第一章 一『瞬』の輝き
私が初めて書いた作品です。
見苦しい部分も多々あると思いますが、精一杯心を込めて作りました。
もしあなたのお時間が許すのであれば、途中まででも構いませんので是非読んで下さい。
それでは、よろしくお願いします。
※縦読みを希望される方でiphoneを使う場合は小説viewerというアプリが非常にオススメです。
文庫のような感覚が読みやすく、目も疲れにくいと思います。
小説viewerダウンロード→小説を読もう→検索 しゅんかしゅうとう→しゅんかしゅうとうをクリックした後、左下にあるダウンロードボタンを押せばそれでオッケーです。後は書庫に保存されているので、栞をつけながら読むこともできます。
心の中に一つの透明なガラス玉がある。それはラムネ瓶の蓋をしているように感情のパイプを塞いでいた。
ガラス玉があることによる息苦しさはない。
なぜなら、それは自ら作り出したものだからだ―――。
「私の心もすでに枯れています。それでも、あなたは生きなければなりません。ここまで生きてきた以上、あなたの命は、あなただけのものではありませんから――」
第一章.一瞬の輝き
1.
「捜査の結果は以上だ。後は皆、追って通達をする。待機しておいてくれ」
捜査一課の管理官が席を立つと、会議室にいた者は全員、無言のまま足早に散っていった。
冬月リリーは書類と一緒に目を閉じた。現在、殺人事件の捜査に当たっており、折尾警察署に捜査本部が設置されたのだ。
……もしかすると親子喧嘩の成れの果てかもしれない。
席を立つと、横にいた管理官・橘が椅子に座り直して声を上げた。
「冬月君、今回の事件に対する君の意見を訊きたい」
「答えた方がよろしいですか?」
訊くまでもない、という素振りを見せると橘は苦笑いを浮かべた。
「そうだな。初動の捜査ですでに道は見えている。君はどうする?」
「ガイシャの現場を自分の目で検証しに行きたいです。第一発見者は隣の方ですし、聞き込みをさせて頂きたいです」
被害者は秋風綾梅、四十五歳の女性だ。首筋に傷が確認されており刃物による出血死。旦那はおらず二十一歳になる娘・秋風桃子がいるはずだが、現在連絡が取れていない。その娘に容疑が掛かっているのだ。
「……そうか」橘は顎を触りながらいった。「もう傷は癒えた、と思ってもいいだろうか?」
「それにはお答えしかねます」
一時の沈黙の後、橘はゆっくりと頷いた。
「……わかった、後は君に任せる。所轄に任せていても解決する案件だ。君の自由にしていい」
「ありがとうございます。では、彼をお借りします」
リリーは後ろにいる万作を指差した。彼に合図を送ると、頷いて後ろから、のっそりとついてくる。
「ついてないっスね、先輩。今月に入ってまだ休んでないでしょう?」
「しょうがないわ」リリーは首をかしげて彼のシャツを見た。中の汚れが当直明けを物語っている。「どちらにせよこの子を見つけたら事件は解決したようなものよ。早いとこ終わらせましょう」
「そうっスね」
車庫に向かい、彼の運転で車を走らせ書類を確認する。現場には山ほど痕跡が残っているだろう。そこで娘の手掛かりを得ればいい。
ぼんやりと外を見ると、道路の脇に蕾がついている枝木が見えた。三月半ばでありながらサクラの花はまだ咲いていない。ほどよく冷えた蕾が今か今かと咲くのを待ち望んでいるように見える。
……ああ、また今年もサクラが咲いてしまう。
そう遠くない未来を想像し嘆く。憂鬱な思い出が脳裏をかすめ、日本の四季を嫌でも連想してしまう。
「先輩、後五分くらいで着くみたいですよ。先にどちらに行きます?」
「もちろん現場よ」
……ここにいる以上は避けられない。
日本に住んでいる限り、嫌でも季節は巡ってしまう。嫌ならイギリスに向かえばいい。父のように純粋に数字だけを追いかける方法もある。
父親の顔を思い浮かべると、不意に自分の顔が窓ガラスに映った。明るい地毛が再び彼女の心をかき乱していく。母親のように何色にも染まらない黒髪でいれば、こんな思いはしなかったのかもしれない。
心の中にあるガラス玉に祈り、感情の花をゆっくりと枯らしていく。この感覚だけが唯一、心を鎮めてくれる。
……花は、やっぱり好きになれない。
彼女は再び溜息をつき、眼を閉じることにした。
殺害現場は予想通り、数人の人だかりができていた。手刀を切りながら民間人の間を通りながら家の敷地に踏み込んでいく。
故人の表札が目に入る。墨で書かれたものらしく力強く秋風と書かれてある。故人・秋風綾梅は習字の講師だ。その横には生徒募集の張り紙が張っている。
玄関の扉を開けると、故人の遺体を前にして鑑識官が何やら調査を行い記帳していた。
どうやら和室で事件があったらしい。
部屋の構造を確認しイメージを膨らませる。被害者は一体、どのようにして殺されたのだろう。
目の前には着物を着た大柄な女性が畳の上で血を流して横たわっていた。その血はすでに鮮やかなワインレッドではなくどす黒く変色している。大部分が畳に吸い込まれており僅かながら固体が残っているようだ。おそらく畳の吸収量を上回ったのだろう。
見ただけで出血死ということはわかる。
「お疲れ様です、警部殿」
「おはよう。じゃあ、説明を始めてくれる?」
リリーの睨みには気づかず捜査官は眩しい微笑みを見せた。彼は永遠と無駄な情報を話すためこちらから誘導しなければならない。
「では概要を説明させて貰います。ガイシャ・秋風綾梅の推定死亡時刻は二十時から二十二時となっております。
ガイシャは秋風桃子と二人で生活しておりまして、父親は二十年ほど前に行方不明となっています。ガイシャの第一発見者は隣に住んでいる住人、枯枝美空という方です。夜の二十三時にお裾分けして貰ったお皿を返しに行ったら、ガイシャが倒れていたとのことです。
事件当日、習字教室は予定されていましたが、実際にはやらなかったみたいです」
「教室の生徒のアリバイは取っているのよね?」
「ええ、今の所、問題なさそうです」彼はそういって唇を舐めた。
「父親が関わっている可能性は本当にないのね?」
「今の所ありません。この家には仏と娘の痕跡しか残っていません」
「どういうこと?」
捜査官は慎重に手帳に書かれてある文を読んだ。
「父親はこの家が建ってからここには来ていないようです。それに行方不明となって二十年。生きている方が珍しいかと思います」
……なるほど。
年間で行方不明者は約十万人を越している、自殺者よりも圧倒的に多いのだ。もちろん父親がどこかで生きている可能性もあるがそれは限りなく低いだろう。
「わかったわ。とりあえず娘を探すのが優先ね。それでお隣さんはなぜそんな夜遅くにお皿を返しに行ったのかしら?」
第一発見者がそんな時間に訪れていること自体が怪しい。
彼女の冷えた瞳が効いたのか捜査官は素早く答えた。
「詳しくは聞いていないのですが、何でも毎日の習慣になっているとかで……」
「そう、後で聞いておくわ。ガイシャの死因は?」リリーは目の前の仏に目をやった。被害者は全身を伸ばしうつ伏せにして寝ている状態にある。
「ガイシャの首筋に切り傷が見られ出血性ショック死となっています。傷の深さは3~4cmと深いです。右から左に大きく切られた感じですね。凶器と思われるものはナイフでした」
「ナイフ?」違和感を覚える。この家にナイフといえば果物ナイフがあるくらいではないだろうか? ナイフの扱いは素人には難しい。犯人は娘ではないのか?
捜査官は鞄からビニール袋を取り出した。
「何でもフローリストナイフと呼ばれるものらしいです」
そのナイフは把手の中に納まっており折りたたみ式だった。赤い絵柄の裏には白の十字架が刻まれてある。リリーは手袋を嵌めて受け取った。
ナイフを広げてみると、ナイフの刃渡りは8から10cmほどでそれほど長くはなかった。刃の形はカーブを描いており、鎌のような形状で先端は尖っている。
「フローリストってことは花屋のナイフっていうこと?」
「そうみたいです。娘の指紋がついていることは確認済みです」
口元が自然と緩む。綾梅の娘・桃子は花屋で働いているのだ。桃子の指紋があるとすればこれは最重要証拠となる。
だが心の中では違和感を覚え始めている。現場を見た時から娘を被疑者にはできないような感じを受けてしまう。今の所、根拠はないのだが――。
「これはどこに?」
「庭の池の中です」捜査官は襖の奥にある池を指差した。
リリーは目を細め池の周りを眺めた。池までの距離は目測で10mくらいはある。
襖から池までの直線状の道を目線だけで辿ってみる。庭の中が荒らされているような形跡はないし血痕も見当たらない。
昨日は雨が降っていなかった。痕跡が消されていなければここから投げたのだろう。
「ナイフに血痕は?」
「ありました。微量ですがガイシャの血で間違いないとのことです」
もう一度、丁寧にナイフを覗き込む。刃と柄のつなぎ目に緑色の汚れが付着している。きっと植物を切る時についた汚れなのだろう。
池だけでなく庭全体に焦点を合わせてみると、左手前に一本の木が花を満開に咲かせていた。
……あれは確か梅の花。
鴇色に染まった梅の花が静かに佇んでいた。庭全体を見回すと他にも三本の巨木がある。三本とも枯れ果てており、満開の木と合わせて庭の四隅に配置されている。
四隅の中央には先ほど眺めた池が横長に広がっており、綺麗に丸く刈り込まれた低い木々と盆栽に囲まれていた。
無意識に自宅の庭を想像し感情が高ぶっていく。彼女は心に暗示を掛け再びガラス玉で封をした。
「もう一つ、報告があります。畳の上に松の葉が落ちていました」
「松の葉?」
ビニール袋に入った松の葉を眺めると、葉の下半分が血に染まっていた。
「他には何かあった?」
「和室を出た所には嘔吐した後がありました。おそらくこれも被疑者のものだと思われます。ほとんど唾液と胃液のみだったらしいですよ」
「……そう。ところでガイシャの携帯電話はあった?」
「こちらです」
捜査官は左手のポケットから携帯電話を取り出した。
「事件当日の十九時くらいに公衆電話での着信が一件ありました」
公衆電話での着信。今のご時勢で公衆電話を使う人は少ない。この場合は二パターンある。
一つは通常通り携帯電話を持っていないため、公衆電話を使う人物だということ。もう一つは履歴に残らないようにするため遭えて公衆電話を使った人物だ。事件に関わっていなければ、今日中に名乗り上げてくるかもしれない。
「娘の携帯電話はもちろんなかったわよね?」
「ええ残念ながら。二階の中央に被疑者の部屋があるのですがそこにはありませんでした」捜査官は重く頷いた。
携帯電話が手元にない場合でも発信受信記録を調べることはできる。しかし手間が掛かる上、時間が大幅に掛かるのだ。個人情報保護法に基づき被疑者としても例外ではない。電話会社経由で調査するには最低でも三日は掛かる。
やはり今日は自分の足で歩くしかない。
「ありがとう。それじゃあ後は自分で中を拝見させて貰うわ」
和室を出た後、手袋をはめ直し万作と共に他の部屋を捜索した。隣の部屋はリビングのようで大きなテーブルが真ん中にあった。テーブルの上には鳥の唐揚げが大量に盛られた皿があり、二人分では多いようにみえる。
隣は台所となっておりシンクにも洗物はなく綺麗に片付けられていた。自分の家とは比べ物にならない程、手入れが行き届いている。自分が死ぬ前にもきちんと掃除をしておかなければいけないなと、全く関係のないことを考えつつ一階を後にした。
二階に上がってみると、三つの部屋があった。真ん中が娘の部屋だ。
娘の部屋に入ると正面にはベッドがありその横には木で出来た学習机があった。机には小さな写真立てに女性が二人で近づいてピースサインをとっているものがあった。
おそらくこれが娘の写真だろう。背丈は低く愛嬌のある顔だ。万作の携帯に照らされた写真と対比し間違いがないことを確かめる。
携帯電話で写真を撮りデータを保存した。聞き込みはこういった日常の写真の方がやりやすいからだ。
他の部屋は事件とは関係がなさそうだった。右の部屋は倉庫のようになっており物が散乱しており、左の扉は鍵が掛かっていたようだった。鑑識の話では二人の指紋以外は付いておらず、捜査に役立つものはなかったとのことだった。
……ナイフでの衝動的な犯行にしては問題が多い。
捜査を終えて推理する。部屋の外で嘔吐、争った形跡はない。本当に被疑者は娘なのか疑わしい。どうにもこの事件、違和感を覚えずにはいられない。
……母親殺し、ではないと願っているのだろうか。
不意に心のガラス玉が動き出す。被疑者を見つけて彼女の本心を知りたいという感情が心の底から溢れてきている。身内殺しはよくあるパターンだが、被疑者の心は誰一人として同じ思いではない。彼女を捕まえてその心境を知りたい。
……必ず彼女は私が見つけてみせる。
彼女は胸に誓い、隣人に聞き込みを開始することにした。
2.
「ええ、びっくりしましたよ。夜遅くに秋風さん家に灯りが点いてたんです。それで昨日頂いたお裾分けのお皿を返しに行ったらね……」
枯枝美空はかすれた声で何度も同じことを繰り返していた。手にしている杖がなければまっすぐに立てないのだろう。先ほどから杖がぐらついており何度も場所を変えている。
「いつもはその時間に電気は点いていないんですね?」
リリーが質問すると、美空はのろのろとかぶりを振った。
「いえ、それがですね。綾梅さんはこの時期になると、習字の展覧会のため作品を作っているみたいなんです。だいたい電気を点けていますね」
「なるほど。つまり起きているのがわかっているから、お皿を返しにいったということですね」
美空はこくりと頷いた。
「それでは次の質問をさせて頂きます。昨日はずっとご自宅におられたんですか?」
「ええ、いました。といっても誰も証明するものがいませんが」
証明する必要はない、とリリーは心の中で思った。彼女には無理だ。このご老体にナイフを扱うこと自体、難しいだろう。殺人ができる体ではない。
「構いませんよ。昨日の夜、習字教室は行われていましたか?」
「それがですね、その時間は寝てたのでわからないんです」
美空の眼を見ると、力のない視線でリリーのことを眺めていた。あなたは今でも寝てるんじゃないですかと毒を吐きたかったが止めておいた。
「そうですか。ちなみにお裾分けというのは」
美空はぼーっと何かを考えるように小さく唸りながら口にした。
「昨日は鳥の唐揚げを頂きましたね。その前はお味噌汁を頂きましたし、その前にはざぼんの砂糖漬け、その前は―――」
「ああ、もう結構です。昨日は鳥の唐揚げですね」
メモ帳に書くまでもないが、一言だけ唐揚げと書いた。
「すいません、僕からも。家の扉は開いていたんです?」万作が腰を曲げて上目遣いで訊いた。
「開いていました。一瞬戸惑ったんですけど、開けた時に鼻につく匂いがしたんです。ただことじゃないと思って玄関を上がらせて貰いました。すると目の前に誰かが吐いた後があったんです」
娘が嘔吐したものだろう。次を催促すると、彼女はそれに応じる。
「電気の点いた部屋を覗くと、綾梅さんが倒れていました。それを見たらもう、足が竦んでしまって。お電話をお借りして警察に電話した次第です」
「そうでしたか。御協力感謝します」
美空は突然大粒の涙を蓄え嗚咽を漏らしながらいった。
「桃子ちゃんは悪い子じゃありません。花屋さんに勤めるくらい心が優しい子なんです。どうか、刑事さん。早く桃子ちゃんを見つけてあげて下さい。犯人に拘束されているのかもしれません。じゃないとあの子の命が……」
誰かと暴れまわった形跡はないですよと反論したかったが、彼女に説明してもしょうがないと諦め作り笑いで応じた。
「わかっております。早急に事件を解決できるよう努力します」
桃子の命が掛かってることはわかっている。だがそれは別の意味でだ。自殺でこの世を去られてしまったら警察の汚点だと貶される恐れがある、それだけは避けなければならない。
……そろそろ切り上げて他に行こう。
万作に車を回すように手で合図をする。彼もそれを首だけで了承し足早に駆けていく。
……次は娘の職場だ。
花屋を想像すると、億劫になるが仕方ない。早急に事件を解決する他、道はないのだ。
秋風桃子が働いている花屋は大学病院の通りにぽつんと佇んでいた。学生通りで若者向けの飲食店が並ぶ中、色鮮やかな鉢物が外に並んでいるのですぐに見つかった。
花屋の扉には『瞬花終灯』と書かれた暖簾が掲げられていた。あの店で間違いない。娘の部屋にあった花瓶にはこの文字が刻まれていたからだ。
店の中に入ると、背の高い男性が鉄の鋏で紐で縛られた花の茎を切っていた。どうやら今朝仕入れてきたものらしい。花を包んであるラップに日付が書かれている。
「お尋ねしたいことがあります。お時間よろしいでしょうか?」
警察手帳をかざすと、背の高い男は即座に了承してくれた。
「構いませんよ、どうぞお入り下さい。とても狭いので窮屈でしょうが」
男は店主のようで春花椿と名乗った。娘の隣にいた女性が店主だと勝手に推測していたので少々面食らう。
「こちらのお店で働かれている秋風桃子さんのことについてです。今日は出勤だったんじゃないですか?」
店主は困った顔をして頷いた。
「そうなんですよ。今日は出勤のはずだったんですが連絡がつきませんでした。いつもはそんなことはないんですけどね。昨日はいつも通り出勤していたんですよ」
やはり何も連絡を入れていないらしい。
「早退はしてませんか?」
「ええ、いつもは十九時までなのですがこの時期は忙しいので二十時半まで仕事をしてから帰りましたよ」
アリバイありとメモ帳に書き込んだ後、再び尋ねることにした。とりあえず彼女の居場所を突き止める何かを探らなければならない。
「秋風桃子さんがどちらにいるか心当たりありませんか? もし同僚がいれば、その方からも話を聞きたいのですが」
そういうと店主は乾いた笑みを浮かべた。
「実は桃子ちゃんと二人だけなんです。花屋は中々儲からなくてバイト一人いれるのがやっとなんです」
「そうですか」やんわりと話題を変えるため、弱めの声で続ける。「では彼女の友人はご存知ないですか? 何でもいいんです、何か行方を捜す手掛かりが欲しいのですが」
「やっぱり今朝の事件に巻き込まれたんですね、困ったな」
どうやら事件については知っているらしい。彼女の情報の続きを催促すると、店主は頭を捻りながら話し始めた。
「桃子ちゃんはここで働き始めて二年くらいになるんですが、お友達はよくお花を買いに来ますね。ただ連絡先は知りませんが」
先程桃子の部屋から撮った写真を見せると、彼は頷いた。
「そうそう。この子です。最近はちょっと店に来てないんですけど……」
どうやらその友人は近くの看護大学に通っているらしい。友人から彼女への手がかりを探す方法も検討した方がよさそうだ。
「では質問を変えさせて貰います。秋風桃子さんは母親と仲がよさそうでしたか?」
店主は首を縦に振った。
「そうですね、桃子ちゃんから毎日お母さんの話は聞いていたのでよかったんだと思います。お母さんが書道家ということも知っています」
母親との関係は良好と書き込む。娘が加害者であれば、怨恨での殺害ではないことになる。何か別の理由があるのかもしれない。
「もう一つ別の質問を。桃子さんがよく利用するお店なんかはご存知ですか? どんな場所でも構いません」
「そうですね、桃子ちゃんはパンが好きで、よくお昼御飯を近くのパン屋に買いに行きますね。休憩は十二時から十三時に取ってもらっているので、その時間にいつも買いにいってます」
「そのパン屋はどちらに?」
「近くにあるんですが、この近くにはパン屋が二つあるんです」店主は席を離れ紙とペンを用いて丁寧に地図を書き始めた。「桃子ちゃんが行くパン屋は歩きで二十分くらいにあります。この道を十分くらいまっすぐ行くと、病院のゲートが見えますので、次に病院ゲートを通り抜けて左に曲がってさらに十分くらい歩くと大学ゲートが見えてくるので、その近くにあります。赤い屋根が目印になるのですぐわかると思いますよ」
「もう一つのパン屋は?」
「この通りにあるパン屋ですよ」店主は人差し指を突き出した。「反対側の道を辿っていけば五分でつきます」
どうして娘は遠いパン屋で買っているのだろうか。片道二十分、往復で四十分掛けてまで行くほど美味しいのだろうか。
「桃子ちゃんは現在行方がわかっていないんですよね?」店主は恐縮したように改まってリリーに尋ねた。
「ええ。一刻も早く見つけ出したいのが本音です」
発見が遅れれば最悪の事態も考えられる。もちろん、それは桃子が遺体として発見された場合だ。
「桃子ちゃんは確かに怪しい立場にあると思うんですが、僕は犯人ではないと思っています」店主は苦い顔をして続ける。「彼女は夢を持って働いていました。自分の店を持ちたいといつも笑顔を振りまきながら仕事に望んでいたんです。彼女がそんなことをするはずがない。何かわかったら、僕にも連絡を頂けませんか?」
捜査上の秘密があるとはいえ、この男は本気で桃子を心配しているのだろう。話せる範囲でよければと自分の名刺をそっと置いた。
桃子の通うパン屋の名前はフランスアという名前だった。店主のいっていた通り朱色に染まった屋根が目印になっている。車を駐車するスペースがないため、万作を車に留まらせ一人で店に向かう。
「いらっしゃいませ。今の時間帯はチーズパンと餡パンが焼きたてですよ」
笑顔が可愛いらしい店員の接客を受けながらパンを購入する。もちろん情報収集のためだ。店員のオススメのチーズパンと餡パンを二個ずつトレーに載せてレジに並ぶ。
「お仕事中すいませんが、お尋ねしたいことがあります。お時間よろしいでしょうか?」
頭を下げて手帳をさりげなくかざすと、店員の表情が急変した。慌ててフォローに入る。
「驚かせてすいません、この方をご存知ないですか?」
写真を見せると、店員は目を丸くした。
「ああ、いつも買いに来てくれるお客様です。昨日も来られましたよ。男の方とよく一緒に来られますよ」
男の話を催促すると、170~175cmくらいの男性で長い金髪の褐色肌だそうだ。先程の店主とは間逆な感じなのだろう、とイメージを膨らませる。
「凄く格好よかったんです。私の好きな服のブランドを着ていたということもあるんですが」定員は嬉しそうに宙に視線を漂わせ思い返している。
「二人はお付き合いをされている感じだったんですか?」
「そうですね、そんな感じだと思ってました」
「どれくらいの頻度で来ていました?」
「ほぼ毎日でしたね。私はここのお店で三ヶ月くらい働いているんですが、だいたい来てました。ただ、雨が降った時はあまり来てなかったですね」
なぜ雨の日にパンを買いに来ないのだろうか。公園などで食事ができないという理由からなのだろうか。
「そうなんです。もちろん雨が降れば、お客さんは減りますけど、雨の日にお二人が来たのは見たことないですね」
新たな客が入って来た所で、リリーは再び頭を下げた。
「ご協力感謝します。ではまた何かありましたら、立ち寄らせてもらってもよろしいですか」
「もちろんです。その時はまた、パンを買っていって下さいね」
店を出ると万作がハンドルを握りながら待っていた。腹を空かせているのか、リリーが掴んでいる紙袋に目が釘付けになっている。
近くの公園に駐車し二人は休憩することにした。
「万作、ちょっと飲み物買ってきて」
「いいっスよ。いつものでいいんですよね」
「うん、それでいいわ」
リリーが返答すると、万作はだるそうに頭を掻きながらは近くの自動販売機に向かった。彼女は彼が視界から消えたことを確認して先に餡パンを掴んだ。
彼が戻ってくるのと同時に有無をいわさず袋を突き出す。
「はいどうぞ。店員のお勧めらしいから、きっと美味しいと思うわ」
「ありがとうございます。あれっ? 同じ物を二つ買ったんスか?」
「何か文句でも?」
リリーが睨みをきかせると万作は口を閉じて静かにチーズパンを食べ始めた。
早速買って来てもらった紅茶を手にすると、ミルクティーだった。無言で万作に押し付け、彼の飲み物を催促する。
「私、これ嫌いなの。あなたのと換えさせて」
「えっ、冬月さん、紅茶なら何でもいいっていってたじゃないですか」
再び睨むと万作は牛乳を差し出してきた。できればお茶がよかったなと思いながら一口ずつ飲む。
娘に男がいることを告げると、彼は表情を変えずにいった。
「ということは匿って貰っているというのが妥当ですね」
「もちろん、そうなるわね。問題はどこにいるかね」
今、必要な情報はそこだ。リリーは思考に集中するため目を閉じこめかみを押さえた。
まず二人はお昼にパン屋に来ているということだ。桃子の昼休みは十二時から十三時。店でバイトとして働いているのは秋風桃子一人だけ。店主は男友達を知らないといっていたので、店には来ていないのだろう。どこかで待ち合わせをして買いにいっている確率が高い。
……待ち合わせ場所、どこだろうか。
十二時前後、人通りは悪くないはず。褐色肌で長い金髪を照らし合わせると、大学生が妥当だろう。
「人通りが多いのは大学しかないわね」
「そうですね。若い方ならば、それが妥当かと」
この付近には大学と病院が一つになった大学病院がある。秋風桃子の年齢からいっても釣り合いは取れる。それに彼女の友人もその大学にいる可能性が高い。
次のルートと同時に、もう一つ別のルートを探ることにした。秋風綾梅の習字教室の生徒にも話を聞いて置く必要がある。本来なら習字教室がある時間に犯行が起きているのだ。教室の生徒のアリバイは取れているが、休んだ理由はまだ聞いていない。
万作に習字教室の生徒を任せ、リリーは秋風桃子の友人を探すことにした。
腕時計を覗きこれからの予定を整える。まだ午後十三時にも回っていないが、この調子で足跡を辿っていけば今日中に見つけることも可能だ。遅くても被疑者を見つけるのは数日だろう。
刑事特有の勘がそう告げている。
3.
フランスアの左にある大学ゲートに入った。ここから先は北九州大学病院の敷地だ。目の前に大学が見えるが、この先をさらに進んでいけば病院がある。二つの建物は袂を分けたように二分割されていた。
ここの大学は医学部、看護学部の二種類があり、合わせて生徒数も千人を越えているという。
これまた骨が折れそうな作業だが、動くしかない。大学の事務室で早速事情を話し検索を掛けて貰うことにした。
「そうですね、そういった生徒を探すとなると大変ですよ。今は大学は休みですし、写真があるといっても一年の時にとった写真だけなんです。大学生ですから、生活環境はころっと変わりますし。それでよければ検索させてもらいますが」
男性と女性で分けて貰うと三対七という割合になった。やはり医療大学だ。女性の方が圧倒的に多い。
秋風桃子の女友達は確実にいるはずなので先に検索してもらう。大学入学時の写真のため、まだ化粧もしておらず難なく見つかった。だが意外な事実が判明した。
「その子はですね、実は今海外旅行中なんです」
どうやら大学が主催する旅行に行っているらしい。つまり女友達が彼女を匿うことは不可能だ。
ということは彼氏の方が彼女を匿っている可能性は高い。
丁寧に写真を選抜していくと、条件に合うものは三名ほどいた。連絡先をチェックし、連絡を入れていくと一名だけ繋がった。どうやら大学校内にいるらしい。
しかしその生徒の姿を見た瞬間、落胆する他なかった。写真の面影はなく色も染めておらず坊主頭になっていた。
「どういった用件でしょうか?」
生徒は面倒くさそうにベルトに手を伸ばしズボンを上げている。名は若葉榎樹というらしい。警察手帳をかざしても力のない目でそれを見るだけだった。
「この写真を見て欲しいのだけど、この子を知らない?」
「知りませんね。見たこともないです。その人が僕に何か関係しているのですか?」
上手く論点をぼかして話すと、彼は趣旨を理解し次第に態度を軟化させていった。
「なるほど。この人が僕に似ているから僕は呼ばれたんですね。でもすいません。これは僕じゃないです。よく見ると全然顔が違うでしょ。それに髪もばっさり切ってます」
「この大学で君と似た感じの人はいないかな?」
「いないと思います、多分。だってその写真、入学当初のものですよ。そんな髪型をずっとしてたらここでは浮いちゃいます。それで今は坊主にしてるんですよ」
どうやら人違いのようだ。よく写真を見ると、確かに輪郭も違うし鼻の形も違う。他の二名にしても同じ可能性が高い。
……次の案を考えなければ。
近くの椅子に座り思案する。目当ての人物がいなかったとしたら次はどこにターゲットを絞るべきか。
職員、病人、その他の店の店員、夜の仕事……。
様々な要因を考え、足を運んだが、結果は惨敗だった。
外灯がぽつぽつとつき始めた。近隣の店も当たったが全滅で、褐色肌の金髪はいるが、長髪ではない人物がほとんどだった。
万作に連絡すると、習字教室は休みだったらしく、秋風綾梅が理由もつけずに休むことは初めてだったようだ。娘と話し合いを設けるためだろうか、それとも他の誰かと会う約束をしていたのかは未だ掴めない。
「間違いなく男の所でしょうね」
「そうね。今の所はそれしか考えられない」
署に連絡を入れると、今日の所は交代制になるようで一時帰宅が認められた。自宅に戻り軽くシャワーを浴びた後、茶葉をお湯に浸しカップに注ぐ。
……母親殺しの容疑、か。
胸の中にある冷えた記憶が心を凍らせていく。あの時の自分の行動が今でも許せず、母親への思いが青い炎のように冷えたまま再燃していく。
……どうしようもないことだって、わかっているのに。
後悔しても、明日は来る。考えまいとするうちに、心の中にある感情はゆっくりと沈んでいき、やがて枯れていくようになった。今のままではミルクティーなど、とても飲めそうにない。
カップに口をつけ、ほっと吐息を漏らす。
やはり自分の体にはストレートティーが一番よく馴染む。
翌朝、橘から連絡があり現場に向かうと、笑顔の眩しい捜査官が天下を取ったように写真立てを運んできた。何でも昨日捜査に使った写真立ての中にもう一枚隠れていたらしい。その写真を見て彼女の瞳は拡大した。
そこには長い金髪をなびかせた褐色肌の男と秋風桃子が写っていた。
4.
「こんにちは、再びお訊きしたいことができました」
店のドアを開けると、店主が花束を作っている所だった。テーブルの上には春の代名詞であるチューリップ、スイートピー、菜の花が行儀よく並んでいた。
「すいません。ちょっと急ぎのお客さんがいるので、これが終わってからでいいですか?」
「もちろんです。少し待たせて貰います」
店主は綺麗な螺旋を描き花束を纏めていった。麻紐できつく縛った後、鉄鋏で茎の長さを調整している。
男の顔写真はすでにパン屋の店員で確かめている。共犯の可能性があるため、万作には引き続き習字教室の生徒に聞き込みを開始させている。
「変わった鋏ですね」
思わず尋ねると、店主はにっこりと微笑んだ。
「ええ、花屋ではこういった鋏を用いるんです。力が入るように手全体を使って切るんですよ。触ってみます?」
鋏の形状を確かめる。その鋏は二つの鉄の小刀で出来ており、一つのネジで止まっているだけだった。
「へえ、意外に重いですね。女の子でも切れるんですか?」
「もちろんです。そうじゃないと勤まりませんよ」花束を作り終えると、彼は優しい笑みを浮かべて尋ねてきた。「それで刑事さん、何か掴めましたか?」
「これを見て頂きたいのですが」
写真を見せると店主は声を出した。どうやら知っている人物らしい。
「その方なら、病院にお花を配達した時に見たことがありますよ。確か庭師ですよ、彼」
……病院関係者だったか。
昨日の捜査が甘かったと心の中で舌打ちする。
「だいたい今の時期までに病院の黒松の手入れが終わるんですよ。この寒い中、薄着にタオルを巻いて仕事をしていたので印象に残ってます」
店主によると金髪の若者はタオルを巻いていたらしい。なるほど、タオルを巻けば髪の長さまではわからない。
「念のため、お訊きしますが花屋さんにも松は売られているのでしょうか?」
黒松、と聞いた時には現場が頭を過ぎっていた。血に塗れた緑色の葉が松葉だったからだ。
「ありますけど、大体はお正月に使いますね。今の時期にはありません」
彼のいうことを信じれば、あの松の葉は庭の手入れで落ちた可能性が高い。
「その方の職場はご存知ですか?」
「ええ、『和盆栽』という所です。ここから車で20分くらいですよ」
目星がついたので万作に連絡を入れると、偶然ですねと声を漏らした。
「実は習字教室の聞き込みをしている中で、秋風さんの庭の手入れをしている業者の話を聞いたんです。するとそこも『和盆栽』というんですよ」
……アタリだ。
彼女はようやく尻尾を掴んだぞと口元を緩めた。
『和盆栽』は営業していた。大きな一軒家の中に草野球ができるくらいの庭があり、その中で大きな男が猛獣狩りに使いそうな大きな鋏で手入れをしていた。
「すいません、お尋ねしたいことがあるのですが。お時間よろしいでしょうか?」
「ああ、いいよ。もしかして秋風さんの事件のことかな?」
男はこちらへどうぞと店の応接室に案内してくれた。
お互いの名刺を交換すると、そこには代表取締役・夏鳥蘇鉄と書かれていた。
「さっそくお訊きしたいんですが、こちらの会社では大学病院の手入れを請け負っていますよね」
「ん? そうだが、それを訊きに来たのか?」蘇鉄は納得のいかない顔で首を捻った。
「そうです。金髪の若い方がいるとのことですが」
「ああ、それは俺の息子だ」
ここは先手を打っておいた方が円滑に話が進むだろう。胸ポケットから写真を取り出し、テーブルの上に差し出した。息子の話となると口を封じる可能性があるからだ。
「ある事件のことで伺いました。被害者の自宅から出てきたものです。息子さんはどちらに?」
「なんだい、皐月のことかい」蘇鉄は肩をすかしたように拍子抜けしていた。「てっきり秋風さんの庭の手入れのことかと思ったよ」
彼の言葉を受けて一旦引く姿勢を見せる。一度、話を任せてみてもいいかもしれない。
「そうなんですか? それは知りませんでした。あの庭も夏鳥さんが請け負っているんです?」
「ああ、昔からの付き合いでね。あそこの庭は俺が全て手がけているんだ。だからてっきりそっちの話かと思ったぜ」
「ということは綾梅さんの件もご存知ということでよろしいですよね」
「ああ……」蘇鉄は神妙な顔を作り黙って頷いた。「先にいっておくが、俺にはアリバイがあるぞ」
そういって彼は事件当日には近くの居酒屋で飲んだことを告げた。後で裏を取らなければならないが、口調からは嘘をいってるようには見えない。
「質問をさせて頂きます。秋風桃子さんは現在連絡が取れない状態にあります、何か行く先に心当たりはありませんか?」
「いや、知らないね、全く」蘇鉄は途端に目を泳がせた。「ただ、桃子ちゃんが犯人じゃないことはわかる」
……またこの対応だ。
心の中で溜息をつく。自分が知っている人物なら皆、誰もがそういうのだ。そんな人じゃない。そんなことはしない。真実を知らなくても軽々しく言葉を述べることができる人種がいる。
だが感情だけでは何も解決しない。
「……それは何か根拠があるのでしょうか?」
「俺はな、あの親子の関係を桃子ちゃんが生まれる前から知ってるんだぜ。間違いないよ」
今度の彼は目を逸らしていない。どうやら本当にそう信じているようだ。
「夏鳥さんがそういうのならそうかもしれませんね。それでは息子さんのことを訊いてもよろしいでしょうか」先ほども訊いたことは敢えて伏せて続ける。「息子さんは今どちらにいらっしゃるんです?」
蘇鉄の顔つきが一気に変わった。その質問を待っていたといわんばかりに鼻を鳴らした。
「昨日から島根に行ってるみたいなんだ、日本一の庭園を見に行くといってね。今まであいつが庭の仕事に興味を持ってるのか正直わからなかったんだよ、半年くらい前からサーフィンなんかに凝り始めてね。このまま不良になるかと思ったんだが、無用な心配だった。やっと自覚がでてきたんだろうねぇ、庭師としての」
がははと蘇鉄は大きく笑った。
「島根に行くことは何時決まったんです?」
「先月だったかな」蘇鉄は煙草の火を吸殻でもみ消した。
「今の時期はちょうど庭の手入れも一段落つく頃でね。庭の本を読んでるうちに行きたくなったらしい。今までそんな本を読んでる所は見たことがなかったんだが、いい機会だから行かせることにしたんだ」
蘇鉄は自慢げにいいながら次の煙草に火を付けた。
「つまり現在はこちらにおらず島根に行っていると」
「そうだ」
「息子さんはこちらにお住まいなんですか?」
「いや、今は一人暮らしをしていてね、歩いて五分くらいの所のアパートに住んでいるよ。車は置いてあったから、バスか電車で行ったんだろう」
アパートの場所をそれとなく聞きメモ帳に書き込む。
「では蘇鉄さんは奥さんと二人住まいですか?」
「いや今は一人だよ」蘇鉄は低い声で答えた。「嫁は桜といってね、皐月が五歳の頃、病気で亡くなったんだ」
五歳の頃、と聞いてリリーははっと我に返った。だが今はこの記憶には触れてはならない。
「軽々しく訊いてすいません」大きく頭を下げると蘇鉄は口元を緩ませた。
「いいんだよ、刑事さん。それがあんたの仕事だからな。それに昔のことだ、全く気にする必要はない」
蘇鉄は暖かい目でこちらを見ながら続けた。
「実はね、俺と桜、楓と綾梅さんは昔からの友達なんだ。幼馴染ってやつだな」
蘇鉄は遠くを見るように視線を上げながらいった。
「あそこの家は楓が建てて、庭は俺と桜で作ったんだ。家は長持ちするが庭の方はそうはいかない。それで定期的にメンテナンスをしてるんだ。家の方もできればいいんだがね……」
「確か楓さんは―――」
「おっと。その先はいうなよ」
蘇鉄はリリーの前に掌を広げた。これ以上話すなと威嚇しているようだ。
一時の沈黙が流れた後、蘇鉄は目線をそらさず低い声をあげた。
「……許さないよ、俺は」彼の両腕には力が籠もっている。「どんな奴が犯人か知らないが、あそこの家庭をぶち壊したやつは絶対に許さない。だから刑事さん、何かあったら連絡をくれ。必ず助けになるからな」
蘇鉄の口調には激しい怒りが籠もっていた。まるで桃子以外に犯人がいることを知っているような口調だった。
『和盆栽』を出た後、皐月のアパートを確認してみる。歩いていけるとのことだったので近くのパーキングに車を止めた後、住所の番地を頼りに向かった。
目の前には古びたアパートが建っていた。住所を確認するが間違いない。淡い外装に蔦が絡んでおり不気味ささえ感じさせる。
彼の駐車場を確認する。蘇鉄がいったように二百一号室の駐車場には大型のハイエースが止まっている。中にはサーフィン用のボードが積んであった。
突然、携帯電話が鳴った。万作からだ。
「今どちらにいるんです?」
「庭師のアパートの前よ」
万作は一息いれてからいった。
「……どうするんです? まさか一人で踏み込むんですか?」
「気持ちはあるんだけどね。でも、今踏み込む訳には行かない」
おそらくここに桃子がいるのだろう。だが―――。
蘇鉄の言葉が蘇る。彼は犯人が他にいると確信していたが、桃子の話をした時に狼狽の色を見せていた。きっと彼らは彼女を説得しようと試みているのかもしれない。
そうだとすれば今踏み込むよりも次の日の方がいい。これ以上追い込むのは危険だ、余計なことをすると最悪のケースも考えられる。
ここまで来れば解決したも同然だ。彼女は肩の力を抜いて踵を返した。
次の日の朝、いつも通り紅茶を啜っていると、万作からの電話が鳴った。その内容は彼女の想像通りだった。
「先輩、秋風桃子が出頭してきました」
その一言で一気に目が冴え渡っていく。
「わかったわ。すぐ向かうから、誰も尋問しちゃだめよ」
「そのようにしておきます」
秋風桃子の行動は想定内だ。時間が経って考えが変わったのだろう。もしくは彼氏の説得が功を奏したか。結局逃げることを諦めたのだ。
リリーは紅茶を飲み干して署に向かう準備をした。
5.
署についた後、リリーはすぐに秋風桃子の事情聴取に臨んだ。身長が低く女の子らしい淡い顔立ちをしているが、ここ何日か寝てないのだろう。目の下のくま、肌の荒れから衰弱している様子が手にとるようにわかる。
出頭してくれたのだ、すぐに取り調べを終えるように配慮することはできる。もちろん自供してくれればの話だが。
「はじめまして、今回の事件を担当させて頂いている冬月といいます。早速ですが三月十七日はどちらにいましたか?」
「私は夏鳥皐月君という方のアパートにいました」
緩まる口元を縛りながら桃子の顔を見る。皐月の話より事件当日の話が先だ。
「その日の話を訊かせてもらっていいですか? お仕事を終えてからで結構です」
桃子はゆっくりと頷き、溜まっていたものを吐き出すようにいった。
「仕事が終わってから家に帰ると、お母さんが倒れていたんです。すごく動揺して咄嗟に皐月さんに連絡しました。
お母さんが倒れて血がたくさん出ていること、意識がないことを話すと、その場からすぐに離れろといわれました。犯人が近くにいるかもしれないからです。それでいつもの待ち合わせ場所に来いといってくれたので、何も考えないで出て行きました」
「待ち合わせ場所というのは?」
「大学側のゲートです。パン屋が近いのでいつもそこで待ち合わせをしていました」
なるほど、自分の犯行ではないといいたいらしい。心の中に暗雲が立ちこみ始めていく。
「あなたのお母さんは首の切り傷からの出血がひどくそのまま亡くなりました。救急車を呼ぼうとは思わなかったのですか?」
桃子は唖然としうな垂れた。
「すいません。突然のことだったので。救急車を呼ぼうという考えが浮かびませんでした」
受け入れ難い現実に遭遇すると、確かにこういった対処をしてしまう人物もいるだろう。しかし自分の母親が亡くなっているのに何もせずに出て行くのだろうか?
そう思った後、自分の胸にも激痛が走った。これ以上は彼女を攻められない。
「そうですか、それは仕方がないかもしれませんね。それでは他の質問を。夏鳥皐月さんとはどういったご関係ですか?」
桃子は首を上げ答えた。
「私は花屋さんでバイトをさせてもらってるんですけど、皐月さんは大学病院の庭を手入れする仕事をしています。病院に配達にいった時、とても熱心に仕事をしていたんです。同じ植物を扱う仕事だったので、夢中になって仕事を見させて頂きました。そこで意気投合しちゃって……」
「ということは現在はお付き合いをしていると?」
「そういうことになります」
しかし彼との写真は隠されていたのだ。どうして付き合っていながら、隠していたのだろう。
「あなたは皐月さんの存在を隠していましたね? 彼との写真が写真立ての裏側にありました。なぜですか?」
「それは……お互い家族同士で付き合いがあるもので、恥ずかしかったんです」
……なるほど。
彼女の心情はなんとなく理解できる。幼馴染同士であればその話題は尽きないだろう。親の眼を恥ずかしく思うのはわからないでもない。
だがお互いの両親が知っているのであれば、逆に隠す方が難しいのではないだろうか。
「お気持ちはわかります。ですが秋風さん、あなたは逃げるべきではなかった。今現在あなたが被疑者として疑われていることをご存知ですよね」
「はい、理解しています。なので身の潔白を証明したいんです。どうしたらいいでしょうか?」
桃子の視線に熱が籠もる。もしこのまま彼女が認めなければこっちも本腰を入れなければならない。
「秋風さんの気持ちはわかりました。それでは再び質問に戻ります。綾梅さんには首に切り傷がありました。そして庭の池にあなたの指紋がついたフローリストナイフが落ちていました。ナイフに微量にですが綾梅さんの血痕が残っています。ナイフはあなたの物ですか?」
桃子はえっ、と声を漏らした。
「私のナイフが落ちていたんですか? 私の家に?」
「ええ、そうです。今お見せすることはできないですが。赤いカーブの入ったナイフでした」
桃子は驚きながらも首を縦に振っている。
「私のナイフだと思います。だけど、二,三日前からなくしていたんです。あ、三日間皐月さんの家にいたので、もっと前ですが」
「どこでなくしたか心当たりありますか?」
「それが……覚えてないんです。あ、確かシャープナーで研いだ日だったかも」
「シャープナーというのは?」
「ナイフを研ぐ道具です。砥石みたいに手間を掛けなくても研ぐことができる道具があるんですよ。一週間前に使用しました」
あくまでもなくしたといい張るようだ。これは本当に長期戦になるかもしれない。
「最近、お母さんに変わったことはありました?」
「特にありませんでした。普段通り会話をしていましたので。ただ事件があった日は稽古を休むとのことだったんです」
「稽古というのは習字を自宅で教えていらしたんですよね?」
「そうです、それで休むことなんて滅多にしないんですけど、特に理由もなく休んだみたいでした」
「そうでしたか。お母さんが倒れていたのは何時頃です?」
「正確にはわかりませんが、私が帰ったのは二十一時半くらいです。なのでその前には……」
話を纏めると綾梅の死亡時刻は八時から九時半までの間となる。
「それまであなたはどちらに?」
「少しだけ、散歩していたんです」桃子は小さく呟いた。
「退社時間は八時半ですよね。一時間も散歩されていたんですか?」
「この時期は……えっと、梅や木瓜の花が綺麗なんですよ。それで、その……」
……ありえない。
リリーは心の中で訝った。店から桃子の家までは徒歩で二十分くらいの距離だ。近くの公園で四十分も花を見るために滞在できるはずがない。自分の感覚だが、いくら花屋だといっても夜に一人の少女がそんな出歩き方はしないだろう。
「途中ですれ違った方、知り合いの方はいます?」
「いいえ。会っていたとしても気づかなかったかもしれません。暗い所にいたので……」
やはり分が悪い。総合すると彼女のアリバイはなしということになる。
「ではお母さんの姿を見てから夏鳥さんに会ったということですが、その間に何か怪しい人物を見かけましたか?」
桃子は頭を大きく振った。
「いいえ、見てません。動揺していたので見落としていたかもしれませんが」
身の潔白を証明しようと素直に応じてくれているが、今の所勝ち目はない。
「玄関を上がってすぐの所に嘔吐物が発見されました。唾液はすでに検査しております。あなたのものですよね?」
桃子は身を固めて頷いた。「お母さんが倒れているのを見て、思わずその場で……」
嘔吐物の中には食物の繊維は含まれてなかった。
「確か昼食は十二時から十三時ですよね? それから帰宅するまで何も食べていなかったんですか?」
桃子はびくっと顔を強張らせた。「ええ、そうです」
「教室がある時はどのようにされていたんです?」
「教室がある時は別々に食べていました」
「ということは休みの日は一緒に食べていたんですよね?」
桃子はあたふたと目線を定めず慌てている。あせりが顔に出ている。
「そうですね。でも、ちょっと散歩したくて……」
「鑑識の話では綾梅さんは食事をしていません。実家に連絡はしていたんですか」
ハッタリだった。解剖の結果はまだ確かめていないので、彼女の胃袋はわからない。しかし、テーブルの上にラップで包まれた量は明らかに二人前は超えていた。
「いえ、していませんでした」彼女は力なく首を振る。「ただご飯は作っているから、外では食べてこないでといわれました。普段は作らないんですけど、教室は休みにするから久しぶりに作ると……」
母親は家で娘の帰りを待っていた。だが娘は寄り道をして中々帰らない。一時間も待たせるなら普通連絡くらいするはずだ。娘を疑うなという方がおかしい。
しかし違和感を覚える点がある。
綾梅は教室が休みの時、和室には入らないし着物も着なかったという情報を得ているのだ。どうして彼女は着物姿で和室にいたのか。そして公衆電話からの着信。もしかすると他の誰かを待っていた可能性もある。
「綾梅さんは日記を付ける方でしたか? 最近のことが書かれているものがあればと思ったんですが」
「多分ないと思います。昔は付けていたのかもしれませんが、最近はつけていないと思います」
事件当日の休みの理由もわからない。何か必ず理由があるはずだ、ここがやはりキーポイントになりそうだ。
「ありがとうございました。以上で質問を終わりにします」
話を終えた段階で、リリーの中では桃子の印象が大きく変わっていた。話し口調は丁寧で素直だ。直感的にこの子は犯人ではないような気がしている。
……だが、ただの個人的な感情だ。
桃子から目を逸らし再び黙考する。桃子が犯人だという可能性の方は捨てきれない。一時間も散歩をするのは怪しすぎるし、母親の休みの理由を知らないのはおかしい。
それにこの子は何かを隠している――。
「早速、夏鳥皐月さんに連絡を取らせて頂きます。それでは失礼します」
桃子のお辞儀を目の端で捉えながら取調室を出た。
近くで腕を組んでいる万作に声を掛ける。
「どう思う?」
「正直な気持ちでいわせてもらうと、秋風桃子はシロですね、確証はありませんが」
「あんたの感想なんか聞いてないわよ」リリーは万作のデコを突いた。「物的証拠が出てきそうか訊いたのよ」
「すいません。話の流れからだと、まだ何も出てきそうにないですね」
「そう。じゃあ、引き続き聞き込みを頼むわ」
万作はデコを抑えながら車庫に向かった。
……あの調子では、長く持たないだろう。
無意識に彼女の身を案じる。これから彼女は長い夜を迎えるのだ。その結果がどうなるかはまだわからないが、自分が決定的な証拠を見つけ出さなければ彼女はクロで決まる。
……私と同じような思いはさせたくない。
彼女ではないと仮定すると、疑わしいのは今の所、あの男だけだ。
……必ず何か手がかりを見つけなければ。
リリーは気合を入れ直して、夏鳥皐月のアパートへ向かうことにした。
6.
カツンカツンと音を立てる鉄の階段を掛け上がると、夏鳥皐月の部屋が見えた。桃子が出て行ったので居留守を使う必要はないだろう。
インターホンを押すとすぐに反応があり、長い金髪の褐色肌の男性が現れた。爽やかそうな若者でかなりの男前だ。
「お待ちしていました。どうぞお入り下さい」
皐月はそういうと居間へ案内してくれた。
部屋は広いとはいえなかったが綺麗に掃除をしていた。小さいながらも台所があり壁に鍋やフライパン等が掛けられている。目の前にはテーブルの上にグラスが二つ置いてあり、コーヒーポッドが置いてある。皐月の言葉通り、リリーが来るのを待っていたのだろう。
足の低い机を向かい合わせにして、話を訊く体制を取る。
「随分と綺麗に片づいていますね、男性の部屋じゃないみたいです」
「いえ、とんでもありません。いつもはもっと汚いですよ。刑事さんが来るとわかっていたからです」
外見から想像もできないとても澄んだ声をしている。とても蘇鉄の血を受け継いでいるとは思えない。台所にはたくさんの種類が入った包丁セットが置かれていた。リリーの家には包丁は一本しかない。包丁の刃は美しく光っており新品のようだ。
「御自分で料理をされるんですか?」
「ええ、結構料理は得意なんです。大体カレーが多いですけどね」
最近の男性は自分で料理ができるらしい。女性の私が料理ができないといえば、彼はどんな顔をするだろうか。しかし料理を振舞う相手がいないのだからしょうがない。
「では単刀直入に伺います。事件の時の様子を教えて下さい」
「わかりました」
皐月は神妙な面持ちで答え始めた。
「二十一時半頃だったかな? 高速バスセンターにいたんですが、ちょうど乗ろうとしていた時です。運転手は確か年配の方だったかなぁ。とっても対応が遅かったのを覚えています。その時に桃子から連絡が来ました。家に帰ったらお母さんが倒れていると。それでどうして倒れているのかを訊いたんですが、桃子は動揺していたみたいで全くわかりませんでした」
皐月はコーヒーを一口含んでから苦い顔をした。
「少し経ってからです。畳が血だらけになっていると桃子はいったんです。僕はぞっとしました。強盗が入ったと思ったんです。綾梅さんを殺害した犯人が近くに残っているとまずいと思って、すぐに病院の前で待ち合わせをしようと提案しました。バスから降りて最寄のタクシーに乗り込み病院に向かいました」
「なるほど、桃子さんを守るため、というわけですね」病院が目の前にあるのに、という言葉は飲み込んでおく。
「夏鳥さん自身はなぜ高速バスに乗っていたのですか? どちらに行かれる予定だったんです?」リリーは蘇鉄との会話を思い出しながら皐月を見た。
「島根に行く予定でした。夜に乗って朝方つく便です。朝から時間が欲しかったので」
彼の表情は読めない、涼しい顔で丁寧に答えている。それが再び違和感を覚える。予め決められていたように話すからだ。
「ちなみに何をされる予定だったんですか?」
「庭を見に行く予定でした。世界一になった庭があるんです。足立美術館という所です。まだ発車する前で本当によかったですよ。もしかしたら、手遅れになっていたかもしれませんからね」
「おっしゃる通りです。しかしなぜバスで行こうと思ったんです? 島根といえば海岸沿いにありますし、サーフィンをする場所もあるかもしれません」
「なぜ僕がサーフィンをすることを? ああ、車が置いてあればわかりますよね」皐月は合点がいったように一人で納得した。しかし表情は真剣だ。
「確かに観光が目的ですが、それは仕事のためです。遊びではありません。プロになりたいんです」
皐月の目を観察する。仕事に本気で打ち込んでいる目だ。蘇鉄がこのことを聞いたら泣いて喜ぶだろう。
リリーは綾梅のことについて再度訊いた。
「質問を変えさせてもらいます。被害者が亡くなっていたか、桃子さんの話ではわかりませんよね? 救急車を呼ぶことは考えなかったのですか」
「すいません、そこまで頭が回らなくて……」皐月は頭を抱えながら嗚咽を漏らし始めた。「桃子に危害が加わることを一番恐れました。だから咄嗟に……」
皐月は涙を浮かべながら訊いてきた。
「た、助かる可能性は合ったのでしょうか?」
「いえ即死だったみたいです」
「そうですか……」皐月は目頭を抑えている。その表情は彼女を追悼しているようにしか見えない。
「失礼ですが、桃子さんとはお付き合いされているんですよね?」
「ええ、それが何か?」
彼の不穏な視線をものともせずに続ける。
「桃子さんの事件前後のアリバイはありませんでした。そこに関してはどう思ってますか?」
「まさか、犯人は別にいないというんですか?」皐月の視線が鋭くなる。拳を握りテーブルの上で震わせている。
「そういう意味ではありません。彼女が犯人ではない、何か形になるものがあればと思っています」
「そのことについては考えていたんですが、なかなか思いつかなくて……」彼はがっくりと肩を垂れ下げた。「何か出て来たら、すぐに刑事さんに伝えます、よければ連絡先を教えてくれませんか?」
リリーは名刺を置くと同時に職場に行ったことを伝えた。
「こちらこそありがとうございました、それではまた、お伺いすることになるかもしれませんがよろしいですか」
「はい、もちろんです」皐月は真剣な面持ちを見せた。「僕の方こそ桃子のためにできることは何でもするつもりです」
「わかりました、では……」リリーは頭を下げ、ドアに向かった。その時、皐月ははっと思い出したかのように質問した。
「すいません、桃子と面会はできるんですか?」
「今はまだできません、としかいいようがないですね」
もちろんできるはずがない、という言葉は伏せておく。皐月が桃子との共犯関係にあるかもしれないからだ。
彼女は再び頭を下げ彼の部屋を出ることにした。
……さて、これからどうしようか?
車の中で頭を捻る。首にピンポイントで切り傷、庭に落とされたナイフ、荒らされていない部屋。どう考えても身内の可能性が高い。
しかし桃子には動機はない。近所の住人からは親子間の仲は良好だと聞いているし、確執があったようには見えない。
……今度はどこから攻めたらいいだろう。
そう思っていると、知らない番号から連絡が掛かってきた。出てみると花屋の店主だった。
「お疲れ様です、刑事さん」
「お疲れ様です。どうされました?」
「実はですね、さっき桃子ちゃんの友人が買い物に来たんです」
リリーの胸がざわついた。きっと写真に映っていた女友達に違いない。旅行から帰ってきたのだろう。
「それは助かります。是非お話を訊かせて貰いたいですね」
「話したいのは山々なんですが。電話ではお伝えしにくい内容なんですよ。よかったら会って話をしませんか?」
どういった内容なのだろう。事件に関わる内容には違いない。それに自分としても会った方が交渉がしやすい。
「わかりました、それでは私がそちらに向かいます」
時計の針は二十時を差し、空は夜の顔になっていた。店主は店のシャッターを下ろしており、外に置いてあった蕾のついたウメやサクラの鉢を店の中に仕舞っている途中だった。
「どうぞ、お入りください。お客さんが来ないようにしておきますから」
こちらにとっても都合がいいので、礼をいいながら店が閉まるのを待つ。花を見ないようにしていると、壁に貼られた写真が目に入った。どこかで見たことがあるものだった。
「これは……」
「屋久島の縄文杉です」店主は片付けをしながらいう。「刑事さん、行ったことあるんです?」
「いえ……ありません」
心の中の冷えた記憶が自分を凍てつかせていく。忘れたい記憶でありながら、忘れることなどできない。
母親を最後に見た場所だからだ――。
「春花さん。実は今日の朝、秋風さんが出頭してきているんです」
慌てて話題を変えると、店主は一瞬驚いた顔になったが表情は緩かった。
「そうでしたか、それで?」
「もちろん自分ではないと供述しています。しかしその証拠が全くなく手詰まり状態なんですよ。いえ、悪いといった方がいいでしょう」
それでも店主は表情を変えることなく屈託のない笑顔を見せた。
「そうですか。でも本人がそういってるんなら、そうなんでしょう」
反論したかったが、店主の機嫌を損ねないために同じ意見だと同調した。
「実は私もそんな気がするんです。根拠がなく刑事としては失格になりますが。桃子さんと話をして殺意を持てる人ではないなと感じました」
この気持ちは本当だ。だがただの感情であり被疑者の身を守る盾にはなり得ない。理論と証拠がなければ彼女を救うことはできない。
「そうですね、桃子ちゃんに人殺しなんかできませんよ。蚊を叩く時にですら、声を上げるんですから」店主は再び笑みを見せる。
「それでお友達の話とは?」
ここに来た目的を質問すると、店主はぽんと手を叩いた。
「お友達の話によると特に問題なさそうです。母親に対する愚痴は聞いたこともないらしく、逆に尊敬していたみたいです。父親がいなかったので、お母さんが二つの顔を持っていたと」
「え……、それだけですか」
大きく溜息をつきそうになりながらも堪える。電話で訊ける内容だが問題はそこにはない。友人の連絡先を手に入れるためにここまで足を運んだのだから、よしとしよう。
「そうでしたか。一応確認の手続きをとるために、そのお友達の連絡先を教えて貰えませんか」
「いいですよ」店主はメモしていた紙をリリーに手渡した。
ようやくこれで確認が取れる。リリーはほっと胸を撫で下ろした。桃子が本当に犯人でないのなら、彼女にも連絡をしているはずだ。
「刑事さん、桃子ちゃんは犯人ではないですよ」店主は先ほどと変わって強い意志を持って告げる。「もしよかったらですが、僕に事件の全容を教えて貰えませんか? 桃子ちゃんの力になりたいんです」
「しかしですね……」
言い訳を考えながらもいうことができない。彼にはなぜか正直に話さなければならないような気がしてしまう。
それは彼の眼にあると思った。母親の面影を感じるのだ。純粋で誰よりも花を愛した彼女の瞳が色濃く映っている。
「……わかりました。全てを伝えることはできませんが……」
肩を落とし頷く。捜査上の秘密があるとはいえ話せる範囲だけなら構わないだろう。
話し終えた後、彼はゆっくりと微笑んだ。もちろん彼女の有利な情報などない。
「聞けてよかったです。犯人はやっぱり桃子ちゃんじゃなさそうだ」
彼の確信した顔を見て驚愕する。どうみても事件解決の手がかりとしては不十分だろう。
「今の話の中で、決定的な証拠があったんですか?」
「もちろんありませんが、手がかりは見つけることができそうです。できれば事件現場を見れたら、確実なんですが……」
「それは、困ります」
もちろん中に入ることは段取りさえ取ればできるが、だからといって一般人を入れるわけにはいかない。
困惑の表情を見せていると、店主の手が彼女の腕に絡まった。
「刑事さん、桃子ちゃんには時間がないんです。今のままでは真実を知らないまま、母親と別れることになってしまうんです。それでもいいんですか?」
……それは、可哀想だ。
彼の言葉を皮切りに心の葛藤が始まっていく。しかし規則を破るわけにはいかない。破りたくない。
破れるわけがない、心の中のガラス玉がそういっている。理論で考えなければ、殺人事件は解決しないのだ。
「現場に一般人を入れるわけにはいきません。理由があれば別ですが。私にも立場というものがあるんですよ」
「では一つお聞きします。綾梅さんは桃子ちゃんより大分身長があるんじゃないでしょうか?」
話していない内容だった。なぜ店主にそれがわかるのか。
「その通りです。でもあなたが綾梅さんに会っていた可能性があります」
「確かに。ではもう一つお聞きします。綾梅さんが倒れていた状態はうつ伏せで足を伸ばした状態ではないでしょうか?」
リリーの表情を見て、店主は微笑んだ。
「単純なことですよ。フローリストナイフで犯行を行なうためには、鎌で刈るように背後をとらなければならない。だけど、桃子ちゃんには綾梅さんの首に届くほどの身長はない」
店主は顎に手を当てて続けた。
「なので桃子ちゃんが行なうには綾梅さんが座った状態でないといけない。しかし足が伸びているということは綾梅さんは立った状態で切られたことを指します」
「それはどうしてですか?」
「和室ということは畳でしょう?」
畳という言葉を聞いてリリーはぴんときた。習字の先生ということは座る時、間違いなく正座だろう。正座の状態で切られたのなら寝る体制で倒れることは無理だ。
「その後に足を伸ばしたとも考えられます」
そういった後、リリーは後悔した。綾梅の体は倒れた後、動かされた形跡はなかった。首筋から血が出ているのだ、動かせば必ずその形跡が残る。
店主は追い討ちを掛けるように促してきた。
「そこまで頭が回る人物であれば池にナイフを投げたりしませんよ」
店主のいう通りだった。確かにこれは計画的でありながら穴がある行為だ。
「それに背後をとらない状態なら深い切り傷は残すことはできないと思います。桃子ちゃんの身長では無理です」
彼女の身長で裏に回っても綾梅の喉元を切ることは不可能だ。初めに現場を見て違和感を覚えていたが、今回の犯行はやはり彼女にはできない。
思わず絶句していると店主は頭を下げて懇願してきた。
「桃子ちゃんのためなんです。どうか」
「……わかりました。でも一つだけ条件があります。決して―――」
それを告げようとすると店主はそっと自分の口に人差し指を添えた。
「もちろん、誰にも話しませんよ。大丈夫です」
7.
「この部屋なのですね。しかし綺麗な庭だなぁ」
店主と共に家に入り事件現場の和室に入った。電気を点けた状態でも外の様子は暗くてわからないが、彼には感じるものがあったらしい。
「春花さん、理由をお聞かせ下さい。なぜ桃子さんが犯人ではないと?」
「そうですね、ここに来てやはり桃子ちゃんが犯人ではないと確信しました」
「それはなぜですか?」
「僕には三つの疑問があります。まずですね、一つ目の疑問は何故曲刃のフローリストナイフを使ったかということです」
店主は右手の人差し指を鎌のように曲げた。
「曲刃というのは植物の茎を引っ掛けやすくしているんです。つまり、余分な力をかけないで切れるということですね。こういう風に引いて切るんです」
左手の人差し指に鎌を引っ掛け、引く素振りを見せた。
「つまり桃子ちゃんがこのナイフを使ったのなら引く動作をするしかない。血の跡を見ると畳の上にしか残っていないですよね」
リリーは頷いた。綾梅が庭を見ている時に後ろから襲われたのなら、いくらか庭に血が飛び出さなければおかしい。
「被害者の首筋に切り傷があるとのことでしたね。このナイフを正しい状態で扱うとなれば被害者から見て右から左にかけて切る形になります。でも桃子ちゃんは左利きなので、殺害に使うとすれば右から左に流れるはずです」
気づかなかった点だった。確か鑑識官は右から左に切られた跡があるといっていた。
「ええ、その通りです。右に引っ掛けた形跡があります」
店主は強い口調で断言した。
「何も知らない人間が桃子ちゃんのナイフを奪って左手で犯行に及ぶでしょうか? そんなことはありえない。右で使っても支障がないからです。犯人は桃子ちゃんが左利きということを利用しています」
「たまたま犯人が左利きだったということも考えられますが?」
店主はくるりと回って庭を背にした。だが表情は揺るがない。
「もちろんそういった考えもあります。しかし犯人が桃子ちゃんならこのナイフは使わないでしょう。背後に回らないといけないし何より自分が疑われることはわかっているはず。桃子ちゃんが犯人だとするなら、家にある包丁のほうが立派な凶器になるんじゃないでしょうか」
「確かにそうかもしれません。しかし勢いでナイフを使ったのかもしれません」
口論の末、桃子が綾梅の寝首を掻いたのかもしれないとも思う。しかし争った形跡がないことは証明されているので、彼の言い分の方が正しい。
「では次の疑問に移りましょう。二つ目の疑問は庭の池に落ちていたということです。あそこの池の中にあったんですよね?」
リリーは頷いた。「間違いありません」
「これも疑問が残るんです。庭に踏み込んだ形跡はなかったとのことだったので、ここから慌ててナイフを投げたと仮定します。もしここから直接投げたとすると、目の前にある木の中に入ってもおかしくないですよね?」
部屋から池までの距離は10~15m離れている。そこまでには低木の照葉樹林が無数に茂っており、行く手を遮っている。
「敢えてあの池を狙ったのでしょうか、そうだとすれば余程コントロールがいいんでしょうね」
店主はにやりと笑って続ける。
「ナイフは閉じたままでしたね、これはナイフの血が外に漏れないためとも考えられます。仮に犯人が衝動的にとった行動だとすれば、わざわざ折り曲げるのは不自然です」
心臓に圧迫感を覚えた。もし衝動的に投げるのであれば、わざわざ折りたたんで投げるはずがない。
「これも推測です。そして最後の疑問ですが刑事さんもご存知の通り、畳の上に松の葉が残っていたということでしたね。先日もいいましたが花屋でも松は扱います。ですが今の時期は扱いませんし、うちの店にはありません」
店主は大きく息を吸って続けた。
「代わりに一年中松を扱う職業があります。それは庭師です。大学病院の手入れは十一月から三月に剪定を行います。青々とした松の葉が落ちていたというならば、庭師の方が確率は高いですね」
リリーは初日に松の葉を眺めたことを思い出した。松の葉は綺麗な緑色をしていた。店主のいうことに辻褄は合う。しかし決定的な証拠ではない。
「なぜ松の葉が落ちていたんでしょうかね? それは普段の道具を用いた時に落ちたのではないでしょうか。鋏をしまう袋などからです」
「なぜ鋏をしまう袋が登場するんです、犯行はナイフですよ?」
店主は人差し指を立てて振った。
「傷が一つとはいえ、刃物が一つではない可能性だってありますよ」店主は自前の鋏を取り出した。「例えばナイフが扱いづらく、愛用している鋏をナイフにして切りかかった。その後に、桃子ちゃんのナイフを使い偽装工作を施した後、何食わぬ顔で家を出る」
……刃物が一つじゃない?
リリーは驚嘆した。その着眼点はなかった。確かに傷口は一つでも可能性はある。
「まさか、鉄鋏をナイフに変えたと?」
店主は首を縦に振った。「花屋なら考えられることだと思います。これを研ぐ時にはネジを取らないといけないので必然的に二つのナイフになります」
背中に電流が走る。書類の概要だけでこの事件を考えてしまっていた。犯人を桃子だという点からだ、刃物も一つという視点でしか見ていなかった。
それは全て論理だけで考えた結果だ――。
「どうですか、庭師の方にもう一度尋ねてみては?」
しかし夏鳥皐月にはアリバイがある。腑に落ちない点がいくつもある。
「春花さんの推理には辻褄があいます。でも夏鳥皐月にはアリバイがあり、秋風桃子にはアリバイがないんです。なぜ夏鳥皐月を疑うのです?」
リリーの疑問を余所に店主は質問を返した。
「桃子ちゃんは何故、昼ごはんを店の前で約束をしなかったのでしょうか?」
「それは、お気に入りのパン屋の進行方向上に大学のゲートがあったからじゃないんですか」
「お互いがフランスアのパンが好きだとします。しかし、なぜ大学側のゲートなのでしょうか? 病院側のゲートの方が自然なんですよ」
リリーは反論した。「それは大学側のゲートの目の前にパン屋があるからですよ、そっちの方が効率がいいからです」
「でも二人は恋人同士ですよね? 病院側のゲートでの待ち合わせの方がいいんじゃないでしょうか。大学側のゲートでは二人とも十分間一人で歩いている構図になるんです」
店主の真意がわかる。二人が恋人同士なら病院のゲートで待ち合わせをした方が恋人といる時間は延びるのだ。
確かにそっちの方が自然な気がする。
リリーはその時、桃子の証言を思い出した。
――いつもの待ち合わせ場所でといわれたんです。
ここから店主の店まで歩いて二十分、大学ゲートまで二十分。つまり桃子は四十分掛けて待ち合わせ場所まで歩いている。仮に動揺して大学ゲート側で待ち合わせをしたとしても病院ゲートを通るのだ。病院ゲートといい直しても問題ない。なぜこんな面倒な手筈をとったのだろう。
「反対方向にもパン屋はあります。仮にそちらで買ったら桃子ちゃんの自宅で食べようという話になるかもしれません。それを避けるため、大学側のゲートを待ち合わせ場所にしたんじゃないでしょうか?」
「なぜそんな発想が? 根拠はあるんですか」リリーは思わず大きな口調でいった。
「今の所はありません。でも秋風家の庭の手入れは蘇鉄さんがしているのですよね? この庭はとても美しい。ならここを皐月君が見に行きたいと思ってもいいんじゃないんでしょうか」
――プロになりたいんです。
背筋に冷たいものが通っていく。この仕事を本気でしたいといっていた皐月の顔が浮かぶ。本気で庭師を望んでいるのなら、勉強するには格好の場所だ。
「それを毎回反対側のパン屋へ向かうというのはやはり不自然だと思うんです。これには必ず訳があると思います」
皐月は父親達には付き合っていることを隠している素振りを見せていた。だが桃子とは幼馴染だ。一度くらい桃子の家に遊びに行ってもおかしくない。
「確かに、何かあるのかもしれませんね……春花さん、すいません。刑事として冷静に調査を行えていませんでした。すぐに庭師の彼に連絡をとってみます」
頭を下げると、店主は大げさに手を振った。
「そんなことはありませんよ。刑事さんは純粋に事件に立ち向かっていると思います。きっと事件は解決します。どうか焦らないで下さい」
「ありがとうございます。では帰りをお送りします」
「いえ大丈夫です。それより先を急いだ方が……」
時計を眺める。二十二時前だ。急いで向かわなければ話を聞いてくれる時間帯ではなくなる。
「すいません。また用件が済み次第、報告させて頂きます」
もし皐月が犯人で鋏を処分していたら……。
例えようのない不気味な空気が胸を覆う。急がなければ、人の一生が狂ってしまう。だがファーストギアに入れようとしても手の震えが静まらず中々入れることができない。
いくつもの不安を拭いながら、彼女は彼のアパートへ急いだ。
皐月のアパートに向かいながら、リリーは署に連絡をし鑑識官を呼び出した。刃物が二つ使われた形跡があるかどうか調べてもらうためだ。鑑識官に用件を伝え電話を切ると、その直後に万作からの着信がきた。
「先輩、どうやらガイシャは人と会う約束をしていたみたいですよ」
「そう。誰かはわかった?」
「すいません、そこまでは。ただ、懐かしい人物に会うといっていたみたいです」
「それで上等よ、お疲れ様」
「これからその人物を探そうと思っているのですけど、先輩はどちらに?」
「あなたが探している人物の所にもう向かってるわ」
万作との電話を切る頃には皐月のアパートについていた。階段を一段ずつ飛ばし駆け上がる。まだ肌寒い季節だが、額には汗が滴ろうとしていた。
「夜遅くにすいません。いらっしゃいませんか」
インターフォンを鳴らすと、夏鳥皐月はすぐに出てきた。
「刑事さんじゃないですか、どうかされたんですか?」皐月は驚いた表情のままドアを開けている。
「すいません、どうしても気になることがありまして。よろしいですか?」
「もちろん、いいですよ」
やはり時間帯が悪い。皐月の声のトーンが昼間より低い。機嫌はあまりよくないようだ。
「夏鳥さんの職業は庭師ですよね、普段は鋏で仕事をなさるんですか?」
皐月の表情が若干歪んだようにみえた。
「鋏も使うといった感じですかね、それがなにか?」
「その鋏はどちらに?」
「それがですね。今、手元にないんですよ」
店主の予想が的中した。思わず体中の力が抜けそうになる。しかしここで諦めるわけにはいかない。
「お店に置いてあるのでしょうか、よかったら鋏を見せて頂きたいんです」
「なぜお見せしなければならないんですか。理由を教えて下さい」
「今回の事件の犯行に二つの刃物を使った可能性が出てきたんです」
ただの憶測だ、根拠はない。だがここで鋏のありかを聞かなければ後がない。
「そうだったんですか。まさか僕を疑ってるんです? 花屋だって鋏を使うのに」
皐月の言動に疑問を持つ。どうやら店主の注意が効いているようだ。体には力が入らないが頭は冴えている。
「夏鳥さんは花屋が犯人だと思っているんですか?」
皐月の顔に若干の曇りが生じる。
「確かに桃子ではないと思いたいですが、アリバイがないんでしょう?」
「確かにその通りです」
「桃子の可能性は否定できないですよね」
昼間では面会できるかどうか切実な顔していたのだが、今ではその面影はない。凍りついたような冷たい顔になっている。
皐月は頭を掻きながら答えた。
「仕事がちょうど落ち着いたんで、鋏は新しいのに変えようと思って捨てました」
やはり……。自分の無力さを呪うしかない。
「そうでしたか……」
彼女が落胆の表情を見せると、彼の口元が微かに上がったように見えた。「他に何かありますか?」
「すいません、もう一つだけ。桃子さんの自宅には行かれたことはありますか?」
「いえ、一度もありません」皐月はきっぱりといった。
「父親が秋風家の庭を手入れしていることは知っていますよね?」
「ええ、知っています」
「庭を見たいとは思わなかったのですか? 夏鳥さんほどのやる気があれば見に行っていたと思ったんですが」
皐月はうんざりだといわんばかりに苛立ちを表に出している。目つきが徐々に鋭くなっていく。
「正直、父の技術を素晴らしいと思ったことはありません。僕は僕のやり方でやっていこうと思ってます。だいたい刑事さんに庭の良し悪しがわかるんですか?」
痛い所を突かれいい返すことができない。
「すいません、失礼しました」
「いえいえ、お仕事ですもんね」勝ち誇った顔が浮かび扉がゆっくりと閉まっていく。「僕も明日から仕事なので、この辺で失礼させて貰ってもいいですか。早く真犯人見つかることを祈っています」
喰いつきたいが勝負できるカードはない。いわれるがままに退散する他ない。
リリーは再び頭を垂らし、皐月のアパートから退却した。
……これはまずい状況になった。
落胆を抱えながら署に向かう。頭の中では自分に対する不甲斐なさで一杯になっていた。
桃子はやはり皐月に巻き込まれたのではないか。だがこのまま捜査が進展しなければ彼女が犯人だといわれ続けることになるだろう。そうなれば彼女は精神的なダメージが蓄積され、身の潔白を諦めるかもしれない。
これが皐月の本当の狙いなら―――。
……今夜は眠れそうにない。
このまま朝日を拝むことになりそうだ。彼女は再び自責の念を感じつつ、捜査会議室でうな垂れる他なかった。
8.
結局一睡もすることができずリリーは眩しい光を遮りながらブラックコーヒーで目を覚ました。普段ならコーヒーなど飲まないが徹夜明けには飲まずにはいられない。
鑑識官の話によると、刃物が二つ使われた形跡があったらしく、何でもナイフにはシャープナーで砥がれた跡があり刃が通常のものより痛んでいたとのことだ。もう一つの傷口には綺麗に砥がれたナイフで切られており、明確な差が生じていたとのことだった。
そして驚くべきことにこの二つの傷跡はほとんど同じ厚さである。これには鑑識官も唸っていた。切り口の入り方が微妙に違うだけで一本の凶器で間違いないと判断していたそうだ。
曲刃は入り込むため最初の切り口が深くなっている。だがもう一つあった切り口は初動が浅く進むにつれて深くなっているとのことだった。つまり綾梅を正面にして直刃のナイフで切り込んだというわけだ。
切り口は右から左に下がっている。桃子の身長では無理だ。綾梅と同等かそれ以上の身長でなくては無理だろう。
この話を聞いて再び落ち込むしかない、その証拠品はおそらく抹消されているだろう。もはや手の打ちようがない。
署内は桃子を自白させようという空気になっていた。当然だ、彼女にはアリバイはなく他に怪しい人物は上がっていないのだから。
……こういう時こそ、冷静にならなければ。
両手で頬を叩き気合を入れ直す。自分しか桃子を助けることはできないのだ、弱気になってどうする。
とりあえず皐月のアリバイを確認することが先決だ。もし皐月が犯人なら高速バスに乗る時間すらないはずだ、島根行きのバスを確認すれば突破口は生まれるだろう。
だがここで二人とも出る訳には行かない。
「ガイシャの交友関係を洗うんじゃなかったんですか」万作が口を尖らせる。
「それは署にいてもできるでしょ」
「署で行えば限りがあります、どうか外に出させて下さいよ」
「今私達が出たら秋風桃子は――」
リリーが話し終わる前に、万作が横から口を挟んだ。
「確かにまずいですね」
今自分達が出て行けば他の捜査官が桃子に尋問するだろう。周りから早く出て行けという冷たい風が容赦なく流れている。彼女に見張りをつけて置かなければならない。
「調べないと行けないことがあるの、それが終わればすぐに連絡するわ」
「わかりました。それにしても先輩、やけに気合入ってますね。目の下にくまが出来てますよ」
「うるさいわねっ、つけてんのよ」
気がつくと万作の足を思いっきり踏んでいた。彼の雄たけびを聞きながら彼女は署を後にした。
「三月十七日? ああ、あの色黒のにーちゃんか」
バスの運転手は皐月に対する記憶があるらしく軽快に答えてくれた。
「バスは二十二時に出発するんだけどね、深夜バスだから早めに来て準備しておくわけよ。確かにーちゃんは一番乗りだったな」運転手は思い出すように顎を擦っている。
「それは何時頃でした?」
運転手は予約表を取り出し、サインを確認している。
「二十一時三十二分となってるな。にーちゃんは入って来た瞬間に大きな着信音を鳴らしてね。すぐに出ていったよ。それで電話が終わったら申し訳ないがキャンセルするとね」
皐月の供述通りだった。思わず苦虫を噛み締めたような憂鬱な気分が胸に迫る。しかしここで諦めるわけにはいかない。
「その時の服装を覚えていますか、皐月さんに間違いないという証明はしましたか」
運転手は唸りながら顎をさすった。
「確か明るい服装だったのは覚えてるんだけどね。顔はこんな感じだったかな、帽子を深く被っていて詳しくは見てないけど。ただ雰囲気的にこんな感じだったと思うよ」
苛立ちを隠すことはできない。高速バスとなれば身分を明かす必要はない、つまり囮を用意しても問題ないことになる。まさか皐月はそれまでも計算にいれていたのではないだろうか。
「そうですか、ありがとうございます」
頭を下げてバス会社を後にし次にタクシー乗り場に向かう。皐月はバスに乗ろうとした後、最寄のタクシーで大学側のゲートに向かったとのことだった。周辺のタクシーに聞き込みを行う。
皐月を乗せたタクシーはすぐに見つかった。今日は運がいいと胸を撫で下ろしながら訊き込みを再会する。
「ええ、三月十七日ね、確かに乗せましたよ」
「その時の状況を教えてくれませんか?」
運転手は車から降りて続けた。
「確か夜の九時半頃だったかな、色の黒い若者でね。服装は明るい感じだったかなぁ。目がチカチカするような色だったよ。最近の若いのは奇抜なファッションだからねぇ。行き先だけいった後、特に車内では会話はなかったよ」
「その時間はなぜ九時半だと覚えているんです? 何か理由があれば教えて下さい」
「そうそう、確かお客さんに時間を訊かれたんだよ。今何時かってね。それで覚えてたんだ」運転手はぽんと手を叩いた。「それで大学ゲート前で降ろしたんだけど、連れが来るから待っていてくれっていわれてね。二十分くらいかなぁ。そこで待ってたら、女の子を連れてきてね。そのまま彼の自宅まで行ったよ」
「なるほど、大学のゲートについたのは何時頃ですか?」
「確か九時五十分くらいだったな。メーターを回しておいていいといわれたから、よく覚えてるよ」
「ということは十時十分くらいに発車したということですね」
「そうなるね」運転手はそこまで答えて、リリーに質問した。
「確か連れて来た子、とんでもないものを見たような顔をしていたなぁ。もしかしてこの間の自宅で起きた殺人を追ってるの?」
リリーはゆっくりと首を縦に振った。本来なら告げることはできない。だが今は本当に時間が惜しいのだ。なんとしてでも情報を引き出さなければならない。
「ええ最後まで確認を取らないといけないんです」
「大変だねぇ、刑事も」運転手は腕を組んで煙草に火をつけた。
「二人が戻って来てからどんな様子でした?」
「んーそういえば最初、にーちゃんの方が帽子を被ってたんだけど。次に乗る時は彼女に被せてたな。ひどく落ち込んでるようだったから顔を隠すためかな」
皐月の写真をみせると、皐月で間違いないと証言した。
「そうですか、貴重な証言ありがとうございます。最初の時と二回目に入って来た時、彼の様子に変わりはありませんでしたか?」
「そうだねぇ、最初に乗って来た時は落ち着きがなかったなぁ。横になったりジャケットを脱いだりしてね。確かオレンジ色のジャケットだったよ。車内の中でも光ってたもんなぁ。それにジャケットの中には真っ赤なTシャツを着ていたんだよ」
「赤いTシャツ?」
「うん。何のロゴも入ってないような真っ赤なやつだったな。二回目の時は連れが来ても会話は全くなかったね。こっちに怪しまれると思ったのかもね」
皐月が犯人でないのなら当然の反応だろう。しかしその瞬間にある考えがよぎった。
まさか、そういうことか―――。
「ありがとうございました。是非参考にさせて頂きます」
リリーは運転手に礼をいった後、万作に連絡した。
「万作、今どこにいるの?」
「署にいろ、といったのは先輩じゃないですか」万作が肩をすくめて椅子に座っている様子が浮かぶ。
「万作、ちょっと行ってきて欲しい所があるんだけど」
「わかりました。どこですか?」
リリーは高鳴る胸を抑えながらいった。
「餡パンが美味しかったパン屋よ」
9.
リリーはそのままタクシーで再び『和盆栽』に向かった。皐月はどうやら出かけているらしく、蘇鉄が一人残っていた。
……話をするのには丁度いい。
彼女は胸を撫で下ろしながら庭園に踏み込む。タオルを頭に巻いている大男がこっちに向かって手を振ってきた。
「やあ、刑事さん。何か掴めたかい?」
「ええ。だいぶ事件の概要が掴めました」
「そうか、それで?」
リリーは厳しい口調に切り替えて、蘇鉄の顔を見つめた。
「桃子ちゃんではない犯人が見つかりそうなんです」
蘇鉄は大きく笑顔を見せた。
「そりゃよかった。どうぞ上がっていってくれ」
蘇鉄の案内にしたがって応接室に入る。
「すまねえな、あいつは今仕事に行ってるんだ」
「いえ、今日は蘇鉄さんにお聞きしたいことがありまして」
蘇鉄は驚いた様子をみせたがすぐに切り替えた。
「そうかい、あいつは足立美術館について何かいってたか?」
「そちらの話は聞いていないので息子さんから直接訊かれた方がいいと思いますよ」
「本当に行ったのかなぁ」蘇鉄の顔が曇る。「アイツからその話を聞いてないんだ。俺からあいつに話し掛けるのは苦手でね。なんせあいつはこの家から十年離れていたんだ」
「その話は……訊いてもいいのですか?」
「ああ。あいつは花屋になりたかったらしい。それで十歳の頃から親戚の花屋に預けていたんだ。そこの夫婦には子供がいなくてね、お互いがすんなり納得しちまったから、そのまま預けることにしたんだ」
……なるほど。
父親の技術を評価しないというのは花屋としての視点があるからだろう。皐月のいう通り親子関係は上手くいってないらしい。
「こちらに戻ってきたということは庭師として跡を継ぐ気になったんです?」
「そうだ。皐月の中では両天秤に掛けていたんだろうな。それで結局は庭師になると決めたわけだ。やっぱり俺の子だ。わはは」
リリーが溜息をつこうとすると蘇鉄が切り返してきた。
「それで話っていうのはなんだい?」
「実はですね、綾梅さんの犯行に鋏が使われた形跡があったんです。鋏といってもたくさんの種類がありますので参考に話を訊きたくて伺いました」
「そうかい、鋏の話かい。俺は鋏の話だったらいくらでもできるぜ。鋏っていうものはな――」
蘇鉄が話し始めて二十分後、お手洗いに行きたいといって話を中断した。いくら何でも長すぎる、このまま鋏の話を聞いていたらいくら時間があっても足りない。万作にこっちに来て貰えばよかったなと後悔する。
……それにしてもこの家は広い。
彼の案内どおりに歩いても洗面所が見当たらない。日本家屋なため、扉が無数にありなかなか目的地に辿り着かない。
扉のプレートの一つに桜と書かれていた。その字体には見覚えがある、秋風家の表札と似ているのだ。鍵が空いているのを確認して扉を開けていく。
……花の香りがする。この花はサクラ?
部屋の隅々まで見渡してみる。桜は故人のはずなのに人の気配が感じられる。両端には園芸用の本がたくさん並び、季節毎にきちんと並んでいる。目の前には大きな机があり綺麗に生けこまれたサクラの枝が入った花瓶と帳簿が置いてあった。その帳簿に写真が二枚挟まっている。
一枚は秋風家の庭で家族三人で写っている写真だった。若い頃の蘇鉄に儚げな笑みを見せている大人の女性が立っている。きっと奥さんだろう。その両親に囲まれて小さな少年が笑顔でこっちに向けてピースサインを作っていた。皐月だ。今の様子とは違い純粋そうな笑みを見せている。
……同い年くらいだろうか。
自分の母親を思い浮かべると、心のガラス玉がギリリと音を立てて胸を圧迫する。あの頃はこんな風に無邪気に笑っていれたかもしれない。
彼女は少しだけ昔に遡ることにした。
――あれは父親と屋久島の山荘で暖かいミルクティーを飲んでいた時だ。母親の百合が宮之浦岳で雪崩に合い遭難したという電話が入ったのだ。
父親のストックは雪山に登るための準備を始めたが、自分が彼を止めてしまった。一人になることが怖く、父親に泣いて縋ったのだ。
結局、父親は山に登らず、母親の身元は出てこないまま、捜査は打ち切りになった。自分がいなければ、父親を止めなければ母親が助かった可能性がある。そう思うだけで心がぎりぎりと軋んでいく。
百合は花が好きだった。季節を巡る毎に新しい花を一緒に植え、庭には雑草が生える隙間がない程花で埋め尽くされていた。それを母親と一緒に眺めることが楽しくて心が安らいでいた。
百合が亡くなってから父親は苦しみから逃れるように仕事を変えそれに打ち込んだ。暖かい家庭は崩れ去り、季節を巡る毎に庭の花は全て枯れ果てていき、アスファルトで埋め尽くされた。
リリーはその重圧に耐えることができず心にガラス玉で蓋をした。花のように弱いままでは生きていけない。信用できるものは全て数字で表せる理論だけだ。
感情はもう、いらない――。
……今考えるべきことではなかった。
彼女は意識を集中してもう一枚の写真に目を通した。
そこには蘇鉄が桜とではなく、被害者の秋風綾梅と二人だけで写っている写真だった。
10.
「えらい遅かったね、間に合ったのかい?」
部屋に戻ると、蘇鉄は笑顔でいった。
「女性にそんなことを訊くのは失礼だと思うんですが」
「すまんすまん、あまりに遅かったからね。ええと何の話だったっけ?」
「鋏の話です」
「そうそう、鋏っていうものはね――」
リリーは急いで話を遮った。
「夏鳥さん、ナイフを二本ネジで止めてある鋏をご存知ですか?」
「ああ、知ってるよ。普段俺達が使っている鋏だ」
「それはどういった形なんです?」
蘇鉄は右手でピースの形をとりながら付け根部分に拳で丸を作って乗せた。
「こんな形だ。普通の鋏みたいに指を入れる所がないんだ。枝切りバサミを知ってるかい、あれを片手で扱うような感じだね」
そういって蘇鉄は親指を立てるポーズをとりながら四つの指を重ねて折り曲げたり戻したりした。
「なるほど、それでどういったものを切るんですか?」
「そうだな。花屋だったら茎を切ったりして長さを調節するだろうし、庭師だったら細かい所を剪定するのに使うかな」
蘇鉄はそういうと思い出したかのように続けた。
「そうそう。皐月がその鋏を捨てていたんだよ。きっと病院の仕事が終わってひと段落つくと思ったんだろうな」
自然と体が前のめりになる。今、最も重大な話題が来たと気を引き締める。
「その時は皐月さんが捨てるのを見たんですか?」
「いや、見てないよ。目の前で捨てていたら怒鳴りあげてやろうと思ったんだけどな。鋏っていうのは研げば新品同様に使えるんだ。なのにアイツは使い捨てにしてるから、俺が研いで教えてやろうと思ってるんだよ」
……も、もしかして?
あらぬ期待に胸が膨らむ。つまり蘇鉄は皐月の鋏を取っているということだ。これ以上の収穫はない。
「すいません、その鋏はどちらに?」
リリーが身を乗り出していうと、蘇鉄は頬を掻きながらいった。
「それがな、今、ある花屋さんに貸してあるんだ」
署に戻ると、花屋の店主である椿がリリーの方に手を振っていた。
「先に謝らないといけませんね、すいませんでした」彼は手提げ袋から鋏を取り出した。
「春花さん、きちんと説明して頂けますよね?」眉間に皺を寄せて睨むと、彼は焦る様子を見せながらも頷いた。
「いつこの鋏を手に入れたんですか?」
「二日前ですね、事件があった次の日に」
「それではおかしなことになります。私は昨日、お話しました。その前に知る術はないはずです」
「確かに事件の全容を知ったのは昨日ですが、僕は事件があった次の日に皐月君を疑っていました」椿は真剣な表情で答えた。「花屋は朝早くから市場があるのですが、桃子ちゃんは勉強のためについて来ていました。なので連絡がつかないことで、何かあったのかなとは思っていました」
なるほど、桃子の異変には初めから気づいていたわけだ。
リリーは頷いて先を促した。
「市場で花を仕入れている時、桃子ちゃんの自宅近くで殺人事件が起きたという話を聞いたんです。それでもしかすると、何かに巻き込まれているのかなとも思いました。桃子ちゃんは近所付き合いを大事にしていましたから」
枯枝美空の表情が蘇る。桃子のことを孫娘のようにかわいがっていたのだ。仮に近所で事件が起きたとしても、桃子なら首を突っ込むかもしれない。
「でもそんな時だからこそ、桃子ちゃんなら連絡をすると思ったんです。あの子が連絡をいれないのには自分が関係しているからだと思いました。その時、思い浮かんだのが病院の庭師でした」
「なぜですか? 皐月さんを調べたのは一昨日ですよ?」
「実は蘇鉄さんとは元々知り合いだったんです。僕のお世話になった花屋さんと付き合いがあったので」
「もちろん、きちんとした理由があって私に話してないんですよね」椿を強く睨む。警察を何だと思っているのだろうか、この男は。
「も、もちろんです」
椿の顔に動揺の色が見えた。少しだけ気がおさまるが、処分は事実確認が終わってからだ。
「蘇鉄さんに連絡を入れると、皐月君が島根に出発したとの話を聞きました。その時にピンときたんです。皐月君は予め計画を立てておいて桃子ちゃんに近づいたのではないかと」
リリーは黙って聞くことにした。椿だけではなく、蘇鉄にも疑問を持ったからだ。
蘇鉄は事件の翌日には内容を知っている素振りを見せていたが、警察に情報を提供していなかった。それは皐月が桃子を説得していると思っていたからだろう。
「蘇鉄さんは皐月君が一仕事終えて捨てた鋏を見つけたみたいで、無理をいって借りたんです。桃子ちゃんから皐月君が料理が得意で、きちんと包丁を研ぐことを聞いていたので」
「なぜそれを最初におっしゃってくれなかったんですか?」沸々と湧き上がる怒りをぶつける。「最初に伺った時、何も知らないで通していたじゃないですか。最悪、捕まる可能性だってありますよ」
「すいません。最初にこれをいうと、桃子ちゃんに疑いがかかると思ったんです」
意味がわからない。冷静に考えることができず、彼に対する怒りが増していく。
「警察は桃子ちゃんを疑っていましたよね、当たり前です。事件があって被害者の子供が行方不明なんですから。桃子ちゃんを探すのは当然といえます。しかしこれが桃子ちゃんと皐月君の作戦だったらどうでしょう? 皐月君と二人で組んでいたとしたら」
二人は元々組んでおり、綾梅を殺害した後、皐月のアパートに篭城することを決めていた。確かにそういった考えもある。
だが――。
「それはありえません。桃子さんは一人で出頭してきているんですよ。もし桃子さんが犯人なら、皐月さんの鋏がなければ自分の無罪を主張できません」
椿は強く頷いた。
「そうなんです。だから、桃子ちゃんは犯人ではないといえます」
彼の言葉で頭の中は冴え渡っていった。桃子は証拠になるような物を知らなかった。当然だ、犯人ではないのだから鋏を使用しているかどうかわからないはず。
この鋏が綾梅の殺人に使われた形跡があれば……桃子は関与していないということになる。
「刑事さんは皐月君に鋏のことを聞いたんですよね?」
「ええ。皐月さんは仕事が落ち着いたということで鋏を処分したと証言しました」
「よかった」店主はほっと吐息をついた。「これで皐月君が自ら鋏を処分したことが確定しましたね」
頭の中に浮かんでいた暗雲が消えていく。皐月の鋏を見つけることができていても、皐月が自ら捨てたことを認めなければ桃子の疑いは晴れないのだ。椿自ら訊くことはできない、そこで私にその役が回ってきたということか。
「……なるほど、私を駒に使ったわけですね」
「すいません、こうしなければ桃子ちゃんの疑いが晴れないと思っていたので」
気分は悪いが体が熱を帯びていく。これでやっと皐月を追い込む鍵が見つかった。
「では、すぐに鑑識に回して確認します」
「お願いします。それとこれもどうぞ。できれば桃子ちゃんにも」
椿から手渡された袋からいい匂いがした。しかし鋏の方が先だ。自然と足が速くなりヒールの音が徐々に加速を増していく。
鑑識の結果を待っている間、万作から連絡が来た。推測通り、一つの証拠を見つけたみたいだ。
「先輩のいった通りです。次はどうしたらいいんですか?」
「鈍いわね、次は大学に行くしかないでしょ」
「で、ですよね。しかしどうやって調べれば……」
「皐月はどうやってこの犯行を考えたと思う?」
少しの沈黙の後、万作は口を開いた。
「それは……そういうことですか。了解です」
「時間がないのよ。急いでね」
……次で決めなければならない。
万作との電話を切り桃子の様子を見ると、すでに焦燥しきっており限界が近づいていた。
中途半端な形では皐月を追い詰めることができない。彼と対峙するイメージを何度も膨らませミスがないか確認する。
鑑識の結果が出た。リリーの推測通りの結果が出たとのことだった。後は万作の結果を待つのみだ。
……だがこのままでは桃子が持たない。
再び思考に集中する。ここで万作の結果を待っていては皐月が次の手を打ってくるかもしれない。
判断に迷いが生じ始めていた。今のまま向かったら間違いなくトドメを刺すことができない。しかしここで何もしなくてもタイムリミットは近づいていくのだ。万作を信じていくしかない。
後は私のやり方一つで全てが決まる。
……あの時のような思いはしたくない。
母親の後ろ姿が目に浮かぶ。ここで逃げたら、母親の影すら失ってしまう。桃子のためにも、自分のためにも前を向きたい。
「秋風桃子さん」
桃子が留まっている部屋に入り椿から貰った袋を差し出す。
「どうぞ、春花さんから預かったものです。私の大好物でもあるんですが、よかったら私の分も食べて下さい」
桃子は俯いたまま何の表情も出さなかった。
「今から私は真犯人を捕まえに行きます。成功するかどうかまだわかりません。だけど、どうか諦めないで欲しい。あなたのことを信じている人がたくさんいます。今のあなたにこんなことをいうのは酷かもしれませんが、私の正直な気持ちです」
桃子は何も口にしなかったが、首だけで返事をした。それだけで十分だ。
……よし、行くか。
リリーはポケットから車のキーを取り出しぎゅっと握った。
逃げることは、もう許されない。
11.
リリーが青々とした庭園に踏み込んだ時には、冷静さを取り戻していた。深呼吸し迷いなく目的地に向かう。空を見上げると灰色の雲が浮かんでおり今にも降り出しそうな天候に変わっていた。
皐月は外の庭の手入れをしていた。雨が振る前に終わらせたいのだろう、恐ろしく仕事が早い。声を掛けるとこちらに気づき、無表情に頭を下げて来た。
「こんにちは、夏鳥さん。ご報告がありまして立ち寄らせていただきました」
もう迷いはしない、リリーの目は夏鳥皐月を掴んでいた。
「またですか、刑事さんっていうのは本当にしつこいんですね」
「申し訳ありません。しかし、今日で最後の訪問になると思います」
「そうですか、じゃあやっぱり……」
「はい、あなたに御同行して頂くために来ました」
「え?」皐月の顔に歪みが生じた。「何をいってるんです? 犯人は桃子じゃ……」
「桃子さんではないですよね?」
リリーが鋭く睨みつけると、彼は微笑んだ。
「どうしたんですか、犯人は桃子ですよね? 何か他の証拠でも見つかったんです?」
いきなり証拠ときたか。自然と唇が上を向いていく。やはり父親とのコミニケーションはうまくいってないらしい。
「先日は夜遅くに失礼しました。今度はちゃんと証拠があります」
「そうですか。それで証拠とは?」
蘇鉄が遠くからこちらを見つめているようだ。リリーが建物内に目をやると、建物の中で作業していた彼の手が止まっていた。
「ええ、あなたの鋏です。ネジの部分に微量ですが被害者の血が認められました。自宅に行ったことはないとのことでしたが、これはどういうことでしょうか?」
「は? 僕の鋏を何であなたが持っているんですか? 意味がわからない。というか僕は無関係ですよ」
震えている唇からにしてはきちんと言葉が出ている。彼女は口元を緩めて続けた。
「わかりました、お伝え致しましょう。あなたが捨てたという鋏は蘇鉄さんがあなたのためにもう一度拾ったのです。研ぎ直してあなたにまた使って頂くためにね。しかし皮肉なものです。あなたは一流の研ぎ師ですよ」
皐月の表情はセメントのようにガチガチに固まっていた。頭を垂らして足を震わせている。
「この鋏は桃子さんが使っていたナイフとほとんど誤差がないくらいの厚さになっています、両刃ともです。鑑識官もびっくりしていました。ナイフ一本の犯行だと考えていましたからね」
「たまたまじゃないんですか? 一年間使って来た鋏なので磨り減って、たまたまナイフと同じ厚さになることもありえるんじゃないんですか?」
「残念ながらそうなる可能性は非常に低いようです」彼女は穏やかな笑みを浮べたまま告げた。「鋏を使っていると、どちらかに力が片寄るので全く同じ厚さになるということはありえません。綺麗に研がない限りは」
……ここから切り込むことにしよう。
ぐっと手に力を込める。先ほど掴んだ桃子のぬくもりが未だ残っている。
「夏鳥さんのアパートには綺麗な包丁がたくさんありましたね、あれは練習用に買ったんじゃないんですか?」
「いいえ、料理なんて――」皐月はリリーに話した内容を思い出したのかそこまでいって黙った。
「詳しくは署で話を伺えませんか?」
「わかりました。ではその前に真実を話しましょう」皐月は力を抜いて観念したような表情を見せた。「確かにこの鋏は僕が処分しました。しかしですね、これは桃子の意志なんです。桃子は母親に昔から恨みを持っていました。母親は自宅に男を呼んで不倫をしていたみたいです。母親と二人だけの生活なのに、母親と反りが合わなければ歪みが生じますよね? ある日、僕に鋏を貸してくれといったんです」
「つまりあなたは殺人に関与していないと?」
「そうです。事件後の夜に、桃子から鋏を返して貰いました。そして僕は父親にこれを処分して貰おうと思い、ゴミ箱に捨てました」
「……そうですか、それで言い逃れができると思っているんですね」
リリーは全く動じなかった。そんな考えはすでに想定済みだ。
「あなたの心はすでに枯れています、自首して下さい」
彼女の冷めた瞳が彼を追い詰める。皐月の表情が灰色に染まっていく。
「えっ? 刑事さん、本当の話なんですよ。信じて下さい」
「ではなぜ鋏を貸したんですか? あなたに危害が及ぶんですよ」
「お、俺は……彼女を愛していた。初め、俺が身代わりになろうと思っていました」皐月は恋焦がれる乙女のような憂いに満ちた表情を作り遠くを見つめながらいった。だが先ほどよりも表情が硬く顔色が悪い。「しかし彼女は考え直し自分の罪を認めるため出頭したんです」
「秋風さんは罪を認めていないのですが」
「それは、途中で怖くなったからではないですか。自分の犯した罪を認める勇気がなくなっただけでは。それに……俺にはアリバイがあります。どうやっても綾梅さんを殺害することは無理ですよね」
自分の顔が綻んだのを感じる。その言葉を待っていたと思わず口がにやけてしまう。
「では、そのアリバイについてお話をしましょう。あなたは二十一時三十分頃バス停にいましたね」
「ええ、その通りです」
「年配の運転手といっていましたが、実は若い運転手でした」
皐月はごくんと唾を飲み込んだ。だが表情は揺るがない。
「当日の運転手の話によると、年配の運転手は休みをとって交代していたみたいです。代わりに派遣の方が来られたみたいですよ」
「ええっと、そうでしたっけ」皐月の眼は泳いでいる。「ああ、そうそう。その時の運転手は若かったです。すいません、うっかりしていて」
「うっかりなら仕方ないですね。続けさせて貰います。バスを離れた後、あなたはタクシーに乗ったといいましたよね、そのタクシーの運転手に時間を訊いたんじゃないですか」
「時間を訊いたのは確かです、間違いありません」
「中は熱かったんでしょうね、ジャケットを脱いでいたと運転手はいっていましたよ」
「そうだったんですかね。桃子の話を聞いて落ち着かなかったもので」
あくまでも白を切るつもりらしい。熱を込めて彼を追い詰めていく。
「しかし二人でタクシーに乗った時、あなたは暖房の入った中でジャケットを脱ぐことはしなかった。いや脱げなかったんでしょうね。ジャケットの中は血の匂いが残っているでしょうから」
皐月の顔が変色しだした。血色が悪くなり青くなっていく。
「ジャケットの中になぜ血の匂いがあるんです?」
「それはあなたが一番ご存知のはずでしょう?」
皐月は大きくかぶりを振った。
「いいえ、わかりません。ジャケットの中には綾梅さんの血が付いていたというんですか」
「違いますか?」
皐月は当たり前だと大きな声でいった。
「違うに決まってるじゃないですか。仮にですよ、俺が殺人をしたら、その血はジャケットの中には入らず表につくんじゃないんですか」
「普通のジャケットでしたらそうでしょうね」
「普通のジャケットって何ですか、普通じゃないジャケットがあるんです?」皐月は突然笑い始めた。しかしその中に動揺の色が隠れている。「あの時はオレンジ色のダウンジャケットを着ていましたよ。バスの運転手さんもご存知だったと思いますが」
「そうでしたね。でもそれだけじゃ説明不足ですよ。中が黒のリバーシブルのジャケットといった方が正確です」
皐月の足が再び震え出した。
「あなたは殺人を行なう前、ジャケットを裏地にしましたね。色鮮やかなオレンジから目立たないブラックに変えたんです。もちろん、綾梅さんの自宅に行く時に明るい格好で行けば目につくことも考慮してです」
皐月は言葉を発しなかった。立っているだけでも辛そうだ。
「皐月さんはお好きなブランドがあるみたいですね? そのブランドは北九州では一つのお店でしか扱っていません。約半年前に購入履歴がありました」
皐月はすでに陥落していた、顔の表情がなくなっている。
「是非、自宅を拝見さして頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」
「……ええ、もちろんいいですよ。ジャケットから血が出なければいいんですよね?」
皐月は急に勝ち誇ったように笑みを浮かべた。その顔は正気の顔でなく悪魔のように歪んでいた。
……やはり交換していたか。
唇を噛んで彼を睨む。ここからどうやって粘るかが最も肝心だ。
「もちろん出なければ結構です。確かジャケットは二着購入されていましたね、なぜ同じものを二着買ったんですか」
皐月は安心したのかとぼけ顔になって答えた。
「そうでしたっけ? 半年前のことですから覚えていないなぁ。もしかしたら友達に頼まれて同じものを買ったのかもしれません。別に二着買うことはおかしな話ではないでしょう?」
こちらの予測を読んでいる。やはり決定的な証拠がなければ皐月の壁は崩れない。目に力を入れ揺さぶりをかけようとした瞬間だった。突如、携帯のメールが届いた。
……いいタイミングだ、まさかどこかで見ているんじゃないでしょうね? 万作。
「話は終わりですか?」
「いえ、もう一つだけあります」
携帯に目を通し文字を記憶する。
「僕も忙しい身なので次の質問に答えたら終わりでいいですかね?」
「ええ、構いません。榎樹さんという人の話だけしてもらえれば結構です」
ガチャッという金属音が響いた。皐月の手から鋏が零れ落ちアスファルトに響いた音だった。どうやらアタリを引いたらしい。
「し、知りません。そんな奴」
「奴ということは男と認識していると推測していいですか?」
「えっ、いや、知りません、そんな人」
リリーは深呼吸し皐月の瞳を見つめた。その目には狼狽の光が宿っており淀んでいる。
「半年前からサーフィンを始めたといっていましたよね」
「は、はい……」
「その時はどなたと行っていたんですか?」
「……」皐月は何かをいったが言葉にはなっていなかった。
「榎樹さんですよね、こういった方がいいですか? 秋風綾梅を殺害するために作った友達だと」
皐月の膝はすでに容疑を認めていた。後一押しで桃子を開放することができる。
彼は落とした鋏を取り、首に掻けようとした。首からゆっくりと血が滴っていく。
もちろん、このまま死なせるわけにはいかない。
「私の心もすでに枯れています」冷静に胸の内を述べる。「あなたの気持ちもわかります、どうしてあなたがこんな犯行を行ったのかも……。だけど、あなたは生きなければなりません。ここまで生きてきた以上、あなたの命は、あなただけのものではありませんから――」
皐月を取り巻く環境を考慮して述べる。計画的犯行であり、ほとんど穴がない。それは熟考を重ねた結果だ。
彼の憎しみが、彼を狂わせた。その思いは計り知れないが、だからといって殺人で解決する道はない。
皐月を説得しようとした時に蘇鉄の姿が見えた。彼は手刀を切って謝ってきた。
「刑事さん、すいません。俺にも少しお話をさせて頂けませんか」
12.
「どうなさいました?」
「まさかとは思うんですが、こいつは綾梅さんの事件に関わっているのでは?」
「仰る通りです」
蘇鉄は落胆を隠しきれず肩をがっくりと落とした。
「俺にも話をさせて下さい。お伝えしなければならないことがあるんです」
蘇鉄は真剣な顔でリリーを見た。その瞳には皐月とは対照的に強い力が宿っていた。
「親父は黙ってろ。関係ないだろっ、親父は!」
「いいや、お前は勘違いしてる。そして俺も大きな勘違いをしていた」蘇鉄はすぅーっと大きく息を吸い込んだ。
「刑事さん、俺は今回の犯人が別にいると思っていました。通りすがりの強盗だと思っていたんです。けど事件翌日、何気なく皐月のアパートを通り過ぎたら、皐月の車がありました。その時にある考えが浮かびました」
蘇鉄は皐月を睨みながら続けた。
「もしかしたら、桃子ちゃんが皐月のアパートにいるのかもしれないと思いました。実はこいつが桃子ちゃんと付き合っていたことは知っていたんです。綾梅さんから、うちの子とあんたの子は出来てるよって聞いていましたから。俺もこいつが誰かと付き合っているのはわかっていました。なんせ子供の時からわかりやすい奴で」
……やはり知っていたのか。
皐月と桃子が二人で並んでいる写真を見せても彼は全く動揺しなかった。それが当たり前のように眺めていたのだ。
「こいつがいきなり休みが欲しいなんていうから、嘘をついて彼女と旅行に行くつもりだと思ってました。そんな時に秋風さんの所で事件です。綾梅さんは結構気性が荒い所がありましてね。俺に対してもひどく叱責する所がありました。庭の手入れでよく怒鳴られましたよ。素直でいい人なんですけどね」
皐月を見ると父親の姿に釘付けになっていた。しかし、そこには何の表情もなかった。
「今回の事件はもしかすると、桃子ちゃんが起こしたのではないかと思ってました。もしそうなら桃子ちゃんが出てこないのは皐月が匿っているだろうとも考えていました。皐月が島根に行ってないことはわかっていたんです。こいつは小さい頃から乗り物酔いがひどくてね。行くのなら自分の車で運転しないといけないでしょうから」
蘇鉄の思惑は想定内だ。
リリーが黙って聞いていると、皐月が声を上げた。
「親父、何をいってるんだ?」
「いいからお前は黙っとけ!」蘇鉄は刃を振るような鋭い声で皐月を制した。一瞬にして周りの空気が冷たくなる。
「お前は俺と綾梅さんとの間に関係があると思ってたのか?」蘇鉄はぎろりと皐月を睨んだ。
「親父、もういいんだよ。隠さなくて。母さんが亡くなる前日まであの家の庭を手入れしてたんだろ? 母さんが亡くなったのはあの女のせいなんだろ?」
リリーは帳簿に挟まっていた写真を思い出した。蘇鉄と綾梅の二人だけで写った写真だ。
「皐月、もう一回いうがお前は勘違いしている。綾梅さんとは不倫をしていたわけじゃない。もちろん桜が亡くなった後もそんな付き合いはない。俺と桜、楓と綾梅さんは元々友達だ」
皐月は唇を引きつりながら反論した。
「また、そうやってごまかすのか。じゃあなぜ秋風家で仲良く二人で撮った写真があるんだ? 母さんが亡くなる前日の日付だったぞっ」
「……そういうことか。お前はあの写真を見て、そう思ってたんだな?」
皐月は狂気を帯びた目で父親を睨みながら怒鳴った。
「あんな写真があったら誰だってそう思うだろうよっ」彼は近くの壁を叩いて続けた。「俺は親父を憎んだよ。母さんは苦しんで死んでいったのに、親父は仕事先の女と仲良く写真を撮ってるんだぞ? あの時から俺は早く一人前になって、親父が安心した所で店を潰してやろうと思ってたよ」
「そうか……。お前はあんな小さい頃からそんなことを考えていたんだな」蘇鉄は徐にタバコを取り出し火をつけた。煙はぼんやりと浮かんでは消えていく。「すまない。本当にすまなかった。お前が母親を亡くして一生懸命頑張ってるって桜に報告してたわ。俺は馬鹿だな……」
「ということは認めるんだな、秋風綾梅と不倫をしていたことを」
蘇鉄は大きくかぶりを振った。
「いいや、違う。お前に対する気持ちで謝ったんだ。俺は不倫をしていたわけじゃない。いいか誤解するなよ、俺は秋風さんの庭をお前にまかせるつもりだった。俺の仕事を見て覚えて欲しい気持ちもあったが、お前にあの庭を見て欲しかった。だから必ず俺一人で庭の手入れを毎月かかさずにやっていたんだ。お前はあの庭を見たのか?」
「ああ、見たよ。立派なウメが咲いていた、それだけだ」
「確かに今の季節はウメしか咲いていない。しかし後十日もすればお前は母さんが好きだったサクラが見れていたのにな……」
リリーは秋風家の庭を想像した。確かあそこには三本の枯れた木が立っていた。その一本は確かにサクラの木だった。
「だからなんだよ、母さんの花が咲いたのを見て二人で笑っていたのかよっ」皐月は激しい口調でいった。
それでも蘇鉄は冷静に話を進める。しかし彼の目には涙が溢れていた。
「お前は初めから綾梅さんを殺したかったわけじゃないんだろうな。桃子ちゃんに会ってからだろう? 楽しそうに夢を語る桃子ちゃんと出会ってからじゃないか? 桃子ちゃんと話をする度に自分の気持ちを掻き回されたんだろうな。もちろん、俺は何も気づいてやれなかった、本当に申し訳ない……」
「ああ、そうだよ。桃子が憎くてしょうがなかったよ。だから俺が母さんのためにやった」
蘇鉄は大きく深呼吸をし皐月に諭すように思いを告げた。
「皐月、あの家はな。桃子ちゃんが生まれる前に建てた家だ。桃子ちゃんの父親は大工でな。あいつが家を建てて庭は俺と桜で作った。俺と桜の話題は専らお前とあの庭だったよ。
桜は元々体が弱かった。それは結婚する前から知っていた。だからこそ桜は俺よりセンスがあったんだろうな。俺よりも植物に対する愛があった。
楓の家ができて五年、桜の体は限界がきていた。いつか来るとは思っていたよ。桜の口数が少なくなってきて食欲もない。寝たきりの状態が長く続いた。俺はできる限り傍にいたかった」
皐月はそんな話は聞きたくないといわんばかりに、蘇鉄に背を向けていた。だが蘇鉄は止まらない。
「ある日、桜はいきなり思いついたようにいったんだ。楓の家の庭を背景に俺と綾梅さんの二人で写った写真を撮ってきて欲しいとね。俺は嫌だった。こんな時にまで仕事なんかできるかってね。息を引き取るまで一緒にいたかった。
だが桜の目は真剣だった。あいつは自分が作った庭を目に焼き付けたかったんだろうな。最期にあの庭が見たい。それだけを俺に続けていった」
蘇鉄の表情が大きく歪んでいく。彼の思いがこの空間を支配していく。
「桜の命懸けの頼みだ。俺は気合を入れた。あれから毎日庭にいって血眼になって手入れをした。綾梅さんも気を使って慣れないながらも手伝ってくれたよ。そして庭の手入れが終わり、綾梅さんと二人で写真を撮ったんだ。その時にはすでに楓は消息不明になっていたからな。だから俺と綾梅さんの二人だけの写真になってしまったんだ。無理やり二人で笑顔を作ったよ、桜のために」
皐月は焦燥しきっていた。冷たい風が辺りを覆っており彼の表情までも奪っていった。
「それは本当なのか、親父?」
不意に雷がなった。空を見ると、雲が灰色から黒色に変わっていた。
「ああ。俺は桜しか愛していない。確かに不倫をしていないという証拠はない。だけどなお前が素直な心であの庭をみたら絶対にわかるはずだ。今のお前の技術なら俺達がどういう気持ちで庭を作ったか見ればわかるだろう」
「嘘だろ。嘘なんだろ……なあ」
皐月は膝をつき、そのまま両手を地面につけて嗚咽し始めた。その様子を見て、蘇鉄は再び頭を下げた。
「本当にすまなかった。俺は父親失格だ。本当にすまない……」蘇鉄の顔からは涙が零れ落ちていた。雫が流れるのと同時に、雨がぽつぽつと降り始めた。
「親父……くそ、くそぉ。嘘だといってくれ。嘘だといってくれよぉぉぉっ」
皐月は声をあげて泣き叫んだ。
空一面の雲は皐月の声に応じるように涙を零し始め、首筋の血を優しく流していった。
13.
「こんにちは、また凄い量の花束ですね」
リリーが尋ねると、椿は笑顔を見せながら応えた。
「ええ、そうなんです。卒業式シーズンは終わったので、退職用です」
店のテーブルには花束が無造作に置かれ、メッセージカードが散乱していた。繁盛期なのだろう。
「凄い量でして、二人でも中々捌ききれないでいるんですよ」
二人? 店の奥に目をやると桃子の姿があった。
「刑事さんお疲れ様です。この間は告別式に来て頂いてありがとうございました」桃子は花束を掴みながらにっこりと微笑んだ。
「いえいえ、とんでもないです。確か初七日は自宅でされると聞いてますが、その時にまた伺ってもいいですか?」
「一応そのつもりにしています。式の後やってもよかったんですが、自宅でお経をあげて欲しかったので」
「そうですか……。秋風さんはいつから働いているんですか?」
「昨日からです。今の時期は退職される方が多くてお花の注文がたくさんあるんです」
……本当に気丈な人だ。
桃子がすでに働いていることに驚きを隠せない。一昨日に綾梅の告別式をしたばかりだというのにだ。突如、式中に耐えている彼女の姿が頭に浮かぶ。
「強いですね……、秋風さんは」リリーは吐息を漏らしながらいった。「私だったらあなたのように芯を持つことはできないと思います」
桃子の花束が完成したようだ。彩りもよく爽やかな春の花で満ちている。きっちりと紐で縛り花束のラッピングに入っている。
「強いわけじゃありません。辛いことがいっぱいありましたけど、こう、何かしてないと落ち着かないんですよ。それに一人で家には入れないので……」
確かに皐月の話を聞いた後にはとても一人ではいられないだろう。自分の心の方が折れそうだった。桃子は涙も流さず無表情で頷くだけだった。
……事件を解決しただけでは被害者の心は解決できない。
改めて自分の無力さを思い知る。何でもいい、桃子の力になりたいと思うが自分には何もできない。こうやって彼女に顔を合わせることしかできないのだ。
「ごめんなさい、それもそうですね」
再び沈黙が訪れる。沈黙を破ったのは椿の一声だった。
「刑事さん、何か用件があったのでは?」
「ああ。そうです」リリーは我に返りながら用件を話した。「春花さんに事件を解決して貰ったお礼に――」
「ああ、もうお昼の時間だ。刑事さんご飯を一緒にどうです?」椿は慌てたような口調でリリーの言葉を遮った。
「それじゃ桃子ちゃん、店番お願いね」
「わかりました。いってらっしゃーい」
桃子は精一杯笑顔で見送ってくれた。その姿が妙に痛々しかった。
「刑事さん、いきなりすいませんでした」椿は不意に振り返って彼女の前で両手を合わせた。「僕は事件に関わっていないことにしてもらえませんか」
「それは……確かにその方がいいかもしれませんね」
椿のことだ。自分が皐月の鋏を見つけたことを知られたくないのだろう。もしこれがバレれば、桃子のことを少しでも疑ったと思わせるからに違いない。
彼にそんな気持ちがないことはわかっている、彼自身だって危ない橋を渡っているのだ。
「秋風さん、大分元気になられたみたいですね」
「そうですね、少しほっとしています。当分出勤しなくていいといったんですが、本人が働かせてくれといってきかなかったんですよ」
さきほどの彼女を見れば止めることはできないだろうなと思う。
「そういえば、葬儀の時の写真まわりの飾りつけは春花さんがしたんですよね? とても素晴らしかったです」
綾梅の葬儀は庭園風な花飾りでとても豪華だった。椿の知り合いということで一番立派な祭壇を組んでもらったらしい。そこに椿は菊のラインで桃子の家の庭を作ったのだ。
凄い、という感情しか沸かなかった。一本の菊が点となり重なり合うことでなめらかな曲線に変わっていったのだ。椿はその菊のラインの隙間に春の花を生け、ウメの枝を豪華に差し込んでいった。
「ありがとうございます。花の修行をしていたお店が葬儀会社と提携しておりまして、そこで一通り技術を学ばさせて頂いたんです」
仕事柄葬儀に立ち会うことは多かったが、あれほどまで完成された祭壇は見たことがなかった。思わず声が漏れたくらいだ。
無表情だった桃子がその祭壇を見て一気に泣き崩れた。床の上でわんわんと泣く桃子を見てリリーは花の力を知った。言葉で伝えられなくても花で伝えられることがあるのだ。改めて自分の無力さを思い知った。
「今日はいい天気ですね。本当に御一緒にどうです? 刑事さんは餡パンが好きでしょう? こっちのパン屋も餡パンがおいしいんですよ」
鋏を受け取った時に袋の中にフランスアの餡パンが入っていた。その時は特に何も考えることなく桃子に受け渡した。
「すいません、なぜ私が餡パンが好きだと? 話してもいないのに」
「僕の勘違いかもしれませんけど、二回目お会いした時、服に胡麻がついていました。パン屋に聞き込みに行くとおっしゃっていたので、そのときに買われた餡パンの胡麻かなと思って」椿は呆気らかんとした顔で言い切った。
二回目ということは……。
リリーの顔が一気に赤みを帯びた。
「ああ、そうですよ。同じ服をそのまま次の日も着ましたよ。胡麻がついた服で何か問題がありますか?」
「ええっ? いやいや、そういう意味ではなくて。すいませんすいません、気遣いが足りずに」
椿は必死に謝り始めた。その様子を見て彼女の口元は緩んだ。
「……いいんです。捜査に入ると、他のことを考える余裕がなくなるので」
「申し訳ありません。僕は本当に気遣いが足りないとよく怒られます」
誰にといいたかったが、そこは聞かないことにした。刑事の悪い癖だ、何でもかんでも訊くことは。
「そういえば刑事さん。気になっていたので一つ訊いてもいいですか?」
「何でしょう?」
「刑事さんは流暢な日本語ですが、日本人の顔立ちじゃないですよね? 両親は外国人ですか」
この男は、先ほど何のために謝ったのだろうか。そう思いながらも彼女は正直に口にした。
「そうです。父がイギリス人です。母が日本人ですので、ハーフになりますね」
「なるほど。綺麗な顔立ちをされているので、日本人らしくないなと思ってたんです。どちらに似ているといわれます?」
……どちらに似ているのだろう。
母親の面影を背負いながら父親の考えを受け継いでいる。今の自分はどちらにも似ているとはいえない。
「あ、すいません。また余計なことを訊いちゃいました」
彼の謝っている姿を眺めているとクロヤの看板が目に入った。どうやらこのお店にツバキのお勧めの餡パンがあるらしい。
「いらしゃいませ。ああ、春花さん、こんにちは」
店員が椿の顔を眺めて会釈している。
「今日は桜餡パンがお勧めですよ、サクラの花びらを一枚載せただけですけど、あはは」店員は意味もなく笑った。
その笑みに椿も微笑んでいる。
「じゃあ僕はそれを二つ貰おうかな。刑事さんはどれにします?」
「私は普通の餡パンでいいです」店員は頷き、袋に詰めた。
「春花さん、ついに彼女ができたんですか? なかなかの美人さんじゃないですか」店員はぼそりといった。
「違います。お友達です」
「なんだぁ、面白くない」店員は残念そうに溜息をつきながら袋詰めしている。「お友達さん、餡パンひとつ多めに入れておきました。是非また来て下さいね」
「えっ、いいんですか? ありがとうございます」
リリーが笑顔で返すと、店員はにやりと笑いながら椿の方を指差した。
「春花さん、相手がいなくて寂しい独り身なので、また付き合ってあげて下さいね」
「別に寂しくはないですよ。独り身ですけど」
「またまたそんなこといって」店員は椿の言動を軽々しく遮った。「この人は背が高くてスマートに見えるんですけど、ぼけっとしてるんですよ。このままフワフワしていたらおじいさんになっちゃうんじゃないかと心配しているんです」
「いえ、見た目どおりスマートな人ですよ」リリーは素直に告げたが、嫌味も込めた。「気くばりが上手で、し過ぎるくらいに」
「お、これは脈がありそうですね」店員はひひっと笑いながら口に手を当て袋を差し出してきた。「是非また来て下さい。その時にはまたサービスしますよ」
店を出て近くの公園のベンチに座った。人通りもなく静かだ。風がゆらゆらと吹いていて、心地いい。
「はい、どうぞ」
椿から餡パンを受け取る。「先ほど失礼なことをいったのでこれは僕が奢りますよ」
そんなことをいったら、これからもずっと奢り続けなければいけませんよ、そう思いながらもリリーは頭を下げて餡パンを手に取った。
「ありがとうございます、では遠慮なく」
小さく一口かぶりつくと、つぶあんの持つ独特な渋みが濃厚な味を作っていた。噛み締める度に深みのある味がする。
「うん、やっぱり美味しい」椿は花びらを左手で掴んで一口、二口で餡パンを食べ終えた。
二つ目に入ろうとする彼を見ると、こちらを見て微笑んだ。
「本当においしそうに食べますね」
リリーが尋ねると、彼は無邪気に微笑んだ。
「美味しいものを食べれるのは幸せなことですよ。この食べ物はなんだか刑事さんみたいですね」
意味がわからない。悩んでいると、彼は言葉を継ぎ足した。
「餡パンは和洋折衷ですよね。餡子とパン、日本と外国のいい所を合わせた食べ物です。素晴らしいと思いません?」
椿は幸せそうな顔を浮かべながら力説した。その横顔を見ていると妙に納得してしまう。きっと自分に対してもさり気なくフォローしているつもりなのだろう。
「……刑事さん、生きているお花は好きですか?」
「正直にいうと、あまり好きではありません」リリーは小さくかぶりを振った。「日持ちだってしないし水を替えたり面倒です。さっきの餡パンにも花びらを追加するというのは不要だと思います」
「なるほど。……僕はですね、生きている花が大好きです。もちろん面倒ですけどね」椿は微笑みながら答えた。「夏場なんかは一週間も持たないし手入れも大変です。でも季節ごとにしか味わえない『一瞬の輝き』があるんです。それは生きているからこそ放つ輝きなんです。この餡パンに載っている花びらのように」
一瞬の輝き。リリーの心臓がその言葉を捉えた。
「刑事さん、あの庭を見てどう思いました?」
「私は寂しいと思いました。三本の木が枯れていたので。春花さんはどう思ったんです?」
「僕はですね、暖かいなって思ったんです」
彼の言葉に納得できない。四方に四本の木があったが、一本の木しか咲いておらず自分の目には物寂しい感じがしたからだ。
「確かに今の状態だけでいえば寂しいですが、木は生きています。季節も変わります。季節を変える毎に大きな木達は表情を変えるんです。ウメ、サクラ、ソテツ、カエデと表情を変えた庭を想像すると、幸せな家庭が見えてきたんですよ」
驚きを隠せない。あの一瞬の間に椿はそこまで感じたというのか。それで、暗闇の中でもいい庭だといったのか。
リリーはゆっくりと目を閉じて秋風家の庭を想像した。
どっしりとした四本の木が立っており、その中に子供のような低い木々があった。そこには四人の両親が小さい二人の息子と娘を授かったことを喜び、共に分かち合っているように見えた。
花が咲く季節はバラバラだが、一年を通して見ると子を思う気持ちには変わりはない。
その空間は文字通り、『家庭』だった。
再び目を開けると、大きなサクラの木が目に入った。サクラの花びらが風に舞って一瞬の輝きを放っている。それを見ているだけで春の季節が体に染みこんでいくようだった。
リリーは手に持っていた餡パンに食いつこうとした。しかし食べることができずに、そのまましばらく眺める形になった。花より団子という諺があるが、今はそれとは正反対の気分かもしれない。
隣にいる店主の顔には微笑がある。やはり彼の仕業らしい。
餡パンの上には薄桜色の花びらが二枚重なっておりハートの形になって寄り添っていた。
確かにここには一瞬を生き抜く、命の輝きがあった。
お読みいただいてありがとうございます。
第二章でも会えることを願って。