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第二章 『花』火の閃き

※ 途中まで読んだ方に対して。

名前を漢字に変更させて頂きました。ほとんどかわりませんが、変更点を書いておきます。リリーはリリーのままです。


ツバキ→椿 モモコ→桃子 サツキ→皐月 ハゼ→蘇鉄そてつ

 ウメ→綾梅あやめ

 サクラ→桜

ツツジ→榎樹なつき

 マンサク→万作 ウツギ→美空みそら

 

コスモス→秋桜美あさみ カエデ→楓 イチョウ→銀介ぎんすけ

 ヒノキ→かい

 ススキ→葛一かついち


ユカリ→由佳里 セツカ→雪花 サザンカ→仙一郎せんいちろう

 

 1.


  ……なぜ私はこんな所にいるのだろう。

 リリーは筋肉痛になった足を引きずりながら山の頂上を目指していた。全てがエメラルドグリーンに覆われた土地で登山靴を履き、一本の杉を見るためだけに旅行に来ている。体は無意識に動いているが、心がついていかない。

 ……まさか有休を使って彼と二人でこんな所に来るなど想像していなかった。

 自分の100m先には花屋の店主・春花椿はるのはな つばきがいる。彼はしなやかな体を生かして、猿のように素早く山を登っていく。

 ……それももう少しだ。

 汗をたぐりながら時計を見ると山登りを始めて三時間半が経っていた。もうすぐ目当ての杉が見える。鹿児島の屋久島に来て三日、ようやく目的地に辿り着いたのだ。

 ……あれがお母さんが好きだった木。

 リリーは天高くそびえる杉を見た。その木は空高く天空を突き刺しているように見える。

 夢中で杉の元に近づくと、これは一本の杉などではないと感じた。自分が想像するものを遥に超えている。

 この木は、まさに一本の『森』だ――。


  2.


 色とりどりの紫陽花あじさいが全て小豆あずき色に変わってしまった季節に、リリーは紅茶を冷やしていた。暑い日にはさっぱりとして独特の香りがするアールグレイに限る。ミルクを入れるのが定番だがストレートでも十分美味しい。砂糖はもちろんなしだ。

 クーラーの温度を下げて本を広げると桃子が台所から口を開いた。

「リリーさんは盆休みとかないんです?」

「そうねえ、取れないことはないんだけど」

 秋風桃子あきかぜ ももこは現在リリーの家に居候している。一度は被疑者として疑った身だが真犯人が見つかったため自由の身となったのだ。

「どこか行きたい所があるの?」

「実はですね、一つだけあるんです。ただ行く相手がいなくて……」

 事件は解決したが桃子が母親を失ったことには変わりない。父親は桃子が生まれる前から行方不明。つまり両親はいないということになる。

 綾梅あやめの初七日の時、リリーは桃子の身を案じて家に来ないかと誘った。大きな一軒家に一人で暮らす桃子の姿を想像すると胸が痛み良心の呵責に負けてしまったからだ。それから彼女は自分の家で一緒に暮らしている。

 今はもうサクラの木の花びらは全て散り終わり、代わりに葉がどっしりと生え若々しい姿になっている。

「桃子ちゃんは休みがあるの?」リリーは本のページをめくりながらいった。

「うちの店は一応あるんですよ。お盆が稼ぎ時だったのでその後は休みたい日をいえば貰えるんです」

 桃子は綾梅の初盆を行なった日さえも仕事に打ち込んでいた。暇な時間がある方が気持ちにゆとりができてしまい返って辛いのかもしれない。

 彼女は鹿児島のガイドブックを自分の方へ差し出してきた。

「ここに行きたいんです。鹿児島にある屋久島という所です」

 屋久島。リリーの頭の中にもその言葉の記憶はあった。だが嫌な記憶しかない、トラウマといってもいい。

 桃子に促されるまま写真に目をやる。そこは見渡す限り全てがエメラルドグリーンに染まっていた。木だけでなく地面全体が苔に覆われており石にまで張り巡っている。

「凄いわね。本当に映画みたいな所ね」

 とても神秘的な場所だが、写真で見るだけで満足だ。わざわざ見に行くくらいなら家で推理小説を読んでいる方がいい。

「そうなんですよ。もー行きたくって行きたくって」

 桃子には現在彼氏がいない。その彼氏が桃子の母親を殺害したのだ。今の現状を最も理解しているのは椿つばきとリリーだけだろう。現実逃避をしたい気持ちもわかるが、さすがにそれは無理な提案だった。

「行くとしたらどれくらい日数がいるの?」

「そうですね。最低でも二日は絶対にいりますね」桃子は眉間に皺を寄せた。「もののけの森には絶対行きたいですし縄文杉も見たいんですよね。フェリーでしかいけないから、最低四日はないと厳しいと思います」

 ……増えてるじゃない。

 リリーは心の中で呟きながら縄文杉を思い浮かべた。その言葉が自分の頭の中で膨らみ萎んでいく。

「屋久島には空港があるわ。そっちの方が早いと思うけど」

 そういってリリーは後悔した。桃子がその言葉を見逃すはずがない。本を盾にして彼女の視線を防御しながら続ける。

「テレビでそういった情報が流れていたのを覚えていただけよ。どうしてフェリーがいいの?」

「私、飛行機は怖くて乗れないんです」

「え? そうなの?」

 思わず噴き出した口を塞ぐ。桃子が飛行機に搭乗し震えている姿が容易に想像できたからだ。

「でも三泊四日は厳しいね。私も行きたいんだけど事件が起きたらそこから戻らないといけないわね」

 嘘も方便だ。仕事に託けて逃げよう。

「……そうですよね。無理をいってすいません」

 ……く、苦しい。このまま見過ごすことはできない。

 桃子の小さな溜息を見て鋭い棘が刺さったような痛みを覚える。血塗れの畳の上で座り込んだ彼女の姿が一瞬にして蘇ってくる。

「……む、無理かもしれないけど一応訊くだけ訊いてみるわ」

 良心の呵責に負けてそういうと桃子の顔はぱっと賑やかになった。

「本当ですか? リリーさんと一緒に行けたら楽しいだろうなぁ」

 気分をよくした桃子は鼻歌を歌いながら洗物を片付け始めた。その姿を見てリリーは溜息を飲み込みながら、再び本のページをめくった。


  3.


 次の日。管理官の橘に旅行の件を相談すると思わぬことに即決で承諾された。彼の顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。

「どうせ君の提案ではないのだろう? いいよ。たまには君もゆっくり休んだ方がいい」

「あ、ありがとうございます」

 リリーが頭を下げると、橘は腕を組み直し小声でいった。

「時に彼女はどうだね? 元気にしているか」

 現在桃子が居候していることを知っているのは橘と万作だけだ。それは警察官という立場を考慮してのことだった。

 事件は解決したが被疑者に肩入れし過ぎるのはご法度だ。警察という組織の公平性が欠けてしまうし何より何か問題があった場合、自分だけの問題ではすまなくなる。

「ええ、最近笑顔が見られるようになりました」

「そうか。それはいい」

 橘はこほんと空咳をして真剣な表情を見せた。

「ところで君の方は大丈夫なのかね」

「といいますと?」リリーは意味がわからず聞き返した。

「屋久島に行くことがだよ」鋭い視線がリリーに掛かる。「君の父親から話は聞いている。君は行っても大丈夫なのかと訊いているんだ」 

「それは……行ってみないとわからないです。ただ彼女が喜ぶのなら行ってあげたいという気持ちだけです」

「そうか……まあ今の時期の方がいいだろう。冬には帰ってくるみたいだぞ、君の父親は」

「そうなんですか?」

「ああ、日本で仕事の打ち合わせがあるみたいだ」

 聞いていない内容なので答えようがない。父親とはほとんど連絡を取っていないからだ。

「また日程が決まったら連絡してくれ」

「了解しました」

 自分の席に戻ると万作が羨ましそうな顔でこっちを見ている。彼はくるりと椅子を回転させ彼女に話し掛けてきた。

「先輩、珍しいですね。有休を取るなんて。どこに行くんです?」

「屋久島よ。縄文杉を見に行こうと思ってるの」

 万作は驚嘆の表情を見せ腕を組んで唸った。

「それは凄い。まさか先輩に山登りの趣味があったなんて知りませんでした」

「山登りじゃないわよ。森と木を見にいくの」

 屋久島は標高が高く山登りにも適している場所だと聞いている。だが、別に山登りをしに行くわけじゃない。

「その場所を見に行くのが登山になるんですよ。もののけの森なんかは車から降りて往復六時間以上掛かるんですよ」

「え? そうなの?」

「もののけの森なんてまだマシな方です。縄文杉のルートだと往復八時間以上はかかりますよ。車の移動や食事なんか合わせたら一日がかりです」

 目の前の蛍光灯が落ちたかのように視界が歪む。たかだか写真で見れる景色を一日掛けて見に行くのだ。不合理な事この上ない。

「そんなに大変なの?」

「ええ。でもたまには山登りもいいんじゃないですか。屋久島は常に雨が降っているみたいなんですが、先輩が行けば驚いて晴れるかもしれません」

 そういった瞬間に万作の表情が曇った。おろおろと怯える彼の前に進むと彼の椅子が大きく曲がった。

「す、すいません。えっ、いやだなぁ、冗談ですよ。冗談。まさか本気に―――」

「ご忠告、ありがとう」

 リリーは躊躇することなく万作の足を力一杯踏んだ。

 

 家に帰ると、桃子が待ち構えていた。玄関で正座をしてリリーの帰りを待っていたようだ。

「お帰りなさい、リリーさん。ご飯も準備できていますよ」

 まるで子犬のようだなと彼女は微笑んだ。主人の結果を心待ちにして尻尾を振っているようだ。

「それじゃあ先にご飯を食べましょうか」

 すぐに結果をいうのは勿体ない。こんなに可愛い彼女は見たことがないからだ。鞄を部屋に戻しリビングに向かう。

 テーブルの前にはリリーが好きなものばかり並んでいた。今日は特別に気合が入っているようだ。桃子の得意料理の一つ、肉じゃがもテーブルの上にある。

 椅子に座り桃子と共に食事を始めた。

「それでどうだったんです? お休みはとれそうですか」桃子は顎を引き上目遣いでリリーを見ている。その大きな黒目が再び子犬を連想させた。

「うん。今日管理官に声を掛けたんだけど承諾してもらったわ。三泊四日でいいんでしょ?」

「ほんとに? ほんとですか?」桃子は飛び上がり万歳のポーズをとっている。

「そんな大袈裟に喜ばなくても」

「だって嬉しいんですもん。やったっ」

 桃子のはしゃぐ姿を見て、リリーは心の底から胸を撫で下ろした。これで少しは彼女も元気になってくれるかもしれない。

 リリーの前では元気な姿を見せようと振舞ってくれているのだが就寝中に声を殺して泣いていることもある。

 無理もない、と彼女は思った。四ヶ月前に母親を失い同時に付き合っていた彼氏に裏切られたのだ。

 血に塗れた畳の上で桃子が声も上げず座り込んでいる姿が再び蘇った。彼女はぐったりとしてじっと庭を眺めているように見えたが、目に光がなかった。彼女は何も見ずにただ呆然とそこにいただけだった。

 もしかすると今度の旅行の際に、内に秘めた何かを語ってくれるかもしれない。

「じゃあ早速日程を決めないといけないですね」桃子は無邪気に微笑んでせわしなくガイドブックの耳を折っている。

「それ、ちょっと見させて貰うわね」

 彼女からガイドブックを受け取り、交通時間の欄を詳しく覗くと口元が歪んでいった。

 もののけの森まで車を降りて三時間の登山、縄文杉まで片道四時間。万作のいっていることは本当だった。

「桃子ちゃん、片道三時間の登山って知ってるの?」

「もちろんです。大丈夫ですよ、それくらい」桃子は嬉しそうに味噌汁を啜りながら答えた。

 ……どうやら腹を括るしかないようだ。

 リリーは観念し大好きな肉じゃがを口に放り込んだ。最高の味付けだったが、しっかりと味わうことはできなかった。


  4.


「お久しぶりです、冬月さん」

 店に入ると椿は黒い器に白とグリーンの花だけを生け込んでいた。すらっと伸びた白慈色のカラーの下に萌黄色のピンポンマムが穏やかに佇んでいる。そのメッセージカードには御供という文字が書かれていた。

「こちらこそお久しぶりです。最近暑いですが、春花さんは元気にされてますか?」

「ええ、もちろん」彼はにっこりと微笑んだ。「冬月さんも自然に興味が沸いてきたみたいで嬉しいです」

「残念ながらそうではありません、ただ桃子ちゃんの寂しそうな顔を見ると行かないといけないような気がして……」

「ああ、それはわかります。なんとなく……」彼は苦笑いを浮かべて頷いた。「僕もそんなに得意ではないですが、彼女の助けになりたいと思っています。できる限りお二人をサポートしますので、よろしくお願いしますね」

「はい、こちらこそ」

 桃子によると花屋の店主・春花椿はるのはな つばきが屋久島に行ったことがあるらしい。お互いに山登りは未経験なため、彼の教えを請いに来たのだ。

 彼自身も久しぶりに登りたいということでついて来てくれることになったのだ。

「とりあえず必要なものを書いていきましょうかね」椿はメモ用紙を取り出した。「屋久島だと、登山靴、リュック、レインコートくらいですね。必要ではないですがステッキがあれば登りの時に支えてくれるので便利です。斜面は結構急ですから」

 思ったよりも必要な物は少ないみたいだ。リリーは手持ちのメモ帳に書き込んでいった。

「ああ、それと熱いお茶を持っていった方がいいですよ。夏場とはいえ標高が高いので体が冷えます。汗も掻きますので温度調節が大事です」

「なるほど」

 登山経験者らしい意見だ。万全を期すためきちんと用意しておこう。

「屋久島は他の山と違って雨が凄く降るんです。なので雨対策は必須ですね」

 レインコートは必須と、リリーは二重丸をつけた。

「春花さんはよく山登りなんかはされるのですか?」

「いえ、最近はまったく。子供の頃は父に無理やり誘われていっていましたが、今ではいい経験です」

 意外だ、という言葉を飲み込んだ。彼のイメージからすると好んで散策などしているイメージがある。

「春花さんはなぜ花屋を?」

「最初は家業をつごうと思っていたんですが、成り行きで花屋になってました」

 そういって彼は乾いた笑みを見せた。

 家業を尋ねてみたい衝動に駆られたが今は止めておこう。そういった言い回しをするということはきっと理由があるに違いないからだ。仕事特有の勘が訊いてはならないといっている。

 椿からメモ用紙受け取ると、彼は別の本を取り出した。

「そういえば冬月さん知ってます? 縄文杉には面白い謎があるんですよ」

 彼の予想外の言葉を聞いて胸が高鳴った。謎と聞けば心の中で蒸気を上げるように熱が籠もっていく。せっかく現地に行くのだ、何か楽しみがあった方がいい。

「それはどんな内容なんです?」

「縄文杉の年齢が七千二百年ともいわれているんですが、それは単なる大きさからの推定にしか過ぎません。幅が一番大きいというだけで高さは他の屋久杉とあまり変わらないんです。それで本当はそんなに生きていないんじゃないかと様々な説が出ているんですが、今の所わかっていないんです」

 そんな謎があったとは。パンフレットには七千二百年の木としか書いていなかった。

「教えて頂いてありがとうございます。屋久島に行く楽しみがまた一つ増えました」

「それはよかった。現地の方はもっと詳しいでしょうからそういった話も聞けるでしょうね」

 七千二百年も生きたといわれている木、縄文杉。実物を目の前にするとどういった感情が表れるのだろう。その状況を考えるだけで胸にあるガラス玉がゆらゆら揺れていく。

 突如、母親の顔がよぎる。百合はあの時、縄文杉をちゃんと見ることができたのだろうか――。


  5.

 

 出発一週間前。

 リリーは桃子とベッドの上で向かい合うようにし旅行計画の打ち合わせをした。すでに椿に薦められた荷物を準備し日程に合わせて宿も取っている。予定通り三泊四日の旅だ。

 初日は鹿児島に車で向かい、その後フェリーで屋久島に直行。二日目はもののけの森をメインとし、朝八時に出発。三日目は縄文杉を見るため、朝四時に起き五時にはバス停に到着しておかなければならない。四日目は帰るために一日費やすといった流れになっている。

 大雑把なスケジュールだがなかなかハードだ。桃子も今では真剣な表情で話し合いに臨んでいる。やっと事の重大さを理解したのだろう。

「来週から屋久島に行くと思うとドキドキしますね。ちゃんともののけの森まで辿り着けるかなぁ」桃子は心細い声をあげている。

「確かに長い道のりになりそうね」

「私一人だったら、行きたくても行けてなかったです。リリーさん、本当にありがとうございます」

 計画を立てた自分自身も不安は募っている。椿が来てくれるとはいえ、もし彼女に何かあればただ事では済まない。

「さあ明日も早いしそろそろ寝ましょうか」

 リリーは灯りを消して目を閉じた。しかし母親への思いが交錯し中々寝付くことはできない。

 頭の中では百合ゆりの面影が漂っていた。


 ――お母さん。これはなんていう花なの?

「鉄砲ユリよ。形が鉄砲のようでしょう?」

 ――そうなんだ。ユリの仲間なんだ。お母さんと一緒だね。

「そうよ。それに、このお花には『純潔じゅんけつ』っていう意味が込められているの」

 ――『純潔』ってどういう意味?

「素直でいたいっていう意味よ。素直な心になりますようにってお花がお日様を浴びながら唄っているの」

 ――なんで唄ってるの? 誰に対して?

「もちろん、リリーに対してよ。だからお母さんは鉄砲ユリさんが元気に唄えるようにこうやって花壇を綺麗にしているの」

 ――リリーは素直だよ。お父さんのいうことだって聞いてるし、絵本の続きが気になっても、夜更かしだってしてないよ。

「そうね。リリーは偉いわ。だけどそれは今だけじゃ駄目なのよ。これからもずっと素直でいて欲しいから、お母さんはお花を大切にしてるの」

 ――お花を大切にしたらリリーはずっと素直でいられるかな?

「もちろんよ。リリーがお花にちゃんとお水を上げたらリリーの心は変わらないわ」

 ――そっか。じゃあ、これから毎日お水を上げるね。

「うん。お母さんがいない時もきちんと上げてね。お花は大事にしないと枯れちゃうから」

 ――うん。リリーは素直だから、ちゃんとお母さんのいうことを守るよ。

「うんうん。やっぱり、リリーは偉いわ。じゃあ一緒にお水を上げましょうか」


 旅行前日、再び思いもしないアクシデントに見舞われた。桃子が風邪を引いたのだ。いつもの時間になっても彼女は部屋から出て来なかった。様子を見に行くと、この暑い中何枚も重ね着をして布団の中で包まっていた。

「大丈夫? 桃子ちゃん」

 咳こんでいる口元を抑えながら、桃子は苦しそうな表情をしていた。側に落ちていた体温計は三十八度をさしている。鼻をかんだティッシュがゴミ箱の辺りで転がっており間違いなく風邪だとわかった。

「大丈夫です、一日寝れば直りますよ」

 とても明日には治りそうには見えない。今回の旅は見送るしかないだろう。

 桃子はコホンと一つ咳き込みリリーに告げた。

「店長にも悪いですし、今回は二人で行って来てくれませんか?」表情が硬い。大分無理をして話しているのだろう、かなり辛そうだ。「このまま私が行ったら迷惑かけてしまうので写真で我慢することにします」

「私もキャンセルするわ。これだけの高熱だったら動けないわよ」

 桃子の額に手を当てようとすると彼女は体を反らした。

「駄目です、近くにいたらうつっちゃいますよ」

 後ろを向いたまま桃子は続ける。

「宿もとってるじゃないですか。私から誘っておいて今更キャンセルさせることはできません」

「そうはいってもね……」リリーは返す言葉に詰まり戸惑った。

「店長も楽しみにしていたんです。店長なら大丈夫です。私が保障します」

 椿のことを心配しているわけではない。純粋に桃子のことが心配なのだ。

「是非リリーさんに行って来て欲しいんです。お願いです。こんな機会、もう二度とないですよ」

 桃子の力強い目がリリーの心に強く響く。それは何かを訴える目だった。しかし彼女がここまで意固地になる理由がわからない。

 ……とりあえず彼に連絡を取ることにしよう。

 椿に電話を掛けると、すぐに繋がった。

「桃子ちゃん凄く楽しみにしてたのに残念ですね……」

「ええ、そうなんです。お仕事でも体調は悪そうでした?」

「いやあ、そんな感じはなかったけどなぁ」椿は曖昧に答えた。「もしかするといつも以上に頑張っていたのでそれで体に無理がいったのかもしれません」

 家の中でも桃子は疲れた顔を見せずに家事を手伝ってくれていた。それはきっとリリーの機嫌を損ねないようにと努力していたのだろう。

「桃子ちゃん、どうしても冬月さんに屋久島を見せたかったみたいですよ」

「えっ?」

「冬月さんにもっと花を好きになって欲しいからといって、最近はいつも花を買って帰るんです」

 桃子が引っ越してきて以来、玄関やテーブル、トイレに一輪の花が咲いていた。桃子自身の趣味だと思っていたが一番の目的は自分に花の魅力を知って欲しいとのことだった。

 やはり家の庭が気になったに違いない。雑草すら生えないように石膏で埋めているからだ。

 それは父親の独断で行われたことだが彼女にとっても都合がよかった。母親が作り上げた庭を思い出さなくてすむからだ。

「桃子ちゃんは花を捨てるのが勿体ないからといっていました」

「まさか。仕入れてきたお花ばかり持って帰ってますよ。今の季節にあった花をです」

 玄関に飾られていた花は薄藍色の竜胆りんどうに、縞模様の入った苺の葉。リビングには紅緋色に染まった鶏頭けいとうに、雷のような枝付きの素馨そけいが入っていた。どちらも葉は青々としていて花の茎は背筋を正しておりまっすぐに伸びていた。きっと長く楽しめるためにいいものを選んでいたのだろう。

「僕はキャンセルでも構いませんよ。キャンセル料といっても宿泊だけですし特に問題はないです。桃子ちゃんが心配で付き添いみたいな形でしたし。また別の機会でも――」

 すいません、と言い掛けた時、トイレに飾ってある花が浮かんだ。鉄砲ユリの花だ。

 桃子は花を飾る時、いつも花瓶の横にメモ用紙を立てていた。そこには桃子の手書きで花の名前と花言葉が書かれている。その切れ端はリリーの身長に合わせて少し傾けており見やすい位置にあった。


 鉄砲ユリの花言葉は『純潔』


「もし、春花さんがよければ一緒に行きませんか?」リリーは思わず呟いていた。「今年のサクラを見た時、正直心を奪われたんです。もう一度あんな体験ができるなら是非行きたいです」

 自分でいっておいて顔から火が出そうだ。妙に熱くて恥ずかしい、早く取り消さなければ。

「すいません。やっぱり気にしないで下さい」

 一時の沈黙の後、椿は口をひらいた。

「実は僕も楽しみにしていたんですよ」椿は穏やかな声でいった。「冬月さんがよければ、桃子ちゃんの思いに答えるためにも二人で行きましょうか」


  6.

 

 鹿児島船から降り、遠くの方で旗を振っている中年の女性がいた。予約していたレンタカーの業者だ。そこから手続きをし山荘へ向かう。

「ついちゃいましたね」

 椿は山を眺めながらいう。この広大な景色の中では彼を何を思うのだろう。春に見た庭を思い出し、彼の視点に興味が沸く。

「ええ、あっという間でしたね」

 リリーは頷いて桃子にメールを送った。友人が看病に来てくれるとはいったが、自分が手料理を作れずレトルトのものしか置けなかったことが少し気がかりだ。

 山荘につきチェックインを済ませそれぞれの部屋に向かう。風呂に入った後お互いに食堂で落ち合うことにした。 

 入浴後、食堂に行くと椿が先に席についていた。山荘に置いてあった浴衣を着て扇風機を体全体で浴びている。

「冬月さんの所のお風呂はどうでした?」

 椿は食事に手を付けず待っていてくれたようでたくさんの料理が目の前に広げられていた。

「なかなかよかったですよ。特にこれといった特徴はなかったですけど」

「じゃあ明日はきっとびっくりすると思いますよ」

 椿は無邪気に微笑んだ。

「何か面白いことがあったんです?」

「床が畳になっていたんです。変わったお風呂でした」

 畳? 想像がつかない。

 食事にありつこうとすると愛想のよさそうな年配の女性がこちらに近づいてきた。どうやらご飯をよそってくれるらしい。飲み物を尋ねられたが明日から山登りになるので二人はジュースで乾杯することにした。

「じゃあ、いただきます」

 美味しそうに食事をほうばる椿。前回の事件の時のような鋭さは全く感じない。

「あーおいしいなぁ、このフライなんか特に」椿は休むことなく口を大きく開け魚のフライを放り込んでいる。「民宿で食べるご飯はどうしてこんなにおいしいんだろう。ああ、おかわりを貰おうかなぁ」

 男性の食欲というのは本当に凄まじい。自分が二口食べている間に彼の茶碗は空っぽになっていた。

「そういえばどうしてこの旅館を選んだんです? 他にも民宿はたくさんあるみたいですけど。以前来られた時に使われたんですか?」

「いえ、ここには泊まったことがないんです」椿はおかわりを頼みながらいった。これで三杯目だ。「以前、屋久島に来た時に薦められたのを思い出したんですよ。畳になっているお風呂があるので是非行ってみたらいいと。そこの旅館はとっても人当たりがいいといってましたので」

「なるほど」

「そういえば何かのお菓子を貰った気がするなぁ。一緒に登っていて何度も飴玉を貰った記憶があります」

 胸がトクンと高鳴る。何か妙な胸騒ぎがする。

「その人は……大型のカメラか何か持っていませんでした? 荷物をたくさん持っていたとか」

「うーん、そうですねぇ」彼は神妙な顔をして唸っている。「どうだったかな。そんな気もするのですが。すいません、そこまでは覚えてないですね」

 溜息が漏れる。まさかそんな偶然あるはずがない。

「いえ、謝るようなことではありません。こちらこそ昔のことなのに追求してすいません」

「ああ、そうだ。一つ思い出しました」

 椿はポンと手を叩いた後、彼女から目を逸らしながら答えた。

「その人、確か山登りの最中、帰ってこなかったみたいなんです」


  7.

 

 品数が多い料理を堪能した所で必要なグッズを旅館から借りることにした。受付で尋ねると旅館のオーナーが対応してくれた。大分年配だったが、がっちりした体が年を感じさせない。

 予め予約していたレインコートを受け取ると、オーナーは笑顔で話しかけてきた。

「明日は珍しく天気がよさそうだよ、よかったね。お嬢さん、明日はどちらに行くの?」

 もののけの森がある白谷雲水峡に行くことを告げると、オーナーは大きく頷いた。

「そうか、それはいい。屋久島の天気はすぐに変わるから雨が降っていなくても必ずレインコートは持って行くんだよ。俺もお嬢さんのような綺麗な人と山登りに行きたいね」

 オーナーは遠くにいる椿の顔をじろじろと眺めながらいった。

「違います。そういった関係じゃありません」

「ふうん。そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」オーナーはかっかっかと笑い一言追加した。「そういえば二人は部屋が別々だったね。清い交際なんだねぇ、最近の若者にしちゃ珍しい」

「付き合っている訳ではないんです。成り行きで二人で行くことになっただけで」

「大学のサークルか何かで?」

 大学、と聞いてリリーの胸はときめいた。まだ女子大生に見えるのだろうか? お世辞だとしても嬉しい。

「そんな年じゃないですよ。友人がもう一人いたのですが、風邪を引いてしまって」

「本当に風邪なのかなぁ」オーナーは再び不気味な笑いを浮かべた。「それはきっとね、お二人に遠慮したんだよ。ここには自然だけはたくさんあるんだ。君達も自然な仲になれたらいいね。いひひ」

 自然には興味がないと撤回したい。だがオーナーはそんな事お構いなしといった表情で椿の方へ目を向けている。

 話題を変えなければ椿の所にも話しかけるかもしれない。

「そういえばここにはたくさんの写真がありますね」

「俺とかみさんで撮った写真だよ。かなり昔の写真だけどね」

 季節毎の写真が綺麗な額縁で飾られている。冬にそびえる縄文杉やみっしりと葉に覆われたハートの形をした木片、紅葉に塗れているもののけの森。その中に一つだけリリーの心を掴んだものがあった。

「あの写真はどこで撮ったんです?」

 雪景色の中、一つの大輪の花が写真全体に収まっていた。白い花びらが美しく、花一つで幻想的な世界を作り出している。

「あれは冬にしか咲かない花でね。オオゴカヨウゴレンという花なんだ」

「そうなんですか。じゃあ今の季節には見られないんですね」

 リリーががっかりした声でいうと、オーナーは愛想を取るように優しく答えた。

「また冬に見にくればいい。その時は彼氏さんとうまくいっているといいね」

 リリーが反論する前にオーナーはそのまま食堂に向かった。どうせいい直しにいった所で茶化されるのがオチだ。このままそっとしておこう。

 談話室で腰を掛けている椿の側に寄った。彼は縄文杉関連の本を読んでいる。

「何か面白いこと書いてます? 縄文杉の年齢とか」

「年齢のことは色々書いてますけど、結局わかってないみたいですね」

 そうでなくては面白くない。自分の目で確かめなければここに来た意味がない。

 部屋に戻るためエレベーターに向かう。この旅館には一つしかないため乗るまでに長い時間待たなければならない。だが椿は何でもないかのようにのほほんとした顔で待っていた。

 エレベーターが辿り着いた所で二人は無言で乗り込んだ。心の中には大きな葛藤が残っている。どうしても先程の話の続きが気になってしまうのだ。


「帰って来なかったというのは?」

「何でも、登山をしている最中に遭難にあったらしいです」


 その人は女性だったのだろうか。

 それだけでも訊いておけばよかった。心の葛藤とは裏腹にエレベーターは機械的な音を鳴らし部屋の階へ辿り着いたことを知らせた。

「では明日の七時半にドアをノックしますので」

「はい、それではまた。おやすみなさい」

「おやすみなさい」

「あの……」

「ん? 何でしょう?」椿が横顔でこちらを覗いている。

「いえ、やっぱり何でもありません」

「そうですか。それじゃまた明日」

 椿の笑顔を見送りながら再び大きな溜息をつくしかなかった。縄文杉の謎よりも彼の出会った人物の方が気になっている。

 自分の部屋に入り持ってきたティーバックで一服つく。

 ……別にいつだって訊ける話だ。

 リリーは心を落ち着かせ紅茶に口をつけた。何なら明日山登りをしながら訊いてもいい。

 彼女は改めて自分の立場を不思議に思った。写真で満足できる自分が写真で満足できない桃子のために山登りを始めようとしている。

 ……桃子の具合はどうだろう。

 電話を掛けてみるが一向に繋がる気配はない。もしかするとまだ寝ているのかもしれない。差し支えない程度のメールを送ることを決める。

 文面を考えていると本当の妹ができたみたいで彼女の心は弾んだ。決まりがよさそうな文を打った所で送信ボタンを押す。後は彼女のカラフルなメールが返ってくることを期待しておこう。

 携帯電話の画面を閉じながら彼女は一緒に瞳を閉じることにした。


  8.


「桃子、体調はどう?」

 目が覚めると目の前に菜乃香なのかが立っていた。額がひんやりとして気持ちがいい。額に手を向けると冷たいタオルが熱を吸収している。彼女がきっと新しく替えてくれたのだろう。

「うん。大分よくなったよ、ありがとう」

「それにしても運がないねぇ」菜乃香は薄笑いを浮かべた。「遊びに行く前日に風邪を引くなんてさ。そういえば前にもこんなことがあったね」

「そうだっけ?」

「そうよ」彼女は人差し指を立てていった。「小学校の時の遠足よ。その前日に二人で三百円のお菓子買って帰ってさ、明日交換しようっていった時のこと覚えてる?」

「ああ、そんなこともあったね」桃子は懐かしむように思い返した。「そういえばそうだね。私、あの時も熱出して結局遠足に行けなかったもんなぁ」

 菜乃香はくすくすと口に手を当てて笑った。

「そうそう。あの時もこうやって私が桃子のとこに行ってお菓子だけ交換したんだよね。で、今回は何で仮病を使ったの?」

「ん?」

 菜乃香は微笑みながらも視線は反らさなかった。

「あの時は好きな男の子に振られたからって知ってるのよ。それも含めて私は慰めにいったんだから」

「知ってたんだ」

 桃子が驚きの表情を見せると、彼女は何でもないかのように振る舞った。

「知らないわけないじゃない。何年付き合ってると思ってるの」

「菜乃香ちゃんには敵わないね」

 桃子は頬を掻きながらいった。そして真剣な眼差しで彼女を見た。

「行かないといけない所があるの。いや行かなくてもいいんだけど。これも違うな。本当は行きたくないんだけどさ、確かめないといけないことがあるの」

「それって……」

 桃子は小さく溜息をついて菜乃香を見上げた。

「今回も小学校の時と同じ理由になるのかもね。でも私は迷わない。リリーさんも覚悟を決めてくれたんだから、私も……決めないとね」

 

  9.


 屋久島二日目。天気予報通り、雲一つない青空が広がっていた。昨日まではぼんやりと曇っていた景色が嘘みたいで、雄大な山が燦々(さんさん)と輝いている。

 椿と共に弁当を受け取った後、レンタカーに乗り込んで、もののけの森に出かけることにした。運転は変わらず彼がしてくれている。

 ガタガタの山道を想定していたが、道路は思っていたよりも整備されていた。どうやらここから一時間くらいの距離にあるらしい。

 斜面が急な道に入り始めると自然の鹿や猿がぽつりぽつりと現れ始めた。椿は途中で車を止め夢中でシャッターを切っている。

 椿の食い入るような姿を見て母親の面影を感じる。きっと百合と二人で来ていたとしても同じ構図になっていたのかもしれない。

 さらに進むと道が細くなり一車道に変わった。椿はカーブミラーを覗き込みながら慎重に運転している。山道の中で地面に根を下ろしている葉っぱがあった。椿に訊いてみた所、クワズイモという種類の葉っぱらしい。何でも観葉植物として結構人気があるみたいだ。

 道なりに進んで行くと広い駐車場が見えた。駐車スペースに空きが少ない所をみると大勢の人がすでに登っているらしい。

 車から降りると空気の冷たさが身を震わした。標高は600mを越えているため夏でも寒い。椿と入念に準備運動をすませ登山道の入り口へ向かう。規定の登山料金を払い足を踏み出した。

 ついに登山の開始だ。


「天気がよくて本当によかったですね」椿はスキップをするかのように軽快に進んでいく。

「本当に。ここで晴れるなんて珍しいんでしょうね」

 歩く距離が増えるにつれて段々と椿との距離が開いてきた。彼の歩幅はリリーの二倍くらいある。身長が違うので差が出るのは当たり前なのだが、それにしても少々離れすぎだ。きっと高まる好奇心を押さえきれないのだろう。

 椿はそのことに気づいたらしく振り返って頭を下げてきた。

「すいません、ちょっとペースが早すぎましたね」慌てて立ち止まりばつが悪そうに頭を掻いている。

 リリーは小さくかぶりを振った。

「いえいえ、大丈夫ですよ。春花さんは写真を撮りながらなので私とだいたい同じペースになります」息が切れそうになるのを抑えながら答える。

「ではちょっとだけ先に行かせて貰いますね。あんまり遠くまでは行かないようにしますので」

 ……やはり子供だ。

 リリーは微笑んで小さく手を振った。

「ええ、気をつけて下さいね」

 椿は大股で進みながらゆっくりフレームを考えるように写真を撮る。その後に自分が地面をゆっくり噛み締めながら歩いていく感じだ。着かず離れずのペースで登山は進行していく。

 標高が600mあるとはいえやはり真夏だ。先に進むにつれ体中から汗が流れ出てくる。暑さに敵わず一枚余分に着ていたレインコートを脱ぎ彼の元へと足を踏み出していった。

 登りながら一つ、気づいたことがある。登山道に二十m先毎に赤いリボンがつけられているのだ。これを辿っていけば道を間違えずに登っていけるということなのだろう。

 リボンを目印に慎重に岩でできた道を通って行くと途中に吊橋が見えてきた。その橋の上で椿がお茶で喉を潤しながらリリーを待っていた。

「この場所は最高ですね。どこを取ってもいい写真になるので楽しいです」

 椿が夢中になるのも無理はない。確かにこの山道は幻想的だ。視界はすでにグリーンで覆われ始めている。岩のような石も倒れている木も、地上に出ている腐った太い根まで全て生きているようだ。

 ……本当にここは日本なのだろうか。

 自然に興味がない私でさえこの森はとても居心地がいい。空気の違いに気づけるなんて自分の体ではないみたいだ。はたして椿にはこの景色がどのように見えているのだろう?

 風景に囚われると椿の姿が見えなくなってしまいそうになる。彼に遅れをとるまいと彼女は足を速めた。

 

  10.

 

 登山を開始して二時間。ようやくもののけの森と呼ばれる所に到着したようだ。辺り一面に苔が隙間なく生えており空気までも苔の味がしそうだ。

 全てがグリーンで一体化しているこの森を桃子が見れば、何といって喜んでいただろうか。

 空から差し込む光で苔が宝石のように輝いている。昨日は雨がたくさん降ったからだろう。苔が光に滲みエメラルドグリーンに輝いている。

 今まで登ってきた景色とはまた違った趣があった。朽ちていく倒木のすみずみにまで苔は張り巡り、一つのオブジェのような存在感を放っている。他の観光客達も立ち止まりそれぞれのポーズで森を背景に写真を撮っていた。

 名所のようでさすがに人で賑わっており歓声をあげる声が途切れることなく聞こえてくる。ここで他人がいなければさらに現実から離れることができるだろうな、とリリーは少し残念に思った。

 椿はカメラを握ったまま口をぽっかりと開けている。シャッターを切ることを忘れて一面の景色に見とれているようだ。

「綺麗ですね」

「ええ、本当に」

 杉が張っている枝は全ての天井を覆い光が入る隙間を与えなかった。しかしその僅かな隙間から入る木漏れ日がなんともいえないくらい美しい。

 山頂前の休憩所に辿り着くと、たくさんの観光客が昼食をとっていた。何でも太鼓岩ではスペースが狭く昼食をとっていては他の観光客の迷惑になるらしい。

「大分歩きましたね。足がもうパンパンですよ」リリーは正直に思ったことを口にした。「でもきついのになぜか気持ちいいんです。変ですよね」

「それが山登りの醍醐味ですよ」椿は美味そうに水を飲みながら答えた。「僕も久しぶりです、こんなに楽しい登山は今までに経験したことがありません」

 彼の顔を見れば楽しんでいるのはわかる。だが何がそんなに楽しいのだろう。その感情はわからない。

「春花さんにはここはどんな風に見えるんです? 花屋さんだからこそ、ここの植物を扱いたいと思いますか」

 椿は約半年前に自分の眼では思いつかなかった視点で真犯人を言い当てた。植物と感情に着手しなかったことが盲点だった。

「うーん、そうは思わないですね」椿は頭を捻りながら答える。「ここの植物達はすでに完成されているんです。花の扱いで大事なのはそれぞれの個性を生かすことにあるんですが、ここの植物達は皆美しい表情を作っている。なので扱ってはいけない、神聖なものに感じますね。ここの森は全体で一つの音楽を奏でているんですよ」

「え? 音楽ですか」

「そう、生きもの、としてです」椿は唇を舐めて続けた。「ここの森の中には様々な楽器を持った演奏者がたくさんいるんです。苔に覆われた倒木、石なんかはメロディの基礎となる土台を作るドラムですかね。川の水の流れはメロディを作るピアノ、新しい木々や大昔から生きている木々は煌びやかな音を作るバイオリンや重厚な音を作るチェロのよう。それを纏めるのは光の指揮者。全てが自分の役割を全うしていて、とても触れてはいけない領域にあるようなんです」

 ……凄い。

 リリーは心の中で驚嘆した。彼は音がないものにも音を感じることができるのだ。それはきっと植物の声を聴こうとしているからかもしれない。

「すいません、意味のわからないことを申して」椿は頭を掻きながら照れくさそうにしている。「ご飯も食べましたし先を急ぎましょうか」

 椿は急いでおにぎりを口に突っ込んで立ち上がった。しかし喉に詰まらせてとむせている。彼の焦っている姿を見て彼女は自然と笑みが零れた。


 昼食を終えリュックを背負い直す。後二十分も登れば頂上につくだろう。頂上ではどんな景色が見られるのだろう。椿の意見も楽しみだ。

 さらに急な角度になり一歩登るだけでも息が切れそうになった。大股で一歩一歩登っていかなければいけない。近くの枝を優しく握りながら慎重に登っていく。

 しかし山登りは実に楽しい。百合もこうやって山登りを楽しんでいたのかと思うと自然と心が軽くなっていく。

 母親は山登りの楽しみは頂上ではなく過程にあるといっていた。目標を達成することだけが生きがいだった自分には考えられないことだった。

 捜査においても同じことがいえる。誰が犯人か結果をいい当てることだけに論点を注いできていた。

 それは父の教えだ。結果だけを重視し後ろを振り返らず先に進む。感情を制御するには一番楽な方法だった。

 だがその現実が自分の中で変わろうとしている。具体的にいい表せない何かが心にあるガラス玉を溶かそうとしているのだ。

 そのきっかけは秋風綾梅の事件だった。被害者の遺族にとっては犯人の結果がわかってもそれで終わりではない。これから先、延々と先の見えないトンネルを歩いていかなければいけないのだ。

 桃子は永久に母の死を忘れることができないだろう。その闇ははたして払拭される日が来るのだろうか? 彼女のことを考えると途端に胸が苦しくなる。

 ……頭を切り替えなければ。

 リリーは手足に意識を集中した。もうすぐ写真の景色が目の前に現れるのだ。山頂はすぐそこまできている。

 はたして山頂はどういった景色が広がっているのだろうか。自分の目で見る、というのはどういったものなのだろう?

 その意識が足を前へと進ませる。


  11.


 山頂へとつくと、椿が待っていた。

「どうでした? 太鼓岩からの眺めは」

「いえ、冬月さんと一緒に見ようと思って待っていたんです」

「そうでしたか。ありがとうございます、じゃあ一緒に見ましょうか」

 太鼓岩の上に登って景色を一瞥する。遠くまで山が続いており山自体が地平線になっている。この景色には圧倒されてしまう他ない。

 岩の周りには柵はなく滑れば命の保証はない。岩の先端に来ると足が震えそのまま座りこんでしまいそうだ。

 まっすぐに見下ろすと中心に岩で作られた道があった。きっとあそこから登ってきたのだろう。

「絶景ですね」

 リリーは伸びをしながら風を全身で浴びた。椿と景色を眺めていると他の観光客が連れてきたガイドが声を上げた。

「右側の山が九州最高峰の宮之浦岳になります。そしてあの辺りに縄文杉があるんです」

 ガイドの指差す方向を眺める。その先を想像するだけで体が重たくなり、さらに空気が薄くなったように感じてしまう。

「明日は宮之浦岳には行かないんですよね?」リリーは鋭い視線を向けながらいった。

「ええ、そちらから回って縄文杉に行くルートもあるんですがかなり上級者向けです」椿はガイドに習って説明する。「縄文杉はトロッコ道と呼ばれる方から行くのが一般的です。なので山の方からは難しいですね」

 ほっと溜息が漏れる。まだ心の準備ができていないのだと後悔してしまう。

「冬月さん?」

 椿を見ると、心配そうな顔でこちらを見ていた。これ以上、落ち込んだ様子は見せられない。

「すいません。ちょっとぼーっとしてて。何か仰いました?」

「いえ、特に用があったわけではないのですが……」

「ちょっと目にごみが入っちゃったみたいです。気にしないで下さい、もしかしたら私も花粉症なのかもしれません」

 リリーはハンカチを取り出して両目を軽く抑えた。


 頂上の景色を堪能した後は下山へと向かった。

 登山を始め四時間がたっている。後二時間もすれば帰れるだろう。大分足にきている、集中しないと今にも崩れ落ちそうだ。脹脛ふくらはぎを掴んでみるとすでに指が入る隙間がない程固まっていた。

 ……そもそもどうして登山などがあるのだろう?

 彼女は深く思考に集中した。それになぜこのような不便な土地で昔の日本人は生活していたのだろう。海を越えれば本土があるのにだ。

 仮想がぽつぽつと浮かんでいく。ここにある杉は上等なものだから生活するには困らない。お互い知っている人達が共同するため争いが起こりにくい。だが自然の中に住むとなれば危険はもちろんある。

 森を愛していなければ住むことはできない、とリリーは思った。祖先から伝わる伝統を守ろうとする意志がなければこの地で生活をすることはできない。血の強さこそが屋久島の人に眠る絆の象徴なのだ。

 自然が当たり前にある世界。

 自然がないことが当たり前の世界。

 きっとお互いの価値観は違うものだ。森に生きる人達は自然を愛し木を自分たちの家族同様に丁寧に扱うだろう。はたまた自然がない世界の人は便利さを追求し時間を貴重に扱う。自然について考えることは時間の無駄だと思うかもしれない。自分の父親のようにだ。

 それは生活環境の中で自分の傍にあるものに影響されるのだ。時を経て人生を共にするもの。

 ……どちらが正しいなんてない、どちらも正しいのだから。

 理論は間違っていないし正解だ。だからこそ自分は強い正義感を持つことができるし、自分の仕事に誇りを持って進むことができる。

 だから、感情も―――。

 心の奥底にある感情が再び揺れ動き始めていく。彼と出会ってその蓋は着実に緩くなってきている。このまま蓋を取り除いてしまってもいいような気さえしてしまう。

 だが今まで押し殺してきた感情を私は受け入れることができるのだろうか? 今まで抑えていたものに飲み込まれてしまうのではないか。

 心の中で葛藤は延々と続いていく。一つだけ気づいたことは今まで培ってきた価値観が音を立てて崩れていくことだった。

 

  12.


 登山を終え、下宿先に戻ってきた二人は食堂で落ち合うことにした。リリーは飲み物を注文しようと手を挙げた時、ラムネの瓶が目に入った。

「すいません、ラムネを頂いてもいいですか?」

「じゃあ僕も同じので」

「はーい、すぐお持ちします」

 年配の女性は瓶を持ってきてリリーの前で開けてくれようとしたが、彼女は咄嗟に小さく手を振った。

「あ、いいです。自分で開けたいので」人差し指でビー玉を落とすと、煙が指にまとわりつく。「それにしても懐かしい。小さい頃によく母と二人で夏の暑い日に飲んでいたんです」

 リリーはガラスを傾けラムネを口にした。口の中をくすぐる独特な感じが堪らない。

「春花さんはラムネでよかったんです? お酒は飲まないんですか」

「実は下戸でしてほとんど飲めないんですよ。缶ビール一本飲んだら顔が真っ赤になってしまう程なんです」

 ……意外だ。

 自主的に規制しているのだろうと思っていたのだがほとんど飲めないとは。

「じゃあ明日は無事に終わったら一杯だけ祝杯をあげませんか」

「そうですね、一杯くらいなら大丈夫です。お供しましょう」

 再びラムネを口に含む。ビー玉の音が心のガラス玉にリンクする。やはり彼にはきちんと聞いておいた方がいい。

「春花さん、昨日屋久島でお世話になった人がいるといっていたじゃないですか? その人は女性でした?」

 椿は新しいラムネを口に含んでから答えた。

「ええ、女性でしたよ」

 リリーは一息ついてから椿の目を見た。彼の瞳には自分の記憶よりも新しい母親が映っているのかもしれない。

「もしかしたらそれは母かもしれません。母は宮之浦岳に登りに行ったまま、帰って来なかったんです」

「……なるほど、そういうことでしたか」椿から明るい色が消えていく。「いつの話ですか? お母さんが亡くなったというのは」

「ちょうど二十年前の冬です。私が五歳の頃でした」

「二十年前ということは……僕が十歳の頃だから多分同じ時期ですね」

 期待が膨らんでいく。だが確信が持てない。彼が母親と会ったという証拠は何一つない。

「何かその人の外見的な特徴なんか覚えていませんか? 母はカメラマンだったんです。宮之浦岳に登るためにたくさん機材を現地に送っていました。縄文杉を取りに行くといっていたんです」

「うーん。すいません、昔のことなので詳しくは……」椿は顔をしかめながら考えている。「そういえば一つ覚えていることがあります。その人は確か僕にチェルシーの飴だったんです」

「……それ、母のお気に入りです。間違いないみたいですね」

 リリーはグラスを落とし肘をテーブルの上につけてうずくまった。

「まさか春花さんと会っていたなんて……。こんな偶然ってあるんですね」

「本当に……。失礼ですが、お母さんはどんな方だったんです?」

「花が大好きな人でした。毎週のように苗を買って来て庭に植えていました。自然が……大好きな人でした」

 急に涙が零れてくる。ただ母親の話を共有できたということだけで高ぶってしまう。

 二十年間、押し殺してきた感情が動き始めている。このまま進んでしまえば止める術はない。

「……明日、行けそうですか?」椿は低い声でいった。

「……もちろんです」リリーは涙を掬って彼を見た。「母に会うために……ここに来ることを決めたのですから」


   13.


屋久島三日目。

 午前四時のアラームで目が覚めると辺りは真っ暗だった。もちろんまだ日は昇っていない。朝食は登山口に着いてからという予定にしていたのでシャワーだけ浴びておく。

 椿と待ち合わせ外に出ると空は満天の星で埋まっていた。まるでホロスコープが丸ごと空に掛かっているようだ。隙間無く埋まっている星達に目を奪われる。

「こんな時間に星を眺めることができるなんて不思議な感じですね」リリーはぼそりと呟いた。

「ですね。何だか空に吸い込まれそうだ」

 星に意識を奪われながらバスの停留所に着く。他の登山客もたくさん並んでおりバスを待っている。

 ぎゅうぎゅうに詰め込まれたバスから降りて空を眺めると柿色の朝焼けが映っていた。

 いよいよ縄文杉への登山だ。ついに百合が眠っている場所へ向かうことができる。はたして自分はその木を見てどんな感情が沸き起こるのだろうか――。


 歩き始めるとトロッコが通るレールが続いていた。パンフレットによると、二時間くらいこの道が続くらしい。距離にして8kmを越している。時計を見ると六時半を指していた、遅くとも九時には着くだろう。

 レールを作っている木の板は大分古くお世辞にも整っているとはいえなかった。しかし平坦な道なので足に負担は掛からない。それでも筋肉痛で一歩歩く毎に足が痛む。ここを見るために来たのだ、泣き言はいえない。

 山に入って二日目。杉にも色々な形があることがわかった。伸び方は違っても木の先は上を向いている。倒木の上に生まれたての杉があったり光を浴びることができず枯れて茶色くなっている杉もある。言葉を発さずただ黙々と成長する杉を見ると心を揺さぶられる何かを感じる。

 時間が経つにつれ太陽の光が強くなっていく。植物達は光を受け入れようと葉をうまく伸ばしており、屋根に設置されてある太陽電池のように余すこと無く整然とした姿で並んでいる。その姿に合理性を感じ関心してしまう。

 観光客も多く一本道なので後ろから追い越されることも多い。だが追い越されても自分の心は不思議と乱されることはなかった。登山には時間の概念を消してくれる力があるようだ。

 トロッコ道を通り抜けた後、椿を見ると、彼は空模様を気にするかのように天井を見上げていた。

「冬月さん、空を見て下さい。雨が振りそうですね」

 椿が空を見上げながらいった。今にも振り出しそうな雨雲が広がっている。雲が増えたせいだろう、先ほどと比べると光が弱まっている。

「そうですね、そろそろレインコートを着ましょうか」

 雨が振れば登山はきついものになるだろう。だがそんな景色さえも見てみたいと思ってしまう自分がいた。雲に覆われた森は薄暗いが、神秘さが増し静謐な空間を作り始めている。すでに光を失った森は重厚な色彩を放ち自分の心を穏やかにしていく。

 縄文杉を辿る道もまた、もののけの森に負けないくらい幻想的な世界だった。伐採されずに残った大木は螺旋状に伸びており途中で着生した植物の枝が表皮を多い尽くしている。アンバランスな枝の張り方に何ともいえないものを感じる。

 ……椿なら、この木を見て何と表現するのだろう。

 彼の意見が訊きたくなるし、彼の笑顔が見たくなる。心の感情が少しずつ色を付け始めていく。だがまだその液体はガラス玉で蓋をされており、表現することはできない。

「冬月さん、見て下さい。凄い大きな木が繋がっています。夫の方が二千年、妻の方が千五百年も生きているみたいですよ」

 椿にいわれた方向を見る。夫婦杉と呼ばれる二本の大木が三m以上も離れているお互いを繋いでいる。まるで手を繋いでいるかのように一本の節で結合しているのだ。長い年月をかけて硬い絆で結ばれている杉達は本当に恋人同士のようだ。

 夫婦杉に見とれていると、椿が突然手を掴んできた。思わずリリーは手を跳ね除けた。

「びっくりさせないで下さい。いきなりどうしたんですか?」

「あ、すいません。夫婦杉を見ていると思わず握ってしまいました」

 心臓が脈を打つ。突然の出来事に自分の思考回路はパンクしそうだ。

 だがここは冷静にいわなければならないことがある。

「春花さん、もう少しまともな言い訳を考えて下さい。そんな言い方じゃ怒る気も失せましたよ……」

「すいません。あまりにも夫婦杉が素晴らしいので思わず感動して握ってしまいました。お許しください」

「……丁寧にいって欲しいといってるんじゃありませんよ」リリーはがっくりと肩を落とした。「こういう時は一言、女性に対してお世辞の一言でもいって謝るべきだと思いますよ? 確かに私は女っぽくはないですけど」

「本当にすいません。気が利かなくて申し訳ないです」

 他の登山客から微笑が漏れ始めた。このままここで言い争っても他の客に迷惑が掛かるだけだ。

「先に行きましょうか」

 そういって椿は再び自分の手を握り足早に走ろうとする。

 彼の体温を感じながらも、リリーはなされるがまま彼の後ろをついていった。


  14.


 椿の手を離した後、リリーは三十分ほど山道を登った。足場は最早ないに等しいくらいに悪い。岩を登ったり木の根を蔦って降りたりと瞬間的には次の道が認識できない。赤いリボンがなければ間違いなく迷ってしまうだろう。

 慎重に手を使いながら道を進んでいくと、目の前に大きな木で出来た階段が現れた。見上げると遥か上空に巨大な木が見えている。ついに辿り着いたらしい。

 リリーは思わず声を上げて後ろを振り返った。椿もにっこり微笑んで頷いている。

 ……あれが、縄文杉。

 彼女は走り出していた。10m以上はある階段を夢中で登っていく。早くあそこからの景色が見たい。早く会いたい。その思いから足は自然と駆け足になっている。

 登り終えた後、目の前には巨大な生き物がどっしりと腰を据えていた。とても堂々としている。リリーは悠然に佇んでいる縄文杉を見て思わず声を上げた。

 パンフレットには高さ20mと書いてあったが、天空まで伸びているような錯覚を受ける。本当にこの木は生きているのだろうか?

 木の根元を観察してみると、中心から円を書くように根が張り巡らされていた。まるで巨大な横綱が四股を踏んで構えているようだ。

 リリーは背筋を伸ばして縄文杉と顔を合わせるようにまっすぐに立った。その圧倒的な大きさに畏怖の念を感じずにはいられない。

 着生している木、全てが長い年月を生き抜いた賢者のようにどれもが精悍な表情をみせている。一本一本の木が縄文杉の一部であり、全てを合わせて一つの大きな生き物を形成しているようだ。

「本当に生きているんですね……」リリーは思わず呟いた。

「そうみたいですね、本当に信じられないですが」

 大学の卒業旅行で行ったフランスのモンサンミッシェルを思い出す。巨大な教会を中心とした様々な建築物が融合し一つの城を構えているような佇まいだ。

 枝に茂っている葉にも着目してみる。丸い葉、尖った葉、ふわふわした葉など一言に葉っぱといっても形が違う。色も緑色だが淡い色、濃い色、はっきりした色、色鮮やかな色とそれぞれ違う特徴があった。それは昨日見たもののけの森を連想させるようだった。

 この生き物は一本の『森』だ、とリリーは思った。たくさんの生き物の束を融合させた一つの森。それが今、目の前に存在しており生きている。

 これが縄文杉。太古を生き抜いてきたといっても疑う余地はない。

「冬月さん、ガイドの方が縄文杉の話をしてくれていますよ。もしかすると年齢のことも教えてくれるかもしれません」

 椿がガイドの方を指差している。そこには団体を連れたガイドが縄文杉の説明を始めていた。その饒舌な口調は長年の経験を物語っている。

「そうですね。でも……私はいいです」リリーは微笑みながら答えた。「最初は年齢のことを知りたかったんですけど、本物を見ているとそんなこと、どうでもよくなっちゃいました」

 リリーはじっと縄文杉を見つめた。この木の本当の年齢なんか知りたくない。これだけ素晴らしい姿を見せてくれるだけで十分だ。

 数字に囚われていたら見えるものも見えなくなる。母の言葉だ。今まで自分の人生は全て数字によって支配された。数字に支配されるため、といってもいいかもしれない。それくらい数字に固執していた。

 しかし椿を見ていると、その考えこそが間違っているのではないかとさえ思ってしまう。椿の眼は数字ではなく本質を見抜く眼だ。素直な心で見続けありのまま表現する。

 ……感覚は本当に大切なものだ。

 リリーは心の中で反芻した。自我を持たず感情に身を委ねるということは、怠惰なものではなく真実を見ることができる強い心の表れなのかもしれない。

 百合はこの杉を見れたのだろうか、そして何を感じたのだろうか。答えは永久に出ない。しかし今、自分はきっと母親と同じ感覚を味わっているのだ。そう思うだけで自分の心はふっと軽くなっていく。

 この場所は心を開放することができる。これだけ大きな生き物に出会うと人は自分の感情を偽らなくてもいいのかもしれない。

「春花さん、ありがとうございます。私はここに来れて本当によかったです」リリーは本心を告げることにした。「私は数字の世界だけで満足してたんです。それはとても狭い中での出来事だったんだなと思いました」

 論理も大切だ。しかし感情も感覚も大切だ。

「今までは感覚に頼る仕事なんて馬鹿にしていた部分があるんです。母の仕事にしてもそうです。確かなものがないというのは妥協できる部分がある、甘い世界だと思ってました。

 でもこの島に入ってから私はたくさんの感情を知りました。それは数字にはできないけど確かに私の心の中に存在しています。言葉にできなくても伝えることができなくても、心に残すことはできるんですね」

「冬月さんは本当に素直な方ですね」椿は照れながら頭を掻いている。「何だか僕の心まで洗われるようです。そんなに喜んで貰えると僕も嬉しいです」

「いえ春花さんのおかげですよ。自然って凄いです」

 リリーの中で眠っていた感情が再び沸き起こる。緑に囲まれ自分の閉ざしていたガラス玉が音を立てて崩れていった。

 もう自分を縛るものは何もない。


 ―――お母さん。

 私はもう自分を偽ったりしません。お母さんのように素直でいることにします。辛いことも楽しいことも全部含めてです。

 これから、お母さんが撮った写真を覗いてみることにします。今まで押入れにしまっていてごめんなさい。

 お母さんが亡くなってから感情を抑えていました。それが強い者の証であるようにずっと耐えていました。

 でもこれからはたくさん泣きたいし、笑いたいと思ってます。

 もちろんすぐにはできません、だって二十年も我慢してきたのですから。

 それでも私は感情という花を大切に育てていこうと思います。

 これからはこの花を枯らさないように生きていきます――。


 縄文杉に別れの言葉をかわし帰り道を進んだ。今からは降山になるのでさらに足に負担が掛かるだろう。慎重にステッキを使いながら山道を下っていく。

 ぽつぽつと予報通り雨が降ってきた。レインコートを着ていたため濡れにくくなっているが完全に防げるわけではない。

 雨の中、周りの景色を眺めてみる。じめじめとした暗い景色ではなく苔や杉が雨に濡れて満たされたように穏やかな表情を作っている。足場は悪くなったが雨が降ってくれたことにも感謝したい気持ちになっていく。

 雨が土砂降り状態になり地面がたくさんの波紋を作っていく。さすがにこの状態で歩くのは辛い。辺りを見渡すと雨宿りができそうな窪みがあった。二人はそこでしばらく様子を見ることにした。

「凄い雨ですね」椿がタオルで体を拭いていく。

「でも、この景色も綺麗です。なんだかこの景色こそが本来の姿なんだなって思うと雨に濡れるのが苦にならないんですよ」

 レインコートの下はすでに水浸しだ。下着までびっしょりと濡れているが、不快感はない。山と一体化しているような気持ちにさえなってくる。

 ふと彼女の目に閃光が飛び込んできた。それは洞窟の一番奥からだった。目をやると苔木の上にすーっと伸びた白い花があった。

 近くによって指で測ってみる。人差し指の一節にもいかないくらい小さい花がある。

「春花さん、なんですかねこの花?」

「僕も初めて見ました、何でしょうね」

 リリーは急に写真が撮りたくなった。心がこの閃きを逃すなといっている。

 その花は可憐でリリーの瞳を焼き尽くすように光っていた。サクラの花びらを見た時と同じ感覚が迫る。この感情は留まることなく溢れ出てきている。

 スマートフォンで一枚だけ写真を撮った後、彼女はこの感覚を忘れまいとしばらく花を眺めることにした。


  15.


「さ、着いたよ。……頑張ってね」

 菜乃香に促されるまま桃子は目の前にある建物の中に入った。建物の中は薄暗くどんよりとした空気を放っている。それでも前に進み目的を果たさなければならない。

 手続きを済ませ看守に挨拶をする。いよいよこの世で最も一番会いたくて、会いたくない顔に面と向かなければならない。桃子は戦慄と恐怖を覚えながら指定された椅子に座った。

 向かいの扉が開いた。その扉は熱を持たず冷ややかで重たい空気を作っていた。まるで今から地獄からの死者を迎えいれるようだ。扉が開いたことで彼女の全身に寒気が襲う。だがその扉から現れた人物が目に入ると内から来る鼓動は熱を持ち全身が火傷するようなエネルギーで満ちていった。

 そこには自分の母親を殺した夏鳥皐月がいた。

「……久しぶり、だね」

「……そう、だな」

 桃子は椅子についた後、自分の気持ちを落ち着かせるため深呼吸をした。心の中には冷静でいようとする自分と興奮の中で怒りに身を任せようとする自分がいる。そのどちらも本当の自分だ。だが数秒毎に気持ちが入れ替わるのは初めて味わうものだった。

 皐月を見ると明らかに変貌を遂げていた。長い金髪は丸く散切り頭にされ一気に若返って見える。褐色のよかった肌も日に当たっておらず白くなっており絞まっていた胸板は見る影もなく細くなっていた。

「元気に、してる?」

「あ、ああ……」

 桃子の声は擦れたが、皐月には聞こえたようだ。薄い唇から皐月の声がきちんと漏れていた。

「あのさ……あなたに……」

 ここに来るまでに何度も想定していた言葉がいつの間にか宙に消えていた。どうしてお母さんを殺したの? 私との付き合いは全部、嘘だったの? 病院で初めて会った時からこの計画を考えていたの?

 訊きたいことは山ほどある。だが始めに確かめないといけないことがある。

「あなたに……訊きたいことがあるの」

「ああ、何でも正直に答えるよ」

「あ、あのさ……お母さんは本当に蘇鉄さんとは付き合ってなかったのかな?」

 そういうと彼の顔が突然歪んだ。

「どういうことだ?」

「私もね、実は蘇鉄さんとお母さんは付き合ってたんじゃないかなと考えたことがあったの。でもそれでもいいと思ってた。お母さんからお父さんの話は聞いたことがなかったし家にはお父さんの物が全くないの。だから私にはお父さんの記憶がないの。どんな人なのかすら知らない。もし私が皐月君の立場だったとしたら復讐を考えていたかもしれない」

 蘇鉄は月に二回、桃子の家の庭を手入れしていた。それは本当に父親のことを思ってのことだったのだろうか。

 皐月の母・桜が病死していることも知っている。その前日に庭の手入れに来たことも知っている。だが全ては蘇鉄から聞いたことだ。当の本人達はすでにこの世にはいない。いくらでもごまかそうとすればできることだ。

「桃子、何をいってるんだ……今更何をいってるんだよ……」

 皐月の表情は強張ったままだ。それでも彼女は続けた。

「私はね、正直……皐月君に会いたくなかったよ。こんな現実を受け入れる力は私にはないからさ。きっと一生あなたのことを許すつもりもないし許さないとも思う。

 だけど……真実が知りたいの。もし桜さんが生きている間からお母さんが蘇鉄さんと付き合っていたというのなら……私はどっちも軽蔑する」

 皐月は頭を捻りしばらく沈黙した。やはりこの質問は想定になかったらしい。先ほどまで強張っていた表情が一変していつもの彼の表情に戻っていた。

「親父は庭を見ればわかるといっていた。俺はもちろんあれから見ていない。だがそれも親父の言い分だな」

 その後、突然皐月は声を漏らし続けた。

「綾梅さんの日記がある。あれには俺たちが生まれた時のことが書かれてあった。それに一番後ろのページには何かの建物の写真があった」

「建物の写真?」

 皐月は頷いて続けた。

「何か細長い建物だった。赤い色が混じっていたが写真全体が墨で塗りつぶされていてよくわからない状態にあったが」

 細長い建物。きっと楓が手掛けた建物に違いない。楓が大工をしていたことだけは知っている。

「なんで墨に塗りつぶされていたんだろう」

「わからない。だが真実を知るためには綾梅さんの気持ちを確かめるしかない。だから……」

「うん。その先は……いわなくてもいいよ」

 皐月のいいたいことはわかる。楓のことを調べるしかないといっているのだ。

「そっか……。そうよね……。今まで見てない振りをしていたけどやっぱり調べるしかないか……」

 桃子の表情に気づいたのか皐月は声のトーンを落として告げた。

「質問はそれだけか?」

 時間が迫っていた。別に日を改めればいくらでも話すことはできる。だが再びここを訪れる日はないだろう。

「じゃあ最後に一つだけ。最初からだったの? 私が秋風桃子だったから復讐の対象として近づいたの?」

 皐月は首を横に振ろうとしたが、そのまま目を背けたまま桃子に告げた。

「……あ、ああ。そうだ。全部、最初から最後まで計画を手掛けるためにやったことだ。だから俺を恨んで貰って構わない」

「そう……」

 看守が足を踏み出した。それに合わせて桃子は席を立ち部屋の扉を開けた。


「……お疲れ様」

 菜乃香は車のエンジンを掛けながら無言でアクセルを踏んだ。

「訊きたいことは訊けました。ありがとう」

「……そっか。よかったね」

 しばらく走っていると視界がぼやけているのに気づいた。それが自分の涙だと気づくのにしばらく掛かった。

「泣きたい時は泣いていいんだよ」

 菜乃香はそっとハンカチを取り出した。だがここで泣いてしまっては理性を保つことができそうにない。

「違うの。これはね、花粉。私、花屋なのに花粉症なんだ」

「知ってる。だから花粉を落とすためにこれを使っていいよ」

 目薬と共にハンカチを受け取る。やはり菜乃香には敵わない。

 桃子は目薬を差した後ハンカチで顔全体を覆った。そしてしばらく身を丸め彼女の前で泣き崩れた。


  16.


「お疲れ様でした。それでは乾杯しましょうか」

「ですね、かんぱーい」

 鈴虫の鳴き声を聞きながらリリーはお互いのグラスにビールを注ぎ込んだ。勢いよく口に流し込むと、心の中は達成感で一杯になっていく。

 屋久島の夜も今日で三日目。明日、帰ることを考えると、少しだけ寂しい気持ちになる。

 椿の顔を見ると、すでに高潮していた。普段飲まないというのは本当らしい。

「春花さん、顔が真っ赤になってますよ」

「そうですか? まいったなー」椿はグラスを空にしながら目の前にある唐揚げをほうばっている。「冬月さんも真っ赤に見えますよ。照明のせいかな、ぼんやりしてみえます」

 手で確認してもほとんど熱を帯びていないし、近くの窓で見ても赤くなっていない。もしかすると彼はすでに酔っ払っているらしい。

 ……たった一杯飲んだだけなのに。

 彼に注意を払うと、彼は今にも潰れそうな目で自分を見つめている。

「大丈夫ですか、春花さん。お酒は止めときましょうか」

「大丈夫ですよー。いざとなったら冬月さんがいるじゃないですか」

 普段の椿からは想像がつかない姿だった。だが自分のことを頼りにしてくれるのは嬉しい。

「今頃訊くのもなんですけど彼氏とかいらっしゃらないんですか? 確かめもせず二人で来てる時点でおかしな話ですけど」

「もちろん、いませんよ」リリーは大きく首を振った。「いたら来るわけないじゃないですか。春花さんはいないんですよね?」

 春の時、パン屋の店員が独身だということをいっていた。彼女がいないとはいっていなかったが多分いないのだろう。

 椿はグラスを空にして頷いた。

「残念ながら……。でも独り身も楽でいいですよー」彼はそういってにやりと笑った。

 どうやら椿は酔うと笑い上戸になるらしい。絶えずニヤニヤしている。

 ……正直いって気持ち悪い。

 普段から笑顔を絶やしていなかったがそれは接客から来る作り笑いのようだ。今の笑みは完全にいやらしい目つきそのものになっている。

「お楽しみの所、すいませんね。ここは二十一時までになっているんです。もしよろしかったら売店でお酒が売っていますのでお部屋で飲んで頂いてもよろしいでしょうか?」

 食堂の女将が声を掛けて来た。時計を見るとすでに二十一時半を過ぎていた。

「すいません、すぐに出て行きますね」

 ぐでんぐでんの椿を抱えエレベーターに向かう。まだ飲み足りないが、彼の様子を考えると飲める状態にはなさそうだ。

 シャッターの閉める音が聞こえてきた。振り返るとオーナーが見えた。

「お連れの方、大分酔っ払っていますな。今日は縄文杉でしたね。途中から雨が降っていましたが大丈夫でしたか」

「ええ、縄文杉に辿り着いてからだったので。とても素晴らしい所でした」

「そうですか、それはそれは」オーナーは嬉しそうな笑顔を見せた。

「そういえば見て欲しいものがあるのです」リリーは携帯を開いて小さな花を尋ねてみた。「この花を見たことありますか? とっても小さかったんですけど」

「すいません、ちょっと失礼」彼は首に掛けてある眼鏡を掛け画面を覗き見た。「んーこれは先日あなたが気にいっていた写真の花ですよ」

「えっ?」

 改めて照らし合わせてみる。写真の映りからしてかなり巨大な花だと思っていたが、よく見ると同じ特徴をしている。

「でも冬の花じゃないんですか? 今日咲いていたのを見たんです」

 二人の様子を見て女将が会話に加わってきた。

「ああ、珍しい。今の時期に咲いていたんですか?」

 リリーの携帯を目の前にし顔を綻ばせている。

「ええ、そうなんです。洞窟の中に咲いてました」

「綺麗ですね。あなたもこれくらい綺麗な写真が撮れればいいのにね」

「何をいってるんだ、これは俺が撮ったんじゃないか」

 オーナーはそういって額縁に掛かった写真を指差した。

「違うわよ。これは現像を頼まれていた写真でしょう? 結局、その方は帰って来なかったから、うちで飾ることにしたんじゃない」

 心臓がドクンと高鳴る。

 まさか、この写真は……。

「それはもしかして二十年くらい前の話じゃないでしょうか?」

 リリーが尋ねると女将は首を振って頷いた。

「そうそう。確かそれくらいです。女性の写真家でした。ご家族が見えていたんですが、結局ここに飾って欲しいということだったので飾っていたんです」

 リリーはもう一度写真を見た。その時の記憶はなかったが、この写真を見た時に感じた情熱は百合から来るものだったのだ。それが言葉を通さずとも自分の心に伝わった。

 百合と今、時間を越えて繋がることができたのだ、一枚の写真を通して―――。

「すいません。この写真を私に譲ってくれないでしょうか?」

「え、もしかして……」女将とオーナーはお互いに顔を見て頷いた。「そういえば父親は外国人だったな……そうか、あなたが……」

「もちろんいいですよ」女将は微笑んでいった。「撮った人だってきっと喜ぶでしょう、あなたに飾って貰ったら」

「この写真はあなたが来ることをずっと待っていたのかもしれないね」オーナーは照れくさそうに鼻を擦りながら告げた。

 写真を受け取ると百合の思いまで胸の中に入り込んできた気がした。花を見つけた時に感じた温もりが再び舞い込んでくる。

「それにしてもよく雨の中、こんな小さな花を見つけることができましたね。本当に自然が好きなんですね」

「本当にたまたまなんです、本当に。でも……」

 リリーは胸に手を当てていった。

「私にとっては一番の思い出になりそうです」


  17.


 食堂の外にある自動販売機でビールの缶を四本買いエレベーターに乗り込んだ。リリーは写真を自分の部屋に置いた後、彼の部屋に行き再び乾杯した。

 今の状態なら椿は何でも答えてくれるに違いない。リリーは彼に一番知りたかったことを訊いてみた。

「春花さんはなんで花屋になったんです?」

椿はひっく、としゃっくりをしながらいった。

「それはですね。花を好きになっちゃったからですよー、あーお花のことを考えてたらお腹空いちゃったなー」

 まさか食用じゃないでしょうね、とつっこみたかったが止めておいた。椿からは普段の理路整然とした口調は跡形もない。

 彼女は溜息をつきながら優しく訊き直した。

「他の職業についていても花を扱うことはできるじゃないですか? なぜ花屋になったんです?」

「確かに。そういわれるとそうですねー」

 椿は遠くを見つめるように目線を上にやっている。しかし全く焦点が定まっておらず呆けた顔になっている。

「もう。しっかりして下さいよ。そういえば家の仕事を継ぎたくなかったといっていましたけど、差し支えがなければ教えてくれませんか?」

 椿はビールを飲み干してからいった。

「葬儀社ですよ。こないだ綾梅さんが行なった式場があったでしょう? あそこは両親の会社なんです」

 なるほど。思い当たる点はある。社葬にも負けない程の立派な祭壇が組まれていたのだ。そこには何かしらの縁があったに違いないと踏んでいた。

「そうでしたか。私は別に葬儀社に偏見は持っていませんけど」

 誰だって最期はお世話になる所だ。今の時代、大手の会社が参入し不透明な所が多かった部分にもきちんと光が当てられている。特にやましいと思う部分はない。

「僕も別に家業が嫌で継ぎたくなかったわけじゃありません。ただ妻が花屋をしたいといっていたので」

 妻?

 リリーは意味がわからずもう一度訊いた。

「妻というのは? 誰のことですか?」

「ああ。そうでした。冬月さんには伝えてなかったんですね。実は僕、結婚してたんです」

 椿は苦笑いを浮かべながらいった。

「結婚してからわずか半年で逝ってしまったんですが。もう去年のことになってしまったんだなぁ」

「去年に……亡くなったんですか?」

「そうなんです、交通事故で逝ってしまいました」

 ……酔っ払って聞ける話ではない。

 彼女は自分の頬をつねった。彼が結婚していたなど想像もつかなかった。

 だが彼は思い返すかのように熱を持ちながら続けた。

秋桜美あさみとは大学で知り合ったんです。彼女は本当に花を愛していてどこに行っても自然がある所を選んでいました。

 僕は最初家業を継ごうと思っていたんです。だけど妻の両親に反対されて別の仕事なら結婚を許してくれるといって貰えました。それで二人で考えた結果、花屋をすることにしたんです」

 ……まさか、結婚していたなんて。

 急速に心が渇いていく。秋桜美という名が胸の中でぐるぐると反芻し続けていく。一体どんな人だったのだろう。

「花屋を始めるにしてももちろん技術はないし何もわかりませんでした。それで僕は両親の葬儀社に入っている花屋に勤め彼女は別の花屋に勤めました。それから五年近く働いてから、ようやく店を持つことができたんです。そこで正式に結婚しました」

「そう、だったんですね……」リリーは呟くようにいった。「結婚されていたとは……思ってもいませんでした」

 椿は頭を掻きながら告げた。

「ええ。ですから、こうやって二人で来ることになると聞いて正直迷ったんです。でも来てよかった。冬月さんが自然を好きになってくれて。それだけでも来た甲斐がありました。ここに妻がいたら喜んでくれていると思います」

 ……自分はなんて馬鹿なんだろう。

 得体の知れない感情が自分を侵食していく。なぜそんなことも考えずに椿に思いを寄せようとしていたのか。いつもの自分ならきちんと調べて傷つかないようにしていたのに。

 心を塞いでいたガラス玉はもういない。そのことで苦しみが二倍にも三倍にも膨れ上がる。息を吹き返した感情が再び萎んでいく。

 リリーの表情に気づいたのか、椿はばつが悪そうに席を立った。

「すいません。なんか夢中で話しちゃって……。ちょっと風にでも当たってきます」

 リリーは外の景色を眺めた。もう雨は降っておらず薄暗い山の景色がゆらゆらと目の前の川に浮かんでいる。

 椿の嬉しそうにシャッターを切った姿を思い出す。あれは桃子のためではなく亡き妻のために撮っていたのだろう。そう考えると窓に映った自分の姿が別の誰かに変わりそうな気がした。

 ドアが開く音が聞こえ、再び自分自身を咎める。この部屋は椿の所なのだ。ここにいては彼の帰る場所がない。

「……ちょっと外にでも出ませんか?」

 彼は手に持ったビニール袋の中身を取り出した。

「後味の悪い話をしてしまったのでお詫びに花火でもやりません?」


 暗い夜の中、一筋の光が灯る。線香花火に火を点けると蒲公英たんぽぽ色の閃光が躑躅つつじ色に変わり始めた。

「いいですね、こんな所で花火をするなんて思ってもいませんでした」

 リリーは光に目を奪われて心が高鳴っているように演じた。

「冬月さん、花火の光が変わるのはなんでかご存知ですか?」

「もちろん知ってますよ。火薬に含まれている金属が関係しているからですよね」

「お見事。さすが現役の刑事さん」椿はにやりと笑って続けた。「では線香花火の移り変わりの花の名を聞いて下さい」

 椿から受け取った線香花火の光を眺める。

「最初の状態を牡丹というんです」花火の先端が小さな玉を作ってほんのりと光っている。赤い玉がバチバチと音を立てて火花を散らしてきた。

「今は松葉です、松の葉が散っているみたいでしょ? これから光が弱くなってくると柳といって垂れ流れるような光になります」

 火花は勢いよく散っていたがしばらくすると細い光のようになりぽつぽつと光った。

 光はいつしか消えそうになり微かな火花になっていく。

「最期の状態を散り菊というんですよ」

 微かな光は棒から離れ、ぽとっと音がするように落ちた。

「線香花火の状態にも名前があったんですね」

 リリーは最後の光をじっと眺めながらいった。火の玉はゆっくりとアスファルトに溶け込むように音をたてながら消えていく。

「もちろん花火と名のつくものには色々な花の名がついています。打ち上げ花火にも名前があるんですよ」

 そういって椿は打ち上げ花火の名称まで語り始めた。椿の楽しそうな表情を見ていると、心まで花火のように色が変わっていく。

「いつの時代でも花火師は頑なに伝統を守って次の世代に伝えています。こんな小さな線香花火でも一子相伝で親と子の繋がりだけ守られているんです」

 この小さな花火にも心が籠もっている。そう思うと愛着が湧いた。

 ……今日の所はこれで満足しておこう。

 再び百合の写真が再び蘇る。あの小さな花も自分にとっては大切な繋がりだ。それは言葉で言い表すことができない宝物だと断言できる。それが今日確かに自分の中にあった。

 二人はもう一度、線香花火に火をつけた。闇の中で光る線香花火は彼女の心に再び感情の火を灯した。


   18.


 海から一筋の光が登り、一瞬の間が空いて大きな円を描いた花火が上がった。光の尾は引いていない、これは牡丹という種類なのだろうとリリーは推測した。

 隣にいる桃子も感嘆の声を上げている。今日の彼女は浴衣を着ておりいつも以上に可愛らしかった。下駄が定期的にからんころんという音を鳴らしており風景に溶け込んでいる。

 今日は地元の花火大会だ。桃子と二人で椿が来るのを待っている。彼はここに来る時に屋久島で撮った写真を持ってきてくれるらしい。

 桃子に浴衣を薦められたが、結局ジーンズとシャツにした。秋桜美の話を聞いていなければ自分も下駄を鳴らしていたかもしれない。

 人混みの中に椿を発見した。彼は背が高いため目立つのだ。彼も桃子と同じように浴衣を着ている。

 移動しながら椿は桃子に写真を渡した。薄暗い中でも彼女は花火の光を頼りに懸命に写真を見ている。

「うわーやっぱり凄い所だったんですね。本当に綺麗だなぁ」

 もののけの森の風景を見ながら、桃子は驚嘆している。

「冬月さんも気に入ってたから、お願いしたら行ってくれるかもよ?」

「確かに凄くいい所でしたけど、そんなに休みはとれませんよ。また行きたいのは事実ですが」

 新たな花火が打ち上がった。真っ黒なキャンパスに色彩豊かな小花が一斉に開いた。

「凄く大きいですねー。これが縄文杉ですか」写真に入り込めない木を見ながら桃子は大きな声を上げている。目の前にある花火よりも夢中になっている。

「うん。とっても大きくて生きてるのが信じられなかったわ」

 桃子は写真をぱらりとめくり苔木に咲いた一輪の花の写真を見ている。

「うわーちっちゃい。綺麗な花ですね」桃子は目を輝かせながらいった。「私にメールで送ってくれた花ですよね? これ」

 リリーは恥ずかしかったが正直に答えた。

「うん。色んなものが見れたけど、私にとってはそれが一番の宝物かな」

 桃子は写真を握り締めながら真剣に聞いている。

 リリーは話を続けることにした。

「そのお花ね、実は冬にしか咲かない花なんだって。でもね偶然見つけたの。花が一瞬だけ閃いたように見えたのよ」

 当初屋久島への目的は縄文杉だった。しかし心を占めているのは縄文杉の年齢ではなく島で見つけた小さな一輪の花だ。

 その花は光を放っていた。か弱い線香のような光だが、心を灯してくれるような暖かい光だった。打ち上げ花火のように大きくなくとも線香花火のように小さいものにだって思いは詰まっている。

 偶然の出会いが一筋の閃きを与えてくれた。それは数字で計ることができない心をときめかせる閃きだ。花火のように一瞬で消えてしまう光だが、心の中には鮮明に姿を残しておける。

 百合の写真のように―――。

「やっぱり、リリーさんに行って来て貰ってよかった」桃子はぐすりと涙を浮かべリリーの服で拭いた。

「桃子ちゃん、私の服で拭かないでよ」

「だって離れたくないんですよ、ってあららっ」

 打ち上げられた玉が途中でポカっという音を立てて割れた。その後、滝のような光が流れている。今度の花火はポカ物で柳という種類の花火なのだろう。

 光が消えた後、桃子はニヤニヤしながら椿に写真を見せ始めた。

「店長、こんな写真まで撮ってるんですかぁ?」

 椿の表情が一瞬にして固まった。

「えっ……! あっ、こ、これは……その」

「店長も男の子ですもんね、三日も同じ所に泊まるとこういう写真も撮りたくなりますよね」

「えっ? いや、違うんだよ、これはね」椿は懸命に言い訳を探している。

 リリーはあたふたしている椿から写真を奪い覗いてみた。その写真はバスの中から風景を撮っているようだったが、雨で下着が透けている自分の姿も入っていた。

 椿のことだ、本当に風景に感動してシャッターを押していたのだろう。角度は違うが何枚も同じ写真が写っている。

「別にいいですよ。このくらい。山が撮りたかったんでしょう?」

「ええ。これは、山が美しくて、いや……」椿は一時の沈黙を置いた後、満面の笑みで答えた。「そう! 雨で濡れた下着姿の冬月さんが美しくて撮ったんです。まさか下着が白だなんて少女のような一面が見れてドキドキしましたよ」

 椿を優しく睨むと、真剣な表情で答えを待っていた。どうやら彼は前回の失敗を挽回するためフォローしているつもりらしい。

「……そうですか。そこまで丁寧にお答え頂けるとは、思ってなかったですよ……」

 腕に力がみなぎるのがわかる。血液が勢いよく流れていく。心の底から山が噴火するような感情が燃え上がっていく。

 それと同時にいよいよ最後の名物、割物の菊が上がるカウントが始まった。観客の興奮が最高潮に達している。

 再び彼をじっとりと眺めると、彼の表情が景色に溶け込みそうなくらい青白い顔に変わっていった。

「ご、ごめんなさい。や、やっぱり、い、色っぽいの方が、よかったんですかね」

「言い訳はそれで以上ですね? 春花さん」

 花火が天空へと打ち上がるのと同時に、彼女は怒りの鉄拳を椿の元へ発射した。

 ※ 途中まで読んだ方に対して。

名前を漢字に変更させて頂きました。ほとんどかわりませんが、変更点を書いておきます。リリーはリリーのままです。


ツバキ→椿 モモコ→桃子 サツキ→皐月 ハゼ→蘇鉄そてつ

 ウメ→綾梅あやめ

 サクラ→桜

ツツジ→榎樹なつき

 マンサク→万作 ウツギ→美空みそら

 

コスモス→秋桜美あさみ カエデ→楓 イチョウ→銀介ぎんすけ

 ヒノキ→かい

 ススキ→葛一かついち


ユカリ→由佳里 セツカ→雪花 サザンカ→仙一郎せんいちろう

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