線で行くため最寄の駅まで彼女を送った所だ。
リリーはマフラーを揺らしている桃子に思いを馳せた。父親の残した建物を探しにいくというのはどんな気分なのだろう。
……あまりピンと来ないな。
自分に置き換えてみるが、イメージは浮かばない。父親が建てたものを見てないからだ。今頃彼は欧州を駆け回っているだろう、裏切られることがない数字だけを追いかけて―――。
……そういえば冬に帰ってくるんだっけ。
夏に上司の橘がいっていた言葉を思い出す。そろそろ連絡を取ってもいいかもしれない、今なら母親の話をすることに躊躇いはない。
……それよりも今は今日の夜ご飯だ。
今日の朝は桃子が作り置きしてくれたおかげで大丈夫だったが、夜は自分でなんとかしなければならない。これから三日間、料理の腕を上げるため自炊することを決めているのだ。
今日は手始めに味噌汁からだ。昨日買ってきた料理の参考書をお手本に分量を調節し味を確かめてみる。
……なかなかいい感じにできている。
鼻を鳴らし再び味見する。自分には料理の才能があるんじゃないかという期待を誘うほどの出来だ。しかし自分の舌だけでは確証は得られない。作り過ぎたという口実で椿に連絡してみよう。
味噌汁を作ったから、家に来てくれといえばいいのだろうか。軽すぎないだろうか。それよりも自分は彼に謝りたいことがあるが、電話越しでいうことではない。
電話のコールがやたら長く感じる。今まで普通に電話できていたのに、なぜか体が強張っていく。
……初めて彼を、自分の家に誘うからだ。
そう思うと、体が熱くなっていく。なぜこんな大事なことを電話で伝えようと思ったのだろうか。きちんとあの時に段取りを組めばよかったと悔やまれる。
無情にも椿は電話を取る。もちろん自分から掛けているのだから、切るわけにはいかない。着信履歴に残れば、必ず向こうから掛けてくる。
「こんばんは、どうされました?」
「ええっとですね、じ、実は……」
本心は謝罪の意味を込めてなのだが、しかしここでいうわけにはいかない。
「も、桃子ちゃんが味噌汁を作り過ぎてしまって……それで春花さんは、晩御飯、食べていないかな、と思いまして……」
咄嗟に嘘をつくと、椿は嬉しそうに返事をした。
「味噌汁ですか。いいですね。是非食べたいのですが、伺っていいんでしょうか?」
桃子がいないのに、という言葉が含まれている。
「ええ、桃子ちゃんが是非、二人でといっていたので」
再び嘘をつく。ここまで来たら、嘘を突き通すしかない。
「それは助かります。今日のご飯がなくてどうしようか、悩んでいたんですよ」
「そうなんですね」リリーは拳を作りながらぐっと力を入れた。「実は、私も一緒に作ったものなんですが、よければどうですか」
「おお、それは楽しみです。冬月さんって料理してるイメージがないので全く想像がつきませんね」
本当に素直な人だ。頭に血が昇るのを感じながらも話を続ける。
「春花さんの想像通り、自分で料理するのは初めてなんです。是非感想を聞かせて欲しいんですが、どうでしょうか?」怒りを込めていったつもりだったが、彼は全く気づかない。
「是非、御馳走になります。他に必要なものがあれば買いますけど、何かあります?」
「そうですね。味噌汁とご飯しか作ってないので、おかずが必要でしたら御自分の分だけお持ち下さい」
「わかりました、それじゃまた後で」
電話を切った後、小さくガッツポーズを取りながら黙考する。このまま普通の味噌汁を振舞っていいのだろうか。
椿のことだ。初めてにしては美味しいけど普通だ、という感想を述べるに違いない。彼をぎゃふんといわせてやりたい。さらに工夫を重ねるとしよう。
三十分後。インターホンが鳴る、自分の心臓も高鳴る。ドアの鍵を開けに玄関へ向かうと、椿が笑顔で待っていた。
「こんばんは、最近はめっきり寒くなってきましたね」
「そうですね。すぐに暖めますから。どうぞ、入ってください」 スリッパを用意し中へ案内する。
「凄い綺麗に片付いてますね。冬月さんらしい」椿は辺りを一瞥しながら感嘆の声を上げる。「よかったら、これ部屋に飾って下さい」
受け取って中を見ると、茜色の可憐な花だった。
「まあ、ありがとうございます」
……う、嬉しい。
思わず胸が高鳴る。純粋に嬉しくて、花を貰うことに対してここまで心が動かされるとは思わなかった。
……しかしこれは、コスモス。
花に罪はないなと心の中で呟き花瓶に入れテーブルの中央に飾る。
「もうできますから、先に座ってて下さいね」
ついに勝負の時が来たと気を引き締める。はたして彼の舌を満たすことはできるだろうか。用意していた器に汁を入れご飯をつぐ。
「リリーさんは食べたんですか?」
「いえ、せっかくなので一緒に頂こうと」
「よかった、ちょっと多めに唐揚げ買ってきたんですよ」
彼が取り出したのは桃子がよく買う唐揚げだった。家で揚げる暇がない場合は大抵この商品だ。
……味噌汁との相性もばっちりだ。
「いいですね、暖めましょうか?」
「さっき買ったばかりなので大丈夫ですよ」
椿と共に箸に手をつけた。その先には自分の思いが籠もったお椀がある。
「それでは頂きます」
緊張の一瞬が始まる。箸を構えるが視線は椿の方に釘付けだ。
「どうしたんです? なにか自分の顔についてます?」椿は首を傾げている。
「いえ、何でもないですよ」
椿は先に唐揚げに手を伸ばし美味しそうにほうばっている。我慢できずにリリーは味噌汁を促した。
「冷めちゃうんで、ぜひ先にどうぞ」
「ああ、そうですね。お先に頂きます」椿はお椀を手に取り丁寧に啜った。
「どう、ですか?」
椿の表情は無表情で白紙の状態になっていた。どういう感情なのか、全くわからない。
「ええっ、おいしいですっ。とってもっ!」
「本当ですか?」
「ええ、本当ですともっ!」
椿はそういって豪快に味噌汁を啜り続けた。余程美味しいのだろう、お椀まで食い尽くす勢いで食べ続けていく。
……なんだ、やればできるじゃないか。
心の中でほっと胸を撫で下ろす。今まで自分は料理に興味がなかっただけで、やらなかっただけだ。これからは桃子に教えてもらってレパートリーを増やそう。
彼の慌てふためいた顔を見ると、つい顔がにやけてしまう。
「よかったです。おかわりはたくさんあるので、是非遠慮せずに食べてくださいね」
「えええ、はいっ。是非、頂きますともっ! 冬月さんこそ全然箸が進んでないじゃないですか、早く食べないと冷めますよ」
しきりに椿は進めてくる。確かに自分のために作ったのだ。きっちりと吟味しよう。
「そうですね、じゃあ私も」
ゆっくりと啜って舌で味わう。塩加減がちょっと濃いが、さきほどの味見と変わりない。これなら客人に出してもいけるレベルだ、悪くない。
妙に椿の熱い視線を感じる。よくみるとお椀の中身が空になっていた。もしかしたらおかわりを催促しているのかもしれない。
話しかけようとした瞬間に椿が先に口を開いた。
「リリーさん、ど、どうですか。み、味噌汁の味はっ?」
「ええ、初めてにしては上出来じゃないかと」
自分で褒めるのもどうかと思ったが、椿に絶賛されたためここで卑下する訳にもいかない。
「そうですか……、そうですよね……。うん」
どことなく椿の顔色が悪い。
「そういえばお椀が空になっていますが、おかわりはいかがですか?」
「あああ、はいっ。頂きたいんですが……」彼は困惑した表情で続けた。「でも冬月さんの分がなくなってしまうんじゃないんです? やっぱり押しかけた形になっているので、頂くのは申し訳ないです」
「いえいえ、そんな遠慮なさらずに。他の人にも味見してもらおうと思ってたくさん作ったんですよ」
「味見っ? まさかお隣さんとかにですか?」
「そうですね。一人じゃ食べきれないので」
「ちなみにどのくらい作ったんです?」
「三日分くらいですかね」
「三日分っ!?」椿は大声で叫んだ。
「味噌汁ってたくさん作ったらまずいものなんですか」
「いえ、本来なら問題ないです」
「本来なら?」
「いえいえっ」椿は大きくかぶりを振った。「桃子ちゃんもいたらという意味です。あんまり多く作ったら腐っちゃうかも、しれないし……」
「ああ、そうですね。そこまで考えてなかったです」味噌汁は腐るものなんだなとリリーは初めて知った。
「ええ、次回からは少なめに作られた方がいいと思いますよ」
「そうですね」
「そうですよ」
「ではおかわりは?」
「頂きますっ! お隣さんにあげるなんて勿体ない。お隣さんに上げる分を全部僕に下さいっ!!」
……椿にそこまでいわれるとは、想定外だ。
料理の才能があることを確信し、桃子と一緒に作ったなどといわなければよかったと後悔する。
どうせなら、お椀で出すのも勿体ない。そこまで望むのであれば、大きめの丼ぶりで提供しようではないか。
「そんなに喜んで頂けるなんて嬉しいです。是非お好きなだけ食べて下さい」
「はいっ! ありがとうございますっ!」
椿はとてもいい返事をした。
8.
食事を終え、後片付けをし二人で紅茶を飲むことにした。今日の紅茶はオータムナルだ。芳醇でまろやかな味は秋にこそ相応しい。
椿の様子を眺めるとどことなく表情が弱々しい。
「うわー、生き返るなー。これ、とってもおいしいですね」
「生き返る?」リリーは疑問を感じ尋ねてみた。
「いえっ、あれだけおいしい味噌汁を頂いた上にとってもおいしい紅茶を頂いて、僕は幸せだなぁと思って」
今日の椿は表現がおかしいが、無理もない。きっと自分の作った味噌汁がそれだけの衝撃を与えてしまったのだろう。
……才能とは本当に恐ろしい。
「……春花さん、紅茶にミルクは入れる方ですか?」
「どちらでも。なくても美味しいです」
彼の言葉を聞いて安堵する。どちらにしても、この家にはコーヒーフレッシュはないし、入れるのなら普通の牛乳しかない。
「桃子ちゃんが明日から店を閉めるといっていたのですが、お花は大丈夫なんです?」
「もちろん、予定通りに使い切っていますので、ご心配には及びません」
そういって椿はリリーの顔をじろじろと眺めてきた。
「どうしたんです?」
「冬月さんもお花に興味をもたれたみたいで嬉しいんですよ。僕が花屋になったのは、出会った人に花を好きになって貰うことですから。やっぱり屋久島での体験がよかったんですかね?」
「そうかもしれません」リリーは彼のおかわりを足してから答えた。「最近、外の世界が自分の中で変わってきてるんですよ。街路樹なんて全く見てなかったんですが、あ、今日は実がついたなとか葉っぱの色が変わってきたなとか」
「それはいいことですね。季節を感じることができればそれだけ楽しみも増えます。辛いことがあっても時間が解決してくれるようになりますよ」
椿はリリーが愛でているクワズイモの葉を眺めながら続けた。
「植物っていうのは絶えず呼吸をしているんです。一日の終わりにそういう変化をみると、ああ、今日も頑張ったな、といい気分に浸れます」
日常に変化をもたらすものはたくさんある。だけど植物と共に過ごすだけで穏やかな気持ちになる。この気持ちはきっと花でしか味わえない。
「仕入れで一足早く色々な花が見れるんですが、その時にはやっぱり心が躍りますね。得した気分になります」
……この笑顔には敵わない。
世の中にはこんなに純粋な人がいるのだ。自分のように人を疑っている職業もあれば人を信じる職業もある。できればこの笑顔をずっと見ていたい。
「すいません、今日二つほど嘘をつきました」リリーは頭を下げていった。「味噌汁を作りすぎた、というのは口実で、春花さんに謝っておきたかったんです」
もう一つの嘘は桃子が作ったということだが、これに関しては美味しいといっていたので大丈夫だろう。
「屋久島で春花さんの過去を教えて貰ったでしょう? あの時は私、酔っ払ったままあんな話を尋ねてしまったので申し訳なく思っていたんです」
椿は家業のことを隠そうとしていた、それなのに自分は何度も尋ねてしまったのだ。彼の態度は変わらなかったが訊かなかった方がよかったのかもしれない。
「いえ、僕の方が悪かったんです。お酒が入って自制心がなくなってしまってすいませんでした」
「そんなことないですよ、私は聞けてよかったと思ってます」
「そういってもらえると助かります」
……よかった。
心の中でつっかえていたものがとれていく。紅茶を啜ると、まだ暖かく美味しかった。
「……実は明日から行くのは大阪なんです」
「それは……前の奥さんの」
「はい。命日なんです」
花瓶に佇んでいるコスモスがふっと自分の方に顔を向けた。咄嗟に彼女は顔を背けた。
「そうだったんですか……。確か秋桜美さんでしたよね」
「そうです、って名前まで出してたんですね」椿は頭を掻きながらいった。「この間三人で楽しくお茶をしてたじゃないですか。桃子ちゃんにあの場で話す訳にもいかないし困ってたんですよ」
「本当に素直な人なんですね。嘘をつけばいいのに」
「嘘をつくとすぐバレるんですよ。うまくごまかせるようになるためには当分修行が必要みたいです」
思わず口元が緩んでしまう。嘘を見抜くのが仕事なのだが、嘘をつけるようになりたい人間がいるとは考えもしなかった。
「今のままの方がいいですよ。そっちのほうがずっと春花さんらしい」
「そうですかね」
「そうですよ」
少し間を置いてから、リリーは再び尋ねた。手から汗が滲み出てきている。
「やっぱり、まだ、奥さんのことを……?」
「……そうですね。やっぱりふとした時に考えてしまいます」椿は腕を組んで宙に視線を逸らした。「去年は開店して間もなかったので余計なことはあまり考えずに済みました。でも少しゆとりが出てくると……無意識のうちに出てきますね」
「そう……ですよね。去年のことですもんね」
「いきなりいなくなっちゃったんで、まだ実感がわかないんですよね」椿は微笑しながらいう。「そのうちひょっこり帰ってきそうで。それで今は色々報告をしているって感じです」
「律儀なんですね」
「そうなんですかね?」
「そうだと思います」
「……そうですか」椿は紅茶を啜り爽やかな笑顔を見せた。
一時の沈黙が流れた。自分の家にいるのに居心地が悪い。話題を変えたかったが何を話していいかわからず紅茶に手が伸びるだけだった。紅茶は冷え切っており味を確かめることはできない。
「そういえば、桃子ちゃんはどこに行ったんです?」
「ああ、そういえば春花さんはご存知なかったんですよね。京都に行ったんですよ」
「へぇ。それは紅葉を見にいったんですか?」
「それもあるのですが……」
椿になら話をしても大丈夫だろう。桃子だって意地を張っただけなのだ。要点を掻い摘んで話すと、椿は訝った。
「国宝なんですよね? その塔は赤と黒ならどちらでした?」
「赤でしたね」リリーは再び写真を思い出した。「朱色が混じってたので赤の塔になるんだと思います。けどその写真がひどく汚れてて全体像は見えなかったんですよ」
「なるほど。塔の周りはどんな感じでした? 何か花など咲いてました?」
「確か木に囲まれた感じでしたね。塔の周りにサツキのような花がたくさん咲いていたようでした」
「えっ、サツキみたいな花?」椿は真剣な表情で携帯電話を開き画像を提示してきた。「もしかしてこんな建物じゃなかったですか?」
写真を見てイメージが重なった。確かにこの写真だ。
「ここです。こんな感じでした。春花さん行ったことがあるんです?」
「ええ、実は一度だけ」
秋桜美さんとですか、という言葉を思わず飲み込む。そんな話をぶり返したら再び自分の心を痛めるだけだ。心を落ち着かせるため、桃子の予定を義務的に話した。
「今日は海住山寺という所に行ってるはずです。明日は東寺で明後日が清水寺に行く予定みたいですよ」
「行ってるみたいというのは連絡を取ってないんですか?」
椿の眼にたじろぎながらリリーは答えた。
「実は桃子ちゃんを駅まで送ったんですけど、その時に私の車の中に携帯忘れて行っちゃったんですよ」
「……なるほど、そうでしたか」
椿は大きく溜息をついた。その目は何か遠くのものを見るように鋭く細まっていた。
次の日。リリーは出勤する前に椿の店の前を通り過ぎ、店が閉まっているのを確認した。
今頃椿は大阪に向かっているのだろう。
店の中を覗き込んでみると、たくさんあったコスモスの花がなくなっていた。きっと墓参りに持っていったに違いない。
ふと、相手の顔が気になった。奥さんはどんな人だったんだろうか。想像はシャボン玉のように浮かんでは消えるだけだった。浮かぶのは恋焦がれたように臙脂色に染まったコスモスの花だけだった。
心が急速に色褪せていく。
彼女は再びガラス玉で心に封をしたい気持ちになった。
9.
京都についた桃子は早速、初日の目標である海住山寺に向かった。ここで楓の居場所が掴めたらそのまま探るつもりだ。しかし山の中にある五重塔を見た時には違和感を覚えた。
写真の風景とは全く違ったのだ。職員に話を聞いたが、確かに修復を行なう予定があったらしい。しかしそれは取り消しになったとのことだ。楓の名前を出してもかぶりを振られるだけだった。写真を見せたが申し訳なさそうにわからないといわれた。
次の日、東寺に向かったが五重塔を見ただけで違うとわかった。写真では周りの木の方が背が高かった。東寺は五重塔の中で一番大きく50mを越えている。木の方が大きくなる構図は撮れない。
京都には国宝といわれる塔は二つしかない、つまりどちらでもないということは何かが間違っているということになる。
楓は見栄を張って国宝の仕事を請け負ったといったのだろうか? もし国宝でないのであれば、また別の日に来なければならない。
東寺の職員に話を聞き、京都にある全ての五重塔の場所を尋ねた。そのうち市内に四つあるとのことだった。桃子は移動手段を教えて貰い全ての五重塔に向かった。だがどこも写真とは違った。
本当にこれは五重塔なのだろうか?
前に進むたびに疑念が生じ最後の建物に辿り着いた時には胸を焦がす焦燥感しか残らなかった。
旅行最終日、桃子は予定通り清水寺に向かうことにした。今回は無駄足だったがまた改めて出向くしかない。五重塔は京都だけではない、日本各地に存在しているのだ。蘇鉄の言葉を信じていればきっとそのどこかで出会えるだろう。
……予定通り清水寺を見学しよう。
リリーとの約束を思い出しカメラを握る。携帯を忘れていたのでメールを送ることはできないが、デジタルカメラで鮮明な画像を撮って帰れば喜んでくれるだろう。
拝観料を払い清水寺に入ると一陣の風が彼女の側を通った。秋風が火照った体を優しく撫でてくれている。
桃子は清水の舞台から景色を一望した。辺り一面が真っ赤に染まっており別世界に入り込んだようだ。
屋久島の穏やかな世界とは対照的にこの清水の紅葉は心を激しく高鳴らせていた。緑、黄緑、黄色、オレンジ、赤のグラデーションによる色の移り変わりは生きている虹を見ているようだ。情熱的な色彩が桃子の暗く沈んだ心まで染め替えていく。
いくら見続けても飽きることがない非日常の空間がそこにある。たくさんの観光客の行き交う中、その景色に釘付けになった。
しばらく無心で眺めていると、観光客の会話が桃子の耳に入ってきた。何でもこの奥に濡れて観音という場所がありお願いごとを聞いてくれるらしい。
早速向かうとガイドの男性が石で囲まれた観音様に柄杓で水を掛けている所だった。水を掛けている所に皆お祈りをしている。桃子も便乗して一緒に祈ることにした。
……どうかお父さんが関係している五重塔が見つかりますように。
お祈りを終え目を開けると目の前に背の高い男が突っ立っていた。
よく見る顔だと思うと店長の椿だった。
10.
「店長、どうしてここにいるんですか?」
「近くまで墓参りに来てたんだよ。それでせっかくだから紅葉を見にきたんだ」
そういって椿は再び微笑んだ。その笑顔を見て桃子は何だか心強く感じた。やはり遠く離れた所で知り合いに会えるとほっとする。
「私のことに気づいていたんです?」
「ああ。結構前からね」椿は頷いた。「あれだけ舞台の先頭に立っていたら誰でも気づくよ」
「じゃあなんで声を掛けてくれなかったんですか?」桃子は口を尖らしていった。
「感動している桃子ちゃんに話かけるのは気が引けてね。きちんと意識がある時に声を掛けようと思って」
そんなに呆然と見ていたのだろうか。確かに楓の建物が見つからず意気消沈していたのは事実だが。
桃子の表情を察してか、椿は優しい声で続けた。
「冬月さんから聞いたよ、お父さんが関わった五重塔を探しに来ているんでしょ?」
「実はそうなんです。店長に話しそびれたんですけど」
父親が塔の建築に関わっていることを話し、一枚の写真を見せた。
すると彼は建物の名前を即答した。
「桃子ちゃん、この写真の建物は奈良にあると思うよ。室生寺という五重塔だと思う」
「えっ? どうして?」桃子は驚愕し彼を見た。「室生寺? どこですか、なんで?」
いくら何でもお寺の名前まで正確にわかるとは思えない。写真を見ただけでは五重塔かどうかさえわからないのだ。
「まあまあ、ちょっと落ち着いて。ここじゃ話にくいしちょっと場所を変えようか」
周りの観光客を見渡す。騒然とした中で話すことはできないだろう。彼の言葉に頷き彼の跡を追うことにした。
最寄の喫茶店に入り、桃子は興奮を抑えきれず気持ちばかりが焦る。
「実をいうと僕もそんなに詳しくないんだ。ただ写真を見てわかることがある。この花の名前とかね」
「花、ですか?」写真の隅にくすんだ花が無数についていた。
「これは石楠花っていう花なんだ。室生寺でお祭りにするくらいたくさん植えてあるものなんだよ」
「なるほど。建物ではなく背景の植物を見ていたんですね。じゃあ早速今から行ってみて確かめることにします」
桃子は高ぶる気持ちを抑えることができずに席を立とうとしたが、椿がそれを制した。
「桃子ちゃん、ちょっと待って。室生寺に行く前に確認しよう。法隆寺に詳しい人がいるんだ。室生寺に行くにしても遠回りにはならないし、そっちの方がいい」
「でも……」
「大丈夫。僕に任せてよ」
椿の笑顔を見て、桃子はようやく肩の力を抜いた。
11.
日も暮れかけ紅葉の色が一段と赤に染まっていた。桃子は緋色から移り変わっていく山の姿をバスの中からぼんやりと眺めていた。
椿と法隆寺へ向かい、彼の関係者に写真を見せると室生寺で間違いないという確証を得た。そして今、彼女は室生寺行きのバスに乗り込んだ所だ。
しかもこのバスは最終だ、後戻りはできない。必ず自分の心に決着をつけたい。
バスは山道のカーブを何度も切り抜け終点の室生寺前に着いた。桃子はバスから降り駆け足で寺に向かった。
朱色の橋を渡り慌てて受付に行くと、鑑賞時間は十分くらいしかないとのことだった。構わず受付を越えて目の前の大きな門を潜った。
大きな門を潜ると、楓に囲まれた細い道が続いていた。どの葉もまんべんなく染まっており身頃を迎えている。このまま進んでいけば室生寺の五重塔に続く階段があるだろう。着実に目的の場所に近づいている。彼女の心は紅葉のようにゆっくりと熱を帯びていった。
階段は段差が激しくまた数が多かった。この三日間歩きっぱなしだった足にはかなり堪える。だが今は泣き言をいっている場合ではない。一刻も早く楓が関与した五重塔なのかこの眼で確かめたいのだ。
顔を上げると森の中にぽつんと小さな塔が建っているのが見えた。初めて見た建物なのにどこか懐かしい感じがする。今まで感じていた焦りが唐突に風に流され消えていく。
息を整えながらゆっくりと階段を登り終える。その時、気持ちのいい風が彼女を出迎えてくれた。
その風は楓の葉を巻き込みながら吹き抜けていた。軽やかに舞う楓の葉を見ていると心が自然と満たされていく。日が暮れて若干見にくいが、目の前に見える塔はまさしく写真に写っている塔だと確信した。
……これだ、私が探していた五重塔はこれだったんだ。
桃子は塔をまじまじと観察した。それは法隆寺で見たものよりも大分低かったが、すらっとしており華奢な感じはしなかった。楓にそっくりな塔だなとも思った。
「もうすぐここは閉まりますよ。何か忘れ物でもあったんです?」
しばらく塔を眺めていると階段から降りてくる職員から声を掛けられた。
桃子は手を振って告げた。
「すいません。もう少しだけここにいたいのですが、駄目ですか?」
「申し訳ありません。私の一存ではできない相談です。どういったご用件でしょう?」
どういっても延長して貰う理由にはならない。桃子は諦めてマフラーを締め直して帰ることにした。今日はどこかに泊まりまた明日来よう。
しかしその時、職員は桃子を凝視し立ち止まった。
「あの……、そのマフラーはどちらで買われたんです?」
桃子は疑問に思ったが隠さず話した。
「母に作って貰ったんです。大分古いんですが、どうしても手放せなくて」
「まさか……」男の目が拡大する。「もしかして……あなたは秋風桃子さんじゃありませんか?」
「え?どうして、私の名を」
職員はふっと笑い、手を差し伸ばしてきた。
「この時をずっとお待ちしていました。私はあなたに会うためにずっとこの場にいたんです」
12.
職員の薦めで寺を出た後、近くの民家に入った。簡素な佇まいだが柱は上等なものを使っている。何でも室生寺で働くことになってからずっとここに住んでいるらしい。
職員は朽葉銀介と名乗った。寺の一番奥でお守りの札を書いて売っているとのことだ。
桃子は自分を押さえ切れず銀介が茶を淹れている間に尋ねた。
「秋風楓はこの塔の建築に関わっていたんですね?」
銀介は急須を掴んだまま頷いた。
「そうです。あなたの名前は楓さんから聞きました」
桃子は困惑するしかなかった。娘に何一つ残していない父親が他人に身内の話をしている。
「父は私にもお母さんにも何も残していませんでした。私が知る限りではこの写真一枚だけです」
写真を見せると、銀介は膝をつき頭を地につけてきた。
「……本当に申し訳ありません。全ては私が悪いんです」
「……どういうことですか?」
「楓さんは立派な宮大工でした。そしてその楓さんの命を奪ったのは……私なんです」
「……詳しく聞かせて下さい」
強く睨むと銀介は再び真面目な顔になった。
「きちんとお話させて頂きます。しかしそこに辿り着くまで大変長くなってしまいます。今日のお泊りは決まっておりますか? もし決まっているのでしたら明日でも」
「宿はとっていません。帰りのことを考えずに来たものですから。是非、今からお話を聞かせて下さい」
桃子が強い口調でいうと、銀介は突然背中を揺らして笑った。
「くくく、やはり楓さんの娘さんだ」
無計画な所が父親と似ているといいたのだろうか。桃子は苛立つ心を露にした。
「突拍子もなく訪れたことは謝ります。ですが父と同じように扱わないで下さい。実をいうと私は父のことが好きではありません」
正直に気持ちを伝えると銀介は再び頭を下げてきた。
「失礼しました。色々とお話したいことはありますが、まず楓さんの話をさせて頂きましょう」
近くの椅子に二人で座る。銀介は暖かい緑茶を啜りながら話を始めた。
「まず桃子さんの誤解を解くため、私の話からさせてもらいます。私は葺師という屋根を作る仕事をしていました。
ちょうど二十年前になりますかね。台風が襲来して塔付近にあった大木が倒れたんです。それが塔を直撃して大破したんですよ。それで私の師匠にその仕事が入ったんです。私がついた頃には楓さんはすでに修理を手がけていました」
「父は朽葉さんがここに来る前からいたんですか?」
「ええ、そうです。何でも最初は京都の海住山寺の修復を行なう予定だったらしいんですが、室生寺の被害の方が大きく親方の命によって来たといっていました」
……なるほど、最初は京都の塔の修復をすることになっていたのね。
一つ疑問が解決したが新たに生じる。なぜ楓はそのことを綾梅に連絡しなかったのだろうか。
しかしそれを銀介にいっても仕方がない。桃子は黙って銀介の話を聞くことにした。
「私は葺師として三年目で駆け出しみたいなものでした。親の薦めでもあり正直にいって仕事が面白いという気持ちで臨んでいませんでした。
しかし楓さんは違いました。私と同い年でありながら棟梁を任されていたんです。あの年で棟梁として認められた人は彼くらいでしょう。高校を出てからすぐに宮大工の弟子入りをしていたみたいでかなりの熟練者でした」
父親の話を聞きこの場を離れたくなる。別に楓がどんな人物だったのかということはどうでもいい。
ただ、なぜ家族を裏切るようなことをしたのかが知りたかった。どうせ銀介に家族の話題を出したのも世間話程度だろう。
しかし彼は桃子の気持ちとは裏腹に熱を止めなかった。
「ある夕食の時、楓さんは私に話し掛けてくれました。今回の現場が宮大工としての最後の仕事になることを。
地元に家族を残していること、宮大工は出張が多いので地元で大工仕事を探そうと思っていること。娘は桃子という名前で一歳になるが、一度しか会えていないこと。だけど胸に桃の種を入れたお守りを身に付けて自分を奮闘させていること。
楓さんはプライベートでは打って変わってよくお話をする人でした」
銀介は勢いにのって話を続ける。
「それから間もなくしてです。私は屋根の上で作業をしていた時に足が滑り落ちそうになったんです。仕事に集中できてない証拠だったと思います。
それを見つけて下さった楓さんは私の方に駆けつけてくれました。私を引っ張り上げてくれたんですが、足場が弱かったので楓さんと私はそのまま崩れ落ちてしまったんです。この足場を任されていたのが私の仕事でした」
銀介は涙を堪えながら苦しそうに呟いた。
「私の身を庇って楓さんが下敷きになる格好で落ちてしまったんです。私の方はたいしたことがなかったんですが、下になった楓さんは重傷を負いました。
私は泣きながら謝りました。すると楓さんは私が助かってよかったといってくれたんです……。そして荷物の中にある手紙を読んでくれといって息を引き取りました……」
銀介の話を聞いてもぴんと来ない。今頃こんな話を聞いた所でどうすることもできないし、特別に父を恨んでいるということもない。楓との思い出がないからだ。
「この手紙です。どうぞ、読んで下さい」
銀介から手紙を受け取ると、急に読むことが怖くなった。どういったことが書かれてあるのだろう。今まで何の連絡もしてこなかった父親だ。きっと都合がいいことだけ書いているに違いない。
手紙に書かれている字は力強い字体で母親の字に似ていた。桃子は震える手を抑えながら読むことにした。
~これを読んで下さっている方、心から感謝します。
そしてお願いがあります。私には妻と子供がいますが、塔が出来上がるまで一切連絡を取らないで欲しいのです。
変に思われるかもしれませんが、私は家内と五重塔ができあがるまで家に帰らないと約束しました。それは喧嘩別れのようなものではなく、お互いに本心で話をさせて頂きました。なので私はこの塔が出来上がるまで家族の下に一切連絡できませんし、するつもりはありません。それは死んだ後でも同じことです。
もちろん最悪の事態に備えて、実家に私のものは全て処分しております。娘は一歳になったばかりなので、私のことを覚えていません。後は家内と友人が桃子を育ててくれると信じております。
なので私の一番の問題は塔の存続です。私は若輩者ですが、今回の一件で棟梁を任されています。ですので、体がなくてもこの場に残って皆の作業を見守る義務があると思うのです。
誠に勝手で申し訳ないお願いばかりですが、私の遺体はこの奥の院に納めて頂きたいです。どんな状態であろうと構いません、ともかく私はこの塔が出来上がるまでここにいたいのです。
常磐師匠、すいませんが後はよろしくお願いします。出来上がった後、塔の写真を一枚、家内に送って頂けたらそれで結構です~
読み終わった後、いいようのない焦燥感に駆られた。胸が苦しくて呼吸をするのもきつい。
銀介は追い討ちを掛けるかのように助言してきた。
「楓さんは全員の気持ちを汲み取って連絡を絶ったのです。もちろん私がご家族に赴いて楓さんがどれだけ愛情を持っていたか伝えることは可能でした。しかしそれは残った家族を苦しめることになると楓さんは考えたんでしょう。
私は本当に悩みました。悩んだ結果、このことを楓さんのお師匠様・常盤檜さんに相談しました。
常盤さんは修理を手掛けている全ての者に手紙の内容を伝え議論しました。その結果、楓さんの気持ちを汲み取ってあげるのが一番だということになり、完成した後、写真だけを送ったのです」
銀介は地べたに頭をつけ体を揺らした。
「本当に申し訳ありませんでした。全ては私が悪いんです。どんな仕打ちでも甘んじて受けようと思っています。すいませんでした」
瞳には感情の液体が溢れていた。楓は何も考えていないわけではなかった。考えた結果、連絡を徹底的に取らないと決めたのだ。何も残さないというのが彼の唯一の愛情表現だった。
……だが楓は馬鹿だ。
桃子は無言で父親を罵った。自分がこの世に生まれた時点で父親の半分の血を受け継いでいるのだ。彼の存在がなくなるはずがない。楓と綾梅の二人の糸が絡まって初めて自分がここにいるのだから。
桃子は自分の身を奮い立たせた。今ここで泣いたら、さらに銀介を苦しめることになる。
「朽葉さんが全て悪いわけじゃないです。お父さんが考えて決めたことなので。どうか頭を上げて下さい」
「しかし申し訳がたちません。謝らせて下さい」
桃子は空咳をし正直に胸の内を伝えた。
「可笑しいことをいいますがどうか聞いて下さい。今まで私はお父さんのことなど考えたことがありませんでした。一切です。小学校の時に疑問に思ったことはありますがそれだけです。
しかしその謎が解けました。家にはお父さんの荷物はないし手元には写真すらなかったんです。それは意図的にお父さんが作っていたんだなぁと思ったら何だか許せる気持ちになっているんです」
桃子は限界まで我慢したが胸からこみ上げてくる思いが涙として零れた。
「頭を上げてください。ここに来れて本当によかったと思っています。是非、続きを聞かせて下さい」
銀介は頭を上げ目頭を抑えた。
「ありがとう、ありがとうございます……。話が途中でしたね。では続きを語らせて貰います」
銀介は背筋を正し桃子をまっすぐに見た。
「写真を送ることだけは決心していました。しかし仕事を続ける自信は全くありませんでした。なにしろ、自分の失敗で楓さんを……。ですが私は覚悟を持って室生寺建設の皆さん一人ずつ謝りに行って仕事に復帰させてもらえるようお願いしました」
銀介は手の甲で涙を拭いながら続けた。
「もちろん反発にあいました。当然です、命が掛かっている職場なのですから信用がなければできません。
しかし常盤さんが私に機会を与えてくれました。今こそ一つになろうと熱く語り、私のために皆の時間を頂きました。宮大工達は皆、常盤さんの意見に従いました。そこで私は現場に復帰できました。
それからは無我夢中で仕事に打ち込みました。楓さんが助けて下さった命です、人生で初めて本気を出して作業に望みました」
五重塔を見た時、何か暖かいものを感じた。それは楓だけではなく皆の思いが詰まっていたからなのだろう。強い絆があるからこそこの塔は再建できたのだ。それを父親が手掛けたと考えると、何だか誇らしい気持ちにさえなる。
「一年後、五重塔は無事建ち上がりました。私は早速写真を撮り、常磐さんにお渡ししたのです。
その後、楓さんに救って頂いた命をこのお寺に置こうと決心しお寺の職員になる道を選んだのです。今日のような日が来ることを願って……」
写真だけの手紙。
もしそこに文章があったらどうなっていただろう。もし楓が生きていたらどんな未来があったのだろう。家族三人で暮らしていた日々があったに違いない。
……二人とも頑固だから喧嘩が絶えなかっただろうな。
今よりもきっと騒がしく明るい家庭になっていただろう。願ってはならないことだが、気持ちに封をすることができない。そういった思いが描ける事自体に幸せを感じてしまっている。
父親が存在していた、父親に愛されていたことを知った、それだけで今は十分だ―――。
「ありがとうございました、朽葉さん。覚えていることで結構です、お父さんの話を聞かせてください」
銀介は桃子の顔を見てつきものが落ちたように微笑んだ。
「ありがとうございます、私が覚えていることでよければいくらでも話しましょう」
13.
銀介の計らいにより今夜は泊まらせて貰うことになった。椿とリリーに連絡をつけ一日奈良で滞在することを告げる。明日は再び室生寺に向かう予定だ。
銀介と共に夕食を取る、もちろん話題は楓のことだ。
「楓さんは何でも思ったことを表現し感覚で動くタイプでした。人情があり面倒見がよくて周りからの信頼も厚かったです。また本当によく笑う人でした」
綾梅との駆け引きが見たかった、と桃子は残念に思った。母親と似ているというと銀介は嬉しそうに顔をくしゃくしゃにした。
楓の荷物は銀介が管理しているらしい。早速見せてもらうと、大工道具がぎっしり詰まっている木の箱があった。仕事が終わった後、道具の手入れを一日も欠かさず行っていたという。
大工の腕は道具の手入れ状態を見ればいいか悪いかすぐにわかるものらしい。彼の道具はどれも新品同様の手入れだった。そのうちの一つを桃子は手にとってみた。
眩い光を放ち刃こぼれひとつしていない綺麗な鉋だった。鉋の光を見て楓の性格が垣間見えた。
大工道具を一通り見た後、楓が身に着けていた衣類置き場を眺めた。そこには楓の葉がワンポイントで入っているマフラーがあった。大分痛んでいるが綺麗な黄丹色に染まったものだった。多分綾梅が作ったものだろう。桃子のマフラーとは柄が違うが毛糸の太さが同じものだった。
マフラーの感触を味わっていると銀介が口を開いた。
「先ほどは失礼しました。桃子さんのマフラーに桃の花がワンポイントで付いているでしょう? 楓さんのものと似ていると思ったんです」
「突然だったのでびっくりしましたが、これでわかったんですね。裁縫なんか得意じゃなかったんですが一生懸命作ってくれました」
桃子は頷きながら、綾梅が必死にマフラーを作っている姿を思い出した。
不器用な母親が夜なべして作ってくれたのがこのマフラーだ。夜中トイレに行く時にこっそり彼女の姿を垣間見た。展覧会に出品する時と同じ眼をしていた。
綾梅は一端やり始めると、とことん拘るタイプだった。普通のマフラーでは面白くないと思ったのだろう、一度できたものを崩してチェック柄にしたのも実は知っている。
ある日学校から帰ってくると、桃子の部屋に無造作にマフラーが置いてあった。自分に父親は必要ないと確信したのはその時からだった。
衣類置き場にはもう一つ桃子の眼を引くものがあった。心願成就と書かれたお守りだ。それは細い筆の尾の部分に結びつけてあった。中を開けてみると桃の種は入っておらず別の種が入っていた。
「朽葉さん、明日お父さんのお骨が収めてある納骨堂に行こうと思っているんですが」
銀介は笑顔で答えた。
「それは楓さんも喜ばれると思います。少々階段がきついですが、是非お参りしていって下さい。差し支えなければ私が案内しましょうか」
「是非お願いします」
「ではまた明日ですね」銀介は襖を閉めながらいった。「夜も遅いですし早めに休んで下さい」
銀介の声と共に就寝に入る。明日こそ本当の意味で楓と会うことになるのだ。綾梅の件は明日、父親のお参りが終わってからの方がいいだろう。
桃子は布団の中で両親の先を祈った。
……どうか別の世界で出会えていますようにと。
……今度こそ二つの糸がきちんと編まれていますようにと。
14.
「刑事さん、どうしたんだ? こんな夜に」
蘇鉄は目の前の女性に声を掛けた。桃子を助けてくれた刑事が一人で自宅に来ている。
「お話しておきたいことがありまして、寄らせて貰いました」
「そうかい。上がっていくかい?」
刑事は首を振った。
「いえ大したことじゃありません。先日尋ねた場所が判明したので連絡に参っただけです。実はあの建物、京都ではなく奈良にあったみたいです」
「そうか、それはよかった。ということは桃子ちゃんはそこに着いたのか」
「そうみたいです」刑事はそういってゆっくりと頭を下げた。「この間は本当にすいませんでした。まさか商談中だったのではないですか?」
「……まさか。うちと取引しようと思っている会社なんてないよ」蘇鉄は大きく手をひらひらさせた。「うちの仕事は落ちる一方だ。跡継ぎも消えちまったし俺の代で止めようと思ってる」
「そうですか……」
刑事は再び頭を下げた。
「それでは失礼します」
「えっ? まさか、わざわざそれを伝えるために来てくれたのか?」
「そうですが。いけませんでした?」目の前の女性刑事は目を丸くしている。
蘇鉄は呆気にとられた。事件には何一つ関係ないし、それを伝えた所でこの刑事には何の利点もない。
「場所は室生寺という所らしいです」刑事はその場所の名称を告げ始めた。「もし興味があれば是非行って見て下さい。楓さんは夏鳥さんのお友達でもあるんですよね?」
「ああ、そうだが……」蘇鉄は訝りながら彼女を見た。「でもどうして俺にそれを伝えに来たんだ? 刑事さんには何のメリットもないだろう?」
「確かに私にはメリットはありません。でも夏鳥さんのことを考えた時、伝えておいた方がいいかなと思いまして」
「どうしてわざわざ俺のことを?」
「あなたも事件の被害者だからです」刑事は淡々と続けた。「事件は物理的なものだけではありません。それよりも大事なのは感情です。この事件に関わった人は全て何かしらの闇を抱えています。私はそれも踏まえて解決したいと考えています」
蘇鉄の眼には大きな雫が溜まっていた。この刑事は自分のことまで考えてくれているのだ。そう思うだけで溢れる感情が止まらない。
「す、すまない……」
涙を拭い刑事を見た。冷淡な顔をしているが胸の内は熱い。彼女がいれば桃子はもう安心だ。
「ありがとう。あんたがうちの息子を担当してくれてよかったよ……」蘇鉄は目頭を抑えながらいった。「俺がいうべきじゃないが、どうかこれからも多くの人を助けて欲しい。刑事さんがいたから救われる命があるんだ。本当に俺はあんたに感謝してる」
刑事は顔を真っ赤にしてかぶりを振った。
「そ、そこまで大したことはしていませんが……。できるだけ善処します、これからも。それでは失礼します」
刑事は振り返らずそのまま走り去るようにして出て行った。春の時に抱いたイメージとはかけ離れており、彼女に人の温もりを感じた。
15.
翌日。
桃子は銀介に朝食まで御馳走になり二人で五重塔に向かった。昨日は暗闇で全体像が掴めなかったが写真で想像していたイメージより断然小さかった。
「こういった古い塔は急に思い立っても作れないんです。木材は山で切ってもすぐに使えませんからね」銀介が思い出を噛み締めるようにいった。「水につけて乾燥させて、また水につけて……。この何年もの繰り返しが湿気にも乾燥にも強い材木になるんです。特に室生寺は山の中にあるので気候が変わりやすくそういった所でも注意して作られます。建てるにしても、木の特徴を掴まないといけません」
楓はどのようなイメージでこの塔の再建に望んだのだろう。一度崩れた塔を建て直すなんて生半可な気持ちじゃできないに違いない。
「人を扱うことも同じです。ほとんどの職人さんが楓さんよりも年上でした。初めのうちは楓さんに対して舐めてかかる人もいました。
しかし彼は折れませんでした。職人の気持ちも汲み取って仕事を組み合わせていたんです。楓さんの熱い思いでみんなが一つに纏まっていきました。棟梁としての楓さんがいたからこそこの塔はできたんです」
桃子はマフラーを掴んで塔を眺めた。いつの間にか自分の父親が作ったことをすっかり忘れるほど塔にのめり込んでいた。それほどこの塔には夢中にさせる何かがあった。
この塔を作るためには楓だけではなくたくさんの職人がいたのだ。年上のものを扱うのがどれほど難しいか桃子にはまだわからない。だが自分が責任者となって先頭に立つプレッシャーは計り知れないだろう。
楓は負けなかった、最後の最後まで全力で立ち向かったのだ。妥協のない塔の造りを見て桃子は父親のことを心から尊敬した。
楓の木が風に吹かれながら枝をゆらゆらと動かしている。目を閉じるとその音が彼の言葉になって聞こえてくるようだ。
「どうだ、これは俺の仲間達で建てたんだぜ、凄いだろ?」
「この軒の反りがな、本当に難しかった。でも綺麗だろう。綾梅にもみせてやりたかったな」
「昔の宮大工達は凄いよ。千年という長い時を越えてこの塔を残してきたんだからな。
だが今の宮大工だって凄いんだ。自分が作ってないものを同じように造るのは本当に難しいんだぜ? 相手の気持ちを汲み取らないといけないからな。
桃子の次の世代の人達が見たら何ていうだろうな? やっぱりいい仕事をしているって認めて欲しいな」
一瞬の間に心の中で父親の声が流れていく。自分には父親がいないと無意識に何度も考えていた。父親などいらないと心の中では叫んでいた。
しかし今は違う。楓が建てた塔に誇りを感じる。自分が建てたようにこの塔に愛着を感じるのだ。
心の中の曇りが少しずつ晴れ渡っていく。父親への強い気持ちが桃子の足を進めた。
塔を拝見した後、奥の院にある納骨堂を目指した。石で出来た階段には所々にくすんだ苔が生えている。その両端には写真で見た石楠花があった。花はすでになく葉っぱのみになっている。きっとあの塔は春に完成したのだろう。
階段を登っているとヒノキの皮がないものがあった。ほとんどのヒノキの皮には苔が生えているのだがこの木の皮は白くなっており表皮が剥がれている。この皮が室生寺の屋根を作っているらしい。本当に昔の人の発想は凄いと桃子は思った。
「あれはざぼんの木じゃないです?」桃子はヒノキの後ろに生えてある木に注目した。
「よくご存知ですね」銀介は大きく頷く。そういえば一度楓さんがざぼんの砂糖漬けにしてくれたんですよ。あれは美味しかったなぁ」
桃子は胸が高鳴った。
「家でもお母さんが砂糖漬けにして食べさせてくれたんですよ。私の大好物なんです」
「ということは綾梅さんから教わったのかもしれませんね、実に手際がよかったのを覚えています」
楓はこの木を見て家族が恋しくなったのかもしれない。そう思うだけで切ない気持ちが溢れてくる。
……もうすぐだからね。
もう着くからさ、待っててねお父さん。
納骨堂は厳かな雰囲気を漂わせながらも秋の季節に染まっていた。桃子と銀介は手を合わせ目を閉じた。
当時の楓の姿は想像できないが、確かにここにいたという思いが自分の気持ちを熱くさせる。桃子は手を合わせて素直に心の声を届けることにした。
お父さん、今まで来れなくてごめんね。
本当はお父さんのことが知りたくてしょうがなかったの。お母さんとの生活でもちろん不自由はなかったよ。でもやっぱりお父さんと話がしたかった。
仕事の話、お母さんと出会った頃の話、お母さんと結婚した時の話、私が生まれた時の話、たくさん聞きたいことがあったんだ。
もしお父さんが五重塔を建てたのなら、たくさん文句をいって帰ってやろうと思ってたの。でもね、今は恨んでなんかいないよ。だってお父さんが一生懸命作った塔を見たら、いえなくなっちゃったよ。
本当に凄かった。私が宮大工になってやろうかって思うくらい心を奪われちゃった。
今ね、お父さん、私花屋で働いてるんだよ。毎日残業で給料も安いし手も荒れて大変だけどさ。
楽しいんだ。自分が知らない花に出会った時の感動だったり、思いも寄らない花の組み合わせで心をときめかされたり。毎日が新鮮で充実してるんだよ。
お父さんもそうだったのかな?
きっと夢中で仕事に打ち込んでたんだろうね。棟梁としての仕事は想像がつかない程、大変だったんだろうけど最後まで見れなかったんだよね。辛かったよね。
でもね、すごい立派な塔が建ってるんだよ。私にとっては世界一の塔です。
すごいよ、お父さん。
私もお父さんみたいに一生懸命頑張って、みんなから尊敬される花屋さんになるよ。
だから応援しててね。
お父さんが建ててくれた家は今も立派に残ってます。ありがとう。本当にいい家だよ。
今日ここに来れてよかった。
本当に、よかったよ――。
桃子は目をあけて後ろを振り返った。柔らかい風に楓や銀杏の葉が舞い上がり、辺り一面が臙脂色と黄支子色に覆われた幻想の世界へと遷り変わっていた。漂う哀愁が魂を揺さぶる。
銀介に促されて建物の隙間にあるものを眺めた。そこにはすでに葉がなくなっている一本の木があった。木の下に立札があり種蒔きの日付が書かれていた。
その日付は建物が完成した一年後だった。
……なぜ一年空いているのだろう?
疑問に思い立札の字をよくみると納得がいった。その文字は長年見慣れたものだった。
「……桃子さん、これを」
銀介の方に振り返ると封筒があった。中を開けると細い筆で書かれた手紙が二枚入っていた。一つの表題には『一家団欒』と書かれてある。楓の字と同様力強い字体だ。
しかも、この字は片時も忘れたことがない。
「一通は楓さんの手紙です。もう一つは……その木の種を植えた方からのものです」
……そんな、そんなことが。
桃子がたじろいでいると銀介が促した。
「私のことは構わずに。どうぞお読み下さい」
桃子は頷き手紙を手に取った。
まさか、こんな所で再会できるなんて―――。
桃子は涙を抑えながら字を追った。
16.
思いつきで桃子に手紙を書こうと思ったんだけど、なんて書いていいかわからないね。いつも短い字数しか書かないから読みにくいかもしれないけど、そこは我慢して読んで下さい。
最後だけ読むとかしないでね、本当お願いだから。
これを書いている時の桃子の年齢は三歳です。
今の桃子は何歳になってるのかな?
もしかしたら、修学旅行の間に抜けて見に行ってるかもしれないし結婚してるかもしれないね。もしかしたら私が死んでからおばあさんになって読んでるかもしれません。
奥の院にある桃の木はもう見ましたか?
私がここに来た記念に楓のお守りから種を抜いて奥の院に植えました。銀介さんにきつくいっておいたから順調に育ってると思います。お守りの中が寂しくなったので代わりに梅干の種を突っ込んでおきました。今日食べたおにぎりの具が偶然にも梅干だったのでちょうどよかったです。楓もあの世で泣いて喜んでいるでしょう。
まあ、冗談はこのくらいにして……本題に入ります。
この手紙を読んでいるということは桃子の意志で来たことは間違いないですね?
私はこれから楓に関わるものはできる限り処分しようと思います。楓の意思を受け継いで桃子には何も話さないつもりです。
彼は塔の事故を連絡しなければそれで済むと思っていたようですが、もちろんそんなわけには行きません。
現場責任者がいなくなれば警察が動くからです。それでも彼は私との約束を守ろうとするため、敢えて写真だけを自宅に寄越しました。そして私と桃子のために自分の気持ちを添えた手紙をここ、奥の院に預けることにしたのです。
本当に不器用な人です、そんな嘘をついてもすぐにばれるというのに小細工を施すことを止めません。そこがまあ可愛い所でもあったんですが、それが最期というのは二重の意味で残念な人でした。まあ、楓らしいといえばそれまでなのですが。
だから私もここに私の本心を残そうと思います。もちろんこの先を読むかどうかは桃子が決めて下さい。別に読まなくてもいいです。私が残したいから残すだけですから。
楓はね、本当に頑固で建築バカでした。私が認めるんだから間違いありません。昔からデートしてても、映画見てても、遊園地に行っても、Hしてても建物の話しかしない人だったんです。
「あの建物、どうやって出来てるんだろう」
それをいうことが彼の日課でした。
頭、おかしいでしょう? 私みたいな美人が付き合ってあげてるというのにです。
その度に蹴りを入れてやったけど結局直りませんでした。その頑固さに惹かれたんですがやっぱり失敗だったと思います。桃子には申し訳ないと思うけど運が悪かったと思って諦めて下さい。
ここに来てからわかったことが一つあります。楓が京都から奈良に移った時に連絡をしなかったのは親方の差し金だったということです。何でも家族が現場に来たら気が散るし棟梁としての威厳がなくなるといわれたみたいです。
その話を常盤さんから聞いている時、私の頭には大きな文鎮が頭に浮かびました。目の前にあったら間違いなくそれで殴っていたと思います。それくらいハラワタが煮えくり返りました。蹴りの一発ですんだのは奇跡としかいいようがないでしょう。
私がここに来れたのは常盤さんが手紙をくれたからです。写真だけの手紙が届いた後、彼から室生寺の住所が届けられました。
なので桃子の近くに常盤さんがいたら一発、蹴りを入れて下さい。文鎮があればなおいいです。お母さんの代わりに一つお願いします。桃子が大人になっている時に常盤さんが生きていればの話ですが。
五重塔は拝見しましたか?
私は建物のことはよくわからないけど感動しました。楓が途中で亡くなったと聞いた時には本当にくやしい思いをしました。でも、だからこそ、この建物ができたんじゃないかな。
本当に考えられないような苦労があったんだと思います。年上の人を動かすには理論じゃなくて心が強くないと誰もついて来ないだろうしね。
その点では楓は満点です。子供の添削で使うようなグルグル巻きの花びら付きの花丸です。桃子にはまだあげてないけどこれからたくさん練習して貰うから、取っていることでしょう。
桃子は今、何の仕事をしていますか?
これが一番気になります。私の予想では料理人だと思います。ざぼんの砂糖漬けを食べている時の桃子の目、すごく輝いています。口の中に砂糖漬けが入っているのに、私が手に取るとまるでハンターが獲物を狙うような眼で睨んできます。私が食べようとするとそれを遮ります。
正直に書かせて貰うと、実は二つに分けて作っていました。桃子用と私用の分です。今頃顔を真っ赤にしてこの文章を読んでいるでしょう。その光景が簡単に目に浮かびます。
余談ですが、ざぼんという字は「朱欒」と書きます。欒という字は「糸」の間に「言」という字が入ります。これはおしゃべりを表すみたいです。
私達、家族は三人で言葉を交わすことができませんでした。それでも私は幸せです。これを桃子が読んでいるということは初めての団欒ができているということです。普通の家族じゃできない、糸ならぬ文字だけの会話です。
今の桃子には楓の愛はわからないかもしれません。しかし楓は本当に桃子のことを愛していたんです。
その証拠が一つあります。それは私達が住んでいる家です。
あの家は楓が桃子のために建てたんですよ。私達、夫婦が二十五歳の頃に家を建てました。桃子が今いくつになっているかわかりませんが、これは大変なことです。
私は家を建てることに大反対しました。もちろんそんなお金がないからです。それに彼がそんなことをいうとは想像もしていませんでした。
楓は家を建てることが一生の夢だといっていました。理想の家を建てるためにもっと経験をつんでいきたいと意気込んでいたんです。
それが桃子が生まれるということがわかって、一瞬でひっくり返ったんです。
「作り方なんてどうでもいい。ただ桃子のために家を建てたい」
彼はそういいました。
わかりますか? 建築バカな楓が『親バカ』に変身したんです。これってね、本当に凄いことなんですよ。天と地がひっくり返るなんてもんじゃない、天国と地獄がひっくり返るくらい凄いことなんです。
そして私に決定打を与えたのが五重塔の修復の仕事です。習字教室を始めて間もなかったので今みたいに生徒はいなかったんですが、私は地元から出る気はありませんでした。なので楓が仕事を請けるとすると四年間彼と離れることになります。
私の心は揺れました。しかし一方的に決められることが悔しかったので条件をつけたんです。
一つは宮大工の仕事を最後にして、地元で仕事を探すこと。
二つ目は仕事が終わるまでは一切連絡をしてこないこと。桃子の声も聞かせてあげない。
この二つを守れるのなら作っていいよと挑発しました。これで家を建てることはないだろうと思ったら、「それでいいのか?」と逆に喜んでいました。
親バカ、ここに極まり。こうして私は泣く泣く承諾し自分と同い年のローンを背負うことになりました。
それから京都に行くまでの楓はデートをしてもご飯を食べてる時でも建物の話はしなくなりました。桃子の話だけです。
お腹を蹴ったというと、アホみたいに喜び。お腹が痛いというと、バカみたいに心配し。性別がわかるとそのままその日はベビー服売り場に直行です。
生まれたらその反動でびっくりして死ぬんじゃないかと思うくらい、楓は親バカに成長しました。
私はね、正直いうと嬉しかった。楓がどんな立派な建物を作ろうがどんな有名な大工になろうが関係ないです。私達の子供を愛してくれてさえいたらそれでよかったんです。
だからね、桃子。お父さんのことをどう思ってもいいけど、お父さんは確かに桃子のことを愛していました。
それだけはどうしても伝えたかった。そう、これが私が一番いいたかったことです。ようやく書きたいことが書けました。
ともかく、です。なぜ私がこの手紙を書こうと思ったかというと、私が直接楓の話をしても伝わらないと思ったからです。
桃子の意志でここに来て、お父さんの手紙を読んで、建物を見て、それから私が書いてある手紙を読んでからじゃないと何も伝わらないと思ったんです。
全てを終えたら後は桃子の中で決めて下さい。
以上です。
これを読んで私に確認するのだけは勘弁して下さいね。恥ずかしくて家から逃げ出してしまうかもしれません。
ただお父さんの格好悪い話ならいくらでもできます。
その時を是非、楽しみにしています―――。
心の中の陰りは完全に消え去っていた。
桃子は再び楓の森を眺めた。楓の木にはほとんど葉が残っておらず紅葉は終幕を迎えていた。
……しかし冬が巡ろうとも幕切れない糸がある。
彼女は楓と綾梅に思いを馳せた。その糸は父親と母親によってしか編めない家族の絆だ。自分の中にはすでに綻んでいる糸だと思っていた。諦めていた糸だった。
だがこの絆は決して断ち切れない糸で紡がれている。それは縦と横の糸で編まれたマフラーのように暖かく永遠に続いていく。
……これは私にとって宝物だ。
桃子はマフラーをぎゅっと掴み首を埋めた。このマフラーは寒さを防いでくれているだけではない。家族の温もりを閉じ込めてくれていたのだ。それは季節が巡っても変わらない。
澄み切った心の中には両親の愛情だけが満ちていった。その感情が頬をつたって流れ落ち、楓の葉に潤いを与えていく。その葉はやがて腐葉土となり桃の木を実らせるだろう。そして再び輪廻を繰り返す。
それが本当に愛おしい。
……私は一人じゃない。一人じゃないんだ―――。
桃の木の前で、桃子は泣き終えることができずそのまま楓の葉の上に泣き崩れた。首に巻いたマフラーだけが柔らかい風を纏いながらふわふわと揺らめいていた。